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第六話 願望はその冷酷さをもって


 大きな街だったのだろう。恐らくは歩の想像できないような大都会。地下道の入り口は崩れ去り、道路らしき幅広の道には自動車のような物、瓦礫など雑多に物が転がっていた。開けた空間は、公園だろうか。公園の中央には噴水があったのか、しかし丸く縁取られた受け皿には何もない。街の中を流れていた川があったのか、横に大きく深く沈んだ地面が左右に壁を立てて眼下にある。対岸に渡る橋は崩れていた。周囲の建物は、その足元の瓦礫の山から生えているようにも見えた。

 人がいなくなって長いのだろう。夕日に照らされ影は長く伸び、風が建物の内と外、植物の間を抜けて突き抜ける音を立てた。遮るものはなく、音はどこまでも駆けていく。足元が竦む。だが、歩はそうして感じた恐怖より、酷く孤独を感じていた。抜け殻と化したこの廃墟群は、ただ浸食されるままに、自然の一部となることを受け入れているようだった。

 崩れた建物や標識、看板には文字があった。タイヤのない自動車のような物体にも文字があり、そこかしこの瓦礫の山の中にもそれはあった。初めて見る言語に目を凝らすと、不思議なことに、文字が一瞬ぼやけて日本語に変わった。目を擦ってみるが、やはり目の前の文字は日本語だった。日本語、歩は埃を被っていたプレートを手に取りその表面を撫でた。

「『エネルギーに溢れた生活を』……」

 所々虫食い状態ではあったが、その部分を補って文章を作ればそう読めた。エネルギー、その単語につられて歩は傍にある自動車らしきものに近づく。真白は、歩が手に持っているプレートの文字をジッと見つめていた。

 歩の腰までの高さで、横に長いその物体は錆ている。ドアにガラスはなく、頭を中に入れるのにその妨げになるものは何もない。中は埃っぽく、シートはその膝に土なのか細かな粒をのせていた。ハンドルがある。触ってみて回そうとした。硬く錆びついていて動かない。歩は次いで外観を見た。タイヤがない。これはどうやって走るのかと疑問を得た。

 廃墟が鳴る。それは終わりだったのかもしれない。歩は静かに目の前の光景を見ていた。四肢から力が抜ける。プレートが地面に落ちる鈍い音を、歩は遠く聞いた。



 歩たちは先の公園に戻っていた。水の出ない噴水のその囲いの縁に腰かけて、二人は歩のバックパックから取り出したパンを食べていた。賞味期限が近かったカレーパンを歩は食べている。脂っこさがきつくやたらと辛かったが、それでも無心に歩はそれを食べていた。真白はカレーパンを見て、苦い顔をした。苦手なのだろうか、今は朝食にと買った食パンを小さく手で千切ってはゆっくりと咀嚼している。時折手も口も止めて遠くを眺めていた。

 夕暮れを見てなんとなく始めた夕食であった。歩はその形だけの行為に意味を感じなかった。嫌気を感じて歩はカレーパンを半分残した。

「やっぱさ、ここはどこでもないんだよ。きっとアタシたちはあそこで終わったんだ」

 目の前の何もない空間が歪んでいる。風に揺れるカーテンの様に、それは薄く、そして形を変えながら宙を漂っている。赤い日差しをその中で反射させているのか、宝石の様にキラキラと光る瞬間があった。次第にその数が増えていく。

「だからさ、気楽にいこうぜ。もうなんだかんだと考えるのはお終いだ」

 安堵なのか、それとも見せかけているのか。乾いた笑顔を真白は見せる。強がりなのかもしれない。そうであればいいと。

「だったら、これからどうするの?」

 歩は無言の街並みからまだ望みを捨てきれなかった。誰かいると信じている自分がいる。歩は頬を撫でた。この痛みをいつまでも忘れることが出来ない。

 どうしてここまで誰かにいて欲しいのだろうか。歩は走り出したこの足が求めていたものがわからなかった。突き動かされるように走り出して、一体何を求めたのだろうか。

「さあなぁ。とりあえずここに居続けるのは御免だね。不気味」

 軽い返事は気楽だ。しかし乾いた笑顔が違和感だった。自分を誤魔化しているような、言い訳をついているような、そんな風に歩には思えた。

「……俺は、諦めたく、ない」

 歩にも自分を誤魔化すことが出来るのだろうか。簡単なことのように思える。だが、きっと後ろめたさが付いて回るのだろう。後ろを振り向きたくなるはずだ。苦笑いは得意なのだろうが、頬のひりつく感覚は、歩がずっと持っていたものではない。

