転生したら竜のトイレのスライムでした〜三千年の下積みを終えたので、そろそろ青春してもいいですか?〜
異世界に転生したら、まず確認すべきことがある。
ステータス。
特殊能力。
自分を召喚した王様の人柄。
いろいろあると思う。
でも、私が最初に確認したのは、頭上にある巨大な穴が何なのかだった。
洞窟の天井を覆う、銀色の鱗。
柱のような後ろ脚。
ゆっくり持ち上がる尻尾。
その下に、私。
あっ。
と思った瞬間、世界が茶色くなった。
◇
前世の名前は小日向ひまり。十七歳。
最後に覚えているのは、雨の日の横断歩道と、手から飛んでいったコンビニの袋だ。期間限定のいちごクレープを、まだ一口も食べていなかった。
次に気づいたとき、私は水まんじゅうになっていた。
手がない。足がない。目もない。
それなのに周りが見えるし、地面の冷たさも分かる。動こうとすると、体の端っこが伸びて、残りがずるっとついてくる。
なるほど、スライム。
まあ、そこまではいい。
よくはないけど、転生先としては聞いたことがある。かわいがられる可能性もあるし、ものすごい能力を秘めている可能性もある。
問題は初期位置だった。
竜のトイレ。
しかも、使用中。
私は人生初の異世界体験として、竜の糞に埋まった。
死ぬ。
今度こそ死ぬ。
そう思って必死にもがくうちに、体に触れたものが少しずつ消えていった。
溶かしているのだ。
そして、取り込んでいる。
理解したくなかった。
でも理解してしまった。
私、いま、これ食べてる。
泣こうとした。涙腺がなかった。
吐こうとした。口もなかった。
スライムの体は、私の尊厳に驚くほど配慮されていなかった。
◇
脱出は何度も試した。
洞窟の出口は、頭上のはるか高みにあった。壁を登れば途中で滑り落ち、石を積もうにも持ち上げる腕がない。
では横穴は、と探してみれば、床の隙間から熱い瘴気が噴き出していた。近づくだけで体が泡立った。
出口から差し込む光を頼りに、私は壁を登り続けた。
失敗するたび、体が減った。
減った分を補うには、食べるしかなかった。
選択肢は一つだった。
竜は、十日に一度くらいの間隔でやってきた。
最初は恐怖だった。
次に屈辱になった。
その次は、食事の時間になった。
慣れとは恐ろしい。
もっと恐ろしいのは、スライムには人間の味覚がなかったことだ。
温かい。
魔力が濃い。
たまに、ぴりっとする。
認識としてはそれくらいである。
だから、食べられてしまう。
だから、生き延びてしまう。
私は洞窟の壁に、小石で線を刻むことにした。
竜が来るたび一本。
十本で大きな丸。
丸が十個できたら、その日は記念日。
何の記念日かは考えなかった。
考えると、学校に行きたくなった。
◇
ある日、竜が話しかけてきた。
『……まだおったのか』
おったよ。
主にあなたのせいでね。
私は全身を尖らせ、精いっぱい威嚇した。
竜は首をひねり、便所の底をのぞき込んだ。片目だけで軽自動車くらいある。金色の虹彩に、小さな青い塊が映っていた。
『奇妙なものよ。余の排泄物は、地脈の毒を含む。普通の魔物ならば一夜で死ぬ』
先に言ってほしかった。
『しかも、ここは余の巣でも最も魔力の濃い場所。死なぬのであれば、さぞ育とう』
育たなくていいので出してください。
私は壁を登り、落ち、もう一度登った。
竜はしばらく見てから言った。
『なるほど。修行か』
違います。
『小さき身で、見上げた心意気よ』
違いますって。
銀色の巨体は満足げに去っていった。
その日は、いつもより量が多かった。
応援のつもりだったらしい。
絶対に許さないと思った。
