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第15章 あの鐘の音 後編



俺は高校を卒業した。


卒業式に、竜司の姿はなかった。



三月の終わり。



春もすっかり暖かくなって、


今日は文句なしのお出かけ日和だった。


今日は俺と蒼司で、海に行く。


二人を乗せた電車は、**鎌倉駅**に到着する。



「……あー、結構遠かったなぁ」



ホームに降り立った瞬間、俺は思わず声を漏らした。


「もう昼過ぎだぜ」


蒼司は小さく笑って、


「うん、そうだね」


とだけ答える。



今日、蒼司と出かけることは――


竜司には話していない。


竜司は、もう福岡に引っ越していった後だった。


今さら伝える理由も、勇気も、俺にはなかった。


一方で、蒼司は両親に


「今日は友だちと海に行く」


とだけ話してきたらしい。


それを聞いたとき、


俺はそれ以上、何も言えなかった。


言葉を重ねれば、


この関係に名前を与えてしまいそうで――


それが、少し怖かった。



「じゃあさ、とりあえず――」



俺は改札を抜けながら言う。


「この**江ノ電**ってやつ、乗ろうぜ」


蒼司が目を丸くする。


「江ノ電?」


「そうそう。ほら、あれ」


ホームの先を指さす。


「結構、海が見えるらしいぜ」


蒼司は少しだけ迷ってから、


「……うん、いいね」


と頷いた。


俺たちは並んで車両に乗り込む。


窓際の席はすでに埋まっていたけれど、


走り出した途端、視界の端にきらっと光る青が差し込んだ。


「……海だ」


蒼司が、思わず呟く。



建物の隙間から、


一瞬だけ姿を見せる水平線。


そのたびに、胸の奥が、少しざわついた。


電車が揺れながら進む先――


目的地は、由比ヶ浜駅。



まだ名前のない時間。


まだ、答えのない関係。


それでも、この春の海だけは、


俺たちを拒まない気がしていた


**由比ヶ浜駅**から少し歩くと、


視界が一気に開けた。



目の前には、


どこまでも続く海岸と、静かにうねる海。


今日は日差しもやわらかくて、


海は澄んだ青に、きらきらと光を散らしている。


「うわぁ……すげぇ……」


思わず、声が漏れた。


「綺麗だなぁ、海なんて。中学生以来だぜ」


蒼司が隣で頷く。


「うん。俺も……そうかも」


蒼司はスマホを取り出して、何枚か写真を撮る。


画面を覗き込みながら、小さく呟いた。


「うん……やっぱり、この色、いいな」


その横顔を見ながら、


俺は、ふと考えてしまう。



――そういえば。



俺は、竜司と付き合ってたけど、


こうして一緒に遠出して、


どこかに出かけることって、


ほとんどなかったな。



学校帰り。


駅のホーム。


電車を待つ時間。


それが、俺たちの“全部”だった。


胸の奥が、少しだけ、きゅっと締まる。



……いやいや。



俺は、頭を振る。


今日は、デートじゃねえ。


今日は――付き添いだ。


そう言い聞かせるように、


俺はもう一度、


青くきらめく海へ視線を戻した。



その後、俺たちは再び**江ノ電**に乗り、


**江ノ島駅**で降りた。



改札を抜けると、


潮の匂いと、人の気配が一気に濃くなる。


徒歩で、**江の島**へ向かう。


島へ続く道の両脇には、ずらっと並ぶ出店。



甘い匂い。


揚げ油の音。


観光地特有の、少し浮ついた空気。



「うお……すげえな、これ」


俺は足を止めた。


「このタコせん。顔よりでかいじゃねえか」


鉄板の上で、


ぺちゃん、と音を立てて押し潰されるタコ。


蒼司は少し驚いた顔をしてから、


「……ほんとだ」


と小さく笑う。


「うん、おいしい」


二人で、


大きなタコせんを割って、頬張る。


パリッ、という音。


口いっぱいに広がる、香ばしさ。



「観光地の食べ物って、


当たり外れあるけどさ」



俺が言うと、蒼司はうなずきながら、


「これは、当たりだね」


と、どこか安心したように言った。



それから俺たちは、


人の流れに乗って、


江の島を、どんどん上へ上へと登っていく。


その後も、俺たちは出店を見つけるたびに足を止めた。


しらすコロッケを半分こしたり。


冷たいソフトクリームを食べたり。


蒼司は気になったものを写真に撮って、


俺はそんな蒼司を見ながら、適当な感想を言って笑った。


他愛もない話ばかりだった。


大学のこと。


高校のこと。


好きな映画のこと。


子供の頃の話。


絵のこと。


野球のこと。


気がつけば、俺たちは思ったよりたくさん話していた。


