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転生したら竜のトイレのスライムでした〜三千年の下積みを終えたので、そろそろ青春してもいいですか?〜

作者: Uアルジュナ
掲載日:2026/10/17

 異世界に転生したら、まず確認すべきことがある。


 ステータス。

 特殊能力。

 自分を召喚した王様の人柄。


 いろいろあると思う。


 でも、私が最初に確認したのは、頭上にある巨大な穴が何なのかだった。


 洞窟の天井を覆う、銀色の鱗。

 柱のような後ろ脚。

 ゆっくり持ち上がる尻尾。


 その下に、私。


 あっ。


 と思った瞬間、世界が茶色くなった。


     ◇


 前世の名前は小日向ひまり。十七歳。


 最後に覚えているのは、雨の日の横断歩道と、手から飛んでいったコンビニの袋だ。期間限定のいちごクレープを、まだ一口も食べていなかった。


 次に気づいたとき、私は水まんじゅうになっていた。


 手がない。足がない。目もない。


 それなのに周りが見えるし、地面の冷たさも分かる。動こうとすると、体の端っこが伸びて、残りがずるっとついてくる。


 なるほど、スライム。


 まあ、そこまではいい。


 よくはないけど、転生先としては聞いたことがある。かわいがられる可能性もあるし、ものすごい能力を秘めている可能性もある。


 問題は初期位置だった。


 竜のトイレ。


 しかも、使用中。


 私は人生初の異世界体験として、竜の糞に埋まった。


 死ぬ。


 今度こそ死ぬ。


 そう思って必死にもがくうちに、体に触れたものが少しずつ消えていった。


 溶かしているのだ。


 そして、取り込んでいる。


 理解したくなかった。


 でも理解してしまった。


 私、いま、これ食べてる。


 泣こうとした。涙腺がなかった。


 吐こうとした。口もなかった。


 スライムの体は、私の尊厳に驚くほど配慮されていなかった。


     ◇


 脱出は何度も試した。


 洞窟の出口は、頭上のはるか高みにあった。壁を登れば途中で滑り落ち、石を積もうにも持ち上げる腕がない。


 では横穴は、と探してみれば、床の隙間から熱い瘴気が噴き出していた。近づくだけで体が泡立った。


 出口から差し込む光を頼りに、私は壁を登り続けた。


 失敗するたび、体が減った。


 減った分を補うには、食べるしかなかった。


 選択肢は一つだった。


 竜は、十日に一度くらいの間隔でやってきた。


 最初は恐怖だった。


 次に屈辱になった。


 その次は、食事の時間になった。


 慣れとは恐ろしい。


 もっと恐ろしいのは、スライムには人間の味覚がなかったことだ。


 温かい。

 魔力が濃い。

 たまに、ぴりっとする。


 認識としてはそれくらいである。


 だから、食べられてしまう。


 だから、生き延びてしまう。


 私は洞窟の壁に、小石で線を刻むことにした。


 竜が来るたび一本。


 十本で大きな丸。


 丸が十個できたら、その日は記念日。


 何の記念日かは考えなかった。


 考えると、学校に行きたくなった。


     ◇


 ある日、竜が話しかけてきた。


『……まだおったのか』


 おったよ。


 主にあなたのせいでね。


 私は全身を尖らせ、精いっぱい威嚇した。


 竜は首をひねり、便所の底をのぞき込んだ。片目だけで軽自動車くらいある。金色の虹彩に、小さな青い塊が映っていた。


『奇妙なものよ。余の排泄物は、地脈の毒を含む。普通の魔物ならば一夜で死ぬ』


 先に言ってほしかった。


『しかも、ここは余の巣でも最も魔力の濃い場所。死なぬのであれば、さぞ育とう』


 育たなくていいので出してください。


 私は壁を登り、落ち、もう一度登った。


 竜はしばらく見てから言った。


『なるほど。修行か』


 違います。


『小さき身で、見上げた心意気よ』


 違いますって。


 銀色の巨体は満足げに去っていった。


