『氷の令嬢は温かなシチューを味わう ~婚約破棄された私を北方公爵が甘やかしてくれるので、もう王宮には戻りません~』
十年の婚約が終わる夜
エレノアは、もう泣くことさえできない自分が悲しかった。十年間、王太子妃となるために積み重ねてきた努力が、今夜、たった一言で踏みにじられようとしている。それなのに胸に湧き上がるのは悲嘆よりも、底の見えない虚しさだった。大広間には百合の甘い香りと蝋燭の油煙が漂い、濃紺のベルベットドレスの下では、鯨骨のコルセットが肋骨を締めつけている。
「エレノア・フォン・ハルデンベルク! 貴様との婚約を、この場で破棄する!」
壇上に立つルディス王太子の声が響き、楽団の演奏が途切れた。貴族たちの視線が一斉に集まる。エレノアは震えそうになる指を重ね、ゆっくりと顔を上げた。金糸の刺繍を施した白い礼服のルディスは、勝ち誇ったように顎を反らしている。その腕には、薄桃色の絹ドレスを着た子爵令嬢マリアがしがみついていた。
「殿下、理由をお聞かせいただけますか」
「まだ白を切るつもりか! マリアの教科書を破り、階段から突き落とそうとしたそうだな!」
エレノアは胸の奥が冷えるのを感じた。マリアの首元には、亡き母が遺してくれた三連の真珠の首飾りが光っていた。以前、ルディスに預けた品だ。母の形見まで他の女性に与えられていたと知り、唇の内側を噛んだ。
「教科書の件は存じません。階段での出来事についても、私には身に覚えがございません」
「エレノア様、もうおやめになって……」
マリアは目に涙を浮かべ、ルディスの腕に顔を寄せた。甘いバニラの香水が漂ってくる。
「わたくしが我慢すればよいのです。エレノア様は、殿下と親しくするわたくしがお嫌いなのでしょう?」
「マリア様。あなたが階段から落ちたという火曜日の午後、私は王妃殿下と離宮の温室でお茶をいただいておりました。侍女と護衛も同席しています」
「そ、それは……影の護衛を使ったのではありませんか!」
「私には私兵を動かす権限がございません。どなたからその話をお聞きになったのですか」
マリアの唇が引きつった。エレノアは責め立てたい衝動を抑えた。十年間の教育で身につけた冷静さが、こんなときにだけ役立つことが悔しかった。
「黙れ! 貴様の冷たい物言いこそ、悪女である証拠だ!」
ルディスの怒声に、周囲からひそひそと声が漏れた。氷の令嬢。いつしか定着した呼び名だった。感情を表に出すなと教えられ、その教えを守った結果、心のない女と呼ばれるようになった。
「殿下。私は十年間、王家のために学んでまいりました。それでも私の言葉を、一度も信じてはいただけないのですね」
初めて声がかすれた。ルディスは一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに近衛兵へ手を振った。
「この女を連れ出せ!」
「その命令は取り消してもらおう」
背後から響いた低い声に、エレノアは思わず振り返った。人垣を分けて進んできたのは、北方を守るカレル・ヴァイスハイト公爵だった。深い群青の軍服には銀の獅子章が輝き、黒い毛皮を縁取った外套から冷たい夜気が漂っている。大柄な体には古傷が刻まれ、鋭い眼差しに近衛兵たちが道を開けた。
「カレル叔父上……なぜ、ここに」
「陛下の命で、以前からお前の素行を調べていた。今夜の騒ぎも報告を受けている」
カレルは侍従に合図し、封蝋の押された書類を差し出させた。
「マリア嬢が自ら教科書を暖炉に投じたことは、使用人二名が証言している。階段の件も、転倒する前に周囲を確かめる姿が目撃されていた。王妃殿下からは、エレノア嬢が離宮にいたという証言も届いている」
「嘘ですわ! 使用人がわたくしを陥れようと……!」
「では、王妃殿下まで偽証したと申すのか」
マリアは口を閉ざした。ルディスが彼女の腕を振りほどくのを見て、エレノアは胸の奥に苦いものを感じた。つい先ほどまで守ると誓っていた相手を、彼はもう見ようともしない。
「ルディス。陛下はお前の王太子位を剥奪する決定を下された。明朝、北方の離宮へ移送される。マリア嬢についても正式な取り調べを行う」
「待ってください、叔父上! 私は騙されていただけで……!」
