プロローグ
その場所は、深淵の闇に包まれていた。
例え顔を隣接させようと、密着させようとも、その眼前にある筈の肌の色が認識できないくらい、深い、深い、深い、黒。
灯りもなければ、陽光や月明かりの入り込む余地もない。
そうなれば、必然的に色の世界は構築を得る。
様々な色の絵の具を混ぜれば、必ず"ある色が"全てを飲み込み、支配する。
そう。
何もかも塗り潰すのに、黒は最も都合が良い。
それは必然だった。
こうなる事が自然であり、同時に妥当でもあった。
「……遅くなった」
暗澹に溶けた空間を、一人の男性の声が揺らす。
重厚にして、どこか荘厳さを帯びている声。
どのような人生を送れば、この声を発信する声帯が作られるのか――――
「いえ、時間通りです。そもそも、この会合に決まった時間などありませんから」
今度は対照的に、まるで子供のように高い声。
甘さを含んだその声には、それでも、何故か年季の篭った響きがある。
「その通りよン♪ 大体、剣聖のオジサマに『遅刻だから廊下に立ってなさい!』なんて言えるヒト、ここにはないでしょう?」
「そりゃいないだろう。世界の何処を探してもな」
品の良い女声に続き、少し掠れた若い男の声。
共に若々しく、張りがあるその音は、闇しかない筈の空間に、まるで稲光が差し込んだかのような感覚を与える。
「気に病まれる事のないよう……この集いは、一切の戒律を設けていません。総て、自由意志の元に在るのですから」
一転、今度は良く通る、それでいて深みのある年配者の声。
その声は、数多の教えを説いて来た者にのみ許される、独特の説得力を有していた。
まるで水面を手で弾いたような――――そんな広がりが目に見えるような声だ。
「では、全員揃った所で始めるとしよう。剣聖殿、席に」
「うむ」
最後に、地を這うような低い、そして落ち着いた声に促され、剣聖は腰を下ろす。
椅子の位置など視認出来る筈もないその空間で、剣聖は一度も間違えずに椅子を引き、腰を下ろした。
「それじゃ、始めましょう」
斯くして、会合は始まる。
これは――――各界の権威が集結して行われる、主要国首脳会議のようなもの。
とはいえ王族がこの中にいる訳ではないし、公的なものでもない。
寧ろ真逆の、極めて私的な集い。
しかし確実に、世界に影響を及ぼす会議。
薬草学。
医学。
魔術学。
生物学。
経済学。
兵学。
その六つの学問において、とりわけ造詣の深い、そしてその最先端の情報を握る六人が、ここにいる。
目的は、それぞれの分野の発展。
ただし、必ずしも全員の利害が一致している訳ではない。
全員の思惑が理路整然としている訳ではないし、道徳的に正しいとも限らない。
しかしながら。
この集いが始まり、脱退の意を表明した者は一人もいない。
誰が音頭を取る訳でもなく、誰が積極的に呼びかけるでもなく――――自然と集う場所と日時を決め、その通りに集まる。
特定の伝達係がいる訳でもないのに、誰かが聞きそびれた試しはない。
まだ両手の指で収まる程度の回数ではあるが、それは奇跡的な事だった。
それでも、必然。
奇跡的な必然だ。
「さて、本日の話題は……というのもわざとらしいですよね。今回の議題はこれしかない、って感じですし」
「エチェベリアの例の計画の件か? 何か面白い事になってるみたいだよなあ」
初めに話し始めるのは、生物学の権威と決まっていた。
そしてそれに医学の権威が合いの手を入れる。
何度かの会合を設けていると、そういった流れは意識せずとも出来てしまうもの。
元々、生物学と医学はかなり密な関係にあり、話題も繋がり易い。
「これはやっぱり、剣聖のオジサマに聞いておきたいところよねン♪ この中では確実に一番詳しい筈ですもの」
「儂もエチェベリアに身を置く身。是非聞いておきたい」