「何を?」

 真白は死んでいるのだ。そして歩も死んでいると思っている。ここを死後の世界と考える理由はわからない。だが、ここは欄干の延長線上なのだということはわかった。欄干に立つことは歩には出来ない。その度胸もまた勇気もない。父の与えた痛みと怒りに、足の裏が地面に縫い付けられる。歩と真白、二人の違いはここにある。

「きっと、誰かいる。誰かが生きてる。俺たちが死んで、ここは死後の世界だって、なんだか納得できないんだ」

 公園は緑に溢れていた。瓦礫の中から、その隙間から逞しく命を伸ばしている。風に揺れてその体を揺らし、公園の外縁にある木々のざわざわと風に揺れる音と、そして生命は溢れ、しかし無感動だ。どうしてこんなにも寂しいのだろうか。今まで他人は、歩に劣等感やちっぽけな優越を与えるだけのものだった。自信に満ち溢れた背中や積み重ねてきたモノの上にある笑顔、憂鬱な頭の天辺は、歩に自分自身を惨めに思わせるものだったはずだ。だというのにどうしてここまで他人を望むのか。歩は自身の矛盾に苦しんだ。

「俺さ、思ったんだよ。タイヤのない車とかさ、きっとアレは空を飛ぶんだって。技術は進歩して、革新を得て、人類はエネルギーとかそういう問題から抜け出してさ、ここはそういうところ。未来なんじゃないのか、って」

「はぁ?タイムトラベルしたっての?」

 突拍子もなく、本当に馬鹿げたことを言っている。冗談にしては笑えないし、本気で言っているというのならまともに相手取ることをやめてしまうレベルの愚かさ。そうわかっていながらも、信じてしまいたくなるのだから、まともではないのだろう。

 遠く外縁に木々がある。歩はそれを見詰めている。近付いてくることはなかった。

「戦争か何かがあったんだ。皆避難したんだよ。だから、絶対どこかで生活しているはずなんだ。必死に、一生懸命に頑張っているんだ」

 その言葉は強迫を歩に突きつけた。縁にお尻をつけていることが恐ろしく思えて、歩は立ち上がった。焦燥感が胸を締め付けて、歩は今にも走り出しそうになる。何かをしていないということが恐ろしい。

「寝言は寝てから言えよ」

 呆れたといった体で真白は鼻で笑う。目を逸らしてどこを見ているのだろうか。自分を誤魔化しているのだろうか。誤魔化せているのだろうか。

「歩、アンタ自分が何を言っているのかわかってんのか?必死な形相で、今のアンタからは狂気を感じるよ。マトモじゃない」

 皮肉気な表情の矛先は歩だろうか。言われて歩は自身を顧みた。力強く拳を握って、爪先が皮膚に食い込んで痛みを発している。開いてみると手が震えていて、掌に四つ三日月が出来ていた。

「だって……だって……」

 言葉が詰まって喉から出ない。自分が何を言いたいのか、何を言おうとしているのか。わからないし、考えようとしても思考が纏まらない。落ち着かせようとしても、逆に息が詰まるような胸の感覚が大きくなるだけだ。

「落ち着きなって。そしてわかるんだよ、ここはアンタとアタシだけで、何もない世界なんだって」

「出来るわけないだろ!!」

 この息苦しさを吐き出したくて歩は叫んだ。気付けば両手で自分の肩を抱いていた。孤独があった。歩は吐き出して、一瞬胸に穴が開いていることに気が付いた。湧き出して溢れていた焦燥感は、歩の痛みと怒りを埋めようとしていた。

「認めろよ、認めるんだよ」

 呪文のように聞こえた。惑わして、嘘を本当にしてしまおうとする強制力を感じた。なのに真白は歩を見ていない。誰を洗脳したいのだろうか。

「いるんだよ!いなきゃダメなんだ!!でなきゃ……俺は」

「うっさい!!」

 真白が初めて声を荒げた。勢いよく立ち上がる。こちらをキッと睨んで、拳を握っている。握りしめた指先は真っ白だ。

「良いか?ここはあの世なんだ。アタシたちは死んだんだ!アンタもアタシももう誰でもない。アタシたちは名前も存在も失って、誰でもない!!だからお前はもう何もかも忘れてアタシみたいに……何もかも忘れちまうんだよ!!」

