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第17章 静かに立つ波 後編


竜司は数日で福岡に帰っていった。


竜司とは、相変わらずLINEや電話でやり取りを続けていた。


連絡が途絶えたわけじゃない。


誕生日にはメッセージを送り合うし、試合で活躍すれば連絡もする。


この日も、俺から電話をかけた。


「新人賞、おめでとう」


『ありがとう』


少し照れたような声が返ってくる。


「テレビも見たよ」


『え?』


「バラエティ番組」


『あー……』


電話の向こうで竜司が苦笑した気配がした。


「竜司、話もうまいし面白かった」


『恥ずかしいな』


「そうか?」


『アナウンサーとか芸人さんが上手なだけだって』


「そんなことないと思うけどな」


『いやいや』


竜司が笑う。


俺も笑う。




だけど――


会話はそこで途切れた。




お互い次の言葉を探している。


そんな沈黙。




昔なら、どうでもいい話を何時間でもできた。


電話を切るタイミングに困るくらい。


なのに今は違う。


沈黙が少しだけ長く感じる。


やがて竜司が口を開いた。


『じゃあ、明日も朝早いから』


「ああ」


俺は頷く。


「わかった。おやすみ」


『おう。おやすみ』


通話が切れる。




スマホの画面が暗くなった。


俺はしばらくそのまま画面を見つめていた。


気のせいなのかもしれない。


竜司は冷たいわけじゃない。


連絡を無視することもない。電話だってしてくれる。


優しいままだ。


だけど――なんだか少し、よそよそしい。


電話を重ねても、メッセージを送り合っても、


昔みたいに距離が縮まる気がしなかった。


むしろ少しずつ、遠くなっているような気さえした。


その理由を、俺はまだ知らなかった。



* * *


海斗 大学三年生 春



蒼司が、M美術大学に現役合格した。


知らせを聞いたとき、驚きはなかった。


――やっぱりな、と思った。


あいつなら、きっと行くと思っていた。


蒼司とは、あの告白の日以来、ほとんど会っていなかった。


連絡も、最低限。


用事があるときに、短い文面をやり取りするだけ。


それでも、不思議と――


蒼司のことを、完全に忘れることはなかった。



ふとした瞬間、あの青い絵のことを思い出す。


静かで、深くて、どこか吸い込まれそうな海。


あの告白の答えは、まだ自分の中で、見つかっていない。


考えないようにしてきた。


忙しさに紛らわせてきた。


でも、消えたわけじゃなかった。




蒼司は、大学の近くで一人暮らしを始めた。


俺の寮から電車で片道三十分。


地図で見れば、思ったよりも近い。


(……そんなに、遠くないな)


