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第五話 遠く尾根を見やれば


「歩って何歳?」

「十八」

「年上じゃん。高三?」

「今年の四月に卒業した。真白は?」

「十七」

「二年、それとも三年?」

「通ってない。……オイオイ、地雷踏んだみたいな顔するな」

「ごめん」

「あぁもう……馬鹿だな。アタシが良いって言ってるから、それはそれで良いんだ。歩が気にすることじゃない」

 謝って見せられた頭の天辺を小突く。真白はため息をついて、こちらをのぞき込む霧島歩に苦笑を見せた。

 晴れ渡る空は突き抜けるようで、真白と歩は二人木々の間を歩いていた。行く宛はない。しかし歩みを妨げるものもない。自由で清々しく、時折止まってみては背筋を伸ばし、深く息を吸う。真白は癖になりつつある麗らかさを全身で味わいながら、一歩、一歩と進んでいた。

 対し、後ろをついてくる歩の足取りは重い。喋りかければ答えてくれるが、その返す言葉や表情には引き攣るような不自然さが付きまとう。すぐ下をむいてしまうものだから、その度に真白は励ましてやった。励ます、という行為の似合わなさに、きっと自分は今不格好なのだろうと、この苦笑にはそのような意味も含まれている。

「アタシがそんなことを言われて、一々ウジウジするような繊細な奴に見えるか?見えないんだよ、絶対」

「何でそんなに自信を持ってるの」

「アタシが一番アタシを知ってるからさ」

 違いない、と笑顔にはやはり無理がある。真白は気難しさを得た。人と接することは、こんなにももどかしいものだと知る。

「面倒は嫌いなんだ。わかったか?」

 頷きを見て、再び歩き出す。

 何故こんな面倒を一つしょいこんでいるのかと自問する。霧島歩を拒絶し、一人で行動することも出来たはずだ。一人には慣れている。寧ろそれが普通だった。誰かといるときは気が滅入って仕方ない。会話をすることが面倒で、相手の一挙手一投足に気をむけることも言葉に感情を動かすことも億劫だった。しかし、今は歩とこうして森の中を進んでいる。

 不思議だと、そう思っても不快感はないのだから、ならばそれがすべてなのだ。目覚めたとき、横で眠っている歩を見た。自分を殴った男だ。あの雨の中で、自分の頭がどうかしてしまったのかと思うほど、真白は激情の中にいた。それらの感情を思い出して、その横顔に怒りが沸いて首を絞めたりもした。息苦しそうに顔を歪める歩を見て、しかし自分の手を歩が握っていることにも気が付いた。

 それは伸ばした手だ。掴みたかったものだ。真白は細やかな幸福を手にしていた。

 それだけのことだった。二人は死んでしまったのだ。過去のことはすべて過去に。ここには何のしがらみも存在しない。名前は、ただ自身の存在を縁取るだけで、何ら意味を持たない。意味を思い出させるものもいない。後ろを歩く霧島歩も同じだ。真白は、その名が示す意味を知らない。本人が喋らない限りここでは知りようがない。ならば意味を与えるのはこれからの自分なのだ。過去を切り離してしまうということが、こんなにも自由なものだと真白は初めて知った。

「歩、霧島歩」

「……?」

「お前は誰だ?」

 質問の意味がわからない、といった表情で歩は首を傾げた。そうだ、意味なんてない。誰でもないのだ。

 真白が真白である必要はない。過去を切り離した存在に、過去を思い出す資格はない。

 真白は、それこそ生まれ変わったような気持ちで緑色に乱反射するあの世とやらを歩いた。ここは天国なのだろうと、真白は信じている。



 腕時計を見た。針は早朝の五時を示している。傾いて赤くなり始めた空からは、考えられない時刻だ。歩は不安を感じている。

 鼻歌交じりに時折その場でクルクルと回って見せる真白は、サイズが一回り大きい歩のシャツを羽織っているからか、その所作も大きく見える。どこか浮世絵のような光景を歩は羨ましいと思う。

 仕事のことを考えた。きつい仕事だ。嫌な仕事だ。それでもやらなければならない、と歩は思う。それは強迫観念によるものなのかもしれない。この時計の短針があと一日分回ってしまえば、もう月曜日だ。この不安は、歩に後ろを振り向かせたがる。

 ここはどこなのだろうか、もう一度歩は考えた。考えたところで答えは出ない。真白の答えが正しいのかもしれない。しかしそれを証明するものはない。そして否定するものもない。考えても考えてもわからないことだらけだった。

「おーい?」

 こちらを呼ぶ声。無意識のうちに下をむいていた歩の顔を覗き込む真白の顔が、目の前にある。長いまつげのその一本一本が目の前にある。

「何!?」

 距離感がやたらと近い。真白には、男女の意識がないように思えた。のけぞって身構えてしまう自分が普通なのだと、歩は思った。

「元気してる?」

 彼女は笑っている。歩の反応を笑っているのか、それとも今の状況を楽しんでいるのか。どちらともなのではないのだろうか。頷く歩を見て満足したのか、真白は再び鼻歌を歌い始めた。その歌の名前を歩は知らない。知りたいと思う気分でもなかった。その代わり、楽し気に前を行く真白の姿を歩は羨ましいとまた思ったのだ。

