第八話 二人の時間。その距離に
遠く背後には遺跡が見える。背の低い山を登りながら、一呼吸、真白は歩から手渡されたペットボトル片手に振り返った。廃墟群は森に沈みつつ、それでも真白はそれらの姿を見つけることが出来た。思い出すことがあり、また隣でストレッチをしている歩もそうであれば良いとも思った。真白はペットボトルをあおる。スポーツドリンクは仕事用と歩の言だ。
「疲れた?」
ストレッチを終えて歩が口を開いた。背筋を伸ばして隣に立たれると、その背の高さを真白は意識する。歩の身長は百七十ちょっとあるが、真白よりは十センチ程度高い。遠目に廃墟を眺める横顔を真白は見上げながら、歩の男の部分を意識した。
「全然。アンタは?」
「余裕」
歩の唇の上には髭が生えている。制汗シートのにおいに混じって汗のにおいがした。真白は自身の肩に顔を寄せ鼻をならしてみた。臭ってないか気になったので、歩から制汗シートをもらった。風呂に入りたい。水浴びでもいい。歩には良く思われたいのだ。
「ごめん」
不意に歩がそう言った。シートで体を拭き始めた真白に背をむけての一言だ。衣擦れの音に居心地が悪そうな彼は忙しない。遠く背景を眺め気を紛らわそうとしているようで、悪戯心がくすぐられ始めた真白は、突然の言葉に驚いた。
「何?」
疑問は意味を問う。謝られたことが不思議で、真白は首を傾げた。続く歩の言葉を待ち、体を拭く手を止める。髪を撫でた微風は、さっぱりと爽やかだ。
「俺、自分のことで手一杯だった。真白のこと何にも考えてなくて、置いていったり、独りにして、だから、ごめん」
一言一言を歩は噛みしめるように言った。言わなければならないと、そう思っているのか、その言葉は搾り出すようでもあった。
「一緒なんだ。だから後腐れがないようにちゃんとしないとって思って」
ごめん。もう一度歩は言った。振り返りこちらの顔を見てだ。言い切りの言葉はハッキリとしていた。
真白はその瞳を見つめた。歩は目を逸らさない。真白はクスリと笑った。
「やっぱ歩、アンタ……」
馬鹿だ、と続く言葉を真白は笑顔で圧し潰した。正直で真っ直ぐな歩を真白は羨ましいと思った。馬鹿正直さを馬鹿にしたくなかった。
「謝るのはアタシのほうだよ」
真白は歩と並びたい。言おう言おうと、しかし言い方がわからなくて躊躇っていた言葉が今なら言えそうだった。歩の言葉に真白は勇気をもらったような気がした。
「アタシも自分のことしか考えてなかった。自分に都合がいいように考えて、挙句歩もそうなんだって。そのくせ自分勝手になって、歩に大迷惑をかけたし。だから謝るのはアタシなんだよ」
やはり言葉にするべきだった。制汗シートで撫でた二の腕がスースーする。風が当たって気持ちがいい。
だけど、っと歩は自分を悪くしたがった。だから真白は歩の唇に自分の人差し指を当てた。指先に背の低い髭たちが触れた。
「ありがとう」
謝罪の言葉より、口から零れたのは感情だった。口端が上がる。柔らかい頬の動きに驚き、しかし嬉しくて言葉に誤りはないのだと真白は思った。白いシャツが靡く。真白を包む温もりが一杯あった。記憶の中でそれは鮮明だ。ならば忘れないのだろう。
歩を進める。足はひたすら前に。二人は前後を交互に代え、何かに導かれるように歩いていた。
「そういえばさぁ」
真白は肩にかけたトートバックにパーカーを突っ込んだ。日が昇るにつれ気温も上がり、また山を登っているということもあって、額からは汗が出ていた。パーカーを入れて膨れるバックをもう一度肩にかけなおし、真白は額の汗を手の甲で拭った。
「昨日のあのカーテン、あれ何だったんだろうな?」
真白は後ろの歩を横目に見た。ペースを合わせてくれている。彼は汗をかきつつ、しかし息をきらせていなかった。働いているというが、きっと体力を使う仕事なのだろうと、真白は肩を上下させる。
「夕方の?」
歩は指先で額の汗を拭った。その後ろに建物の影が見えた。大樹がそれに巻き付いている。違う物なのだろうが、そのいでたちは真白の記憶のものと重なった。
「あのやたらめったらキラキラしてたやつ。あん時は特に何も思わなかったけど、あれなんだったんだろうな」
歩が近くの木陰を指さした。真白は首を横に振り、再び登り始める。小さい山ではあったが、登るとなると想像以上の体力を使う。真白はスニーカーでしっかりと地面を踏んで一歩進む。
「あれ、真白も見えてたんだ。てっきり見えているのは俺だけかと思ってた」
「頭がおかしくなったって?」
