来客
電灯の白い光の眩しさに、私は薄目を開けた。
体が強張っている。特に腰が重く、身じろぎもできない。頭がぼんやりしていて思い出せないが、どうやら自室のソファで寝入っていたようだ。仰向けの腹の上に置いた両手の下に毛布の感触がある。
私は固まった首を軋ませるようにして右を向き、テーブルの上の時計を見ようとした。
テーブルの上には、愛用の黒い目覚ましと、いつもは洗面所で使っている小さな赤い置き時計が並べて置いてあった。はて、いつの間に持って来たのだったか。
目覚ましが指す時刻は五時十六分。しかし赤い時計が指すのは三時二十七分だった。
雨戸とカーテンを閉めてから横になったようで、窓の外を窺い知ることはできない。今の時刻は、どちらなのか。
そういえばと気がつき、私は頑張って首を反転させた。ソファの左上の柱にも時計が掛かっているのだ。
柱時計が示していたのは、八時三十九分だった。困った。今一体何時なのだ。
体は依然として動かない。ぎっくり腰だろうか?だが、痛みはないな。
午後六時を過ぎているなら、私が先に風呂に入ってしまわないと、また女房に文句を言われる。どの時計が合っているのか。
ドアをノックする音がした。女房かな。
私はほっとしてまた首だけを何とか動かして入り口の方を見た。ゆっくりと中に入って来たのは、黒いワンピース姿の若い女だった。
女房ではない。背まで下りる黒髪に眉毛を覆う厚い前髪、どろんと眠そうな眼にここだけ異質な真っ赤な口紅を塗った艶やかな唇。長いスカートから覗く素足は緑色の薄っぺらなビニール製のスリッパを履いている。
こんなスリッパは今時近所の歯医者にも置いていない。女房はいつ買ったのだろう。いや、それよりも、この女は誰だ。
「あの、どちら様で?」
「今、何時ですか?」
やっと出した私の声を無視して女が尋ねる。
「それを訊きたいのは私の方です」
すると女は半開きの眼で哀れむように、
「昔ながらの感覚で肩に手を掛けただけなのに、セクハラ上司の汚名を着せられて、定年間際にケチがつきましたね」
そして身を翻して出て行ってしまった。
私がぽかんとしていると、今度はスーツ姿の若い男が入れ替わるように入って来た。
長身で姿勢が良く、自信に満ち溢れた様子の、少し鼻につく雰囲気の男だ。
「誰だね、君は?」
「僕が貴方の奥さんと密通しているなんて濡れ衣です。まあ、よくある妄想ですから根には持ちませんがね」
「は?何を言ってるんだ?」
「今、何時ですか?」
「それを知りたいのは私の方だよ」
私がいきり立つと、男は無表情で私を見下ろし、そのまま立ち去ってしまった。
何だ、次から次へ見知らぬ人間がひとの部屋に勝手にあがり込んで、訳のわからぬことを言って。
女房は一体何をしているんだ。
「コンコン」
開いたままの扉をノックする音がした。
「今度は誰だね。時間ならわからんぞ」
私はうんざりしながら入り口に目を向けた。
頭頂部がつるりと光る、白髪の禿げ頭、小柄な小太りの年配の男が立っていた。
今度はよく知っている顔だ。
「兄さん」
「何だい寝転んで。まだ準備してないのか」
準備とは何のことだろう。
「おい、その時計、止まってるじゃないか。しかも、五時十六分は退職の日の退社時間だし、三時二十七分はお前が先生と大ゲンカした時間だろう。時計の針が日記か?」
「え!止まってる?それに、何の話だね?おや、兄さんも緑色のスリッパなんだね」
「病院といえばこのスリッパという昔ながらのイメージが抜けないんだろう。早く支度しろよ。セクハラ疑惑だの先生との仲の邪推だので幸さんが出て行ってしまったから、景気づけに川釣りに行くことにしただろ」
全く覚えていない。女房が出て行った?
「どこの川だい兄さん。それに、今何時?」
「午前八時三十九分。ご臨終です」
長身の若い医師は姿勢良くロレックスの腕時計を見て告げた。看護師がそれを記録する。背に届く束ねた黒髪に眉毛を覆う厚い前髪、半開きの眼に唇は乾燥してカサカサだ。
「宮田さん、急変してしまいましたね」
「昨日は天国のお兄さんと三途の川で大好きな釣りをするんだって笑ってたのにな」
「奥さんが戻らなかったから、空想で慰めてたんでしょうね。お気の毒です……」 (了)