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虹と、祈りと a day in the life

虹と、祈りと a day in the life






 光を多く受けている部分が黄色がかって見える。あるいは、黄色がかって見えるから、まわりの葉よりも光をたくさん受けているように思える。そのかたまりは少しずつ移っているようだが、影が見えないため時間の経過はわからない。そうやって見ていると、木は実際、少しでも多くの光をその葉に受けるためにうまい具合に枝を伸ばしていることに気づく。それを反対に、あまり光の当たらなかった部分が成長の過程で淘汰された結果と見ることもできるけれど、どうせならば、より感動できる観点を選ぶ方が自然に対して自然であるような気がする。ほぼ真上から見下ろした木は、線的なイメージを、つまり、地面から空へというベクトルを意識させる普段の姿とは違っていて、ほとんど完全に円形を描いている。それが、少しでも多くの光をその葉に受けようとするということだ。

 木を描こうとすると、まず地面を描いて一本の幹をそこから伸ばし、次いで少しバランスを崩しながら枝を配していき、最後に緑色を選んでいい加減な輪郭を枝から少し離して被せるか、でなければ写実的を模して一枚いちまい葉を丹念に描いたりした。それは成長してしまった木から想像するとわりあい説得的な順序を辿っているようにも思えるが、本当は、おそらく木はほとんどどの段階においても木であって、幹があって枝が伸びてそれから葉がついてとはならない。そのような描き方はどちらかというと、枯れ木に花を、の花咲か爺の話を思い起こさせるかもしれない。

 季節の訪れのなかで春はもっとも具体的なものだから、春が来るとそのたびに、もう何十回目かの春の到来を感じている。それは、毎年必ずやって来ることであるために、デジャヴュが増幅されて自分の年の数よりもはるかに多くの春を記憶のなかにとどめているのかもしれない。そうでなければ、ひとつの春の季節のなかのいくつもの小さな春の日のイメージが積み重なって、記憶のなかで春は、一個の輪郭に収束することはない。人々が通りを埋め、いくつものざわめきがこだまするその少し上空で、木は葉を付けた枝を風に揺らしている。葉と葉の重なり合う音が静かに響いている。

 木の上には我々の気づかない、多くの生き物たちが息を潜めたり、いやむしろ、息を潜めずに過ごしているかもしれず、例えば枝を伝う一匹のリスや、珍しい羽の鳥の鳴き声にも我々は気がつかないでいる。ただ見ていないということによって、というのも、意識の集中は視覚に誘発される場合も多いという考えによるものだが、見えないために聞こえない音がある。それでも見過ごしてきたものについて悔やむことはできない。厳密には、見過ごすという観念そのものがそもそも理屈の上のものでしかない。我々は可能性のうちから選んで見ているのではなく、言うなれば、見られるものの方から我々の目に飛び込んでくる。したがって、意志によって何を見たか、ということでもなく、目に映ったものを受け止めること。いつでもそこに、始まりのきっかけがある。

 赤い花の放つ匂いを想像してみる。あるいは黄色い花弁の。色と匂いはつねに互いに独立しながら花のうちに同居している。色に惹かれて集まるものたちと匂いに引かれてくるものたちとがいるからそうしたことが起こったなどと考えてもつまらないので、木を眺めるのはそのくらいにして窓を閉め、机の上のパソコンのパワーボタンを押した。



 正面から歩いてくる女の人が若い女の子かどうか一瞬目線を向けて確認してみたものの、とにかく最近の若い女の子は若いという以上には年齢がはっきりしないと思った。年齢は服装と表情に準じ、特に若い世代の場合にはそうしたことで格段に雰囲気が変わったりするもので、自分が中学・高校生くらいの頃と比べるとみな自信に満ちている感じがするし、服装についても、たとえ雑誌を熱心に読んだりした結果に過ぎないとしても、いくつかの可能性のなかからきちんと選んでいるのだと思う。

 その女の子は何となく専門学校生っぽく見えるようないでたちをしていて、つまり十八とか十九歳とかそのくらいに見えて、ひとりで歩いているから押し黙った感じではあるけれど、きっと仲間と一緒ならすごく活発なタイプなのだろうと、想像してみてちょっと疲れたりして、そんなことを思っているうちに目線を微妙にずらしながらすれ違って、互いに道を譲り合うかたちになった拍子に彼女が脇に抱えていたバッグから何かがこぼれ落ちた。

 僕はそういうときなぜか拾って手渡すということができず、後ろ姿に向かって「何か落としましたよ」と叫ぶ。相手は振り返って驚いた表情を浮かべ、次いで社交的で品のよい笑顔で感謝の言葉を述べながらハンカチだとか手袋だとかマフラーだとかを屈んで手に取る。そしてもう一度お礼の言葉を言って、僕も「いえいえ」なんて応えて、それだけで、そうしたことが出会いのきっかけになったことはまだない。人は意外と互いに無関係ではなくすれ違いながら二度と同じ人とすれ違うことがなかったりもする。そのときもただそれだけだった。珍しく拾って手渡しはしたけれども。

 陽射しの強さに対してややつめたい風が吹いてきて、それが朝だからなのかそれとも今日一日の涼しさなのかわからないなと思ったりする。朝とは言ってもすでに九時に近く、すれ違っていく仕事や学校に向かうであろう人たちにも忙しい様子はない。いつもならようやく眠りに就くような時間だったが、その日はたまたま前の晩、することも特になくて何となく横になってみたらそのまま朝まで眠ってしまった。別に損をしたとは思わないものの、宙吊りにされたようなこそばゆい感触とともに朝食を求めつつ散歩に出てきた。昼夜逆転の生活にもリズムはあるということだ。

 朝の家並みは普段とは違って見えるというのはわりと普通のことで、そうしたことにいちいち感動もしなくなったなと思い、またひとり正面から歩いてくる女の人が近づいてきたので、どうせ見られるわけでもないのだけれど、頭の後ろ側の寝癖が気になって手で触って少し梳くような具合にしても一向に直らないし直るとも思ってはおらず、そのまま髪に手を当てた状態ですれ違った。僕の癖でそういうとき必ず相手の視線の方向を確認してしまい、そうしてたいていは目が合う。