◇
百年くらい経った頃、声が出せるようになった。
体の中に空洞を作って震わせる。
ただそれだけのことに、ずいぶん時間がかかった。
もっとも、百年という数字はかなり怪しい。途中から竜が来ない期間が長くなり、壁の線も数えきれなくなったからだ。
それでも、初めて言葉になった瞬間は覚えている。
「だ、し、て」
竜の動きが止まった。
『……何と?』
「ここから、出して」
長い沈黙があった。
『修行ではなかったのか』
「便所で修行する女子高生がいるか」
『じょしこうせい、とは?』
「私!」
叫んだ拍子に体がひっくり返った。
竜は爪の先で私を拾い上げた。たったそれだけで、百年越しの壁を越えた。
私は生まれ直して初めて、空を見た。
青かった。
どうしようもなく、地球と同じ色だった。
「……お母さん」
意図せず、その言葉が出た。
返事はなかった。
山の向こうに雲が流れていた。
竜は何も言わず、私を平たい岩の上に置いてくれた。
しばらくして、私は聞いた。
「人間の町、ある?」
『南にある。だが、その体ではたどり着けぬ』
竜の言うとおりだった。
私は強い毒に耐えられるようになっていたけれど、まだ小さく、遅かった。草むらから飛び出してきた角兎に踏まれ、半分にちぎれた。
竜が鼻息で兎を追い払ってくれた。
惨めだった。
便所から出たくらいで、人生が始まるわけではなかった。
『ここにおれ。外へ行けるようになるまでは、余が守ろう』
「……トイレ以外で?」
『無論だ』
「ごはんは?」
竜は目をそらした。
私は風に揺れる草を見た。
百年ぶりの空気を、体いっぱいに受け止めた。
「……持ってきて。お皿に」
せめてもの線引きだった。
◇
竜の名は、アルジェントといった。
山脈の下に溜まった毒を吸い、体内で封じて排泄する。それが彼の役目らしかった。
『余が眠れば、麓は毒に沈む』
「じゃあ私、世界を守ったあとのやつを食べてるんだ」
『そうとも言える』
「格好よく言っても駄目だからね」
私は巣の隅に、自分の部屋を作った。
平たい石がベッド。
光る鉱石が照明。
そして壁には、日本語を刻んだ。
小日向ひまり。
十七歳。
好きなもの、いちごクレープ。
嫌いなもの、数学の小テスト。
仲のいい友達の名前。
駅から家までの道順。
忘れそうになるたび、最初から読んだ。
アルジェントは、ときどき人間の品物を拾ってきた。
割れた鏡。片方だけの靴。文字の書かれた板。
おかげで、この世界の言葉も少しずつ覚えた。
鏡の中の私は、いつ見ても青いまんじゅうだった。
◇
三百年で、体を刃物のように硬くできた。
五百年で、炎の中にいても平気になった。
八百年で、崖から落ちても飛び散った体を集められるようになった。
毒を溶かし、魔力を吸い、余った分で体を作る。
それを繰り返しているうちに、できないことが少しずつ減った。
人間の姿を作ろうとしたこともある。
結果は、手足の生えた青い大根だった。
『愛嬌がある』
「気を遣わないで」
千年目の冬、初めて山を下りた。
町があった場所には、森が広がっていた。
石畳の欠片と、井戸の跡だけが残っていた。
私は井戸の縁に乗り、日が沈むまで待った。
誰も来なかった。
帰ると、アルジェントが珍しく巣の入口で待っていた。
『早かったな』
「うん」
『人間はおったか』
「いなかった」
それ以上、彼は聞かなかった。
私はその夜、自分の名前を壁に彫り直した。
名字の漢字が、一瞬だけ思い出せなかった。
◇
二千年を過ぎると、アルジェントが痩せ始めた。
鱗は艶を失い、地脈の毒を吸ったあとは何日も動かなくなった。
「もうやめたら」
