HAZE DAYZ
一般的なご家庭とはかけ離れた不遇の中学時代を経て、高校で自分がどれだけ腐った人間か知った私は、入学二週目の林間学校的なレクリエーション中に崖から飛び降りて死んだ。
別に悲しみにくれたとか、そういうことは一切なかった。あぁ、そうなんだ、と思って吹っ切れたら自然にそうしていたのだ。
初潮が来ると同時に風俗店に叩きこまれて、周りがみんなそんなもんだと思っていて。
ともかく。
生まれて初めて味わう『自由』は一瞬で終わり、あの世に行ったら悠々自適な生活を送れるかと思っていたのだが衝撃の事実が私を待っていた。
案内人のババア曰く、どうにも『徳』とやらが足りないので私はあの世にいけないらしい。不埒な事しかしてこなかった人生だった。素直に納得した私は、徳を貯蓄するための仕事を斡旋してもらうことにした。
こうして、私は『寂し狩り屋』として忌み嫌った現世へと再び舞い戻ることになったのだ。
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この仕事を選んでから、既に三年が経った。
寂し狩り屋は、私の想像を上回るメンドウくさい仕事で、だけど私にとっては昔取ったなんとやらでこなせる楽な仕事でもあった。職務内容は至って単純。生きた人間の寂しさを解消すれば、そいつの持っている徳の一部が私の給料になる。
「そろそろ、他のエサを探すかなぁ……」
夜の街。ビルの屋上をスキップで飛び移りながらぼやく。自分のために、次に寂しさを狩ってやる哀れな人間を見つけなければならない。
人間の寂しさを『狩る』ために必要だからか、寂し狩り屋は生身の肉体で現世に戻ることになっていた。空を飛べたり、私が姿を見せるつもりの相手以外からは見えなかったり、肉体は生きているのに壁を通り抜けられたりする。
ほどよく飛びながら壁を通り抜けていく途中で、私は足を止めた。
ただの廃ビルだ。屋上に続く入り口はカギがかかっていて、廊下も汚く、電気も通っていない。長年使われていないのが一目で分かった。
だというのに、屋上から続く階段の踊り場には本棚代わりのメタルラックが設置され、山のように小説が保管されていた。
「ふぅん……」
生前は本なんて読まなかったし、今も興味はなかった。興味があったのは棄てられた廃ビルに息づく、誰かの気配。
その中の一冊を取り出して気晴らしに読みながら、私は屋上の柵にもたれかかった。
生前から好きだったピースというタバコを一本咥え、愛用のジッポで火をつける。
手元なんて見なくても出来るなれた動作だけど、自慢の黒髪だけは焦がさないように気をつける。商売のタネでもある自慢の黒髪は、死んでいるというのにご丁寧に傷んだりこげたりするのだ。不便この上ない。
タバコを咥えたまま、灰を落とさないように気をつけて、活字を追う。気づいたら指で髪を巻いていた。かなり集中していたらしく、休憩がてらドアを蹴り破って屋上に出て、道行く人々を観察する。
寂し狩り屋の目には特別なものが二つ視える。
一つは頭上に浮かぶ数字。徳の量だ。数字の大きさはまちまちで、たまに「おっ」と気を引かれるくらいのおっさんがいたりする。生前の職場のせいか、スーツを着たおっさんはみんなエロイ店に通うヘンタイに見えるのだが、意外にもそういう人間の方が徳を持っていたりする。
二つ目は体の周りにまとわりつく煙だ。まるでタバコの煙のようにふわふわと漂っているその色が黒いほど、そいつは寂しさとやらを抱えているらしい。つまり、私の給料査定に大きく貢献してくれるということだ。
寂し狩り屋の仕事は、その名の通り誰かの寂しさを狩り取って、埋めてあげることだ。
期間は一ヶ月。その間に解消した寂しさを係数に、本人の徳と掛けあわせた分が、私の収入になる。
つまり徳が高く、より寂しい人間から、できるだけ寂しさを解消してあげると、私は早くあの世に行けるのだ。
今居ついている男の部屋も、明日で三十日目だ。
一月を過ぎて関わってもマイナスにはならないが、プラスにもならなくなる。
趣味の悪くない男ではあったけれど、今夜は涙の別れを演出しながら、私で作った穴を埋めてやるとする。まぁ性的な意味でだが。
さすがに感情は動かなくなってきたが、いい加減オッサンばかりを相手にするのにも飽いてきた私は、出来るだけ若い、それも淫らな店とは関わりも無さそうな人間を探す、探す、探す。
「……居ねぇなぁ。こんな時間じゃ無理もないか」
腕時計を確認すれば、時間は日付をまわるところだ。週末ではないこの時間、徳の高い人間がうろついている可能性はかなり低い。
昼夜逆転している生活を改めて、昼に学生でも漁るか……?