 喉が張り裂けんばかりの金切り声は、最早歩の知っている真白のものではなかった。触れてしまえば壊れてしまいそうなギリギリの存在。しかし、その存在が真白だった。真白自身を証明しいた。

 歩にはそれがわからない。グラグラする頭は、意識は、ただ己の存在意義を思い出し、その意地を止めようとはしない。

「出来るかよ!俺は、霧島歩は、いつまでも霧島歩なんだ!!」

 空っぽな叫びだ。だから廃墟や木々に簡単に吸収されてしまって帰ってこない。けれど虚しさは馴れ親しんだものだ。歩は逃げようとしていたわけではない。鈴虫の鳴き声も自動車の走行音も、歩を捕えてはいなかった。歩が歩でいる限り、死ぬまで逃げようとしないのだ。この意地がそれを許さない。

「……勝手にしろ」

 突き放した。意識してそうしたわけではなかった。力が抜けて、真白はその瞳から光を失った。歩を見ていても、もうその瞳に歩は映っていなかった。

 真白は背中を見せてフラフラと歩き出した。拒絶ではない。怒りも何もかもの感情を諦めた背中だ。ボトリ、とトートバックがその肩から滑り落ちた。着の身着のままで、それでも真白は何かを落とそうとしていた。それは名前かもしれなかった。

「どこにいくの?」

 風にシャツが揺れた。シャツを靡かせる程度の風に、彼女は吹き飛ばされそうだった。

「……」

 言葉は帰ってこなかった。彼女は質量を感じない抜け殻の歩きを続けている。雨が降っているように思えた。白のヘッドライトと赤のテールランプ、オレンジ色のナトリウム灯がチラついた。

 歩は危機感を得た。しかし、その背中を止める権利を歩は持ち得ていない。歩は、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がした。

 片手のパーカーを思い出した。握る拳のその指先から、掌を守っていた物だ。三日月型はそちらの手にはなかった。

 少女を見やった。手には何も握られていなかった。

「シャツ!!」

 歩はその背中に叫んだ。足は動いてはくれない。その資格はない。だから叫んだ。震えていた。

「持ってて!パーカー、持ってる、から!!」

 少女は立ち止まった。暫く動きを止めて、そして再び歩き出した。

 名前を呼びたかった。呼べないから、歩は少女の背中をただ見続けた。血の様に赤い夕暮れの中に真白はのまれていった。歩はシャツの色を見間違えた。



 歩は噴水の囲いの縁に座っていた。隣には誰もいない。いなくなった少女のことを考えることを、歩は無責任だと思った。言葉は簡単に人を傷つける。そのことを歩は誰よりも知っているはずだったのに。

 ボンヤリと前を見ていた。耳にはイヤホンを挿して、あの曲を聴いている。お気に入りだったはずのフレーズを耳障りに思い、歩は音楽プレーヤーの電源を切ってイヤホンごとポケットにしまった。ポケットから手を抜いて、もう一度前を向いた。前、と思っているが、しかし歩には前がどちらを指す言葉だったのかわからなかった。自分がどこを見ているのか、何を見ようとしているのかわからないのだ。孤独は今まで味わったことのないほどの物だった。音はない。風も止んだ。西日が世界を照らし、伸びる影はただ歩のものだけだ。世界に何もないのだと歩は思うことが出来てしまえた。隣には誰もいない。ただ一人、誰かがいるということにどれだけ救われていたのかわかった。名乗る相手がいない。それは意地をはる相手がいないということであった。パーカーの持ち主は、もしかしてこの孤独の中にずっといたのかもしれない。

 歩は宝石の光を見た。虹のようでもある。キラキラと輝いて、その姿を変える。カーテンの様なその光の帯は、視界を埋め尽くしてしまうほど増えていた。増える、というよりは大きくなった一つ一つが纏まって、巨大な一つになったようだった。

