第1章 カイトと蒼い海
佐々木海斗
俺は、小さい頃から
あいつの描く絵が好きだった。
青い。
蒼い。
どこまでも深い海。
青柳蒼司は、
いつも静かに、絵を描いていた。
声を荒げることもなく、
誰かに見せようとするでもなく、
ただ、そこにあるみたいに。
キャンバスの前に座って、
黙って、海を描いていた。
* * *
蒼陵高校
2027年8月
その年、
蒼陵高校は夏の甲子園に出場した。
結果は――
ベスト8。
優勝争いには届かなかった。
あと一つ、あと一回、というところで敗れた。
それでも。
学校内は、かつてないほどの盛り上がりを見せていた。
廊下には応援の垂れ幕が残り、
教室では、試合の話題がしばらく尽きなかった。
「あの回のピッチングがすごかった」
「あと一本出てたらな」
誰もが、少しだけ悔しそうで、
それ以上に、誇らしそうだった。
全国の舞台に立ったという事実は、
確かに、この学校の歴史に刻まれていた。
負けた。
けれど――
何も残らなかったわけじゃない。
蒼陵高校の夏は、
確かに、そこにあった。
* * *
2027年9月1日
新学期。
職員室には、朝のざわめきがあった。
コピー機の音、書類を揃える音、
湯気の立つマグカップ。
隣の席には、俺のもと教え子の佐伯青。
いまは、俺と同じ保健体育教師で野球部コーチ。
俺と青は、いつものように並んだ机に座っていた。
職員室で顔を合わせると、自然と会話が弾む。
授業の話。
部活の話。
甲子園の試合の話。
特別なことは言わない。
それでも、朝の時間が少しだけ和らぐ。
そこへ、朝礼が始まる合図が入った。
「えー、皆さん。おはようございます」
教頭の声で、職員室の空気が、少しだけ引き締まる。
「今日から臨時教師として
来ていただく先生を紹介します」
数人が顔を上げる。
「こちら、美術担当――
青柳蒼司先生です」
一瞬の、静けさ。
「……はじめまして。
青柳蒼司です。よろしくお願いします」
低く、落ち着いた声だった。
俺は――
その名前を聞いた瞬間、硬直した。
(……え?)
(なんで?)
(なんで、蒼司?)
(なんで、今ここにいる?)
心臓が、一拍遅れて強く打つ。
周囲では、軽い拍手と挨拶が交わされている。
けれど、俺の耳には、ほとんど入ってこなかった。
* * *
体育準備室
体育準備室で、青が俺に声をかける。
「佐々木先生、なんか今日、元気ないですね。
どうかしました?」
「……いや。なんでもねえよ」
無理に、いつもの調子を作る。
「さあ、今日から新体制だ。
野球部の練習、決めていかないとな」
「はい」
それ以上、何も言わなかった。
数日後
それから数日。
俺は、職員室で
青柳蒼司の姿を見ることが増えた。
昼休みの時間。
廊下の端。
職員室の入口。
けれど――
話しかけることはない。
目も、合わせない。
蒼司も同じだった。
挨拶以上の言葉は、ない。
視線が交わることも、ない。
まるで、最初から
いなかったみたいに。
俺は、ふと気づく。
(……違う)
(あいつ、蒼司じゃない)
ただ、
そこにいるだけだ。
それが、
一番、厄介だった。
* * *
昼休み。
俺は、職員棟の廊下を歩いていた。
美術準備室の前を通りかかったとき、
扉が、ほんの少しだけ開いているのに気づく。
――あれ? 開いてるな。
足が、自然と止まった。
中をのぞく。
一面、青だった。
キャンバス。
壁。
床に立てかけられたパネル。
青い。
蒼い海。
一つじゃない。
濃い青、薄い青、くすんだ青。
同じ海なのに、全部違う。
中には、
シャチなのか、イルカなのか、
はっきりしない動物も描かれている。
波の下を、静かに泳いでいる。
(……やっぱり、蒼司の絵だ)
そう思った瞬間。
背後から、声がかかった。
「佐々木先生。どうかされましたか?」
びくりと、肩が揺れる。
振り返ると、
そこに立っていたのは――
青柳蒼司だった。
昼の光を背にして、
表情は読めない。
俺は、慌てて視線を逸らす。
「あ……悪い」
一歩、後ろに下がる。
「扉、開いてたからさ」