吸い終わったタバコを足で踏み消しながら考えこんでいると、不意に背後から物音がした。
ゆっくり振り返ってみると、こんな時間には不似合いな純朴そうな少年が立っていた。
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「それ……ボクの……?」
少年が指しているのは、私が右手にもっている、彼の隠れ家の本のことだろう。
こんなところに本が貯めこまれていたのは気になっていたが、その持ち主が好みの少年とは、これはとんでもないラッキーだ。
しかも、その少年の頭上に輝く徳の数。そして体にまとわりつく墨汁のような黒い煙といったら!
「その本棚は、キミのもの? 勝手に読んでごめんね」
「いえ……こんなところに置いといたのは、ボクですから」
ポケットからタバコのボックスを取り出して、次の一本に火をつける。
見たところ少年は中学生、それもついこの間まで小学生だったようだ。こちらもガツガツいかないように心がける。
「面白かったよ。続きも読ませてもらっていい?」
必死にコクコクと頷く少年の頭を二回だけ撫でて、シリーズの続きを一冊引きぬく。
さて、余裕ぶった態度をとっているものの、純朴な少年と会話した経験は残念ながら無い。タバコとコーヒーくさいおっさんを慰める言葉しか持ってない美少女だなんて、私もつくづく残念者だ。
だから私は、調子に乗ってミステリアスを演じて見ることにした。
「この世に人間以外の生き物がいたら、面白いと思う? 怖いと思う?」
階段を下りながら少年を見上げて問うてみる。
一瞬だけ胸に視線が刺さったことを確認して寄せてみると、慌てて「楽しいと思います」という解が返ってきた。笑みを得ながら手を振って別れを告げる。
「またね」
彼とは必ず、また会える気がした。自分とは思えないほど素直な言葉。またね、なんて、商売の道具として使う言葉でしか無かったのに。
後になって思い返して気づいたことがある。
なんだかんだいって、学生という存在に手を出したのは、男女を問わずそれが初めてだったこと。
そして、同じ誰かに会いたいだなんて思ったのが、生まれて初めてだったことを。
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「私ね、一回死んでるんだ」
次に会った時、きれいになっていた床に隣同士座り込んで(正確には私が無理矢理横に座ったんだけど)本を読んでいる最中に、私は何も考えずに正体をカミングアウトしていた。
自分が何を言ったのかに気づいて、ちょっとドキドキした。寂しさを体で埋める時、相手がどんなイケメンだって、こんな気持ちになったことはない。そのドキドキの中に『怖さ』が混じっていたことに気づいたのはだいぶ後だ。
「じゃあ、彩峰さんは、死んじゃったのに、どうしてここにいるんですか?」
シン……あぁ、言ってなかったけれどもこの子の名前だ。ともかくシンがこの時点で私の言うことを信じたのかはわからない。
だけどここにいる意味があるから、私がそんなことを言ったのだ、ということは汲んでくれたらしい。荒唐無稽な私の言葉を信じてくれたのが、賢い彼の処世術だったのか、気持ちの現れだったのか。どっちだったらいいと私は思っているんだろう、という自問はあえて封じ込めてタバコをふかした。
「私はさぁ、死ぬ前はろくな事してなかったんだ。で、もうこの世界も嫌になっちゃったし、天国に行きたかったんだけど、徳が足んないんだって。だから働いて稼いでるんだ。
仕事ってのも色々あるみたいなんだけど、私が選んだのはその時の徳でなんとか権利を買えた、寂し狩り屋って仕事でさ。世の中のおにーさんやおねーさんの寂しさを刈り取って、一緒に徳も貰っちゃうのさ。
ね、怖くない?こうやって私と話てるだけで、シンは大事な徳を私に吸われちゃうんだぜ?」
笑いながら一気にまくし立てた。実際は徳を吸うわけではないけれど、私の給料と支払われる徳があるいということは、どっかからそれを持ってきてるんだろう。
何でそんなことを口にしてるのか分かんないで喋ってたくせに、何言ってたかはしっかりと覚えてる。