理由は、それだけだった。


それだけで、十分だった。



俺は、蒼司に会いに行った。


インターホンの前で、俺は一度だけ深呼吸をした。


……よし。


チャイムを押す。


間もなく、内側で足音がして、ドアが開いた。


蒼司が立っていた。



一瞬、言葉を失う。



背は伸びていて、顔つきもどこか大人びている。


竜司より線は細い。


でも、肩まわりがしっかりしていて、


体格が良くなっていた。


――一瞬だけ、竜司と見間違えた。


俺は思わず言っていた。


「……蒼司、見違えたな‥‥」


蒼司は少し照れたように首を傾げる。


「そう?」


「うん。なんか……もう大人なんだなって感じ」


「‥‥そうだね、海兄も、髪伸びたね」


蒼司は小さく笑って、ドアを開けた。


「どうぞ。散らかってるけど」


「お邪魔します」


中に入ると、そこは生活感の薄い部屋だった。


家具は最低限。


住む場所というより、作業場みたいな空間。



そして――


部屋の奥。


視界に飛び込んできたのは、あの色だった。


深くて、吸い込まれそうな青。


大きなキャンバスが、そこに立てかけられている。


「……やっぱり」


俺は、無意識に呟いていた。


蒼司が少しだけ照れたように言う。



「さっそく大学の課題があってさ。


自分の部屋でやるほうが、落ち着くんだよね」



俺は返事をせず、絵から目を離せなかった。


やっぱり好きだ。


この絵が。


「……変わらないな」


「え?」


「蒼司の青」


蒼司は一瞬、驚いたような顔をしてから、視線を逸らした。


俺は鞄から、小さな包みを取り出す。


「そうだ。これ」


蒼司が首を傾げる。


「なに?」


「入学祝い」


差し出すと、蒼司は少し驚いたような顔をした。


「……ありがとう」


蒼司は包みを持ったまま、俺を見て言った。


「……開けていい?」


「ああ」


蒼司は丁寧に包装をほどいていく。


中から出てきたのは、数本の絵具だった。


蒼司の目が少し大きくなる。


「……これ」


一本を手に取る。


「ウルトラマリンブルー」


もう一本を見て、小さく笑った。


「こっちはターコイズブルーだ」


「そんな名前だったのか」


俺は頭を掻く。


「絵のことなんて全然わかんねえし」


俺は少し照れながら続けた。


「……でもさ、画材屋で見てたら、この青いいなって思って」


蒼司は黙って聞いている。


「なんか……蒼司の絵みたいだったから」


言い終わった瞬間、少し気恥ずかしくなった。


でも蒼司は笑わなかった。


ただ、優しく目を細めた。


「……ありがとう」


小さな声だった。


でも本当に嬉しそうだった。


「……すごく嬉しいよ」


そう言って絵具を見つめる。



そして、


「俺も、この青好きだから」


そう笑った。



その笑顔を見た瞬間、俺まで少し嬉しくなった。


正直、来る前は少し不安だった。


蒼司とうまく話せるだろうか。


気まずくならないだろうか。


あの日の告白のこともある。


何を話せばいいのか分からなくなったらどうしよう。


そんなことを考えていた。



だけど――



実際に会ってみると、そんな心配は拍子抜けするほどあっさり消えた。



大学のこと。


一人暮らしのこと。


野球のこと。


絵のこと。


話題は次々に出てきて、気がつけば自然に会話が続いていた。


不思議だった。


変に気を遣わなくても言葉が出てくる。


沈黙になっても苦しくない。


なんだか落ち着く。


そんなことを思いながら、俺は蒼司の話に耳を傾けていた。


「……自炊とか、してんの?」


蒼司は肩をすくめる。


「全然。食べるの忘れることあるし」


「おい、大丈夫かよ」


思わず声が出る。


「とくにこだわりないしね。適当でいいかなって」


「体壊すぞ」


「大丈夫。好きなことやってるから、全然辛くないよ」


さらっと言うその言葉に、少しだけ引っかかる。


「美大、思ったより忙しくてさ」


蒼司は続ける。


「たぶんバイトは無理だし、できたとしても、接客とか苦手だしさ」


「……そっか」


「兄貴が仕送りするって言ってくれたけど、断ったよ」


「え?」


「自分でできるだけやりたいし」


蒼司はそう言った。


その言い方に、ほんの少しだけ棘があるような気がした。



俺の気のせいかもしれない。


蒼司と竜司は仲のいい兄弟だと思っていた。


だけど――


今は深入りしないほうがいい気がした。


「……そっか」


俺はそれだけ言った。


そして、話題は自然と別の話へ移っていった。



「海兄‥‥、今日は来てくれてありがとう」


帰り際、玄関で靴を履きながら、


俺は少し迷ってから口を開いた。


「あのさ」


「ん?」


俺は、ふと口を開いた。


「“海兄”って呼ぶの、もうやめろよ」


蒼司は一瞬、戸惑いの表情を見せる。


「‥‥‥え?」


「この機会だし。俺も大人になったし」


少しだけ照れくさそうに、俺は視線を逸らす。


「……名前で呼べよ」




沈黙が一拍、落ちる。




蒼司は、少し考えるようにしてから――


「……じゃあさ」


顔を上げて、まっすぐ海斗を見る。


「カイト、って呼んでいい?」


「……っ」


その一言に、胸が跳ねた。


今の呼び方――


どこかで、聞いたことがある。



同じ音のはずなのに、


言い方も、間も、抑えたトーンも。



――竜司と、同じだ。



一瞬で、記憶が引き戻される。


高校時代。


隣を歩く足音。


いつも呼ばれていた、自分の名前。


『カイト』


あのときの声が、重なる。


「……おう」


返事が、わずかに遅れた。


蒼司は、ほんの少しだけ笑う。


「呼び捨てだけど。年上なのに」


「‥‥気にすんなよ」


そう言いながらも、胸の奥のざわつきは消えなかった。


「今さら“さん付け”ってのもおかしいだろ」


少しだけ視線を逸らしながら、続ける。


「……俺たち、そんな関係でもないし」




その言葉に、蒼司の動きが一瞬止まった。




「……じゃあ、どんな関係?」




静かな声だった。


でも、逃がさない問いだった。




「え……」




俺は、言葉を失う。




頭の中で何かを探すのに、うまく形にならない。


蒼司は、幼なじみで、恋人の弟で‥‥


友だち?


知り合い?


“兄”と“弟”みたいな関係?



「……っ」



答えが出ないまま、時間だけが過ぎる。


蒼司は、そんな俺を少しだけ見つめてから、


ふっと視線を外した。


「……ごめん、困らせるつもりじゃないんだ」


小さく、そう言って笑う。


でもその笑顔は、どこか少しだけ寂しそうだった。



俺はその空気を壊すかのように、


「今度、飯行こう!」


蒼司は一瞬きょとんとしてから言う。


「……うん、いいよ」


「俺が奢るから」


「いいよ。自分の分は払う」


「いや、お祝いに」


「もう、もらったし」




一拍、間が空く。




「そっか」


二人で、同時に笑った。


「じゃあ」


蒼司が言う。


「行こう」


「おう」


「また連絡する」


「うん」


ドアが閉まる。




帰り道、俺は空を見上げた。


青い。


あの絵と、同じ色だった。

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