女声は、経済学の権威。
それに続く声は、薬草学の権威。
この二つの分野もまた、密接な関係にある。
正確には――――それぞれの分野が繋がっているからこそ、この会合には意味がある。
「……愚かしい事だ。国の為に、有望な若者を茨の道に……」
剣聖――――すなわち兵学の権威は、嘆息と共にその言葉を告げた。
無論、肯定という事だ。
「確かに由々しき政策ですな。ただ、試みとしては興味深いところ。国をあげての一大事業となると、前例のない方法です」
魔術学の権威は己の好奇心を隠そうとせず、しわがれた声を弾ませる。
本来、そのような発言が許される身分ではない――――が、この場は総てが闇に覆われている。
であれば、何を隠す必要もない。
総てが隠れてしまうのだから。
見えないものは、この世にごまんとある。
他人の心など、その最たるものだ。
ただ、推測や洞察によって、時にそれは露見する。
そしてこの場には、その行為を非常に得意とする、或いは経験則によって身に付けている者しかいない。
隠す必要などないのだ。
総てが、闇に覆い尽くすのを前提とした場所なのだから。
「でも、面白いわねン♪ 求心力の衰えは、どんな世界でもいつかはやってくるものだし、それを回復する方法を教えて欲しいって尊き身分の方々は沢山いるのよン♪ これはアレよ、とってもいい匂いがしそう。あたしの大好きな匂いが……ねン♪」
経済学の権威は興奮気味な言葉とは裏腹に、語調を鎮めている。
特に感情の起伏を抑制する理由はない。
単に、それ以上でもそれ以下でもない、それだけの事。
彼女にとって、貴族や王族を相手に商売をするのは。
「錬金術の仕組みを垣間見た気がします。こうやってお金は生み出されていくんですね。活かす機会はそうなさそうですが」
そんな経済学の権威に、生物学の権威は苦笑交じりに呟いた。
資本のない所から利潤を生み出す方法は、実は決して少なくない。
効率の良い方法に気が付くかどうかというのも、然程重要ではない。
大事なのは、演算力。
決まった通りに決まった計算を行う能力だ。
それさえあれば、きっかけなど生きて行く上で何処にでも転がっている。
――――それが、彼女の方針だった。
「ま、その計画が成果を収めれば、今後の俺等の活動には多少なりとも影響は出てくるよな。どうする? 支援すんのか?」
医学の権威は頭を掻きながら、気だるそうに問い掛ける。
闇に染まろうと音までは消えないし、声に色は付かない。
故に、その声が誰に向けられたものなのかも特定されはしない。
「決まってますよ。『各自の判断で』。ただ、今の段階でどうするかの報告くらいはしておきましょうか」
いち早く、生物学の権威が何処か楽しそうにそう答えた。
彼にとって、好奇心を刺激する出来事は全てが愉悦の対象。
尤も、それを口に出す事は余りないし、表現する要素もほぼ皆無。
自身を隠す術に関しては、文字通り人間の域を超えていた。
「ちなみに僕は未定です。各方面の動きを観察させて貰って、その後に決めます」
「俺も決めあぐねるなあ。顔色をまず窺いたいね。職業病かな」
一方、同じ結論を出しながら、医学の権威の声は晴れない。
余り関心がないのか、或いはその逆か――――
「あたしは思いっきりフォローしてあげるつもり♪ 国家プロジェクトなんだもん、乗らない手はないでしょ♪ 勿論、剣聖のオジサマは国王様には逆らえないでしょん?」
「……うむ」
経済学、兵学の二人は、この時点で自身の行動指針を既に確定させていた。
それは立場的な意味合いも強いが、何より個人の理念に基づくもの。
全員が予想していた報告だった。
「私は立場上、表立って支援する訳にはいきません。両国の対立構造は未だ根強く残っていますから」
