王太子殿下と秘密の交換日記
エレノア・アルヴェインには、誰にも言えない想い人がいた。
相手は王太子クロード・アルフレート。
同じ学園に通い、同じクラスで過ごしているため、顔を合わせる機会は多かった。クロードは真面目で誠実な人柄をしており、誰に対しても真摯に接する。その姿を、エレノアはいつしか目で追うようになっていた。
そしてそれは、どうやらクロードも同じだったらしい。
授業中、ふと視線を感じて顔を上げれば、クロードと目が合う。そんなことが何度も続いていた。
けれど、二人には簡単に近づけない理由があった。
エレノアの継母ロザリーは、かつて現国王アルフレートの婚約者だった。しかし国王は後にヴィオレッタ王妃を選び、婚約は破棄された。
その出来事は、王家とアルヴェイン公爵家の間に深い溝を残していた。
だからこそ、エレノアとクロードは、人前で親しくすることができなかったのである。
そんなある日。
エレノアは学園の図書館を訪れていた。
目当ては、最近話題になっているアルヴェリア語の恋愛小説だった。まだ翻訳版が出ておらず、原書しか存在していない。辞書を片手に読むしかない難しい本ではあったが、それでも続きが気になって仕方なかった。
しかし、その本は高い棚の上に置かれていた。
背伸びをしても届かない。
だからといって、誰かに取ってほしいと頼むには、少々恥ずかしい題名だった。
本棚の前で立ち尽くし、どうしたものかと悩んでいると、不意に背後から声をかけられた。
「どうかしたの?」
振り返れば、そこにいたのはクロードだった。
エレノアは慌てて礼を取る。
「あ、殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
「学園でそんな堅苦しい挨拶はやめてくれ。何か困っているのか?」
優しく問いかけられ、エレノアはさらに困ってしまう。
恋愛小説が取れないなど、正直に言ってしまっていいものだろうか。
だが、題名さえ見られなければ問題ないかもしれないと思い直し、小さな声で答えた。
「あの……あの本を読みたいのですが、届かなくて……」
「どれだい? 僕が取ろう」
クロードは自然な動作で棚に手を伸ばす。
「ああ、これか」
「内容は聞かないでください……。翻訳を待てなくて、原書で読もうと思ったんです」
「そうなんだ。アルヴェリア語が読めるのか」
「辞書を片手に、ですが」
その答えに、クロードはふっと表情を緩めた。
「同じクラスなのに、君はいつも堅苦しいな」
「申し訳ありません……」
「いや、責めているわけじゃない。ただ、ほとんど話したことがなかったから」
クロードは少しだけ視線を逸らし、それから意を決したようにエレノアを見た。
「突然で驚くかもしれないけれど、エレノア嬢。僕は君のことが好きなんだ」
「……え?」
「こうして二人きりになれる機会なんて、もう二度とない気がして」
クロードの耳は少し赤くなっていた。
「だから、今言う。君が好きだ」
エレノアは思わずぽかんと口を開けてしまった。
まさか、クロードからそのような言葉を向けられるとは思っていなかったのである。
だが、自分もまた、彼に惹かれていた。
その事実だけは、誤魔化せなかった。
「……私も、殿下のことを素敵な方だと思っておりました」
クロードは目を見開き、それから心底安心したように笑った。
「良かった……。断られたらどうしようかと思って、昨夜は全然眠れなかった」
その言葉に、エレノアは思わず小さく笑ってしまう。
けれど、すぐに現実が頭をよぎった。
「あ、でも……公にするのは、その……家の事情が……」
「ああ。分かっている」
クロードは静かに頷く。
「君のご両親に認めてもらえるよう、僕も努力する」
その真っ直ぐな言葉が嬉しかった。
だからエレノアは、少し考えてから、鞄の中の新品のノートを取り出した。
「でしたら……まずは交換日記から始めませんか?」
「交換日記?」
「毎日、この図書館の外国語棚の前で交換するのです。人目にもつきにくいですし……」
クロードは一瞬驚いたように瞬きをしたあと、優しく笑った。
「いい考えだ」