蒼司は普段から口数が多い方じゃない。


でも不思議と、一緒にいると会話が途切れなかった。


沈黙になっても気まずくないし、


また自然に次の話が始まる。


そんな時間だった。


俺は、ただ蒼司と過ごすこの時間を、


楽しいと感じていた。


その気持ちに、深い意味なんてなかった。


少なくとも、この時の俺は、そう思っていた。



長い階段。


息が少しずつ上がる。


背中越しに、さっきまでいた海が、


少しずつ遠ざかっていくのが見えた。


江の島をさらに上の方へ登っていくと、


ふっと視界が開ける場所に出た。



「……すげー」



思わず、声が漏れる。



海だ。


海しかねえ。


遥か彼方まで、水平線がくっきりと伸びている。


さっき見た**由比ヶ浜**の海とは、


まるで別物だった。



深い。


青い。


どこまでも、青い海。



「……なんだか、吸い込まれそうだな」


俺が少し身を乗り出すと、


すぐ後ろから声が飛ぶ。


「海兄、あんまり乗り出しちゃ危ないよ」


「おっと……そうだな」


俺は苦笑して、一歩下がった。


それでも、胸の奥がふわっと軽い。



「……なんかさ……楽しい」


ぽろっと、本音が出た。


俺は横に立つ蒼司を見て言う。


「今日、来てよかったわ。


なんか久しぶりかもしんねえ。


こんなふうに、楽しいの」



蒼司は、少し間を置いてから、


俺の隣に並ぶ。


「……そっか」


それから、静かに続けた。


「……最近、元気なかったもんね」



図星だった。



潮風が吹き抜ける。


しばらく、二人とも海を見つめたまま。


やがて、蒼司がぽつりと聞く。


「ねえ……兄貴と、連絡とってるの?」


「いや……あんまり」


「……そっか」


「一回、電話はあったよ。


引っ越しの作業が落ち着いたって」


「なんか、話した?」


「いや。特に」



俺は肩をすくめる。


「LINEでやり取りもしてるけど、


大した話じゃねえよ」


そう言いながら、俺はまた海に視線を戻した。



深い青。



飲み込まれそうなのに、


不思議と、怖くはなかった。


俺は、ほとんど独り言みたいに、つぶやいた。



「……今度さ、竜司と、いつ会えるのか分かんねぇ」


そのまま、言葉が止まらない。


「なんかさ、不思議なんだよ」



少しだけ、息を吸う。


「竜司が福岡行くときってさ、


もうこの世の終わりみたいな感じで」



胸の奥を探るように、続ける。


「悲しくて、悲しくて。正直、あのときは何も考えられなかった」



潮の音が、一定のリズムで耳に届く。


「今もさ……めっちゃ寂しいよ」


正直な気持ちだった。


「でもさ」


俺は、目の前の海から視線を離さずに言う。



「竜司がいなくなっても、


世界は、何も変わってねえんだよな」



空は青いままで。


波は、今日も同じように打ち寄せて。



「いつものように朝が来て、一日が始まって、

日常は普通に回ってる」



少し、自嘲気味に笑う。



「俺の生活だって、普通に回ってる」


「来月から大学入学だしさ。


大学野球も、めっちゃ忙しそうで」


忙しさを思い浮かべると、


ほんの少し、救われる気がした。


「忙しいからさ、余計なこと、考えなくても済むかもしれない」


俺は、言い聞かせるみたいに、最後を結ぶ。



「……大丈夫。何とか、やっていける」



その言葉が、


本当に自分に向けたものなのか、


それとも誰かに向けたものなのか、


自分でも分からなかった。



蒼司は、何も言わず、ただ黙って、俺の隣に立っていた。



否定もしない。


励ましもしない。



ただ、同じ海を見て、同じ風を受けて。


その沈黙が、不思議と、一番ありがたかった。


「何か、ごめんな。俺の話ばっか、しちゃって」



少し照れ隠しみたいに、言葉を重ねる。



「蒼司、美大受けるんだろ?頑張れよ」



潮の音に紛れるくらいの、軽い口調で。



「美大って、都内だよな。もし合格したらさ――俺、お祝いしてやるよ」



ちゃんと前を向いてるつもりで。


これ以上、重たい空気にならないように。



そのときだった。



蒼司は、俺の横で、静かに立ち止まったまま、そっと口を開く。



「……海兄……俺、海兄のこと、好きだよ」


「ああ」


俺は、ほっとしたように笑ってしまう。


「俺もだよ」


友だちとして。


大事な存在として。


自然と、そう返していた。




でも――




「違う!」


蒼司の声が、はっきりと、空気を切った。


「そうじゃない。そういう意味で言ったんじゃない‥‥」



俺は、言葉を失う。



