第五十五話 壁と心
誰も見たことのない悪魔の世界。それは暗く、冷たく、寂しい所だと想像する。或いは殺戮と暴力が蔓延する地獄のような人々。それはとにかく恐ろしい場所なのだ。そんな風に思い描くだろうか。少年もそう思っていた。
しかし転送先は美しい自然。無造作なものではなくプロの園芸職人が丹精込めて作り込んだ傑作と言って良いほど整備された人工的な環境であった。見渡す限りどこまでも。
けれど不自然に民家が一つも見当たらない。人はただそこにいて寛いでいる。涼しげな服装と穏やかな雰囲気。心地よい時間が流れていた。
ナオスケはこの世界に身の危険はないとアドバイスをくれた。その意味がわかる。ただ惑わされてはならないとも忠告された。本当は幻なのだろうか。僕らは既に精神的な攻撃を受けているのだろうか。そうだとしても抗い方がわからない。
とりあえず話を聞くことにした。それをカエデに報告すると問題ないと言われる。むしろ秘宝の在処を聞き出すように指示された。少年とモトコは住民の1人に近づいて尋ねる。
「あのーはじめまして。少しお話し良いですか?」
その青年は柔らかな草原の上に横たわっている。寝てはいなかった。気持ちよさそうに風を感じているだけだ。穏やかな表情のまま少年とモトコを見てから一瞬だけ真顔に戻るがすぐに「良いよ」と了承する。そして言った。
「そんな心の壁捨てたら良いのに」
2人は頭の上にクエスチョンマークを浮かべる。目を見合わせてもお互いに知らない事だと察した。モトコがその意味について聞く。
「捨てるって何を?」
青年は面倒臭そうにため息を漏らした。そして何かを考える素振りを見せると突然、笑いが噴き出る。それは誰かの冗談にリアクションを取ったようにも見える。不可解だ。そして返事が返ってきた。
「こう言うことさ」
彼が少年とモトコに向かってウィンクをすると身体から何かが弾き飛ばされた感覚があった。それはとても大事なものだったと本能が教えてくれる。まるで服を脱がされ丸裸の状態でここにいるようなソワソワとした気持ちだ。次第に声が聞こえる。1人や2人ではない。聞き取れないほどの人数。無量大数と言って良いだろう。ただこの青年の声だけはハッキリと聞こえた。
(どう?楽になったでしょ)
少年の思った事が全て発信された。ノイズが酷く耳鳴りのような音が混じる。モトコも同じだ。青年は微笑んで言った。
(そんなに慌てないで。ほら気持ちを楽にする。その後は何にも考えなくて良いんだ。思ったままあるがままさ)
そんな事が急に出来るはずもなかった。少年は辛うじて精神を保つがモトコはパニックを起こしていた。その感情を受信した無量大数の人々が一斉に彼女に向かって返信をする。それはまるで空を覆い尽くす矢の雨が自分の身に降り注いだようなイメージだ。耐えられるはずがない。
少年は青年によって弾き飛ばされた大事なものを無意識に呼び戻した。それは遠くからこっちにへと向かって必死に戻って来た。降り注ぐ返信の雨をその身に受けてモトコを守った。代わりに少年は心を激痛に襲われる。けれど何とか耐えた。涙と鼻水を垂らす少年に向かって戻ってきたガオウが応答を求めた。
(リクト!しっかりしろ!こんな所で折れるんじゃねぇ!)
少年は深呼吸して気持ちを落ち着かせた。何とか立ち上がる。それを見た青年は感心した。
(君やるねぇ。とてつもない精神力だ)
少年は必死に考えないようにする。何かを思い浮かべる度にそれは勝手に発信されてしまう。そして受信した誰かの返信の矢が心めがけて突き刺さるのだ。痛みに耐える。やがてコツを掴んだ。そしてただ1人に思いを送った。
(これはどういう事ですか?)
怒りを完全に沈める事で雑念をなくした。それがクリアな情報としてこの青年に届けられた。複雑さは要らない。素直で裏表のないフラットな気持ちにならなければ無意識が拡散されてしまう。全世界から監視されているような気分だ。青年はその順応力に驚いている。包み隠す事はできない。
(君は心の壁を操れるんだね。凄いや。隣の人はお母さんだね。けど彼女はこの世界に馴染めなかったみたいだ。残念だな)
青年は何も隠さない。モトコの心の壁はこの世界のどこにあるのかもわからない。そんな状態で元の世界に戻る事も出来ない。そして青年は恐ろしい事を言う。
(それはもう処分されるんじゃないかな。僕らに心の壁なんて要らないからね。産まれてすぐにみんな捨てるのさ)
とても不味い事になった。ガオウだけが飛ばされた方向を知っている。秘宝を探すのはモトコの心の壁を取り戻してからだ。青年は呑気にその背中を見送る。そしてカエデ達との連絡も開始間も無く途切れてしまう。けれど封印は発動しなかった。道具はまだ少年が生きていると認識している。それがせめてもの救いだった。