 彼女は、この森の中で常に笑っていた。正面の背中は自由そのもので、きっと歩には手にできないものだ。だからだろうか。沈んでいく気分、憂鬱はいつまでも胸の中にあって消えない。だからだ。彼女に何度も苦笑をむけられて、歩は自分が本当に情けない人間なのだと思えてしまう。

 面倒は嫌いなのだと、真白は口にした。それでも時折振り返ってくれるその優しさが、かえって歩を苦しめた。

 歩はため息をついた。小さなため息。真白には届かない、届かせない。現実はどこか遠い。本当に死んでしまったのだろうか。自分は、父から離れることが出来たのだろうか。逃げたのだろうか。死んでいるというのなら、歩は死んでもなお自分を縛る過去というものを恨む。どうして不自由なのだろうか、自分は。

 そうして目線は再び下に下がっていた。上げることを忘れて、歩はただ地面を見ていた。森の影は横に長く伸びている。光は朱を帯び、夕暮れが迫る。視界に前を歩く真白の足が入ってきた。スニーカーの踵が二つ、歩の前で止まっている。

「……あれ」

 真白の声。驚きをのせて、その声は歩に前をむかせた。真白は指を指していた。指し示すは正面。遠く山脈の尾根にかかる太陽のその中、大きな影。遠目にそれは背の高い木に見えた。しかし目を凝らせばその輪郭は、自然が生み出した物ではないとわかる。

「建物……?」

 人工物。

 視線の奥、そのむこうに人の手が加わった建造物があった。西日に沈む木々の群を注視すれば、それは一つだけではない。高さを変え、複数の建物が潜むようにあった。

「……ッ!!」

 歩は走り出していた。

「ちょっ、歩!?」

 置き去りの声は背後、戸惑いは震える声。真白の叫び声からは既に自由が消えていた。地面を這う声は、忘れていた現実感を急速に真白に思い出させているのかもしれない。

「人がいるかもしれない!!」

「……!」

 息をのむ。真白もわかっているのだ。もし、あそこに人が、生きている人がいれば、当然そこからわかる事実があることを。息をのんだ彼女の静止を振り切って歩は走る。速度をさらに上げようとして、歩は手に握ったパーカーを思い出す。足をとめた。

 振り向く。真白は立ち止まったその場所にまだいた。その表情は険しいもので、握る拳は怒りの表れだろうか。震える手は、一瞬幼子を思わせた。迷子になって行き場を失ったような。走って出来た距離。それは彼女を遠く小さく見せた。あれだけ憧れた自由はもうそこにはなかった。

「人がいる、ってのは?」

 それでも彼女は努めて理性的であろうとした。だが低い声は震えている。恐怖、読み取る感情は歩に橋の上を思わせた。

「あれは人工物だ。だったら人がいるはずだよ。いるんだよ」

 脆さ。彼女の足は動かない。その場に固定されたかのように。二人の距離は歩に溝を感じさせた。真白を理解できる部分はあっても、しかし歩と彼女は違うのだ。橋の欄干に立つことが出来るのは真白であって、歩ではない。

歩は走り出せても、真白には走り出せない理由がある。

「アンタは……あそこに誰かいたほうが良いっていうのか?」

「そう、思うよ」

 問い掛けは不意に拒絶をにおわせる。そうして歩は焦りを覚え真白の元に戻った。ここで戻らなければ、彼女はどこかに行ってしまうような気がした。身構える真白の睨みつけるような瞳にたじろぎつつも、歩は彼女の手を取った。

「だから行こう。ここが本当にあの世なのか、確かめるために」

 あの世、そう聞いて真白の手の震えが多少はおさまった。歩は一つ理解した。真白にとって、ここは死後の世界であったほうが良いのだと。あの欄干の先にここがあるのだと。状況から考えた理屈付きの考察など、真白ははなからしていなかったのだ。そうあればいいと、彼女は望んでいたのだ。

「……わかった」

 承諾は弱々しく、真白は初めて歩から目を逸らした。歩の手を握り返す力があった。



 足音が二人分、虚しくこの場にあった。踏みしめるはコンクリートだろうか。足元には、明らかに人の手によって作り出された硬い地面がある。長い年月が経っているのだろう。ひび割れた地面はその間から雑草を生やし、隣に立つ建物にはツタが伸びている。たしかにここにある建物の群は、しかし浸食しつつある森とほぼ一体化し、静かに自然の中に沈みつつあった。多くの建物や標識のようなもの、背が高く遠目から見ても目立つものが多いにも関わらず、目を凝らさなければ見つけることが出来なかったその理由が、歩にはわかった。

「人、いないな」

 半ばから崩れた廃墟はその奥に暗闇を抱えている。真白は崩れてぽっかりと空いた横穴から中を見ていた。その横に立って歩も中を見た。

 瓦礫の山が目の前に広がる。溜め込んだ暗闇が年月を物語っているようだ。人の姿はない。

 歩と真白は口を開くこともなく、互いに黙り込んで廃墟群の中を進んだ。歩の後ろからは真白の足音が聞こえてくる。立ち位置が逆になっていた。

 夕暮れに照らされて世界は茜色に包まれた。日は廃墟と森と、二人を世界から縁取る。響く足音はどこまでも。この荒廃した世界はただそれだけだ。

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