第2章:遠隔の地(22)
人間の記憶力は、実に曖昧なもの。
どれだけ優れた頭脳を持った者であっても、ちょっとした忘却はあるし、記憶違いだって珍しくはない。
ただ――――記憶の中には、例え何年経っても決して忘れようのない、そして記憶違いもあり得ない事柄も確かに存在する。
例えば、毎日そこで生活をしている自分の家。
それを忘れるなど、まずあり得ない。
場所も、外装も、内装も、構造も、そして匂いも、頭の最も深い部分に根付いている。
だから、フェイルは最初にその建物を見た時、これは夢だと断定した。
真っ赤な花々に囲まれた、小さな建築物。
看板さえ埋め尽くしそうな花弁の隙間から覗く『お花の国のアニス』と丸文字で書かれた店名も、全て幻想の産物だ――――と、半ば自分に言い聞かせていた。
「あれ? フェイルさんのお店、こんなでしたっけ?」
「まさか。こんな華々しい店だったら、もっと客が来るもの。あり得ないあり得ない」
あどけない声をあげ首を捻る勇者リオグランテの隣で、フランベルジュは手首の運動をしていた。
皮肉は放置するとして、フェイルも同意見なので何度も頷く。
しかし記憶とは残酷なもので、外装と同じくらい、地理の記憶も明確に頭の中に残っていた。
この場所は――――
「地理的に薬草店【ノート】があった区画なのは間違いありません。看板に記されている店名が違うのは、看板自体が取り替えられたのでしょう。そもそも店名にアニスと入っているので、彼女がお店を乗っ取ったと考えるのが妥当だと主張します」
「もう止めて……わかってるから。現実逃避したいだけだから」
ファルシオンが執拗なまでに突きつけてきた通り、薬草店【ノート】は数日で店主代理に乗っ取られていた。
「あら、フェイルちゃん。薬草店を畳んでお花屋さんを開いたんだって? こっちの方が派手だし目立ってるし、前までの陰気臭いお店よりずっと良いじゃない。言い難かったけど、草ばっかりで臭いもちょっとアレだったでしょ? 近所のみんなもね、本当良かったって喜んでるの。今度寄らせて貰いますねー」
「……ど、どうも」
近所に済む常連客の辛辣な評に返す言葉もなく、その場に崩れ落ちる。
少しでも客が足を運んでくれるようにと努力を重ね、薬草店らしさは損なわないようにと細部に拘り、それでもレカルテ商店街の景観を損なわないよう自己主張を最小限に抑えた結果が――――これだった。
しかしそんな歴史を知る由もないファルシオンの目は現実的にこの状況だけを捉えている。
つまり――――
「良かったですね。好評みたいで」
「これの何処に喜ぶ要素があるのさ! 僕の店死んでるよね! これもう別の店だよね!」
「まあ……店主も店名も商品も変わったら、普通はそう解釈するでしょうね。それ以前に、貴方が何も関与しないで評判が良くなったんだから、貴方って店に必要ない人間だったんじゃない?」
創立者で店主で唯一の店員のフェイルは、フランベルジュによって存在そのものを否定された。
「僕は……薬草店【ノート】に必要なかった……?」
「落ち着いて下さい! フェイルさんがいなかったらノートは存在してないですから!」
リオグランテから正論で励まされ、フェイルはようやく我に返る。
「薬草は僕達みたいな旅人や冒険者には必要な物です。それを専門にしてるフェイルさんみたいな人は立派だと思います!」
「り、リオ……」
「あっでも僕、薬草って正直苦手なんですよね。苦い割にあんまり効かないっていうか……毒とかも普通に旅してたら受けないですし、やっぱりお花の方が好きかも」
嘘が苦手な勇者候補の少年は、話している途中でフェイルを励ますという主目的よりも思った事をそのまま口に出すのを優先してしまった模様。
謎の掌返しによって弄ばれたフェイルは感情を失い、幽鬼のような顔で他の二人に目を向けた。
「私も普通に花の方が良いけど。綺麗だし」
「貰って嬉しいのはお花ですし、商品として魅力的なのもお花だと思います。お祝い事の必需品ですし」
「……一番需要がありそうな人達に全否定されちゃったよ」
勇者が主役の冒険譚では、薬草が度々登場する。