 その日は、いつもより量が多かった。


 応援のつもりだったらしい。


 絶対に許さないと思った。


     ◇


 百年くらい経った頃、声が出せるようになった。


 体の中に空洞を作って震わせる。


 ただそれだけのことに、ずいぶん時間がかかった。


 もっとも、百年という数字はかなり怪しい。途中から竜が来ない期間が長くなり、壁の線も数えきれなくなったからだ。


 それでも、初めて言葉になった瞬間は覚えている。


「だ、し、て」


 竜の動きが止まった。


『……何と?』


「ここから、出して」


 長い沈黙があった。


『修行ではなかったのか』


「便所で修行する女子高生がいるか」


『じょしこうせい、とは?』


「私!」


 叫んだ拍子に体がひっくり返った。


 竜は爪の先で私を拾い上げた。たったそれだけで、百年越しの壁を越えた。


 私は生まれ直して初めて、空を見た。


 青かった。


 どうしようもなく、地球と同じ色だった。


「……お母さん」


 意図せず、その言葉が出た。


 返事はなかった。


 山の向こうに雲が流れていた。


 竜は何も言わず、私を平たい岩の上に置いてくれた。


 しばらくして、私は聞いた。


「人間の町、ある?」


『南にある。だが、その体ではたどり着けぬ』


 竜の言うとおりだった。


 私は強い毒に耐えられるようになっていたけれど、まだ小さく、遅かった。草むらから飛び出してきた角兎に踏まれ、半分にちぎれた。


 竜が鼻息で兎を追い払ってくれた。


 惨めだった。


 便所から出たくらいで、人生が始まるわけではなかった。


『ここにおれ。外へ行けるようになるまでは、余が守ろう』


「……トイレ以外で?」


『無論だ』


「ごはんは?」


 竜は目をそらした。


 私は風に揺れる草を見た。


 百年ぶりの空気を、体いっぱいに受け止めた。


「……持ってきて。お皿に」


 せめてもの線引きだった。


     ◇


 竜の名は、アルジェントといった。


 山脈の下に溜まった毒を吸い、体内で封じて排泄する。それが彼の役目らしかった。


『余が眠れば、麓は毒に沈む』


「じゃあ私、世界を守ったあとのやつを食べてるんだ」


『そうとも言える』


「格好よく言っても駄目だからね」


 私は巣の隅に、自分の部屋を作った。


 平たい石がベッド。


 光る鉱石が照明。


 そして壁には、日本語を刻んだ。


 小日向ひまり。


 十七歳。


 好きなもの、いちごクレープ。


 嫌いなもの、数学の小テスト。


 仲のいい友達の名前。


 駅から家までの道順。


 忘れそうになるたび、最初から読んだ。


 アルジェントは、ときどき人間の品物を拾ってきた。


 割れた鏡。片方だけの靴。文字の書かれた板。


 おかげで、この世界の言葉も少しずつ覚えた。


 鏡の中の私は、いつ見ても青いまんじゅうだった。


     ◇


 三百年で、体を刃物のように硬くできた。


 五百年で、炎の中にいても平気になった。


 八百年で、崖から落ちても飛び散った体を集められるようになった。


 毒を溶かし、魔力を吸い、余った分で体を作る。


 それを繰り返しているうちに、できないことが少しずつ減った。


 人間の姿を作ろうとしたこともある。


 結果は、手足の生えた青い大根だった。


『愛嬌がある』


「気を遣わないで」


 千年目の冬、初めて山を下りた。


 町があった場所には、森が広がっていた。


 石畳の欠片と、井戸の跡だけが残っていた。


 私は井戸の縁に乗り、日が沈むまで待った。


 誰も来なかった。


 帰ると、アルジェントが珍しく巣の入口で待っていた。


『早かったな』


「うん」


『人間はおったか』


「いなかった」


 それ以上、彼は聞かなかった。


 私はその夜、自分の名前を壁に彫り直した。


 名字の漢字が、一瞬だけ思い出せなかった。


     ◇


 二千年を過ぎると、アルジェントが痩せ始めた。


 鱗は艶を失い、地脈の毒を吸ったあとは何日も動かなくなった。