蒼司は、一度、唇を噛んでから、


それでも視線を逸らさずに続けた。



「俺は……海兄のこと、


ずっと、ずっと前から好きだった」



逃げ道のない言葉。



「……え?」



間抜けな声が、俺の喉からこぼれ落ちた。


頭が、追いつかない。




「………」




俺は、言葉が出てこなかった。




喉の奥で、何かが引っかかって、声にならない。


蒼司は、そんな俺を見て、ふっと、静かに笑った。


責めるでもなく。


困らせるでもなく。



ただ、少しだけ、寂しそうに。


「……大丈夫だよ」


蒼司は、視線を海に戻しながら言う。


「返事は、いい……」



一拍、置いて。




「ただ……伝えたかっただけだから……」


胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……海兄、もうすぐ、いなくなっちゃうし」



進学。


新しい場所。


新しい世界。



ここに立っている時間が、もう長くは続かないこと。


「……じゃあ」


蒼司は、少しだけ明るい声を作って言った。


「……帰ろうか」


「ああ……」



俺は返事はした。でも、それだけだった。


本当は、何か言わなきゃいけなかった気がする。


引き止める言葉か。


謝る言葉か。


それとも――


正直な気持ちか。



でも俺は、なぜか、何一つ、返すことができなかった。



蒼司は、何かを思い出したみたいに、


ふいに視線を逸らした。



それから、いつもの調子を装うみたいに言う。


「あ、そうだ。……ちょっと、いい?」


「ん?」


蒼司は、少し先を指さす。


「これ、これ」


近づくと、そこには一つの鐘があった。



「ここさ、有名な鐘なんだって。恋人の鐘、らしい」


胸が、一瞬だけ、ざわつく。



「この鐘さ……一緒に鳴らそうよ」


「え……?」


思わず、言葉に詰まる。


「でも……」


「いいでしょ」


蒼司は、穏やかに、でもはっきり言った。


「鳴らすだけなんだから。


せっかく、ここまで来たんだし」


考える時間なんて、与えられなかった。


俺は、引っ張られるみたいに、その場に立たされていた。



「……あ、じゃあ……鳴らそうか」


自分の声なのに、どこか他人事みたいだった。


二人並んで、同時に、鐘に手をかける。




――カン。




――カァン。




澄んだ音が、空に溶けていく。


ここは、


恋人の丘。


恋人の鐘。




なのに。




願いも。


約束も。


何一つ残さないまま。


ただ、音だけが、海へ落ちていった。


蒼司は、鐘から手を離して、小さく息をつく。



「……ありがとう」



それだけ言って、何も振り返らなかった。


俺も、何も言えなかった。


鐘の余韻が消える頃、夕方の光が、海を少しだけ、優しい色に染めていた。


それが、今日という一日の、終わりの合図みたいだった。



――


恋人の丘で鳴らした鐘は、


きっと、誰の願いも叶えなかった。


それでも、確かに、俺たちがここにいた証だけは、


静かに、残っていた。



* * *


藤沢駅から、東海道線に乗り大宮方面に帰る。



俺と蒼司は、


帰りの道中、ほとんど会話をしなかった。


でも、不思議と気まずくはなかった。


車窓の向こうでは、夕暮れの街並みがゆっくりと流れていく。


今日一日を思い返す。


海を見たこと。


江の島を歩いたこと。


食べ歩きをしたこと。


他愛もない話をたくさんしたこと。


俺は素直に思っていた。


――楽しかったな。


久しぶりだった。


何も考えずに、ただ一日を楽しめたのは。



隣を見る。



蒼司は窓の外を眺めていた。


流れていく景色を見つめる横顔は、


どこか穏やかで、少しだけ寂しそうにも見えた。


俺はそんな横顔を、静かな気持ちで見つめる。


会話はない。


でも、その沈黙が苦になることはなかった。


むしろ心地よかった。


電車の揺れに身を任せながら、


俺は今日の最後の出来事を思い出す。


蒼司の告白。



突然だった。



驚いたし、正直、今もどう答えればいいのか分からない。


だけど――


蒼司は言った。


返事は、すぐにしなくていい、と。


俺は、その言葉を、そっと胸の奥にしまった。


窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。


今日聞いた鐘の音も、海の匂いも、蒼司の声も。


まだ胸のどこかに残ったまま、


静かに夜へ溶けていった。


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