なんとも情けない話だけど、仕事のことを話したのは、この三年で初めてのことだった。
これは誓えるけれど、受け止めて欲しいなんて微塵も思ったことはない。
なぜなら、寂しがり屋の事を知ってしまった人は、私が一度徳を吸ってから三十日が経てば、寂し狩り屋に関することを全て忘れてしまうから。私が寂し狩り屋だって知った場合は、私のことも一緒に忘れてしまう。
三年前、私にざっくりと仕事を教えてくれた人はこう言った。
「だから、覚えておいて欲しい人がいたら寂し狩り屋のことは黙ってなさい。間違っても自分がそうだなんて言わないこと。じゃないと……」
シンは一目見た時から気に入っていたのに、どうしてこんな事をしてしまったんだろう。
ちょっとだけ後悔して、ぶっ壊してやった快感の方が強く、染みた。
だけどその日の予想外はもう一歩だけ進んだ。
シンが、恐る恐る手を伸ばして、私の手を握った。
体育座りの膝にアゴを乗せて、視線はこちらに向けない正面だ。
言葉はない。ただこちらの手を緩く、包むように握って、それだけだ。
彼の手がとても暖かくて、やっぱり、壊して正解だったと思った。
「彩峰さんが、ここにいたのは、ボクの徳を吸うためだったんですか?」
「んー、それは、違うかな」
ここにいたのも、シンがきたのも、彼の徳が尋常じゃない量だったのも、
「偶然じゃないかなぁ」
「なら、仕方ないです」
「……そっか、仕方ないなら、しょうがないな」
意味のないつぶやきを最後に、その日の会話は終わった。
本を読み終わるまで沈黙が続き、私は次の一冊を借りて、今日もひと足早くその場を離れる。
次からは、もうチョット軽いタバコに変えてやろうかな。
けむたい顔をする彼を思い出して、そんなことを思った。
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私達の逢瀬は続く。
大抵の場合は、私が後からあのビルを訪れる。理由の半分は、先に訪れたシンががっかりすることで、私の得られる徳が増えるから。
あとの半分は、私しか見ることが出来ないもののためだ。それを気に入っていた、ということだけは言ってもいいかな。
多くを語ることはしない。
いつもお互いが本を読んで時間をつぶす。シンは親の言いつけ通りに塾に通う、マジメな学生だ。徳が多いってことは、裏でコソコソ悪いことなんかしてないってことだろう。まったく、生前の私が全く知らなかったタイプの男の子だった。
いや、
「死ななけりゃ、出会えてたのかなぁ」
だめか。
あの普通すぎるクラスメイトの中に、私はどうしても入れなかったんだから。
平均的な女子は、恋愛に興味を持ったり、ちょっと進んでいてもキスや、普通のセックスをしっているだけだった、彼らと私。
私を買っていたクズなオヤジ共と、私が嫌悪すら抱かなくなった日々。
すれ違いすらしない線路を走り続けて、でも私は今、彼を乗客として乗せて走っている。
「ねぇ、シン。ふつーの中学生はこういうのに興味あんの?」
シンが買ってくる本の種類は様々だ。
その中に、実にソフトな表現でおセックスをしている小説があった。若干ページの端がよれている理由は問い詰めない。
「まぁ、あるとおもいますけど……」
「シンはこういうことしたことある?」
「な、ないですけど……」
声がどんどん小さくなるのが可愛くて、喉の奥だけでくつくつと笑う。
「別にボクだけじゃなくて、そんなことしたことあるヤツのほうが少ないですよ……」
「じゃ私がしてあげるって言ったら、する?」
「綾峰さん、ボクのこと好きなんですか?」
「好きじゃないよ。大事なだけ」
「言ってること、全然わかんないです」
でも、
「わかんないまま、したいとは思いません」
その答えが聞けて、良かった。
「ならいいや。シンの寂しさがそれで埋まんないなら、する気はなかったし」
「そういうものなんですか」
「そういうものなんですよ」
しばらく目で文字を追っていたシンだったけれど、頭に入らないらしくてその日はすぐに帰ってしまった。
考えなしに話し始めた私も悪いけど、ちょっとかわいそうだったかな。
でも、体を差し出したからって寂しさが埋まらないこともある。