そう言って、エレノアの手からノートを受け取る。
「今日は僕が預かる。また明日、ここで」
「はい」
こうして、二人だけの秘密の交際が始まった。
⸻
エレノアには、幼い頃から何でも話せる相手がいた。
ミレイユ・ローゼン伯爵令嬢。
明るく快活で、けれど空気を読むことにも長けた大切な友人だった。
授業が終わるなり、エレノアはミレイユの手を取って校舎裏へ向かう。人目につかない裏庭のガゼボへ辿り着くと、ようやく息を吐いた。
「ミレイユ。クロード殿下から告白されたの」
その言葉に、ミレイユは目を丸くする。
「えっ!? 本当に? でも、家の事情があるでしょう? 大丈夫なの?」
「分かっているわ」
エレノアは胸元に手を当て、小さく微笑んだ。
「でも……好きなの。胸のときめきが止められなくて」
その顔は、普段の落ち着いた令嬢然とした表情ではなく、年相応の恋する少女そのものだった。
「とりあえず、交換日記から始めることになったの」
「交換日記?」
「図書館で、本棚の前で交換するの。人目につきにくいでしょう?」
ミレイユは少しだけ困ったような顔をした。
「あなたの継母様、国王陛下に婚約破棄されたのよ。王家に良い感情を持っていないのは当然だと思うわ」
その言葉に、エレノアは静かに頷く。
「ええ。だから、まだお母様には言えない」
少しだけ視線を伏せ、それでもエレノアははっきりと言った。
「でも、クロード殿下をちゃんと知りたいの。交換日記を続けて、お母様にも分かっていただけるようにしたい」
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがてふっと笑った。
「……私は、エレノアに幸せになってほしいだけよ」
「ミレイユ……」
「心配ばかりしていても仕方ないわよね。まずはクロード殿下がどんな人なのか、ちゃんと知るところからだわ」
そう言って、ミレイユはエレノアの両手を握る。
「応援するわ、エレノア」
エレノアは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、ミレイユ」
春風がガゼボを吹き抜ける。
二人の笑い声は、小さく庭へ溶けていった。
⸻
同じ頃。
クロードは側近候補であるルーカスとセシルに呼び出され、王太子専用として用意された学園の個室へ連れ込まれていた。
部屋へ入った途端、ルーカスが呆れたように口を開く。
「クロード、お前さっきから右手と左手が同時に出てるし、廊下で天井に向かって笑ってたぞ。気持ち悪い。何があった?」
「ルーカス、察しが悪いですね」
セシルが冷静に紅茶を口にしながら言う。
「エレノア嬢と何かあったのでしょう」
クロードはぴたりと動きを止めた。
「……見ていたのか?」
「見なくても分かります。クロード殿下が浮き足立つ理由など、一つしかありませんから」
セシルの言葉に、ルーカスが吹き出す。
「図星かよ」
クロードは少しだけ照れたように咳払いした。
「図書館で偶然見かけたんだ。エレノア嬢が本棚の前で困っていて……」
「お前、またつけ回したのか?」
「話の腰を折らないでください、ルーカス」
セシルは淡々と続きを促す。
クロードは観念したように笑った。
「本を取ってあげた。それで、少し話をして……告白した」
「は?」
「告白したら、交換日記をしないかと言われた」
クロードは大事そうに胸元からノートを取り出す。
表紙は上品な花柄で、まだ新しい。
「これ、エレノア嬢のノートなんだ。明日、図書館で交換する約束をした」
そして真剣な顔で呟く。
「……何を書けばいいんだ」
ルーカスは大きくため息を吐いた。
「お前、本当に恋愛になると駄目だな」
だが、その顔はどこか嬉しそうだった。
「良かったじゃねぇか。家同士の問題があるせいで、まともに話すことすらできなかったんだからな」
「おめでとうございます、クロード殿下」
セシルも珍しく柔らかく微笑む。
クロードは照れくさそうに笑った。
そして三人は、軽く肩を叩き合った。
数ある作品の中から本作をお選びいただき、最後までお読みくださりありがとうございました。貴重なお時間に感謝いたします。




