第七話 夕暮れが見せる奇跡
どうしてだろうか。
真白は夕焼けの中を歩いていた。歩いている、といってもその足取りには力などなく、まるで引き摺るような動きに、スニーカーの裏が地面と擦れる音が周囲に反響していた。スニーカーの悲鳴は廃墟に呑まれていく。一陣の風が真白をよろけさせた。
どうしてだろうか。
疑問は記憶を遡る。感謝はあった。嬉しかった。橋の上、きっと自意識過剰の思い上がり。そうあってくれれば良いと、そう思い、だから目覚めて暖かい手の感触が嬉しかった。
目の前には知らない風景。世界を初めて広いと感じて、しかし前後の記憶の繋がりが見つからなかった。高揚感というものを感じてみせれば、真白は深く理由を考えようとは思わなかった。あの光に、自分と彼は死んだのだ、そう結論付けるのに時間は要らない。
今更ながらに自身の望みを知った。どうして生きていたのだろうか。惰性で生きる毎日。家族などいない。そんなものは捨てた。名前も捨てた。真っ白、何もない自分にぴったりだった。だからそれが全てだった。道具であることが嫌だったから逃げたはずだが、逃げた先でもやったことは変わらない。セックスセックス。簡単で単純な行為がただ真白だった。
必要はなかった。生きるために金を稼いだ。そんなことはしなくてよかった。自分の願いを真白は知った。
建物の影に入った。傾いた廃墟は、今にも崩れてきそうだ。その先端を巨木が支えている。廃墟を風が抜け、すすり泣く様な音を鳴らす。傍らの大樹はそれを抱きしめているようだった。真白は不意に寒気を感じて両手を脇腹めがけて動かし、今自分がいつものパーカーを着ていないことを思い出した。自分を包む一枚のシャツを暖かいと感じる。これは依存だ。
そう、依存だ。夕暮れの下に出る。真っ赤な世界は孤独を思い出させた。酷く懐かしく感じる。
この世界に歩がいて良かった。そう思ったのだ。傍に誰かがいることのその温かさを初めて知った。押し付けていた。知らず知らずのうちに縋っていた。内心に興味は無かった。面倒は嫌いだった。こちらの都合を押し付けて、なのに見ているものは同じだと思っていた。だからだろう、走り出した歩を見て、その背中を見て感じたズレに孤独と図々しいことに怒りを得たのは。身勝手なことに、ずっと近くにいてくれると思っていたのだ。
一人にはなりたくない。遠い願いを思い出した。父と母に擦り潰された願いだ。
孤独には慣れていた。孤独でいることが当たり前だった。全てが億劫に思えて、頭の中はいつもぐちゃぐちゃだった。思考は纏まらなくて、それでも考えようとすると込み上げる吐き気があった。だから考えることも感じることもやめて、諦めることを是とした。感情のないセックスマシーンだったのに、生意気なことに人に戻ろうとしたのだ。これは報いだ。
あの手だ。あの温もりが悪い。諦めていたモノを思い出させる。人間になりたいと思わせる。どうにか手に入れたいと、この足を立ち止まらせようとする。あれは悪だ。そして最高の善だ。真白が触れていいものではない。その温もりを与えてもらおうなど、おこがましいにも程がある。
込み上げる吐き気があった。抑えられなくて、真白は胃の中の物を吐き出した。どうしてか涙が出てきた。虚しく並ぶ廃墟が寒々しくて肩を抱いた。強くシャツの袖口を掴んで、ひゅうひゅうと細く息をする。本当に孤独だった。
胸をまさぐった。片手で右の乳房を、もう一方で股間を。布の上から触る。布越しの乳房がもどかしく、ティーシャツをまくり上げ、ブラジャーをずらす。乳房を揉みながら、刺激を求めて乳首をつねった。股間がジンジンしてきて、真白はホットパンツのジッパーを下げる。ショーツに手を突っ込んで女性器を上から撫でた。ヌルヌルと手に纏わりつく粘液のその源泉に指を入れた。
快楽はそれでも涙を止めない。だだっ広いこの夕日の世界の中心で地面に横たわり、埃と土にまみれ、異常なほど込み上げる性欲のその赴くままに真白は求めた。考えることは苦手だ。頭が痛くなる。だから何を求めているのか考えなかった。考えたくないから、今こうして自慰を続けている。
果てて、荒い息は横になって潤んだ視界に光を見せた。カーテンの様な膜。輝きは真白に人影を見せた。