「もうやめたら」


『山の下には、人間がおる』


「引っ越してもらえばいいじゃん」


『山脈一つ分だぞ』


「じゃあ、私がやる」


 竜の目が細くなった。


『腹を壊す』


「私にそれ言う?」


 笑わせるつもりだった。


 アルジェントは笑わなかった。


 代わりに、初めて私を名前で呼んだ。


『ひまり。おぬしは、人間のところへ行きたかったのではないか』


 私は答えられなかった。


 いつの間にか、山を下りる話をしなくなっていた。


 ここには部屋がある。


 話し相手がいる。


 毎朝、私が壁の文字を読んでいると、眠たそうに相づちを打つ竜がいる。


 外へ行かない理由が、強さ以外にもできていた。


「……あんたが元気になったらね」


 そう言うと、竜は困ったように鼻を鳴らした。


     ◇


 三千回目の春。


 回数はアルジェントが教えてくれた。私が眠っていた季節も、ちゃんと数えていたらしい。


 その朝、彼は立ち上がれなかった。


 巣の奥で、岩が裂ける音がした。


 地面から黒い霧が噴き出す。


 触れた岩が腐り、流れた跡から草が消えた。


『逃げよ』


 アルジェントが言った。


『今の余では、抑えられぬ』


 私は亀裂をのぞいた。


 底が見えない。


 黒い霧の向こうで、どろどろとした何かが脈打っている。


「これ、いつものごはんの材料?」


『そのような生易しいものではない。余の体で千に薄めて、ようやく——』


 私は飛び込んだ。


 熱かった。


 痛かった。


 久しぶりの感覚だった。


 体の表面が崩れていく。そのたびに毒を取り込み、新しい体を作った。


 足りない。


 もっと大きく。


 もっと深く。


 岩の隙間へ体を伸ばし、地下水に混ざった毒を追いかける。山の根を包み、脈打つ黒い塊に食らいつく。


 懐かしい味がした。


 温かい。


 魔力が濃い。


 少し、ぴりっとする。


 なんだ。


 私は笑った。


 ずっと食べてきたやつじゃん。


     ◇


 山脈に満ちた毒を食べ尽くすまで、三日かかった。


 地上に戻ると、アルジェントが目を見開いた。


『……おぬし』


「何」


『山より大きいぞ』


 見下ろすと、雲が私の体を通り抜けていた。


 慌てて縮んだ。


 縮んで、縮んで、いつものまんじゅうに戻る。


 お腹の奥に、太陽を丸ごと飲み込んだような熱があった。


 でも、苦しくはなかった。


 むしろ、調子がいい。


「たぶん、もう毒は出ないよ。元の黒いやつ、全部食べたから」


 アルジェントは長いこと黙っていた。


 やがて、顔を地面に伏せた。


『そうか』


 声が震えていた。


『もう、よいのか』


 私はその鼻先によじ登った。


「うん。退職」


『たいしょく』


「お疲れさまってこと」


 竜は目を閉じた。


 私は少しだけ慌てて、鼻を叩いた。


「待って。これ、死ぬ流れじゃないよね?」


『眠いだけだ』


「ならいいけど」


『三千年ぶりに、腹を気にせず眠れそうだ』


「それは本当にお疲れさま」


     ◇


 一週間後、山に人間が来た。


 銀色の鎧を着た男たちと、白い服の少女。


 人間を見るのは、この世界に来て初めてだった。


 私はうれしくなって、道の真ん中へ飛び出した。


「こんにちは!」


「魔物だ!」


 剣で斬られた。


 剣が折れた。


 男が叫んだ。


 私も叫んだ。


「初対面!」


 後ろの男が杖を振った。


 炎が出たので、反射的に食べた。


 少し物足りなかった。


「魔法まで吸ったぞ!」


「何なのだ、このスライムは!」


「こっちが聞きたいよ、その接客!」


 騒ぎを聞いて、アルジェントが洞窟から顔を出した。


 男たちは一斉に膝をついた。


「古き災厄、白銀竜アルジェント……!」


 私は振り返った。


「災厄なの?」


『人間には、そう呼ばれておるらしい』


「言い返しなよ」


『話す前に逃げるのでな』