よく店で解消しにいくようなオッサンは、大抵それだけで寂しさが埋まってたりするもんらしい。それは徳が視えるようになってから分かったことだけど、世の中にはナニして吐き出させたって、寂しさが埋まらないタイプの人間もいるんだ。
「そういうもの、なんですかー」
タバコの煙を、おおきく吐き出す。
逆に不安になってくるねぇ。どうやったら、彼の寂しさを埋められるのか。精神年齢で言えば六年分もリードしているけど、彼の事は全然分からない。
「これで『したいです』って言ってくれればぜぇんぜん楽だったんだけどにぁー」
口に加えた不健康の塊を弄びながら、本を読み進める。
好きなんてものは、もっていない。少なくとも、ここらにある本の内容みたいな、好きを私はもってない。
だけど、徳の量に換算できない寂しさを埋めることくらい、してあげたいな。
そんな事を思ったけれど、その機会はなかなか訪れなかった。
シンが中々秘密基地に訪れなくなっていた事と、たまに会う時は向こうが喋りっぱなしだからだ。
まぁ、怖気づいていたってことは否定しないけども。
だけど、私が最初に壊してしまった一線は、着実に迫っていた。
シンの思い出が一つ増える度に、カウントダウンは容赦なく進んでいく。
不思議なことに、寂し狩り屋であることを言わなければ良かった、とは思わなかった。
この相反する感情を、説明できる言葉が私にはない。あえていうなら、これは私の性格とか性分だ。
だからきっと、臆病なくせに、崖から飛び降りる最後の一歩を気軽に踏み出せてしまうのも、私の性格なんだろう。
■□■□■□■
その日は雨が降っていた。
最近小説を読んでいて思ったのは、くらーいシーンにはよく雨がふること。そして今日分かったのは、雨が降るから、くわーい話を切り出しやすいんだってこと。
だから、あっさりと今日でお別れなんだと切り出したのも、シンには悪いけど、雨のせいってことで一つよろしく頼みたい所だ。
「今日でお別れって……ボク、なにかしちゃいましたか?」
「シンには言ってなかったけど、寂し狩り屋の事を知った人間は一ヶ月でそれを忘れちゃうんだ。あと10分で、初めて私のことをバラした日から丁度一ヶ月。だから、バイバイなんだ」
泣きそうになったシンの顔が、何かをこらえて怒りに切り替わった。
「それが分かってて、ボクに色々話したんですか!?」
「そうだよ」
なんで……と俯く彼に、私がかけられる言葉があるのか、ちょっとだけ躊躇して、私はいつもの定位置に座り込んだ。
「私は別に、いつまでもシンと居てもいいと思ってる。だけど、根本的に、人間として出来てる物が違うんだよ、私とキミは」
「そんなことないです!だって、いっつもこうやって話して、同じ本を読んで、違うことなんてないよ!」
「そういってくれるのは嬉しいんだけどねぇ。でも想像できないだろ。小学生の頃からヤバイ店で働かされて、自分の父親みたいな年齢のおっさんに股を開かされて、そんなことを親にやらされるような奴が自分のクラスにいるとかさ」
初めて話す生前の私を聞いて、シンの表情が固まる。
彼にとって風俗店なんて何もわからない別世界だろう。私にとって、外の世界がどんだけ澄んでいるかも分からなかったのと同じで。
そして、そんな世界に浸かっていた私は、多分彼の想像できるどんなものよりも、汚れて、歪んでる。
「毎日毎日、オッサンが小学生相手にアホなことをさせるんだよ。必死に汗水たらして働いた金が、一晩女の子にケツの穴を舐めさせたりして消えていく。そんなことをしてる奴が何百人も、何千人もいるなんて、ましてやそんな女がキミみたいな子供の横に座ってぼんやりと本を読みだけなんて、続くはずないよねぇ」
今まで意図して抑えてきた単語達が、堰を切って湧いてくる。嫌悪感もわかないくらい、それは私の身近にあって、内側にある。
髪を整えて、スカートを短くして、準備万端通学することと、ローションで濡らされた下着をとっかえて、シャワーを浴びて次の身支度を整え、準備万端用意することと。
私にとってはそれが等号(=)で結びつく。そしてシンにとっては受け入れられない不等号だ。
「でも、今はそんなことしなくてもいいんでしょ?」