真白は目を疑った。ヒッ、と喉を鳴らす。体を起こして、自身の格好など顧みず這うように後ずさった。手が震え始め、上下の歯がぶつかりあいガタガタと音を出す。遠い過去に追いやった痛みと怒り、屈辱と絶望は目頭から溢れ出す涙に伴われて、真白の脳内を蹂躙した。
父と母がいる。
こちらをジッと見つめる四つの眼球がある。瞬きもせず、かといって辱めるわけでもない。無感動にこちらを眺めている。冷ややかな視線が四つ、ゆっくりとこちらに近付いてくる。
「く、来るな……」
真白は必死に後ずさった。恐怖に突き動かされて、悪夢がフラッシュバックする。ぶら下がった両手が凶器のように思えて、その矛先がいつ自身に向けられるのかと思うと真白は気が気ではない。真っ暗な物置小屋を思い出した。埃っぽさに停滞して淀んだ空気。強い汗と精臭がたちこめていて、ぼろ雑巾の様に真白はその中にいた。またあそこに戻されるのか。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ!!」
喉が張り裂けんばかりに叫んだ。涙腺が決壊してしまったのか止まらない涙。掌に小石が刺さって痛みが走る。血が出ているかもしれないが、真白はそれよりも強い痛みと喪失を知っている。父に奪われたものだ。また奪われるのか。それだけは御免だ。
後ろに伸ばした手が不意に空をとらえる。地面には窪みが出来ていて、真白は支えを失った。上体は引きずり込まれる様に窪みに落ちて、背中と次いで後頭部を打った。荒くなっていた息が、かろうじて保っていたリズムを欠いて真白は呼吸困難に陥った。陸にうちあげられた魚の様に必死に空気を求めるが、上手く呼吸が出来ない。口内は乾ききっていて、張り付く様な感覚と空気が口の中の天井を撫でる感触があった。
「ぶたないでッ!!」
眼前にまで伸びてきた手から自分を守るために、真白は両手を顔の前に交差させた。キュッと両目を閉じて、痛みに耐えようと歯を食いしばる。涙と鼻水にまみれて、真白は幼い子供の様に泣きじゃくっていた。一瞬、不思議なことに懐かしさを得た。逃げても逃げても、真白は過去から逃げられなかった。
しかし、手は真白に痛みを与えなかった。そっと強張った手に触れて、その守りを優しく解いた。涙を手で拭った。こちらの頬に触れて、耳の裏から顎先までを柔らかく撫でた。
真白は目を開けた。こちらを四つの瞳が見ている。目尻を下げて、柔和な笑みを湛えている。初めて見る二人の表情と、そして初めて彼らから与えられた温もりだった。それは目覚めたときに握っていたものに似ていた。
男は真白に目線を合わせ、ひしと抱きしめた。女が真白の頭を撫でる。真白は目を疑い、男と女の行動に違和感と気持ち悪さを得た。こんなものは幻想なのだと真白は思った。こうやって自分を騙して、最後に思いっきりこの頬を殴るのだろう。そういう魂胆なのだろう。
真白は男の体を思いっきり突き飛ばした。男の胸板に手を付けて力を込めた。真白を抱きしめる両手から逃れて、ダンゴムシの様に背中を丸めては、自分を守ろうと情けなくか細い両手で頭を抱いた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
震える自分。何故か納得できた。こういうものなのだろうと、冷たい諦めがあった。もう逃げられない。頭のどこかでそう思えてしまい、真白はそれを受け入れた。こうして恐怖に震えて、痛みに怯えて、ただ両親の道具となる。いつもやっていたことだ。いつもそうだった。希望は持たない。夢を見ない。諦めてしまおう。何が違うというのだ。
笑い声が聞こえた。幸せそうなその声に、場違いだと違和感を得た。またその声の低さに耳を疑った。少女の声であるが、やや低い。しかし声には艶があり、落ち着いている。真白は恐る恐るその声の主を見た。
自分がいる。
その身にセーラー服を纏い、傍らの男子と談笑をしている自分がいた。セーラー服は真白の家の近くにあった高校のものだ。毎日見ていたから今でも覚えている。強く憧れて、両親の元から逃げる時に擦れ違うそれらを眺めもした。目の前の自分はそれを着ている。