 白い服の少女だけが、立っていた。


 歳は十五、六くらいだろうか。唇を噛み、震える手で服の裾を握っている。


「私は、麓のリュゼ村から参りました」


 少女は竜を見上げた。


「どうか、山の毒をお鎮めください。代わりに、私をお納めいたします」


 私は彼女と、アルジェントを交互に見た。


「……お納め?」


『知らぬ』


「生贄?」


『頼んでおらぬ』


 少女の目から涙がこぼれた。


「私では、ご不満でしょうか」


「不満とかじゃないの!」


 私は跳ねた。


「毒はもうないよ! この竜はずっと止めてた側! あと生贄は受付終了! 開設もしてないけど!」


 少女は、ぽかんと私を見た。


 その後ろで、鎧の男が立ち上がった。


「魔物の戯言を聞くな。その娘は神殿が選んだ贄だ。儀式を終えねば——」


「本人、嫌がってるじゃん」


「一匹のスライムが、人の定めに口を出すか!」


 男は腰から短剣を抜き、少女の腕をつかんだ。


 その瞬間、私の体が勝手に動いた。


 細い糸になって伸びる。


 短剣だけを包んで溶かす。


 鎧だけを縫い止める。


 男は動けなくなった。


 隣の男も、後ろで杖を構えた男も、ついでに全員止めた。


 誰も傷つけずに止められることが、手に取るように分かった。


 昔は、小石一つ持てなかったのに。


「その子、置いてって」


 自分でも驚くほど、静かな声が出た。


「文句があるなら、私に言って」


 男たちは何度も頷いた。


     ◇


 少女は、ミナと名乗った。


 村に戻っても、もう家には帰れないと言った。出発する前に、葬式を済ませたのだそうだ。


 私はしばらく、何を言えばいいか分からなかった。


 だから、まず聞いた。


「お腹すいてる?」


 ミナは小さく頷いた。


 アルジェントが奥へ引っ込もうとしたので、全力で止めた。


「人間のごはん! 普通のやつ!」


 結局、山で果物を採った。


 ミナは私が渡した赤い実をかじり、ようやく少し笑った。


「ひまり様は、これからどうなさるのですか」


「様はいらないよ。これからは……」


 私は洞窟を見た。


 文字だらけの壁。


 石のベッド。


 三千年ぶんの、私の部屋。


「人間の町に行きたい」


 口にすると、まだちゃんと胸が弾んだ。


「服とか見たいし、お菓子とか食べたい。あと、できれば友達がほしい」


 ミナは目を丸くした。


 それから、おそるおそる手を差し出した。


「それなら、最後の一つは、私でもよろしいですか」


 私はその手に、体の端を伸ばした。


 柔らかく包むつもりだった。


 けれど、伸びた先が五つに分かれた。


 指だった。


 青く透けた、小さな手。


 三千年かけても作れなかった形が、いまは自然にできていた。


「……よろしく、ミナ」


 握った手は、温かかった。


     ◇


 出発の日、アルジェントは小さな銀の鱗をくれた。


『困ったら、これを砕け』


「来てくれるの?」


『起きる』


「そこから?」


 竜は喉の奥で笑った。


 私は鱗を体の中にしまい、巣を振り返った。


 壁の名前は、もう彫り直さなかった。


 忘れそうになったら、名乗ればいい。


 これから会う人に、そのたび何度でも。


「行ってきます」


『行ってこい、ひまり』


 ミナと並んで、山道を下る。


 歩く速さに合わせて跳ねるのは、思ったより難しい。


「そういえば、ひまりは、どうしてそんなに強いの?」


「食生活かな」


「何を食べていたの?」


 私は立ち止まった。


 青い空の下、友達が不思議そうに首をかしげる。


 この世界で初めてできた友達だ。


 大事にしたい。


 ものすごく、大事にしたい。


「……発酵食品」


 少し考えて、そう答えた。


 私、小日向ひまり。


 十七歳と、だいたい三千年。


 ようやく、放課後が始まる。

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