 光の膜は、その瞬きの中に光景を見せた。それは人影だった。

 歩は立ち上がった。見間違えたのかと疑った。少女が戻ってきたのかとも思った。

 人影は、膜の中にあった。膜のみせる幻影だった。しかし、幻影はリアリティを感じさせた。歩は息を漏らした。感じた幸福を歩は手放したくなかった。

 人影はその姿を変えた。男にでも女にでも。年は選ばないし、その形も何にでも変えてみせた。表情は柔和なもので、皆暖かい笑顔を歩に向けている。誰かが手を伸ばしてきて、皆も伸ばしてきた。無数に変わる手が、最後無骨な男の手に変わる。それは十八年間毎日のように見てきた物だった。顔の皴は苦労と努力を思わせた。悔しさに体をひたむきに動かして、いつも前をむいていた人物。歩を誰よりも想って、誰よりも背中を支えてくれた人。手を伸ばしてくれている。それは何よりも望んだ物だ。歩は頬を流れる涙を知った。嬉しくて嬉しくて手を伸ばした。暖かくて大きい手を掴むと、涙が滂沱と溢れた。胸に抱きよせて、歩はその場に崩れ落ちた。

 気付けば人影は無数に分裂して、皆が歩に触れていた。笑顔と温もりが歩を包んで離さない。幸福感に包まれて、それは遠くもう手の届かない記憶を思い起こした。

 この世に生を受けて、大きな愛情をこの身に受けた。皆に愛されて、毎日幸せに暮らした。つらい時もあった。分裂して、もう戻らないのかと思った時期もある。それでも、形は違えども再び幸せの中に戻った。掛け替えのない何よりの幸せ。

 武骨な手が歩の手を引いた。導いて、歩を進ませる。背中を押す手もあって、歩は不安を感じることが一切なかった。大きな背中をもう一度見ることが出来て、またそれが嬉しかった。どこに歩を導いているのかわからないが、かといって疑う必要もなかった。

 大きな背中が立ち止まる。周囲の皆も立ち止まった。目の前の背中が横にズレて、導いていたその先を歩に見せた。

 真っ暗な闇があった。無限に広がって、その奥に限界はない。冷ややかで何もない闇。飲み込まれればどうなるのか、歩はわかった。

 しかし、不安はない。寧ろ安心と幸福を感じる。暖かくて、きっとこれがすべてなのだと思った。

 横に並んだ存在が皴をにこやかに歪めた。背中に大きな手を回す。皆もそうした。あと一歩を、皆が待っている。

 歩は頷いた。これで良い、これが全てなのだ。歩はそれ以外を望まない。この幸福感を歩はあの時から知っていた。でも拒んでいた。強く拒んで馬鹿だと歯にもかけなかった。どうしてそんなことをしたのだろう。これでよかったのだ。全部忘れて、何もかも手放して、ただこうすることが願いだったのだ。初めからこうすればよかったのだ。

 歩には、何もない。頬になにかあっただろうか。歩には、わからない。


 その時だ。瞬間、踏み出しかけた足を、歩は止めた。


 木霊するは絶叫。断末魔の様な叫びが歩の耳に届いた。歩はハッと我に返った。あれだけ歩を幸せにした人影はどこにもない。現実が急速に近づいてきて、歩はいつの間にか握りしめていたパーカーを思った。握りしめていたのはそちらの手だけで、空の手はだらしなくぶら下がっている。

 眼下には崖がある。それはあの川だった。枯れて、ただ沈み込んだ空間。真下から風が駆けあがってきて、歩は踏み出しかけていた足を一歩下げた。頬の痛みがそうさせた。

 再び叫び声が聞こえた。振り返りそちらを向く。カーテンは相変わらず煌めいていた。今度はその中に儚さを見せた。笑ってみせて歩をからかって、シャツ一枚で両手を広げて片手には黒のショーツ。秘部が思い出せて、でもそれよりその笑顔が魅力的だった。

「真白……?」

 名前はいくらたっても忘れることが出来ない。それこそ死んでも残り続ける。例え誰もかれもが忘れても、歩はそれを忘れてはいけない。忘れたくない。

 焦燥感は歩を走らせた。背中を押し出す。そうさせてくれる存在を歩は今理解した。その存在が光の中にあって、ならば歩はその為に走らなけらばならない。その為なら歩は闇の中にこの身を投げてもいいと思えた。

 この命をただその為に使おう。歩は西日に向かって走りだし、パーカーを掴んで離さない。あの時、このパーカーを着なかったが、きっと心はその温もりを着ていたのだ。

 それを思い出せたから、歩は、霧島歩であることが出来た。

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