『山の下には、人間がおる』
「引っ越してもらえばいいじゃん」
『山脈一つ分だぞ』
「じゃあ、私がやる」
竜の目が細くなった。
『腹を壊す』
「私にそれ言う?」
笑わせるつもりだった。
アルジェントは笑わなかった。
代わりに、初めて私を名前で呼んだ。
『ひまり。おぬしは、人間のところへ行きたかったのではないか』
私は答えられなかった。
いつの間にか、山を下りる話をしなくなっていた。
ここには部屋がある。
話し相手がいる。
毎朝、私が壁の文字を読んでいると、眠たそうに相づちを打つ竜がいる。
外へ行かない理由が、強さ以外にもできていた。
「……あんたが元気になったらね」
そう言うと、竜は困ったように鼻を鳴らした。
◇
三千回目の春。
回数はアルジェントが教えてくれた。私が眠っていた季節も、ちゃんと数えていたらしい。
その朝、彼は立ち上がれなかった。
巣の奥で、岩が裂ける音がした。
地面から黒い霧が噴き出す。
触れた岩が腐り、流れた跡から草が消えた。
『逃げよ』
アルジェントが言った。
『今の余では、抑えられぬ』
私は亀裂をのぞいた。
底が見えない。
黒い霧の向こうで、どろどろとした何かが脈打っている。
「これ、いつものごはんの材料?」
『そのような生易しいものではない。余の体で千に薄めて、ようやく——』
私は飛び込んだ。
熱かった。
痛かった。
久しぶりの感覚だった。
体の表面が崩れていく。そのたびに毒を取り込み、新しい体を作った。
足りない。
もっと大きく。
もっと深く。
岩の隙間へ体を伸ばし、地下水に混ざった毒を追いかける。山の根を包み、脈打つ黒い塊に食らいつく。
懐かしい味がした。
温かい。
魔力が濃い。
少し、ぴりっとする。
なんだ。
私は笑った。
ずっと食べてきたやつじゃん。
◇
山脈に満ちた毒を食べ尽くすまで、三日かかった。
地上に戻ると、アルジェントが目を見開いた。
『……おぬし』
「何」
『山より大きいぞ』
見下ろすと、雲が私の体を通り抜けていた。
慌てて縮んだ。
縮んで、縮んで、いつものまんじゅうに戻る。
お腹の奥に、太陽を丸ごと飲み込んだような熱があった。
でも、苦しくはなかった。
むしろ、調子がいい。
「たぶん、もう毒は出ないよ。元の黒いやつ、全部食べたから」
アルジェントは長いこと黙っていた。
やがて、顔を地面に伏せた。
『そうか』
声が震えていた。
『もう、よいのか』
私はその鼻先によじ登った。
「うん。退職」
『たいしょく』
「お疲れさまってこと」
竜は目を閉じた。
私は少しだけ慌てて、鼻を叩いた。
「待って。これ、死ぬ流れじゃないよね?」
『眠いだけだ』
「ならいいけど」
『三千年ぶりに、腹を気にせず眠れそうだ』
「それは本当にお疲れさま」
◇
一週間後、山に人間が来た。
銀色の鎧を着た男たちと、白い服の少女。
人間を見るのは、この世界に来て初めてだった。
私はうれしくなって、道の真ん中へ飛び出した。
「こんにちは!」
「魔物だ!」
剣で斬られた。
剣が折れた。
男が叫んだ。
私も叫んだ。
「初対面!」
後ろの男が杖を振った。
炎が出たので、反射的に食べた。
少し物足りなかった。
「魔法まで吸ったぞ!」
「何なのだ、このスライムは!」
「こっちが聞きたいよ、その接客!」
騒ぎを聞いて、アルジェントが洞窟から顔を出した。
男たちは一斉に膝をついた。
「古き災厄、白銀竜アルジェント……!」
私は振り返った。
「災厄なの?」
『人間には、そう呼ばれておるらしい』
「言い返しなよ」
『話す前に逃げるのでな』
白い服の少女だけが、立っていた。