旅の途中、回復が困難な怪我や病気によって戦線離脱した仲間を助ける為に、勇者一行が伝説の薬の材料を集める――――などのエピソードが多い。
村の子供や美しい女性が床に伏せるパターンも良く見受けられる。
だが現実と現実の勇者は非情だった。
「ギャ ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア ア!!!!!」
落胆を隠せないフェイルに追い打ちをかけるように、暴力的な声量の悲鳴が店内から聞こえてきた。
同時に、転がり出てくる男が一人。
以前フェイルに提携の条件を報せに来た、ヴァレロン・サントラル医院からの使者だった。
「なんというクソ料理……ヴォエー……おぞましい……おぞましいぞッッ!!!!!」
使者は鬼の形相で絶叫。
往来だというのに、気にする様子は全くない。
「このような華やかな外観で歓迎の意を示しヴォエー……ておきながら! 毒にも等しい……いや毒以上の物を食わせようとするとヴァー……おのれ! わかっているぞッッ! この私をクソ料理で気絶させて捕虜にしヴェー……交渉を有利に進めたかったのだなッ!?」
怒りのあまりなのか、密かにこういう窮地に憧れていたのか、使者は高揚した様子で自身の見解を叫び倒し、何度もえづいては口を拭い血走った目で店内を睨み付けた。
「今回の件、全てグロヴォエー……グロリヴォエー……グロヴォエー……グロリア院長に報告させて貰う! 院長の温情を愚弄で返した事、後悔するなヴォエー」
そして、えづきながら内股で走り去って行った。
「……」
その惨状を一部始終、客観的な立ち位置から見る羽目になったフェイルの顔は、先程と変わらない。
既に表情が死に絶えているので変わり様もなかった。
「この状況を私なりに推測してみますと、恐らくアニスさんは代理初日の客足から薬草だけでお店をやっていくのには無理があると気付き、お花も売ってみようと思い立ったのでしょう。評判は上々。ならお花をメインにと外観も華やかにしたところ更に好評を博し、よりわかりやすくする為に看板も花屋の名前に変更したのだと思われます。そこに様子を見に来た使者の方が偶然現れた。彼があの沢山のお花を自分への歓迎の意と受け取るのは自然です。まして中に入れば男性ではなく可憐な女性が対応するとなれば尚更です。アニスさんも、使者と気付いたかどうかは不明ですが、大事な客人だと気が付いたのでしょう。フェイルさんの為にもしっかりおもてなしをしようと、料理を振る舞ったのだと使者の発言から推察出来ます。けれど、どうやらアニスさんの料理は少々個性的だったようですね。使者の方はそれを罠だと解釈したみたいです。以前私も対面しましたが、尊大な態度が目に余る人物でしたし、自尊心を傷付けられ大層憤慨している事でしょう。交渉は更に難航しそうな情勢です」
延々と自身の考えを述べるファルシオンの隣で、フェイルは微動だにしない。
異論もなかったが、それ以上に感情を動かす気力がなかった。
「……迷惑かけた私達が言うのもどうかと思うけど、貴方って前世で国王か親でも殺したんじゃないの?」
「前世の事まで責任持てないって……勘弁してよ本当……」
マンドレイクの件からまだ立ち直っていなかったフェイルは、何度も何度も水の中に顔を押し込まれたような気分になり、そのまま地面に向かって沈んでいった。
「そんなつもりじゃなかったのに……あ、フェイル! お帰りなさい!」
華やぐようなアニスの声が、フェイルの頭上を通り過ぎて行く。
「喜んでフェイル、ちょっとお店を私の色に染めたら売上八倍になったんだから! 感謝しなさいよね!」
売上八倍は立派な数字。
だが、薬草店ではなくなった時点で全く意味がなかった為、フェイルはぎこちない愛想笑いを浮かべる事さえ出来なかった。
尚、その後のアニスの説明によると、ファルシオンの推測はほぼ的中。
本人に店を乗っ取る気はなく、少しでも店を盛り上げたいという一心だったようだ。
そもそも強引にアニスを代理にしたのはフェイルであり、任命責任がある以上文句など言える立場にない。
前世の行いは関係なく、単なる自業自得――――そう納得するしかなかった。