冗談めかして、真白は訊いた。笑顔を作ればこの山を登る足に力が入るのではと思ったし、歩の言い方だと、彼は自分が幻覚か何かを見ていたとのだと考えていたように感じたからだ。
「割と本気でそう思ってた」
あの時はどうかしてたし。そう歩は苦笑交じりに言った。背後の声はやや自嘲気味だ。今はどうなのだろうか。昨夜、再開してからの歩は、何か吹っ切れたかのようだ。その笑顔はひきつっていない。別れてからの間、歩には何があったのだろうか。何を思ったのだろうか。
「……思ったのはさ、あれ、願いなんじゃないのかなって。俺たちが自覚できないような、根っこにあるもの」
その言葉に真白は振り返った。返答に、息が詰まる。
「マジで言ってる?」
マジと頷く歩はこちらを見据えていて、茶化しているようには思えない。心臓の鼓動は、足からきているものではないようだ。真白は無意識のうちに唾をのんだ。それを意識して、真白は歩の瞳にうつる自分を見た。覗いているような気分だ。
「だからやたら綺麗に見えたんだ。輝いても見えた。願いだから」
淡々と歩は言っている。何を考えながらあれを願いだと言うのか。残酷なものだった。現実を突きつけられているようで、真白は怖かった。今でもあの恐怖を思い出すことが出来る。真白は自身の頬を流れる汗を冷や汗と呼んだ。
「願いなのに、アタシは苦しかった。悪夢じゃないのか?」
あれを願いと呼ぶことは真白には出来ない。願いとは、心震わせ躍らせるものではないのだろうか。真白はあれを見て、自分がいかに醜く汚くて、どれだけ高望みをしていたのか思い知ったのだ。故に、抱きしめる腕の強さを切望した。
「根っこにある願いってさ、近すぎて気付かなかったり、理性が拒んで直視できないか、遠すぎて自覚できなかったり、自覚していても手が届かない苦しみから、自分を守るために諦めた振りをついしてしまうんじゃないかな」
経験も混じっているのか、歩の根っこにある願いとやらはどれなのか気になった。そして、諦めという単語に何故か納得できた。
「諦めた振りをして、自分を守っていたから、まじまじと見せつけられて苦しいってか?」
歩は頷いた。こちらを気遣うように、ゆっくりと。
「そうか」
真白は何とかそう吐き出した。胸に詰まるものがあって、ようやく搾り出せた言葉だった。
根っこにある願い、か。前に立って進む歩の背を見ながら小さく呟いた。言って、真白はカーテンを思い出す。願いと言われて、ストンとお腹に落ちていくものがあったのは事実だ。昔、小さい時に夢見たものがあったからだ。拒みたくても拒み切れないものがあったからだ。諦めたいと思ったからだ。そうやって守っていたと思えたからだ。そして納得があったから、事実そうなのだ。
だから根っこなのか。願いは簡単に口にできる。真白がここはあの世だといったように。しかし、意識できないような潜在的な願いならどうだ。それを自覚していなくても自覚していても、拒むことは出来る。ただ最終的に逃れることが出来ないだけだ。真白が真白でいる限り、歩が歩でいる限り、影の様にピッタリとはりついてきて切り離せない。真白は拒みつつ、それでも手を伸ばしたいと思い、そうであるから引き裂かれそうな痛みに慟哭したのだ。
あの父と母は、こうあればよかったという願いだ。セーラー服と男子高校生は、真白が選びたかった願いだ。幸せな家庭は、手に入らないと諦めた願いだ。
願いはやはり残酷だ。真白は自身の手に入らない本当の願いを知った。どう足掻いても、手に入らない願いがある。諦めてしまったほうが良い、諦めてしまうのも仕方のない願いだ。頭の痛みを抑えるために、真白は手で側頭部に触れた。頭痛を真白は覚えた。
「大丈夫?」
頭に置いた手に重なるものがある。歩の手だった。大きく、やや硬い掌が真白の手を包んでいた。手越しに頭を撫でられているような気がした。
諦めたい願いも捨ててしまいたい願いも、それらの中で何よりも掴みたかったのはこの手だった。幻想の中でただこれだけが真実であり、真白はこれのお陰で現実に戻れたのだ。真白はこの手が離れないように、そしてもっと近づきたくて、もう一つの手を歩の手に重ねた。
「……大丈夫。だけど」
両手で歩の手を頭から二人の間に持っていく。ひしと握った。
「暫く手を繋いでいてくれよ」
首肯と微笑みが真実だ。真白を抱きしめた歩が、カーテンにうつりこむ幻覚ではなくて良かった。頭痛はおさまっていた。
「それにしても手汗すごいなぁ。童貞だけじゃ飽き足らず、彼女もいなかったクチか?」