 目が合った瞬間必ず少しきまりが悪くなる、つまり無意識の詮索心が明るみに出る瞬間であるような気がするからなのだけど、そういうのをわかっていてそれでいてなお目を合わせてしまうというのは何というか業のようなもので、そんな風にしてささやかな違和感を貯め込んでしまう人というのはけっこういると思う。性、という言葉もある。

 通勤時間はだいたい終わっていて、もともと交通量はさほど多くないのもあってほとんどの車が暴れるような速度で駆け抜けていく。アクセルの踏み方にもやはり繊細さというのはあって、だからそうした自動車の唸りを聴くと、その人の本当の呪いの感情を突きつけられたような感じがして怖いので、反射的に少し腹を立てる。無意識にする行為の方により多く内面が現れるというのが単なる通説であるとしても、もっともらしく思えることも多い。人によって自分の行動や動作について外から見る視線を意識する部分がまったく異なるために、必ず人は結果的に他人のあら探しをすることになる。そしてその多くは、知らない方がよかったと思うことで、それを乗り越えるのは恋や愛の感情か、あるいは慣れによる。

 コンビニにしても中途半端な時間なのか、それとも住宅地のコンビニだからなのか客は立ち読みしているふたりだけで、おばさんパートらしき店員がふたりでパンや弁当を棚に並べている。特別食欲があるわけでもなかったので通路を巡りながら目に留まるものはないかと歩いてみたら何も手に取らないままに一周してしまって、雑誌のコーナーもざっとチェックしてからおにぎりの棚の前に戻って二種類選んで、隣の陳列棚のサンドウィッチも気にかかってタマゴとレタスのサンドを取って、スナック菓子のコーナーは見ただけでレジで会計をした。

 お茶を煎れておにぎりふたつとサンドウィッチを食べてしまったら特にやることもなくて、食べながら見ていた雑誌も大して読むところがなくて、テレビを点けてひととおりチャンネルを替えてからまた消した。ベッドに横になって傍らの文庫本を手に取って何ページか読んで、眠くなったので本を閉じて部屋の天井を眺めながら少し考えに耽る。そのうち眠ってしまうと思っていたけどそういうこともなくて、洗濯でもしようかと思ったら二日前にしたばかりで洗うものもあまりたまっていない。それで、マンガを読んだり本を読んだりギターを弾いてみたり、パソコンを起動させて趣味のグラフィックを少しいじってみたけど昼間はやはり気が乗らなくてそんな風にしてお昼を回った。

 そろそろさっぱりしてみようという気になって髭を剃ってシャワーを浴びて出かける支度をした。駅前まで出てお茶をすることにして、商店街をゆっくり歩いていくと涼しい風が吹いてきて、米屋の年を取った猫や八百屋の店番をする猫を見て、建設中のアパートや鰻屋、蕎麦屋、小料理屋、そして古い民家を通り過ぎていく。ここの商店街は消滅しようとしているのかどうか、とてもゆるい共同体のようで、特別地元色を出したりということはなくて、よい意味で常に無限に間延びした感じがある。僕の生活のリズムやスタイルと何だか近しい感じもする。夕方には好きなだけ散歩中の犬を見ることができる。

 カフェオレを注文してから本屋で買った雑誌を拡げ、それから数組の客を何となくチェックしてそうして雑誌を見ながらいつもの癖でまわりの様子にも何となく注意を向けている。ここの店のカフェオレはさほど美味しいわけではない。というか、何かちょっと独特な風味があってあまり好みではない。案外そのうち好きになるのではないかという気もする。

 雑誌もだいたい目を通してしまって、メモを出していくらか考え事をしながら、ときどき関係ない絵や言葉も書いたりして、その間にも店員の様子や他の客の出入りを見たり、オープンテラスの向こうの人通りを見たりする。ぬるくなったカフェオレに口をつけ、口直しに水を含み、メモした分を眺め、考えるのにも飽きてきたところで電話がかかってきた。一度出て掛け直すと伝えてから伝票を取って席を立ったときに、ゆるかな風の流れを感じた。



 駅の改札口の前で待っている涼子ちゃんの姿が見えた。向かっていく途中で目が合ったら困ると思って視線を左右に振りながら少しずつ近づいていって十メートルくらいのところで涼子ちゃんが僕に気がついて手を振った。

「突然呼び出してごめんね?」涼子ちゃんはすごく明るく全然済まなくなさそうな顔でそう言うのでとても感じがよかった。

「や、全然。何しろいつも暇だから」僕はしばらく会ってなかった人と会うときの微妙な照れと違和感でうわずった元気さが前に出てくる。

「そうなんだ。いいね。これから行きたい店があるんだけど」

「うん。任せる」

 恋人同士じゃないと手を繋いだりしないから雑踏のなかでは一緒に歩いているはずの人の姿を見失う瞬間もある。僕はいつの間にか歩くのがすごく速くなっていて人混みを縫うようにしてぐいぐい歩く癖もあるので涼子ちゃんの姿をときどき確かめながら、とても会話ができる感じではなく何とか信号を渡りきってようやく落ち合った。

「すごいね、人」

「そうだね。平日なのにね」

「渉君は人混み嫌いじゃないの?」

「うん。全然平気」

「変わってるね」

「そうかな。どっち行くの?」

「あ、こっちです」

 涼子ちゃんは僕の腕を取って行く先を促して、すぐに放した。

「あれ、そう言えば仕事は、休みなの?」

「あ、うん。それね。やめたの。このあいだ」

「そうか。なるほど」

 僕は大通りに沿って軒を連ねた店々のファサードを見るともなく見たりして適当に誤魔化して、ときどき涼子ちゃんの表情を探ったりしたけれど強い陽射しを受けて眩しそうにしていた。

「あ、お店こっち。渉君知ってるかな」

 そう言って涼子ちゃんは店の名前を言ったけど僕は知らなかった。結局予想よりもかなり歩いて中通りを入ったところにある微妙に古そうないかにも雑居ビルという建物の入り口に着いて、ここ、と言って涼子ちゃんが僕の顔を確かめたのでつられて頷いた。