肩にスクールバックをかけ、隣の男子高校生と手を繋いでいる。後から追ってきた高校生は友人なのだろうか、一人二人と増えて談笑の輪が広がる。通学路を歩く真白に誰もが声をかけて、真白はそれらに手を振ったり頭を下げたり忙しない。しかしその顔には笑顔があって、本当に幸せというものの中にいるようであった。セーラー服を着た真白は、最後に両親のいる家に帰り、三人で和やかに食事をしている。温かな家庭がそこにはあった。
「……やめろ」
男子高校生と共に同じ大学に入り、そこでも友人が増えたようだ。勉学にサークル活動に行事にと追われながら、友人たち、両親、恋人になった男と毎日を幸福の中で過ごしている。就職し懸命に働きながら成功をおさめ、同棲を始めた男と楽し気に休日を過ごす。公私共に満ち足りていて、目の前の真白は笑顔を絶やさない。
「やめてくれ」
やがてその身に新しい命を授かり、子供が産まれた。
「やめてくれ……」
幸せな家庭。細やかな幸福。ありふれていて、しかし何よりもの幸福の中に、真白がいる。
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」
胸を締め付けるこの息苦しさは何だ。どうして今更こんな夢を見る。諦めた夢だ。手に入らないと捨ててしまった願いのはずだ。今更こんなものを見て何になる。
真白は目を閉じ、耳をふさいで叫んだ。忘れてしまえと失くしてしまえと捨ててしまえと強く強く叫んだ。笑い声を遠く記憶の隅に押しやろうと強く、叫んだ。
手が、真白に触れた。男と、子供の手だ。真白を見つめて、その唇が動く。
真白、お母さん。
っと。
真白は喉が裂けてしまったのかと思った。血が勢いよく噴出して、何もかもを体の奥底から吐き出してしまうような感覚。それは慟哭だ。手に入らないと捨てた願いが今、目の前に鎌首をもたげている。手を伸ばせば触れることのできる位置にあって、こちらがその罠にかかるのを待っている。それでも甘い毒が体内に巡るのを、真白は感じた。触れたくて手に入れたくて、それでもそれが仮初のものに思えてしまう。凌辱を真白は知ってしまっているから、汚物のように思える自分が手に入れることの出来るものには思えない。また諦めるのが楽だと耳元で囁かれているようで、それでも手を伸ばしたいという衝動の二つの中で真白は引き裂かれそうだった。
大きな手と小さな手、それと無数の手が真白に伸ばされる。こっちにおいでと誘っている。頭が割れそうなくらい痛い。吐き気がこみ上げてくる。グラグラする頭は、顔の涙と鼻水の感覚を妙にリアルにとらえた。腰に引っかかっていたホットパンツが落ちた。まくり上げていたティーシャツも落ちる。濡れたショーツの張り付く感触と、シャツに擦れる乳首のこそばゆさが、どうしてか真白を真白たらしめていた。
その時だ。無数に伸びてくる手の中、それらよりこちらに深く伸ばされる手があった。手はその腕の先を見せ、もう一方の手に見知った馴染みのあるパーカーを握っていた。
嘘ではない。あの手が、真白に痛みを与えたあの手が、今ここにある。
手を伸ばし、腕は真白を抱きしめた。力強く抱きしめて、その温もりで真白を包む。
「真白!!」
そう呼ぶ声があった。馬鹿なことをするなと、真白はもう一度怒鳴ってほしかった。真白は真白であったし、だから真白は生きていた。
ここはあの世ではない。茜色に染められた世界は、ただ真白と歩の二人だけを祝福しているようだった。
今度は突き放さなかった。幻想は優しかった。だが真白はそんなものが欲しいわけではない。痛むくらい強く抱きしめるこの温もりが良い。真白はそれ以外を拒んだ。この痛みを諦めたくはない。
廃墟は静かに闇に沈み始めた。尾根のむこうに日は消えていき、それに伴ってカーテンが霧散していく。誰もいない何もない静かな世界で、二人はただ互いを感じていた。夜の帳が世界に完全に落ちきるまで、真白の涙は止まらなかったし、歩はそんな真白をただ力強く抱きしめていた。