歳は十五、六くらいだろうか。唇を噛み、震える手で服の裾を握っている。
「私は、麓のリュゼ村から参りました」
少女は竜を見上げた。
「どうか、山の毒をお鎮めください。代わりに、私をお納めいたします」
私は彼女と、アルジェントを交互に見た。
「……お納め?」
『知らぬ』
「生贄?」
『頼んでおらぬ』
少女の目から涙がこぼれた。
「私では、ご不満でしょうか」
「不満とかじゃないの!」
私は跳ねた。
「毒はもうないよ! この竜はずっと止めてた側! あと生贄は受付終了! 開設もしてないけど!」
少女は、ぽかんと私を見た。
その後ろで、鎧の男が立ち上がった。
「魔物の戯言を聞くな。その娘は神殿が選んだ贄だ。儀式を終えねば——」
「本人、嫌がってるじゃん」
「一匹のスライムが、人の定めに口を出すか!」
男は腰から短剣を抜き、少女の腕をつかんだ。
その瞬間、私の体が勝手に動いた。
細い糸になって伸びる。
短剣だけを包んで溶かす。
鎧だけを縫い止める。
男は動けなくなった。
隣の男も、後ろで杖を構えた男も、ついでに全員止めた。
誰も傷つけずに止められることが、手に取るように分かった。
昔は、小石一つ持てなかったのに。
「その子、置いてって」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「文句があるなら、私に言って」
男たちは何度も頷いた。
◇
少女は、ミナと名乗った。
村に戻っても、もう家には帰れないと言った。出発する前に、葬式を済ませたのだそうだ。
私はしばらく、何を言えばいいか分からなかった。
だから、まず聞いた。
「お腹すいてる?」
ミナは小さく頷いた。
アルジェントが奥へ引っ込もうとしたので、全力で止めた。
「人間のごはん! 普通のやつ!」
結局、山で果物を採った。
ミナは私が渡した赤い実をかじり、ようやく少し笑った。
「ひまり様は、これからどうなさるのですか」
「様はいらないよ。これからは……」
私は洞窟を見た。
文字だらけの壁。
石のベッド。
三千年ぶんの、私の部屋。
「人間の町に行きたい」
口にすると、まだちゃんと胸が弾んだ。
「服とか見たいし、お菓子とか食べたい。あと、できれば友達がほしい」
ミナは目を丸くした。
それから、おそるおそる手を差し出した。
「それなら、最後の一つは、私でもよろしいですか」
私はその手に、体の端を伸ばした。
柔らかく包むつもりだった。
けれど、伸びた先が五つに分かれた。
指だった。
青く透けた、小さな手。
三千年かけても作れなかった形が、いまは自然にできていた。
「……よろしく、ミナ」
握った手は、温かかった。
◇
出発の日、アルジェントは小さな銀の鱗をくれた。
『困ったら、これを砕け』
「来てくれるの?」
『起きる』
「そこから?」
竜は喉の奥で笑った。
私は鱗を体の中にしまい、巣を振り返った。
壁の名前は、もう彫り直さなかった。
忘れそうになったら、名乗ればいい。
これから会う人に、そのたび何度でも。
「行ってきます」
『行ってこい、ひまり』
ミナと並んで、山道を下る。
歩く速さに合わせて跳ねるのは、思ったより難しい。
「そういえば、ひまりは、どうしてそんなに強いの?」
「食生活かな」
「何を食べていたの?」
私は立ち止まった。
青い空の下、友達が不思議そうに首をかしげる。
この世界で初めてできた友達だ。
大事にしたい。
ものすごく、大事にしたい。
「……発酵食品」
少し考えて、そう答えた。
私、小日向ひまり。
十七歳と、だいたい三千年。
ようやく、放課後が始まる。