 古いエレベーターで六階か七階まで行って、そこからさらに階段で半階分上がったところに店はあった。内装はビルの適度に古ぼけた感じを利用した作り方がされているように見える。客の入りはまばらだった。カウンター席の下にぶさいくな顔をした犬が一匹うずくまっているのが見えた。その犬がエレベーターに載ってここまで上がってくる姿を想像したらなんだか可笑しかった。

「よく来るの、ここ?」と僕が訊いたらちょうどメニューと水がテーブルの上に置かれた。涼子ちゃんはメニューを開いて僕の方に向けて置いてから、僕をまっすぐに見て、

「ううん、あまり来ないの」と答えた。「でもなんか、ときどき、今日とかもちょっとそういう気分だったの。犬のいるカフェに行きたいと思って」

「あ、やっぱりヤツは店の犬なんだ」

「そうそう。すごく気むずかしくって、さわらせてくれないの。食べ物で釣ってもダメなの」

 初めての店は必ず落ち着かないので店員の働きぶりや他の客や店のインテリアを半ば義務のように観察して、涼子ちゃんのあたりさわりのない話を聞いたりしつつ、全然その場に関係ないことを考えたりもする。ずっと前に、そういったことをちょっと反省してるんだと言ったら、涼子ちゃんだったか他の女の子だったか記憶が曖昧だけど、渉君はそういう他人のゴシップに対して身を乗り出さないところがいいのよと言われたのでそうかと思って未だに人の話の聴き方には少しぞんざいなところがあるかもしれない。

 とは言ってもまったく聞いてないわけではもちろんないし、そもそも人の話を聞く、というか人が喋っている姿を見るのが好きだと思う。カフェラテとピーチネクターとサラミピッツァが運ばれてきた。ピッツァとカフェラテの組み合わせはちょっと微妙だけどどちらもイタリアなのでよし、とひとりで思ってみた。

 涼子ちゃんもどうぞと言いつつ自分でひと切れ取って、涼子ちゃんはありがとうと言ったけど手は伸ばさず、窓の外の風景を眺めたりしていた。

「そういえば」と僕は新たにピッツァのひと切れを皿に取りながら涼子ちゃんに話しかけた。「涼子ちゃん、まだ前と同じとこ住んでるの? なんか、どこだったか覚えてないけど」

「あ、うん」と涼子ちゃんは目が覚めたように僕の方を見て、住んでる駅の名前を言った。やっぱり僕はわからなくて、わかんないという顔をしたら詳しく説明してくれて、説明を聞きながら、人が住んでいる場所の話も自分がいま住んでいるところを中心にして聞いてしまうから絶対に不便そうに聞こえてしまうけど、住む場所なんてそんなに簡単に替えられるものでもないから慣れの強制力がかなり強く働くはずで、そういえば部屋探しをするときは必ずある一定地域内での人と人とのバランスの関係がシステム化したもののなかでものすごく限定された選択肢を迫られるのであって、初めから割り当てられているのとまったく変わらないのかもしれないなんてことをぼんやり考えて、何となく話し始めたら自分でも途中からつまらなくなりながら喋って、「まあ、どうでもいいことだけど」という僕の言葉で涼子ちゃんが軽く笑って、何となく可笑しいという表情をして、何秒か目が合ったあとに声に出して「そういうのって、すごく渉君だな、っていう話し方」と言った。僕はそれを聞いて嬉しいようなはぐらかされたような感じがして、窓の方を見てカフェラテを啜り、少し冷めてしまったピッツァの最後のひと切れに取りかかった。

 しばらく会話が途切れたようになって、何か話題を探そうとしたけれど面倒になって別に無理に話をすることもないし、涼子ちゃんも何か話したいことがあって切り出すタイミングを計っているのかもしれないからと、水の入ったグラスの屈折の具合を見たり、テーブルの木目を辿ったりするうちに何かを思い出しそうな感じになった。デジャヴュのような、あるいはノスタルジーのようなものについて。途切れ途切れのささやき声を捕まえるようにして辛抱強く進んでいくと初めに鮮やかな赤い色が点ってひとつの名前のよくわからない花になった。そこで涼子ちゃんが僕を見たのが目に入って思考の流れはストップした。何か喋るのかと思ったらまた別の方を向いたので、もう一度続きを思い出してみようとしたけれど、涼子ちゃんの様子の方が気になってうまく集中できなかった。

 打ち明け話を聞くのはあまり得意ではないかもしれない。たいていの打ち明け話はそれを聞く相手がいるということが重要なのであってそれ以上の反応は求めていないと思うのだけど、それでも、何か言ってあげたい気持ちにはなる。でも、そこでうまく言葉が出てきたことがなくて自分で少しがっかりする。相手が初めから何も求めていなかったのだとしたら、そうした内心の動きはまったく余計な考えと言うしかない。いや、そんなことはないと同時に思う。相手に対するやさしさに関わる感情は常に善であっていいと思う。そう考えないと人と話をすることなんてできなくなってしまうのではないか。

 ここで打ち明け話とは秘密あるいは内緒の話とは少し違う。あとのふたつがゴシップの要素を持つのに対して打ち明け話は特別な秘密ではなく、どちらかというと事情という表現がふさわしい。だとすればこちらが持ち得る好奇心などなく、ただ待つのがいちばんよいのだと思う。窓の外の空には一羽の鳥も見えない。何か声に出して言ってみたいような気分になってきた。

「そういえば」と僕は言った。「この間突然今中君から電話がかかってきてさ」

「え、ほんと?」と涼子ちゃんは言った。その瞬間にものすごく涼子ちゃんがきれいに見えて何となく目を逸らした。

「彼も今年から就職だから、いま研修とかしてるらしい。そのうち会おうという話にはなっているんだけど、まだちょっといつになるかはわかんない」

「今中君、もう全然会ってないな」

「あまり変わってないと思う」

「ていうかみんなそんなに変わってないよね」

「うん、まあ。そうかも。オレなんかはもう七、八年は変わってないね。見た目も中身も」

「見た目も?」と涼子ちゃんが挑発する感じと似た表情をしたので僕はまた観察するように見てしまった。

「や、まだ若いんで」

「まあ、気分くらいはね」

「そうかな。なんかまだまだイケると思うんだけどな」笑って答えた拍子にふと煙草が吸いたくなったけれど、灰皿をもらうのが面倒なので諦めた。



 かつての仲間たちは大学進学や就職のタイミングでほとんど離ればなれになったけれど、最近になって近くに集まってきた。相手によってノスタルジーが生じたり生じなかったりして、それでも昔話をする頻度は増えた。同じ記憶を共有している相手というのは安心を生む。自分が親しいと感じる相手の多くが日常的には存在してないわけで、そうしてできた距離は案外簡単に埋まってかつての互いの関係とは別の関係が出来たりもする。