苦笑気味に、魔術学の権威はそう唱えた。
そして残る一人に、視線が集中する。
無論、各々の視界の中に彼の姿は捉えられていない。
しかし、そこにいる姿を脳内の補正によってしっかり映し出していた。
「儂は……――――」
薬草学の権威は、自身の見解を述べた。
そしてそれは、三人の権威達に驚愕の声を上げさせる事となった。
「意外ですね。でも、ある意味それが一番良い方法かもしれません」
「やっぱり薬草学は今勢いがある分野なのね。その選択にはちょっとワクワクするのン♪」
生物学、そして経済学の二人は驚きながらも賛同を口にする。
更に流れに沿うようにして、その件が次の議題の呼び水となった。
「そういえばぁ。例の薬草……研究はどの程度進んでおられるのでしょうねン?」
女性の言葉に、薬草学の権威は沈黙を守る。
『例の薬草』の意味がわからない訳ではない。
進展がない訳でもない。
まして、黙秘しているつもりもない。
単に話す内容を吟味していた。
良くも悪くも、それが彼の特徴だ。
「噂じゃ既に治験段階に入ってる、って話だったが。実際はどうなんだい?」
特に興味深げに声を昂ぶらせたのは、医学の権威者。
明らかに年上の薬草学権威者へかなり砕けた物言いをするが、当人をはじめ、それに物申す者はいない。
「……その通りだ。だが、もう少し調整が必要でもある」
やや長めの間を経て、その答えが唱えられた。
「僕としては、この件の方が興味ありますね。例の計画が国家ぐるみだとしても、こっちの方が明らかに規模は大きい。いや……もしかしてこの二つ、繋がります?」
生物学の権威は、どこか挑発的な物言いで問いかける。
国家プロジェクトより遥かに大きな規模の『爆発』が、とある薬草には秘められている。
その事実は、ここにいる全ての権威の共通認識だった。
そして同時に、全ての分野に対して大きな影響力を持つ事も。
「……さてね」
結局、答えは言葉を形成しなかった。
そして同時に、話題転換の合図にもなった。
「そうそう。先日……と言っても、もう二年前になりますか。我々の魔術学に一つの革命が起こりました」
突如、魔術学の権威が口を開く。
「『オートルーリングの実用化』ですね」
「その通りです」
生物学権威の言葉に、魔術学権威はゆっくり頷く。
その二年前。
とある若者の手により、魔術の世界に革命が起こった。
それは、魔術、そして魔術学に大きな進展をもたらした。
魔術には、大きく分けて三つの使い道がある。
一つは、武器としての使い道。
一つは、防具としての使い道。
一つは、鍵としての使い道。
この中で最大の需要を誇るのは――――武器としての役割だ。
剣や槍などの武器では決して不可能な遠距離、広範囲の攻撃を行う事が出来る魔術は、明らかに軍事力として有用。
しかしその反面、遠距離攻撃に特化したその魔術を使用する魔術士の存在は、支援のみに終始する事が殆どで、戦場での地位は決して高くなかった。
魔術は、発動するには一定の時間が必要。
その時間がある以上、前線で自由に戦うのは不可能だからだ。
しかし、オートルーリングはその時間を限りなくゼロにした。
結果、魔術と魔術士、ひいては魔術学の地位を一気に格上げさせた。
また、その技術を使用する為の道具が流通に出回り、大きな利益を生んだ。
魔術の利用事由が広がり、それに伴い犠牲者が増え、負傷者が増加した。
以前より強力になった魔術に対抗すべく、剣術、槍術、或いは馬術等の技術には全て向上の必要性が生じ、その波及効果は凄まじいものとなった。
「我々はその大きな波を経て、一つ階段を上りました。同じ事が、或いはそれ以上の大きな波が薬草学から生まれるのであれば、我々としても歓迎ですよ」
魔術学の権威は、笑みを携えながら語気を強める。
その声には、独特の含みが在った。