赤くなった。真白はそれが面白くて、大きな声で笑った。もう一度カーテンが現われた時、うつるものは変わらなくても、横に並んでいる男が誰になるのか真白はわかった。そうであって欲しいという願いがあった。
笑いながら、隣に並んだ歩は一体何を見たのか気になった。息も絶え絶えであったから、真白は歩の願いを訊くことが出来なかった。
山頂が近づいた。真白は上がる息を整えるため、歩と木陰で休んでいる。歩は、繋がった手に慣れてきているようで、頬の熱を少しずつひかせていた。真白は手に入れている力を少し強めた。また顔が赤くなった。
「思い出したんだけどさ」
ペットポトルの中身を飲み干して、真白は立ち上がった。バックパックから容器を取り出すために手は離した。
「ん?」
歩はティーシャツの袖口をまくっていた。流石に疲労がたまってきたのか、吐く息は深い。靴紐を結ぶ時も地面に座りながらだった。どこか痛むのか、歯を強く噛んでゆっくりと立ち上がっていた姿が印象的だった。
「嘘になる、ってどういう意味だったわけ?」
二人は歩き始めた。この先には何かあると、理由もなくそんな確信めいたものが胸中にある。振り返っても、森の中に廃墟はもう見えない。それほど遠い所に来てしまったのだろうか。
「嘘になる……?あぁ純金橋の」
歩はしばし首を捻り、ややあってあの雨が降る橋でのことを思い出したようだ。
「そ、思い出してさ」
ふと思い出し、感じた疑問だった。真白と歩は互いのことを知っているようで、しかしそれは橋の上から今この瞬間までの短い時間のことでしかない。多くの疑問を解消し、そして知っていくことが必要だと真白は考えた。手始めにこれから。
「人間っていつか死ぬ生き物なわけでさ、それなのに一生懸命何かするんだよ。努力したりしてさ」
歩は前を行く。坂道を足元ではなく、ただひたすらに上を向いて。真白はその姿にどうしてか虚しさを得た。歩の手の太い指先が震えている。
「そうやって何かを残していくんだと、思う。でも何もかも諦めちゃったら、それは過去のことをすべて自分から否定するような気がするんだ。いらない、って嘘にする」
だから嘘になるんだと思う。歩は淡々とそう言い切った。作られた下手な芝居の様な言葉の羅列は、そのことを歩自身がわかっていても、それこそ何かを否定しようとしているようだった。大きいと感じた背を何故か小さいと感じる。こんなものだっただろうか。
「歩は頑張ったからあんなことを言ったわけだ」
真白の言葉に、歩は数瞬の間を置いた。息苦しさを感じる間だ。
「嘘にしたくないからそう言っただけだよ」
言葉は勢いを失い地面に落ちた。振り向かないし、足も止めないし、ずっと前を見据えているというのに、本当は下を向いて立ち止まっているような気がした。歩は頑なに前を見ていた。強く拳を握りしめていることに、真白は今気が付いた。風が木々の間を通り過ぎる。どうしてこんなにも虚しいのかわからない。
「……歩、アンタ、昨日の夕方何を見た?」
口を突いて疑問が出た。この虚しさの正体を知りたかった。
「たいしたものじゃないよ。そうなんだって、簡単に納得できてしまうものだった。俺の願いは、本当に近い所にあったんだ」
歩は笑った。自嘲じみた酷く鋭利な笑い。それは真白の知っている歩と遥かにかけ離れたものだ。嘘になると自分の頬をぶった人間のものではないと信じたかった。
「それって……馬鹿な事じゃないよな?」
どうして馬鹿という単語を使ったのか自分でもわからない。目の前の歩が、今確かに何かと重なったのだ。歩の持っている感情の名前を真白は知っている。
その時だ。歩が口を開いて言葉を発するその直前、息を吸って肩が僅かに上がった瞬間、鼓膜を微かに震わせる音を真白と歩は聞いた。金属と金属がぶつかる重い音。非自然的な音。
真白と歩は動きを止めた。すると音は、一定のリズムを保って鳴り続けているということに気付いた。動きを止めて暫くすると、音は止んだ。
歩が振り返った。今度は走り出さなかった。落ち着いた表情を真白は歪に感じた。取り繕っている。
「行こう」
真白はそう促した。行かなくてはならないと何故か思った。ここまで導いた何かがそう思わせているのかもしれない。しかし、真白は歩の前を行くことはしなかった。真白は歩に走り出してもらいたかった。あの時の歩は、どうにかしようと必死だったからだ。今の歩からはそれが微塵も感じられない。
口内が渇いている。真白は焦っていた。馬鹿な事、その意味がボンヤリと分かったような気がした。