星々があった。無数に瞬く星々は、その光を妨げるものもなく、自由に広々と夜空を賑やかに彩っている。風はなく、廃墟と森は静かで、こうして横になっていると、本当に世界には自分たちしかいないのだと思えてしまう。真白は土埃をはらって、やや硬めのシートに横たわっている。先程歩が中を物色していた自動車モドキだ。彼の言葉を借りるなら、空飛ぶ車だろうか。放置されて長い時間が経っているようで、外観は錆びていたし、中も同様に朽ちていた。体の下のシートには、所々破けて中身が露出してしまっている箇所もある。それでも外に、瓦礫の上で横になるよりは遥かにマシに思えた。リアガラスが嵌めてあったのであろう部分を見やれば、吹き抜けの夜空を見ることが出来た。
真白はボンヤリと夜空を見ている。月は出ていない。新月の夜は一際暗く、しかし星が一番きれいな夜だと真白は思った。思い、随分と地に足の着いた考えだと苦笑した。掌には、歩の持っていた絆創膏が一つ貼られている。仕事柄ケガをしてしまうことがあるのだと言っていた。備えの良いやつだ。
絆創膏は、掌におさまっている。ガーゼの中心が赤くなっている。そのまま左胸に手を当てれば、一定のリズムで拍動する心臓があった。
ホットパンツは運よく見つけた小さな池で洗った。流石に臭かった。汚れてもいたから丁度良かった。ショーツも洗って、ホットパンツと一緒に干しておこうと考えたが、歩が顔を赤らめてそれはやめてくれと言ってきたので仕方なく履いている。童貞、と笑い飛ばしてやった。今は歩のシャツを羽織ったままその上から、主に下半身にかかるようにパーカーをかけている。風邪をひくといけないから、と運転席のシートを若干倒して寝ている歩に返された。シャツは持っていてくれと言われたので、真白は着たままにしていた。
歩は寝たのだろうか。運転席の後ろの席に足をむけて真白は横になっているので、丁度歩の横顔を見ることが出来た。暗いのではっきりと顔を見ることは出来ないが、先程から何度も体の位置を調整しているので、恐らくまだ起きているのだろう。
真白はというと、とても寝ることの出来る気分ではなかった。涙は引いたし、悪夢に怯えることもなくなったが、高揚感の様なものがあって、胸の内がざわついている。今にも踊りだしたくなるような気持ちだ。体を抱きしめる力の名残がまだ残っていて、真白はそれを忘れることが出来ない。
嬉しいのか何なのか。思い出せば恥かしさがあるが、それ以上に口角が上に上がる感覚があった。きっと、今自分はとんでもなくらしくない表情をしているのだろうと思う。
彼は真白に名前を思い出させた。また真白が真白でいることを認めてもくれた。そのことが嬉しいのだと、真白は素直に認めた。どうやって感謝の気持ちを表してやろうか、そう考え、セックスしか思い浮かばない。良いじゃないか、とても自分らしい。真白は歩の横顔を数秒見詰め、両手を動かしてショーツを脱いだ。寝ているのならどうしようか迷ったかもしれない。だが歩が頬を手で掻いたのだから仕方ない。こちらの準備は良いし、童貞は過去に何度か相手した。優しくリードしてやろう。
真白は音をたてないように静かに運転席の後ろに移動した。呼吸を整え、ついでにニヤついている自分の頬の筋肉を緩めて、艶やかな表情を作ろうとした。なおらないし作れないので、悪戯っ子のような不敵で怖いもの知らずなお姉さんを心掛ける。よし、出来た。
真白は座席の後ろから勢いよく歩の眼前に飛び出した。
「!?な、何!?」
突然の出来事に歩が驚いた。慌てふためいている歩を見て、笑いそうになるがどうにか堪えて真白はその瞳をジッと見つめた。
「なに、少しお礼をしようと思ってさ。アタシなりの方法で」
顔を近付ける。パクパクと金魚の様に口を開け閉めしている歩の目の前。互いに互いの息がかかる距離感。そこに歩がいる。自分を追いかけてきてくれた人がいる。自意識の押し付けではない。勘違いではない。歩が歩自身で行動して、真白を留めたのだ。そのお礼。
「方法って、何!?」
顔がみるみる赤くなっていく。必死な表情や苦しげな表情、切羽詰まった表情ばかりなのに、こうしてみせればすぐ赤くなって面白い。真白はもっと赤くしてやりたくてその頬に触れた。
「イイことだよ。アタシ、今下履いてると思う?」
真白の疑問符で理解したのだろう。目を見開いた歩が、耳の先まで赤くして目を逸らした。
「ダメ、ダメだって。だってほら、ムードとか、関係、とかさ。付き合ってるわけでもないし」