 当時はすごく仲がよくて、それでも二度と会うことはないとかなり確信をこめて思う相手、つまり、同窓会のような集会に出かけていく決心がつかなければ偶然接点が生まれることは考えにくい相手について当時の付き合いをかなり鮮明に覚えている場合があって、そうした記憶は記憶のうちでも純粋記憶というか、実際のものからスライドしたものに変わってしまっているかもしれない。しかし、過去の記憶が過去のものでしかないということをきちんとわかっている分にはそれが理想化されていようと特に構わないのではないか。人はいつでも罪悪感を持ちすぎる。

 自分の記憶のなかに、自分の姿がある場合とない場合がある。ない場合というのは場面そのものの記憶で、昔の自分がいる記憶は頭のなかでつくり上げたものかもしれない。少なくとも編集し直したようなものなのだろう。映像化されたものは記憶として残り易い。夢を現実にあった出来事と混同しながら記憶しているということもあり得るだろう。

 春についての記憶を増幅させて記憶しているということはより一般的にも言えることで、自分が物心ついてからの記憶の総量からすると、人生は案外長いものかもしれないと思える。嫌なことやヘヴィーな時期はそのなかでは大した部分を占めていない。もちろんそうじゃない人もいるだろう。ともかく、ノスタルジーが感傷的に現れるのは年とともに出会いの機会が減っていくのが普通だからである。それでも強制されるものが減っていくという点では年を取るのは実にポジティブなことだと思う。特別悪い記憶というのではないのだけれど思い出すと体がむずむずしてくるような若さによる言動はフラッシュバックのようにして甦ることが多く、そうした際にも年を取ってよかったとほっとする。

 自分の人生においてはっきりしたターニングポイントがあったと感じる人はどのくらいいるのだろう。それが本当に分岐点であったのかということは結局わかることではないけれど、かと言ってそう感じる人が自分の人生をドラマティックなものに仕立てようとしているという非難は不当なものだと思う。というか、自分の人生をドラマティックに感じるというのはひとつの能力だ。もう一度繰り返せば、人はいつでも罪悪感を持ちすぎる。

 デスクトップのアイコンをクリックしてメーラーを開いてメールチェックをする。仕事関係のメールが二件と、友人から一件、他に何件か必要悪のメールが届いている。それらにざっと目を通したついでにブラウザで世界の情勢についても見てみるが、特によいニュースはないようだった。目の疲れを感じてモニタの電源を切り、机の上のスタンドの明かりも消して、目の前のカーテンを左右に開いた。

 マンションの非常階段の明かりはおそらく防災上の理由で消えないので、同じような高さの細いマンションが建ち並んでいてすぐ近くは明るい。薄明かりの向こうには暗い海とそこに浮かぶ光の粒が拡がっていき、そうした様子を眺めているとき、それが眠っている夜の光景に見えているのか、それとも自分と同じように夜に蠢く人々を思い描いて活動的に見ているのかわからないが、本当は多くのことと同じようにこれもまた両方なのだと思った。人は道端ですれ違う以外にも常にすれ違っている。すれ違うその瞬間に接点が生まれるかどうかは偶然のことかもしれないが、どこかへ進んでいく限り、誰かと必ずぶつかるのだと信じて生きるのがいいと思う。



 黙って上を見上げている。しばらく互いに口をきかなかった。うまく声を出せないような気がした。そのうち彼が体を後ろに倒して完全に仰向けになったので僕も真似をして、顔に刺さる葉の感触に慣れると草の匂いがしてきた。空の星の下で地に横たわって、眠る緑の香るなか、ほとんど何も考えずにまっすぐに天を睨み、ときどき宙に吊されるような感覚を通り抜け、このまま眠ってしまったらいいのにと願っても、意識はますます冴えてきて夜の寝息を聞き分けようと耳を澄ました。

 目を閉じて咳をひとつしたら、彼が口を開いた。

「なあ、渉」

 僕は亮介が目を閉じて喋っていると思った。

「うん」

「こうやって自然に触れるようなことをしていると、なんか耐えられない気分になって来ないか?」

「亮介が来ようって言ったんだけど」

「だからそういうことを確かめに来たんだよ」

 僕は返事をしないで相づち代わりに息を吸って吐いた。少し間があって再び亮介は話し始めた。

「どうしてこう、自然のなかに来ると、センチメンタルな感じになるんだろうなと思ってたんだよ。で、来てみたらやっぱりちょっとそういう気分なんだよ」

「そんなのオレもだよ。もう、未来とか宇宙とか大地とか、そういうことばかり思い浮かんでる」

「そういうことじゃなくてさあ、いや、そういうこともそうなんだろうけど、それだけじゃなくて」

 僕はまた目を閉じた。

「どういうことかっていうと、……なんかとにかくいろいろ思うわけよ」

「なんかさっぱりわかんないんですけど」

「こういうことを特別に感じるのは人間だけなんだろうってこと」

「自然を感じること?」

「そう。自然に対して感動するということはだな、なんか記憶とかには関係ないと思うのよ。ノスタルジーではないと」

「そうなの? めちゃめちゃ昔のこととか思い出すけど」

「すごく大きい意味では全部ノスタルジーなんだけど、それってむしろ遺伝子レベルの話であってさ、例えばオレが都会に育って小さい頃に一度も夜の森とか行ったことがなくて、大人になってからキャンプとか行ってそういうのを体験したとしたら、オレには頼るべき記憶はないはずなのに、きっと何かしらセンチメンタルな感動を覚えると思うんだよ。こういうことって知識とは決定的に違うところから生まれているはずだから、純粋な感動なんだよ、そういうのは。だからそんな誰でも感じることを感じるのは恥ずかしいだろ?」

