第五話
最終話です。
梅の花が咲き始める頃になりましたが、まだ彼は帰ってきません。毎日が単調に繰り返されていきます。そんなある寒い日、私が洗濯物を干そうと庭に出た時、見覚えのある白い服の男性が立っているのが目に入りました。左の袖を風に揺らして立つその人は、間違いなく、彼でした。
洗濯物を詰め込んだ籠をおき、サンダルのまま走りました。息をきらせて辿り着いた私に、彼は微笑みながら言います。
「ご無事そうで、良かった」
それはこっちが言いたい事です。でも言いたいことがあったはずですが、その言葉は閉じこもってしまって口からは出てきません。辛うじて出た言葉は
「おかえり、なさい」
でした。
彼は右手を額にあて
「只今戻りました」
と返してきました。
戻ってきてくれて嬉しい気持ちの陰で、風に吹かれてそよぐ、彼の左袖が気になってしまいます。肘から先が見当たりません。私の視線に気が付いたのでしょうか、彼は気まずそうな顔をし、視線をずらしました。
「中でお茶でも飲みませんか?」
ここでは人目もあるので彼を中にいれてしまいます。
「先生、終わりました」
彼は仏壇の父に報告をしています。片手だけの合掌で。
「先生の言う通りでした。戦争は何も生みませんね」
彼はじっと、父を見つめています。
「守る事はできましたが、失うの物ばかりで、得るものはありませんでしたよ」
私も彼の報告を、静かに聞いています。彼が何を語るのか、私も聞きたいのです。
「この腕になってしまいましたが、まだ軍にいようと思います。得るものは無くても、失うものばかりでも、守らなきゃいけないって事を、教えていかないといけませんから」
「軍に、残るのですか?」
「えぇ。この体ですから内勤になるでしょう。ですので、先生の様に教官を目指そうかと思います」
彼は満足そうな笑みを浮かべていました。
「あぁ、やはり落ち着きますね」
小さなテーブルで、彼と二人でお茶を飲んでいます。お茶を口に含んで目を細めています。
「しばらく軍の病院に入院していたんです」
任務を終えて港に戻る途中、機雷に接触して船が大破したそうです。その時の爆発で左腕を失ってしまったとか。勿論怪我はそこだけではないのでしょうけども、彼は何も語りませんでした。
「治療に、ふた月ほどかかってしまいました。ようやく退院の許可がおりたので、挨拶にと」
「……腕で済んで、良かったです……」
もしかしたら、と思うと、声が詰まります。
「実は、船が機雷接触する直前、先生の声が聞こえたような気がして。そっちへ見に行ったんです。その直後に、私がいた場所で爆発が起こりました。あれは、先生が助けてくれたんでしょう」
私がやかましくも祈るから、父が助けてくれたのかもしれません。仏壇の父を見ましたが、写真は、何も答えてくれません。
「雨漏りはしませんか? 戸はちゃんと開きますか? ネズミはまだでますか?」
彼は私の心配ばかりです。ご自分の事を省みて欲しいです。
「えぇ、大丈夫です。えっと、その」
その右手だけで、不便ではないのですか?
何度か聞こうとしましたが、うまく口が動きません。聞かないまでも、不便なのは分かります。片腕では、服を着るのも大変なはずです。
「そろそろお暇致します」
彼が腰を浮かせてしまいました。私は何も聞いていません。
「あ、あの、最近この辺りも物騒になって、夜一人では心細いんです」
私は何を言っているのでしょう。別に物騒になったわけではありません。口が適当な事を喋っているんです。
「そんな物騒な事が起こっているんですか?」
彼は眉を寄せ、怪訝な顔をしています。
「そ、そうです、ひ、一人だと不安なので、一緒に、住みませんか? そ、その片腕では、普段の生活も大変でしょう。代わりといってはなんですが、炊事とか洗濯とか、私がやります」
彼は驚いたのか、口をぽかーんとあけてしまっています。
だって、どうしているか分からない状況よりは、傍にいてくれた方が安心です。
「あ、あの?」
「ほ、本気ですよ! 今まで随分とお世話になってしまいましたしそのお礼もしたいんです!」
彼は口を開けたまま固まっています。私が早口で声を張り上げているからでしょうか。
「しかしですね、ひとつ屋根の下に一緒にいるわけには」
「そこは、大丈夫です! 今までだって何も起こっていませんから」
そうです、何も起こっていないのですから。彼にとっては、ここは世話になった先生の家なのです。私はそこに住んでいる、娘でしかないのです。考えていてちょっと悲しいのですが、事実ですから。
ですが、彼はちょっとむっとした顔をしています。怒らせてしまったのでしょうか……
「何も起こっていないのではなく、起こしていなかったのですよ」
彼は私の目の前に立ちました。思わず見上げてしまいます。
「片腕でも、男は力があるんです」
彼の指に顎をつままれてしまいました。惚けている私の唇が、塞がれてしまいました。彼の顔がゆっくり離れていきます。
「まったく、貴女は不用心すぎる」
彼の右手が腰に回され、強い力で抱きしめられてしまいました。私は呆然と抱かれているだけです。
「貴女を放っておくと、悪い男に引っかかってしまいそうです」
彼は強く見つめてきます。私はその視線から目を逸らすことができませんでした。
その日、彼は泊っていきました。
桜の花が散るころ、私と彼は籍を入れました。責任がどうとか、男としてなんとか、などと彼は言ってます。
彼は教官になるための勉強をしています。戦争での怪我で軍を辞めた人も多かったそうですから、直ぐに教官になれるとは思います。朝、見送る彼の背中は、どことなく父を思い出させます。
私は縁側に座り、お茶を飲んでいます。風に舞う桜の花びらが、庭を桃色に染めていきます。
綺麗です。
綺麗ですが、掃除をしなければなりません。やりたくはないのですが、仕方ありません。
世間は、すっかり元通りです。ただのお祭りだったのでしょうか。
空を眺めれば、雲が所々にかかっています。戦争が起こったことなど、忘れてしまいそうな、のんびりした日々です。私はお茶を飲んで、空で見ているであろう父に、礼を言いました。
「お父さん、有難う」