か細い声が情けない。男なら堂々としてみせろと思うが、しかしそれでは面白くない。真白は歩をいじめたいし、セックスの相手にしたいのだ。代わりはきかない。
「大丈夫だって。アタシに全部任しな」
優しくしてやるよ。そう耳元で囁くと、歩はそれだけで恥かしさの臨界点を越えたようで、目を閉じて両手を歩と真白の顔の間に入れた。ダメダメと壊れたラジオの様に繰り返すので、またそれが真白の悪戯心をくすぐった。真白は片方その手を取って、手前に引いた。
「……ッ!!」
自分が今何を触っているのか理解したのだろう。生唾を飲む音が聞こえた。口では拒んでも実際はその気らしい。童貞らしさに真白は笑った。真白の乳房にあてがわれた歩の手は、なされるがままに拒もうとはしない。
「初めてなんだろ?アタシがリードしてやるよ」
その手をさらに手前に引いた。乳房の形が変わる。眼前の歩が呆けたような表情をしている。見やれば歩もその気のようだ。ならば後は一押し。
「優しくしてやる」
その一言で歩は覚悟を決めたようだ。目を閉じた。
「……優しくしてぇ」
なんともなっさけない声だ。真白はクスクスと笑いを止められない。
真白は歩の唇に自身の唇を重ねようとした。重ねようとして、自分はようやく幸せなセックスが出来るのかと思った。セックスは辱めだった。屈辱を父には与えられた。その次は手段になった。金を稼ぐための手段。虚しいことだ。いつも気持ちよさと虚しさがあった。こんなことをして何になると思っていた。今日、真白は初めてセックスをする。その意味するところを初めて知ることが出来る。その為なら、歩に汚されることを本望だと思った。
だが、真白は唇を重ねられなかった。後ほんの少しのところで止めた。汚される、そう考えて、真白は躊躇った。真白は真白の知っているセックスしか知らない。それは汚いことで、愛など欠片もないものだった。今ここで歩としたとして、それが今までやってきたものと違うのかと訊かれれば、真白はちゃんと答えられる自信がなかった。歩と重ねた時間がある。それは確かなものだ。しかし、先の関係という言葉を考えるのなら、真白と歩は何なのだろうか。真白は歩とどうなりたいのか。
「…………?」
何もないから疑問に感じたのか、歩が目を開けた。乳房に当てられた手から力が抜ける。そうだ、これが今の歩の答えなのだ。
「……冗談だよ」
真白はそう言って後部座席に戻った。あ、うん、と歩の呆気にとられたような声が聞こえた。追ってこないのだから、まだ早い。
お休み。そう言って真白は目を閉じた。歩に近付きたいが、それと同時に歩に近付いてもらいたかった。ちゃんとした関係をもちたかった。そうしなければ、真白は歩をあのメガネの男たちと重ねてしまいそうだった。真白はそれを望まない。
真白は望みなどというものを自分が持っていることを知った。それを心地よく感じた。心地よく感じたのだから、これだけは何が何でも諦めてやるつもりはなかった。真白は一つ、幸せというものを得て、静かな眠りについた。
「早く来いよ」
歩は朝焼けの中を真白と共に歩いていた。前には軽快な、それでいて落ち着いてゆったりとした歩調で歩く真白がいる。腰にパーカーを巻いて、羽織る白いシャツが朝日の中で眩しい。
歩はその後を追った。自分たちは生きているのだから、だというのなら立ち止まれない。歩は背筋を伸ばして顔を上げた。真白が見ているのだから、顔を下げてはいられない。その為なら、歩は何でもしてやるつもりだった。
廃墟を抜けた。森の中、朝日に照らされて不思議な力に導かれるように二人は歩いた。森の中目が覚めて、初めて見る日の出だった。
夢を見た。二人の男女の夢だ。黒い髪に黒い目。遂にこの時が来た。だというのに不思議と落ち着いていた。当然だ。その為に自分はいるのだ。それ以外に存在意義などない。価値もない。その為にこの身を使うのだ。そうして皆の為になるのだ。だから怖くない。寂しくもない。未練なんてない。大丈夫、自分は今落ち着いている。落ち着いているんだ。
二人を導くために、力を送った。後は彼らの到着を待つのみ。この命は、皆の為に。そう考えて、ノア・トワイライトはもう一度目を閉じた。カーテンの隙間から差し込む朝日を、もう見ることはないかもしれない。