「感動したくて来たんじゃなくても感動しちゃうから?」

「誰もが感じることっていうのは、完全に本物か、完全につくり物かっていうことだからさ、例えば本当はオレたちがいま見上げている視界のなかに見える木の影なんていうのは」僕は目を開いた。

「人間が植えたものかもしれないし、そうじゃなくてもこうやって公園として囲い込まれているっていうだけである意味自然ではなくなっているのに」

「ああ、なるほど。そうなのに、自然だという風に感覚が受け取ってしまって感傷を引き起こしていると」

「そう。それにしても、やっぱ星とかいいよな」

「そうだね」

 そう応えて、彼の最後の言葉で今日の記憶がもしかしたら感傷的にならずに済むかもしれないと思った。彼は感動することを耐えられないと表現したけれど、彼の描く絵や彼のうたう歌からは僕はいつも自然を感じる。彼はそういうことを純粋に愛している人だと思っていたし、いまもそう思っている。本当に彼が言いたかったことは、もしかすると、その自然をひとり占めしたいということなのかもしれない。



 僕は思い出した。部屋のなかで枯れていく花。初めその花は大きな赤いつぼみだった。花の生は日々の着実な移ろいに近しく具体的だが、それでいて変化の速度は決して目に見えない。ある日それはつぼみという存在から花という存在へあいだを飛ばしてスイッチひとつで切り替わる。起きたら咲いていた、帰ってきたら咲いていた、気がついたら咲いていた。花になった花はしばしの完全無欠の姿のあとに、はっきりとかたちを崩してしおいれていきやがて枯れる。緩慢な死と呼ぶには花はいつまでも生きているように見える。

 つぼみのあいだ、僕は「つぼみのある部屋」に暮らした。花が咲いて、「花のある部屋」になった。花のある部屋で目覚め、一日を過ごし、あるいは部屋に戻ってきてやがて花の存在に慣れ、そうした頃に花は枯れ始め、部屋の色は少し翳る。それが錯覚だとしても花は、そのような錯覚を起こさせるだけの存在ではあるまいか。

 枯れた花の描写。かつて赤というよりもピンクと紫の中間の色だった花弁は赤黒くにごり、干からびたかたまりとなって太い茎の先に引っかかっている。不思議とグロテスクではないのは元の花のイメージによるものか、それとも乾いた質感によるものだろう。少し触れただけで褐色の干からびた花弁はこぼれて床に落ちる。そこにはすでに無数のそうした残骸が散らばっている。花の重みに曲がった茎はよく見るとうっすら茶色がかっており、葉はねじれて下を向いている。これが花にとっての死の状態であろうか。

 僕は花の死のその先を知るためにいつまでも片づけなかった。花はやがて、死であることすらやめるだろう。



 公園に人影はまばらだった。亮介とその恋人の紀ちゃんと僕は適当な開けた草むらを選んで互いに少し離れて三角形を描くように座った。それはたまたま三人だったから三角形であって、四人だったら正方形と言ったろうし、十人だったらまさしく円を描くようにと表現したに違いない。

 そんな具合に座ると互いに互いの正面には誰も座ってないことになるので誰かが喋ったり自分が話しかけたりするたびに、他のふたりの一方から他方へと視線というか体の向きを変えて確認したりする感じになる。僕は正面よりも少し右に寄った、紀ちゃんの座っている後ろの方でボールを蹴って遊んでいる子供たちの様子をぼんやり見ていて、亮介と紀ちゃんはふたりで何かぼそぼそと話している。時計は確かめなかったがだいたい午後の二時から三時くらいのあいだで、陽射しはまだかなり強かった。風はほとんど吹いていない。黙っていると鳥たちがけっこういるのがわかってきた。犬の散歩にはまだ早い時間だ。

「ねえねえ渉君」と紀ちゃんが話しかけてきたのでそちらを向いて、うん、とほとんど声に出さずに応える。

「渉君は神様っていると思う?」

「……神様?」

 僕は質問の趣旨を推し量るように紀ちゃんの顔を訝しげに見て、説明を待った。

「あのね、いま亮介君と話していたんだけど、このあいだ渉君と一緒にここに来たんでしょう? 夜に」

「うん。星を見に来たのよ」

「そのとき亮介君はね、神様がいるのかもと思ったんだって」

 僕は亮介と目を合わせたが、亮介は特に表情を変えなかった。

「というのはね」と紀ちゃんが続きを話す。「もともとわたしがね、神様いると思ってるの」

 紀ちゃんは女の子座りをして膝の先の草をむしりながら、ときどき顔を上げて僕の方を確かめながら話す。僕は視線をあちこち替えながらいつの間にか体育座りのような格好をしていて、それに気づいて足を崩した。

「というかね、神様が好きなの。お話とかで悪いことをした人間を罰したりするのとか、人間に化けて困っている人を助けてあげたりとか」

 僕は、宗教とは関係ない神様のことだね、と言おうと思ったがやめた。紀ちゃんの目を見ながら頷いて続きを促す。

「それはね、昔の人が超自然的なことを擬人化してそれが神格化されたなんていうことじゃなくてね、やさしさなんだと思うの」

「やさしさ」と僕は繰り返した。

「うん」と言って紀ちゃんは僕を見たあと亮介の方も見た。亮介は黙って聴いている様子だった。

「目に見えないことっていうのは誰も確かめられないから、だからなくてもいいやってものじゃないことって、あると思うのね。

 例えばヒトのためだけじゃなくて、鳥やリスの住む場所がなくなったら可哀想だから木を全部切ってしまわないで半分くらいは残しておこう、とか、河や海を汚したらお魚が可哀想だよ、とか、みんなヒトの立場で説明できることを違ったふうに言うことってできるでしょ?」

「つまり、木を全部切っちゃったら新しく生えてくるまでに時間がかかって困るから残しておこう、っていうのが人間を中心にした立場だということか」

「そう」紀ちゃんははっきりと頷いて「でもわたしが言ったような見方の方が何となくいいじゃない? それはもちろん言い方をすり替えただけかもしれないけど、わたしはそういうのっていいと思う。ちょっと言い方変えただけであたたかい感じになるならね、それを偽善とか欺瞞とか言う人がいたって関係ないし、やっぱり、結果的には人に対してやさしい気持ちを持つことができると思うの」