「フェイル兄様! お帰りなさーい!」
打ちひしがれたフェイルを、店内で待っていたノノが迎える。
「ただいま、ノノ。僕の帰りを待っててくれたの?」
「うん! あのね、ノノね、ノノね、いっぱいがんばったのー!」
「え?」
ノノも一枚噛んでいた事が新たに判明。
というか、花屋にするアイディアはノノが出したものだったらしい。
「最初は私も抵抗あったんだけどね、実際に始めてみると女性客の受けが良くて。だって売上八倍だよ? 止めるに止められないでしょ?」
店内にも真っ赤な花々が敷き詰められていて、完全に違う世界と化している中、アニスは自慢げに帳簿を掲げていた。
ちなみに、花は全て自分の屋敷の庭に咲いている物を鉢に植え替えただけ――――との事。
屋敷の給仕と協力して、一日で完成させたらしい。
「それにしても、壮観ですねー。癒やされます」
「でしょ? 薬草なんかよりよっぽど疲労回復効果ありそうじゃない? ウチも薬草いっぱいあるけど、使用人も門番も全然健康そうな顔してないもの」
それは単にアニスの料理の試食が原因だとフェイルは知っていた。
「やっぱり今のご時勢、薬草なんて流行らないのよ。戦争ないから怪我もあんまりしないし。フェイルも、これを機にお花屋に転職しなよ。その方がノノちゃんも良いよね?」
「あ、え、えっと……はい」
ノノはアニスに対してやや距離を取りつつも、賛同の意を述べた。
「ところで、さっき来たあの男って何者? なんか偉そうだったから上客かなって思って特別におもてなししてあげたのに、凄い剣幕で怒鳴られたんだけど……私の料理が問題あったのかな」
「っていうか、なんで料理を出すの……」
「それはホラ、みんながいつ帰ってきてもいいように、夕食の準備はしておかないと。私、お金持ちの子だけどそういうのは出来る娘なの。えへ♪」
ファルシオンとフランベルジュが同時にフェイルの方へ向けて『この娘昔からこうなの?』という目をしていたが、フェイルは前方の壁だけを凝視し、現実から逃げた。
仮にマンドレイクの納品を条件として認めて貰えたとしても、先程の使者の剣幕を考慮すると、グロリア院長が提携を認める可能性はほぼないだろう。
ヴァレロン・サントラル医院は遥か彼方、遠隔の地となった。
「……フェイルさん」
同情しているような様子はなく、しかし何処か神妙な面持ちで、ファルシオンが問う。
「私達は貴方に借金がありますから、それを帳消しにするまではここに留まるつもりですし、今回の件が駄目でも別の金策を考案するつもりです。ただ……今後も薬草の専門店としてやって行くとなると、少し難しいかもしれません。これは私個人の見解ですが、そういうお店が今後栄える未来が想像出来ないんです」
理想は時として現実の邪魔をする。
薬草専門店である事に固執すれば、商機を失う事に繋がる――――ファルシオンはそう指摘した。
「それでも貴方は、薬草店を続ける心積もりでいますか?」
ファルシオンだけでなく、以前近い質問をしたフランベルジュも、リオグランテも、アニスも、ノノも、全員がフェイルの方に視線を向ける。
「?」
その中から、フェイルは一人の少女の目を見た。
まだ少しだけあどけなさを残したその眼差しは、この世界にある何か一つの大きなものを見つめている。
「……」
暫くじっと眺め、そして――――ここが分水嶺でない事を告げる。
「続けるよ。それが僕の生きる理由だから」
そこに決意はない。
ずっと前に置き去りにしてきたから。
だから、もう道は分かれない。
「ま、このままだと遺書と縄を用意しないといけないけどね。アハハ」
――――既に人としての道を踏み外してもいた。
「アハハ、じゃなくて! 笑えないのよその冗談は!」
「フェイルさんはリオの楽観的な性格を少し分けて貰った方がいいのでは」
「え、僕そんなにですか……? フェイルさんと足して二で割っても普通になれる自信はちょっと……」
「ねー、"いしょ"って何?」
「えっとね、ノノちゃんは一生知らなくていい事よー」
薬草店【ノート】改め【お花の国のアニス】は、色とりどりの草花が風で揺れているかのように、悲喜交々を軽やかに賑わせていた――――