同時に、当事者たる実感なき空虚な響きも。
「そうなる事を期待しております。誰よりも儂自身が」
声の主――――薬草学の権威は、努めて冷静に応える。
ここにいる人間は、全ての面において対等だ。
強制される事もないし、命令を受ける事もない。
年齢も分野も立場も人格も関係なく、それぞれが必要に応じて必要な情報を提供し合う。
だから、嘘を吐くのも、真実を語らないのも自由。
当然、それによって失う信頼や背負うリスクも覚悟しなくてはならない。
その上で、ここにいる事が有益と考えた人間だけが、ここに集う。
それを踏まえ、各自それぞれに情報を持ち帰っている。
「んじゃ、次は生物学の方に話を移そう。どうなんだ? 例の『生命の限界値』の測定は」
「そちらの方も興味深いですわね」
医学と経済学の権威達により、話は別の件に流れる。
しかし、薬草学の権威はじっと、自身の狂信する学問について思慮を巡らしていた。
薬草学。
それは、言ってみれば医学の原点。
同時に、植物を研究するという意味では植物学でもある。
だが、薬草学はその研究を『薬草』に限定した。
その為、医学のように広範囲なアプローチはなく、同時に植物学のような途方もない種類を対象とする訳でもない。
それは、一見すると地味な分野。
実際、医学と一纏めにされる事が多く、その場合は医学に吸収される。
近代の歴史の中で登場し、一気に華やかな地位へ上り詰めた魔術学とは対照的だ。
実際、魔術に対して魔術士は常に自信家だ。
或る者が言った。
『魔術は神が人に与えたもう未曾有の力なり』
或る者が言った。
『魔術は人が神に挑む為に生み出した力である』
傲慢とも言えるその言葉に、異を唱える者も少なくない。
とはいえ、実際に魔術がこの世界にもたらしたものは大きい。
国家を作り、文化を生み、世界の流通を劇的に変化させた。
魔術が生まれると同時に、魔術によって代替可能な分野の技術は停滞を余儀なくされ、関わった者の多くは目を覆っただろう。
例えば――――弓。
魔術による攻撃に対し、弓矢による攻撃のなんと弱々しい事か。
しかし、魔術とて万能ではない。
寧ろかなり限定的でさえある。
魔術士はその現実を受け入れ、魔術という一つの学問に対して謙虚に、そして真摯に研究する道を選んだ。
『魔術は神の力ではない。神を引き裂く武器でもない』
魔術の黎明期は、この認識によってもたらされた。
そして同時に、それは一つの降伏宣言でもあった。
『オートルーリング』の普及によって、魔術は今後更に兵器としての性能を高め、兵学との癒着を強めて行くと言われている。
薬草学もまた、同じように別分野との連携を深めていくのが望ましいとされている。
しかし――――それを良しとしない者がここにいる。
彼の目的は、単刀直入に言えば『薬草学の文明創造』。
魔術学が『魔術国家デ・ラ・ペーニャ』を生み出し、『アランテス教』を全世界へ布教しているように、薬草学が文明を生み出す事こそ彼の夢であり、悲願だ。
たかが薬草が、そのような大きな波を生み出す事が出来るのか。
その答えは、彼の中にだけ存在している。
「それでは、今日はこの辺にしておきましょう」
生物学の権威が、いつもの通りに締めの言葉を綴る。
それによって、この集いは解散となる。
そういう決まりがある訳ではない。
これもまた流れの中の産物に過ぎない。
まずは剣聖が立ち上がり、扉を開ける。
次に経済学、医学の権威が扉を潜る。
魔術学の権威が、それに続く。
そして――――
「もし貴方が望むなら、協力しますよ」
生物学の権威は、薬草学の権威に向けて徐にそう告げた。
この日。
水面下で世界全土を巻き込む一つの壮大な計画が、更に地中深く潜った暗闇の中で、玲瓏たる産声を上げた。