 僕は曖昧に頷いた。手に触れた草の感触を確かめるように掌を目の前にかざして見た。

「でもね、ヒトだけでそういうやさしさに気づけないこともやっぱりあると思うのね。

 そういうときのために神様がいるの」そこで紀ちゃんは僕の顔をまっすぐに見た。

「神様はいつも天から人間たちの様子を見ていて」

 僕は神様がたくさんの雲のあいだから下界の様子を見ているところを想像した。僕の想像した神様はなぜか天使の輪を付けていた。髪は白くてちりちりでてっぺんの部分が禿げていてすごく年を取っている。そうして古代ギリシャみたいな格好で。日本人だったらだいたいみんなこのようなイメージになるのではないかと思う。

「それで人間たちが悪いことをしないように見張っているの」

 僕はこれだけたくさんの人間がいるのだからいつもどこかで誰かが悪さをしていて神様はのんびり見張っている暇もないんじゃないかと思ったが、別に神様もひとりだけとは限らないかもしれないと思い直した。

「それで、悪いことをした人がいたら?」と僕は訊いた。

「もちろん天罰を下すんだけど、雷とか嵐とかを起こして。

 でも、そういう力でねじ伏せるようなことだとヒトは神様を怖れるだけで敬わないかもしれないでしょ。だから神様はヒトの心に訴えるの。夜の空にたくさん星を浮かべたり、雨上がりに虹を架けたり、注意深いヒトには木々の緑のうつくさを教えたりして、自然を通した感動のなかでヒトは神様の存在を受け入れるの」

 ああ、そういうことかと僕は思った。それなら神様はいるのだと僕も思った。僕はただ短く言った。「なるほど」

「なるほどでしょう?」

「うん」

 僕は何となく振り返って小径の方を見た。老夫婦が並んで歩いている。おじいさんの方は腰が曲がって歩くのが大変そうだったがおばあさんはしゃんとしていて、川の方を指さしたり木の梢を見上げたりしながらおじいさんに何かをしきり喋っていて、僕のところからはおじいさんがそれに反応しているのかどうかまではわからなかった。体の向きをまっすぐに戻して、下を向いてそれぞれ黙っている亮介と紀ちゃんを見て、それから紀ちゃんの後ろの方で、いつの間にかボールを蹴るのはやめてよくはわからないけど走り回っている子供たちを見た。

 そもそもなぜ三人で公園に来たのかというと、煙草を買うために外に出たらちょうど家の前をふたりが通りかかって、散歩の途中だというので少し足を伸ばして少し離れたところにある大きな公園まで行こうということになった。亮介の部屋と僕の部屋は歩いて十分くらいの距離で、それでも家の前でたまたま会うことなんてまずないから、僕はそうした偶然をとても愛する。

 我々が三人で会うのはそれほど珍しいことではないが、三人で何かひとつの話題で盛り上がって喋るようなことはまずない。たいていは僕と紀ちゃんが話し、亮介がそれを聴いているのか聴いてないのかただ黙っているのが普通で、そうでなかったら僕と亮介が喋って紀ちゃんはぬいぐるみや猫と遊んだりして、僕がときどき黙っていると紀ちゃんが何か二言三言亮介に話しかけたりしているが、とにかくそんな具合で、三人とも黙っていても別におかしくはない。

 目の前に人がいても話をしないでただその人を見ていたり、そのうちその人の存在に慣れてまわりのものに目がいくようになると、ひとつひとつのものを見る目が少し普段よりも注意深くなる気がする。犬を散歩させている情景をうつくしいと感じたり、子供のわめき声を嬉しく思ったり風が木の葉を揺らすのに耳を傾けたりする。そして、その人とその場所と時間を共有できることを誰かに感謝する。誰かというのは例えば神様のことだ。

 寒い夜にひとりでいるとき、僕は同じようにひとりきりで震えている誰かのこと想って、その人のために祈ろうとする。その心の動きは何なのだろうと考えるのだが、それもまた、紀ちゃんのように神様の仕業と考えるのもよいのかと思う。それで考えを放棄したということではなくて、そういう考え方があってもいいというか、そういう考え方をする人がいるという事実がすごく救いになると思う。

 そうじゃない、と言う人もいるかもしれない。世界はそんなにうつくしいものじゃないよ、と。それはそうだろう。世界は僕が見たり思ったりしているものとはいつも少し違って確実に闇をその内部に含んでいて、僕に見えている部分というのは巧みにそうした暗部が隠蔽されているだけなのかもしれない。だったらそれでも、無知のまま生きるのでも僕はいい。知らない方が幸せだからということ以上に、紀ちゃんのような考え方をする人がいる世界は、たとえそこにどんな闇を孕んでいようとも、実に愛すべき世界ではなかろうか。それはうつくしい世界ではなく、やさしさのある世界だ。

 視界の隅で亮介が体を後ろに倒しながら足を伸ばして仰向けになったのが見えたあと、このあいだの夜の光景が頭を過ぎる。亮介はそのまま体の向きを変えて僕に背中を向けた。僕と紀ちゃんはその動きを見守ったあと自然と顔を見合わせて紀ちゃんが声を出さずに笑った。僕も小さく笑みを返した。僕は亮介の姿を眺めているような感じの延長のままそのあたりの草むらを何となく見ていて、ほとんど何も意識して考えたりしないでいると、遠くの方から自動車のエンジンの音が聞こえてきたり、子供たちの声が突然耳に飛び込んできたりして、川の流れる音が聞こえてこないかと思ったが、ここまで聞こえてくるほど流れが強いわけでも水の量が多いわけでもないのはわかっていた。近くの木にカラスが来ているようだった。いつの間にか時間が過ぎているらしく犬を散歩させている人が行き過ぎたり、立ち止まって話をしているのが見えるようになってきた。