間。
視線を合わせないまま、
言葉だけが先に出る。
「……蒼司だろ」
自分でも、変な言い方だと思った。
「蒼司……だよな?」
沈黙が返ってくるのが怖くて、
言葉を重ねる。
「なんで、そんな他人みたいな顔してんだよ」
苛立ちが、声に混じる。
自分に言っているのか、
相手に言っているのか、分からない。
「……それは」
静かな声。
「お互い様……、だろ。」
俺は、思わず顔を上げる。
「……久しぶり……カイト」
その一言で、
時間が少しだけ、戻った気がした。
「……前に顔合わせたの、
5年ぐらい前だね。」
「……そうだな」
短く、肯定する。
「……ていうかさ」
冗談めかした声を出そうとして、失敗する。
「なんで、よりによって……」
言い切れず、言葉が途切れる。
蒼司は、少しだけ視線を落とした。
「美術教師に、産休の代替募集があったので」
事務的な口調。
「そっか……蒼司、こっち帰ってたんだな」
「……うん。
四国の高松で美術教師やってたけど、
……辞めて、戻ってきた」
「……そうか」
少し間があく。
「実家に?」
「いや。
……もう、実家に帰る年でもないし」
一拍。
「大宮で、一人で暮らしてる」
「一人で」という言葉に、
俺の意識が引っかかる。
「……一人、か」
「うん」
「……そうか」
言葉は続かなかない。
「……カイトは?」
一拍。
「一人?」
「ああ。ここの教員宿舎に住んでる」
蒼司は、ゆっくりと視線を落とした。
その仕草が、
何かを確かめるみたいで。
「……まだ、兄貴のこと……好きなんだ」
俺は、思わず眉をひそめる。
「……は?」
声が、少しだけ強くなる。
「なんで、そうなる。
……もう、昔のことだろ」
蒼司は、否定しなかった。
言い返しもしなかった。
ただ、静かに言う。
「……俺さ」
一度、息を吸って。
「……カイトのこと」
間。
「……好きだよ」
それだけだった。
「……え?」
言葉が、出てこない。
何か言わなきゃと思うのに、
頭の中が、真っ白になる。
「俺は――」
言いかけた、その瞬間。
リーン、ゴーン。
校内に、チャイムの音が響いた。
二人の間に、
はっきりとした区切りが落ちる。
無言。
「……あっ」
蒼司は、静かに息を吐いてから言った。
「……授業、始まるね」
一歩、後ろに下がる。
「俺、行かないと」
「……あ、ああ」
それだけ。
蒼司は、何も振り返らずに歩き出した。
廊下に、足音が遠ざかっていく。
俺は、その場に立ったまま、
胸の奥に残った言葉を、
どうすることもできずにいた。
* * *
午後。
俺は、
言葉にならないものを胸に抱えたまま、
いつも通り授業に立ち、
いつも通り野球部の練習を見ていた。
声は出している。
指示も出している。
けれど――
どこか、少しだけ遠い。
球児たちは気づく。
(今日の佐々木コーチ、なんか変だ)
青も、ちらりと横を見る。
(……佐々木先生、いつもと違うな)
理由は分からない。
でも、確かに、違う。
野球部の練習は、
予定通り、十九時に終わった。
自主練を続けるもの。
片付けの声。
グラウンドに残る、夕方の匂い。
俺は、そのまま宿舎には戻らなかった。
足が向いたのは――
美術準備室だった。
静かな廊下。
灯りの落ちた校舎。
扉を開ける。
中には、もう誰もいない。
蒼司はいなかった。
それでも、
そこには海があった。
壁に立てかけられたキャンバス。
床に並ぶ、未完成の絵。
青い。
蒼い海。
深くて、静かで、
どこまでも続いているみたいな色。
俺は、しばらく黙って見つめてから、
小さく息を吐いた。
「……やっぱり、好きだな」
誰に向けた言葉でもなく。
「……蒼司の絵」
声に出した途端、
胸の奥が、ゆっくりとほどけていく。
思い出す。
子どもの頃。
高校の頃。
黙って、海を描いていた蒼司の背中。
言葉は、ほとんどなかった。
でも、あの海だけは、
ずっと覚えていた。
今も、同じだ。
気づけば、
俺はその場に立ったまま、
蒼司の描いた蒼い海に、
静かに飲み込まれていくような気がしていた。