「人の言葉を確かめず、婚約者を辱めたのはお前自身だ」
ルディスの顔が青ざめた。エレノアはその姿を見ても、少しも嬉しくなかった。十年間、彼にふさわしい女性になろうと努力してきた。好きだった焼き菓子を控え、母と楽しんだ庭仕事をやめ、眠る間も惜しんで学んだ。取り戻せない時間ばかりが胸に浮かんだ。
「エレノア嬢」
カレルが彼女の前で足を止めた。
「ここに残りたいか。それとも、少し静かな場所で休みたいか」
命令ではなく、問いかけだった。エレノアは戸惑いながら彼を見上げた。
「……私が決めても、よろしいのですか」
「もちろんだ。貴女のこれからを決めるのは、貴女自身だ」
その言葉が、胸の奥に静かに染み込んだ。
「できることなら、ここを離れたいです」
「ならば私の屋敷へ来るといい。温かい食事を用意してある」
差し出された大きな手を、エレノアはそっと取った。手袋越しの温もりに、こらえていた息が小さく漏れた。
馬車を降りたとき、エレノアは初めて肩の力を抜いた。カレルの私邸は灰色の石を積み上げた堅牢な館で、玄関には松の枝を飾った燭台が置かれていた。扉の向こうから薪の燃える匂いが流れ、頬に心地よい熱が触れる。
「まずは着替えるといい。そのドレスでは食事も苦しかろう」
侍女に案内された部屋でコルセットを外すと、エレノアは思わず深く息を吸った。用意されていたのは生成りのウールワンピースと柔らかなショール、毛皮を内張りした室内履きだった。鏡の中の自分は、王太子妃候補には見えない。それなのに、久しぶりに自分の身体が自分のものになった気がした。
食堂ではカレルが待っていた。長い樫のテーブルに置かれた陶器の鉢から、白い湯気がゆったりと立ち上っている。
「北方のシチューだ。気取った料理ではないが、身体は温まる」
木匙で取り分けられたのは、牛すね肉と根菜を白ワインで煮込んだシチューだった。黄金色のじゃがいも、艶やかな人参、柔らかな蕪が濃厚なスープに沈み、ローズマリーと焦がしバターの香りが食欲を誘う。エレノアは恐る恐る匙を口に運んだ。
牛肉が舌の上でほろりとほどけた。根菜の甘みと生クリームのまろやかさが広がり、冷え切っていた胃の奥へ温かさが落ちていく。
「……美味しいです」
自分の声が震えたことに驚いた。次の瞬間、涙が一粒、白いテーブルクロスに落ちた。
「すまない。口に合わなかったか」
「いいえ、違うのです。とても、美味しくて……」
エレノアは匙を置き、ショールを握りしめた。
「王宮では、食事を楽しむことさえ忘れておりました。姿勢を崩さず、音を立てず、決められた量だけいただいて……母が作ってくれた温かな料理の味も、いつの間にか思い出せなくなっていたのです」
涙が次々と頬を伝った。みっともないと思うのに止められない。カレルは急かすことなく、焼きたての黒パンを彼女の皿の横に置いた。
「泣いても構わん。食べたいなら、お代わりもある」
「……こんなに泣いていては、お見苦しいでしょう」
「私の屋敷では、泣くことも笑うことも禁じていない」
エレノアは涙を拭いながら、小さく笑った。黒パンを千切ってシチューに浸すと、香ばしい麦の風味が口いっぱいに広がった。カレルは何も尋ねず、空きかけた鉢にもう一杯よそってくれた。
「カレル様。私、これから何をすればよいのでしょう」
「今夜は食べて、よく眠ればいい。明日のことは明日考えよう」
「それだけで、よろしいのですか」
「ああ。十年も頑張ったのだろう。少しくらい休んでも、誰も責めはしない」
エレノアは温かな鉢を両手で包んだ。母と過ごした庭の香りが、ふと胸によみがえった。
「……いつか、お庭で香草を育ててもよろしいでしょうか」
カレルの厳めしい顔が、ほんの少し和らいだ。
「春になったら、一緒に庭を見よう。日当たりのいい場所がある」
その言葉が嬉しくて、エレノアはもう一度笑った。窓の外には冷たい雪が舞っていたが、暖炉の火は静かに燃え続けている。十年間失うことを恐れていたものは、もう戻らない。それでも今、目の前には温かな食事があり、自分の望みを聞いてくれる人がいる。
エレノアはシチューをもう一匙すくった。明日を迎えるのが少しだけ楽しみだと思えたのは、十年ぶりのことだった。