 紀ちゃんが立ち上がって僕のすぐそばまで来て差し向かいに座った。

「亮介君、寝ちゃったかも」

「うん」

 会話の予感だけで途切れて少し間が出来て、その間を僕はすごくいいと思ったが、何か声を出したくなった。

「や、いいね、なんか。こういう時間が」

 それで紀ちゃんは本当に嬉しそうな笑顔で頷いたので、僕はこの前会った涼子ちゃんの笑顔を思い出してやっぱり紀ちゃんも可愛いと思った。紀ちゃんという人は、相手のないやさしさを発することのできる人だ。誰にも向けられていないやさしさは誰かのもとに届くこともまわりまわって自分に返ってくることもなくてただやさしさの事実だけがそこにある。それはほとんど彼女の存在と重なるものかもしれないが、それとはまた違うような気もする。すべての人に対してやさしいということは、本当は誰も愛していないことの裏返しなのではないかということを昔から考えていて、それはある側面ではもっともであるようにも見えるけれど、やはり間違った見方なのかもしれない。単に僕がやさしさを、対象に向けてしか発することができないためにそう考えるのであって、やさしさは紀ちゃんの考える神様のような純粋な概念、概念という言葉すらふさわしくない、何か無形のかたまりのようなもので、それがふわふわと宙に浮かんで漂っている。そんな世界はとてもうつくしいと思う。

 僕は紀ちゃんの方を見た。うまく言葉が出てこなくて、目が合っても静寂ではない沈黙が続いた。紀ちゃんは亮介の方を向いていたが、亮介を見るというよりは、少し離れたところの木立や人の行き交いを見ているようだった。声を出そうとして一瞬つかえてから僕は言った。

「なんか、オレも神様いると思えてきた、というか、いままでも漠然とそう思ってきたような気がする」

「でしょう?」と紀ちゃんは笑って、それ以上神様のことにはこだわらなかった。僕は神様の話をもっと聞きたかったけれどすぐにどうでもよくなって、なぜか紀ちゃんの兄妹の話になった。

「弟はね、生意気な感じでね、そういうとこも可愛くなくはないんだけど、妹はもう、めっちゃ可愛いの。三つしか離れてないとは思えなくて」

「紀ちゃん、いま何歳?」

「二十一」

「じゃあ妹って高校生くらい?」

「そう、三年生。受験生なの。でもね、なーんかのんびりというかぼんやりしていて、中学生にしか見えないかなあ」

「じゃあ三人兄妹か」

「うん。渉君は? 弟とかいそう?」

「や、オレは一人っ子」

「えー、見えない」紀ちゃんが僕の顔を覗き込んだ。

「そうかな」

「うん。なんか落ち着いているよ」

「だから一人っ子だからじゃない?」

「そうかなあ。人にやさしいし」

「でも本当はね、人の心がよくわからなくて、内心ではあれこれ考えるんだけど、どうすれば人にやさしくできるのかってわからない」

「それは違うと思うよ。相手のことだけ考えたってダメだよ」

 そうだ、と僕は思った。このことはさっき考えてもうわかっていたはずなのに、会話の流れのなかでほとんどでまかせに近いことを言ってしまった。

「そうか、そうだよね」と僕は言った。僕は少し動揺し、少しがっかりし、それからひと呼吸置いて、でも間違ったけどいいのだと思えた。紀ちゃんはすごいと思った。

「人の心なんて、そんなのわかるわけないと思う」と紀ちゃんは言った。「というか、わたしは別にそんなの知りたくないもの」

「知らない方がいい?」

「うん。その方が面白くない?」

「というと?」

「別に裏表があるとかじゃなくて、そういうこともあるかもだけど、それとは別にね、話をしたり一緒に時間を過ごしたりしただけじゃその人の本当の部分というか別の部分というのは見えてこないのが当たり前じゃない?

 だから何度も話をしてそういう見えない部分を見ようと頑張るんだけど、やっぱりよくわからない。だから人ってすごいなって、思えるから、ひとりで山に籠もったりとかしようなんて思わないし」

「山?」

「お寺とか。そういうことしようとするのって、やっぱり自分のことを見つめ直そうっていうことでしょう? でもわたしはそんなに自分のなかから何でも出てくると思わないから人に会ったり、旅行に行ったりしたいと思うの。もちろん、渉君のように小説書いたりする人なら、そうじゃないのかもしれないけれど、直に触れたいという欲求にはね、自分で敏感でいたい」

 そう言って紀ちゃんは伏せていた目を上げて僕を見て、少しうるんだような笑顔をつくった。

 僕は、なるほどと言って、紀ちゃんの言葉に胸を打たれたのか、反論をしようという気持ちなどまるで湧かなくて、でも頭が言葉についていってない乖離の感触で頭のなかがぐるぐると回っていた。

「なんか、オレも眠くなってきたなあ」と僕は言った。

「どうぞ、お休みください。貴重品がございましたら、こちらでお預かりします」

「何でだよ」僕は意地悪っぽく笑ってから体を倒して頭の後ろで手を組んだ。草が手に触れ、刺した。またこのあいだの夜のことを思い出して目を閉じてみて、でも目を閉じた世界も明るいままで、暗かった夜のことを一生懸命に想像した。あのとき亮介はセンチメンタルという言葉を遣った。僕もそのときはそうだと思った。でもそれは何か夜に関係のあることだったのではないかといまは思う。いまここで、ノスタルジーもセンチメンタルも関係がなかった。ただ目を閉じた向こうに光があった。目を閉じたなかにも光が溢れていた。記憶を探っていこうとする過去への視線は光のもとでは生まれてこなかった。いましかないということがどういうことを指すのかは曖昧なままで、それでもこの時間があって、時間の共有があって、そのとき反対にひとりという人の存在を思い、それを強く肯定する力を持てるということなのだ。誰も彼もがひとりの人生をひとりきりではなく生きていくのだということだ。人の心は知らなくてもいいと紀ちゃんが言った。思いこみの目で見た世界は人に触れると一瞬にして変わる。僕はまだ本当には彼女の言葉もわかってないだろうし世界のことについてもわからない。亮介の言っていることもわからない。こうしたことをわからないと思っていることが何かのきっかけになることはないだろうけれど、きっかけを必要としないであるがままを受け入れていけるようなそんな境地に達する気配もさっぱりなく、何かを見つけよう見つけたいという希求がやさしさを以て、無理せず実現できるのはどういったことだろうと考える。それで、そんな考えには答えが出ないか、答えなどないかだ。