「また再開するわよ。だってお店にくるオッサン達は、相手をしてあげてれば勝手に寂しさをまぎらわせてくれるから、楽なんだもの」
エロいこと=不徳ではないというのがなんとも面白いとも思うが、ともあれ回数で量はたまったりする。ぶっちゃけてしまえば、あと数年続ければ、あの世に入るための徳が貯まる。
彼にそこまで説明はしてあげない。する必要もない。
だって私と彼の時間は、今だけのものなんだから。
「だったら……出会うのがもっと遅ければ良かったよ」
シンがそう呟いて、私の正面に座った。
隣には座ってくれないんだ、と思いつつ、小さく笑う。
「そう言わないでよシン。私が自分の全部を話したのはキミだけ。キミが特別だから……しようがないんだ。ねぇ、キミがしてほしいことを教えて?いままで本を読ませてもらっていたレンタル料ってことでさ」
別れの餞別なんてしめっぽいものは似合わない。
本当はシンの迷う姿がみたかったんだけど。
でも答えは即答だった。
「じゃあ、綾峰さんがしたいことを、ボクにしてください。ボクが喜ぶことじゃなくて、綾峰さんがしたいことを」
打ち返されてきたボールは、とんでもない死角から胸の奥に飛び込んできた。
ふむ、と一度頷いてから、新しいタバコを取り出した。
カチンと蓋を跳ね上げ、火をつけてパチンと閉じる。
大きく煙を吸って、吐き出しても、カチンパチンと音は止まない。
参った。何にも浮かばない。脳天気に私をみて軽く微笑んでいる顔が、可愛くてむかつく。
よし、と決めた私は、タバコを加えたまま大げさに深呼吸をして……吸ったところで思い切りむせた。
「だ、大丈夫ですか!?」
慌てて腰を浮かし、近づいてきたのが運のツキだと思って諦めてもらおう。
こちらを覗きこんだ脇のしたに両手を突っ込んで抱きしめ、首元に顔を埋める。
正確には、口を埋めて、狙いをつけ、舌先で首筋を舐め上げて、
「オトコノコなんだし、ガマンしてね?」
えっ、と驚くシンの返事を聞かずに、私は思い切り彼の首筋に噛み付いた。
「いっづぅぅ!? か、かん、えぇっ!?」
それは時間にしたら数秒だ。
だけど、とても幸せな数秒だ。
赤子が泣き叫ぶように、哀しみも、喜びも、全てをないまぜにして、私はただ噛み付いた。
プチッとなにかを突き破る感触がして、シンが一瞬だけ震える。相当痛いだろうに声は我慢して、私の髪を二度、三度となでつける。
くすぐったい感触に免じて、牙を抜いて傷跡を舌でねめあげた。
「もう時間がないから、余計なことは言わないわ。でも、これだけ頂戴ね」
顔は肩に乗せたまま、彼の第一ボタンを片手ではずして頂いておく。
「代わりに、私の形見を上げるわ」
彼の学生服の胸ポケットに、愛用のジッポをしまう。
「綾峰さん……短い間だったけど、ありがとう」
「こちらこそ。真面目に徳をためたら、また来てあげるかもね」
「でも、忘れちゃうんでしょ?」
「だからよ。だから、恥ずかしい事も、ウソだってつける。ねぇ、シン」
彼の早くなる鼓動を聞いて、
「私ね、あなたの事……」
■□■□■□■
この仕事を選んでから、既に五年が経った。
溜め込んだ徳の量はあの世に行くのに十分な額で、私は今日、この世界に別れを告げようと思っていた。
目の前をまばらに通り過ぎる少年少女達。
口に咥えたタバコをそっと指に挟んで、その一人に声をかけた。
「卒業おめでとう」
壁に寄りかかって直立しているのに、目線を少しあげなくちゃいけないのがちょっとだけ癪に障る。
見知らぬ女から声をかけられたのだ。きょとんとする彼の反応は正しく、寂しい。
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げて去っていく彼の頭上には、相変わらず垂涎モノな量の徳。
彼の第一ボタンがこの二年間ずっとなかったこと。そして彼の内ポケットをすこしだけ押し上げる四角いジッポ。
「全く、律儀なんだから。徳の多さも納得だよ」
それが見れただけで、私の寂しさも祓うことが出来たと思う。
「それじゃ、行きますか」
これで灰色の、煙たい日々ともおさらばだ。
肺に残った最後の煙を春の風に吐き出して、三年越しの二代目ジッポを、目の前の川に投げ捨てた。