 目を閉じた世界には光が溢れている。近くを流れる汚い川の水にもその光は写っているだろう。その光は反射されて壁や空に照り返し、空を飛ぶ鳥の目にも留まるだろう。鳥は眩しいと感じるのか。カラスが川面の照り返しが眩しくてうっかり木のなかに突っ込んだりしたらそれを愛おしいと思えるような気がする。それはそんな直接的な表現による感情ではなくて、もっと単純な、おかしみを肯定的に遣ったような言葉で、猫のあくびの最中の様子や、転んだ子供が泣き出す瞬間を捉える。

 いつの間にか眠ってしまって、夢のなかでは静かに雨が降り出していた。

 空を見上げてから、持っていた傘を広げて頭の上にかざした。それに合わせて少し雨足が強くなったようだった。ひとけのないまっすぐな通りをゆっくりと歩いていく。当てがあるのかないのか、そこで僕はほとんど何も考えずに、夢を観る視点に強く寄って、歩きながら歩く自分を見ている。足元を見る映像とそのとき足元に視線を投げかけている自分の映像が別のどこかでひとつの場面として自然に再生されているような気がする。真横から見ていると、歩き続ける僕の背景に街並みをスクロールさせているようなもので、その歩みは、ただどこまでも歩き続けているようにも見えたし、歩くにしたがってどんどん目的地が遠ざかっているようにも見えたし、ほとんど止まっているようにさえ見える。

 雨足がさらに強くなってきて、傘に当たって撥ねる雨の音が響き、道路全体が雨に濡れ、自然と歩く速度が少し速くなった。

 どこかの路地から猫の鳴く声が聞こえてきたような気がしたが、立ち止まることはできなかった。こんな雨のなかに猫がいるはずがないと思った。後ろを振り返ってみたら、はるか後方で自動車が一台横切るのが見えた。信号機の色が替わったのを見てから前を向いた。別に孤独の世界なんていうのはないんだから、と僕は思った。そういえばずいぶん前から何も食べてないけれど、お腹は空かないのだろうか。自分の空腹はすごくどうでもいい他人事だった。他人の心まではわからないし、まして他人の胃袋のことなど知る由もない。

 僕は空を見上げた。真横から見ると、斜め四十五度くらい上を不自然に首を曲げて、それでも歩く速度は弛めずに見上げて、ときおり自動車が来ないかどうか心配で前方にさっと視線を投げる。

 雨の日、空はただの空になっている。雲の切れ目や濃さの違いがなくて、足元の世界はうっすらと暗いけれど、空そのものはほの白く光っている。鳥の飛ばない空。猫のいない街路。子供たちのいない公園。雨は不在を意識させるが、本当は、不在はただの一方の可能性であると考えたい。永遠の消滅は自然のリズムのなかでは起こり得なく、すべてはかたちを変えながら移ろい繰り返し、似たような別の出来事が積み重なっていく。それが世界の秘密だ。

 歩きながら、隣りに誰か人がいたらどうだろうと思う。夢のなかだから、誰かの姿を念じたら出てくるんじゃないかと思ったりする。でも僕は具体的には考えられなかったので、想像のなかで想像の女の子が傘を差して隣を歩いているのを見る。僕たちはまったく口も利かず、僕はときどき速く歩きすぎていると思って速度を弛め、まっすぐ前の方は見ないで左右の家並みをしつこいくらいに眺めてそこから何かの痕跡を読みとろうとする。晴れた日には猫が入っていくのを見た家と家のあいだの壁を、通り過ぎる一瞬を合わせて覗き見る。人は、猫は、どこにいるのだろう。傍らの女の子はいつの間にか消えてしまった。彼女の足音も思い出せなかった。

 道の遠い先が前よりも霞んでいるような気がする。空の白さがそのあたりで混ざり合っているようだ。やがてこの雨も上がるのだろう。そのとき、向こうの空から晴れてきてほしいと願う。そこに虹が架かることだってあるのだから。僕は少し歩く速度を弛めた。何かを思い出せそうな予感がする。デジャヴュのような、あるいはノスタルジーのようなものについて。何か遠い記憶が僕を呼んでいる。目覚める瞬間に、虹が見えた気がした。

 僕は目を開いた。目の前の世界は光で溢れている。空はうっすら青く、白い雲がそれを彩る。僕は体を起こして、傍らの紀ちゃんや亮介を見た。まだぼんやりしている。

「あ、起きた」と紀ちゃんは言った。紀ちゃんは僕が見た瞬間には、鼻歌のようなものを小さく歌いながら、草をむしったりしていて、つまり何もしていなかった。

「オレ、けっこう寝てたの?」

「ううん、ちょっとだよ。十分とか十五分とか」

「そうか」

 僕はまだはっきり世界に馴染めないまま、亮介の靴の裏を見るともなく見続け、相変わらず子供たちが嬌声を上げながら走り回ったりぶつかってじゃれ合ったりしているのを感じたり、散歩中の犬をじっと見たり、風が吹けばいいのにと思ったりしている。遠くの自動車の音が聞こえてきて、それが遠ざかるにつれて意識がはっきりと戻ってくる。僕は紀ちゃんを見た。見ていると紀ちゃんが顔を上げて目が合って、紀ちゃんは顔を傾けてにこりとした。僕は顔の表情を変えることができず、それにうまく応えることができない。

 さ、と言って紀ちゃんは立ち上がった。横たわったまま身動きしない亮介の顔のそばに屈んで、少し眺める様子をしたあと、体を揺すって、「帰るぞ」と言った。亮介はしばらく反応しないように見えたが、紀ちゃんがそのまま見守って、それをさらに僕が見守っていると、体を動かした拍子に顔がこっちを向いて、その目は閉じたままで、また動きが止まったかと思うと、ぶるっと震わすようにして、もう一度顔の向きを変え、また戻ってきて目が開いた。そして目の前の紀ちゃんに気がついて、「帰るよ」と言われて僕にも気がついた。「あー、すげー、よく寝た」と呟いた。僕もようやくそれで目が覚めて、両腕を上に挙げて伸びをして、立ち上がってズボンを手で払った。一匹の犬が、短い足を小刻みに動かして走ってきて、少し離れたところに飼い主が見えて、犬に気がついた紀ちゃんがやさしい笑顔のまま立って近づいていくその後ろを、僕もついていこうとするそのとき、もう一度空と木を見た。


(完)

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