葉桜と少女
薄紅色が緑に移り変わるその間だけ、葉桜は現れる。
通りすがりの人たちは言った。
「桜散っちゃったね」
「またすぐに夏が来るよ」
過去と未来、その狭間の「今」を見る人は誰もいなかった。
葉桜は自分の存在する意味を見出せないまま、ただ曖昧で中途半端な世界を眺めていた。
けれども、ある年の若葉が芽吹く頃、葉桜が佇む公園の一角で、一人の少女がこんなことを言った。
「あったかいですね」
その瞬間、葉桜の瞳に映る景色は様相を変えた。春先とも晩春とも呼べない時間が、確かなものになったような気がしたのだ。
「そんなところで何をしているんですか?」
葉桜を見上げて少女が問いかける。
混じり気のない純粋な——いや、色んなものが混ざっていて、それでもなお透き通った彼女の瞳が、葉桜を真っ直ぐ見つめていた。
「私を見ているの?」
葉桜が少女に問い返す。
枝が揺れて、花びらがひらりと舞い、彼女のまん丸な頭に落ちた。
「あなたを見ているんですよ」
根元から前髪の先までをつまんでなぞるように、そのひとひらを鼻先まで持ってきて、少女が葉桜に微笑みを向ける。
葉桜は過去と未来のことを考えることができない。そんなふうに生まれてきた。だから、何かを覚えていても、思い出すことはできない。しかし、それでも確信があった。今自分が見ている景色を美しいと感じているのは、きっとこの少女のおかげなのだと。
「それで、何をしているんですか?」
再び彼女が問いかける。
葉桜は多分生まれて初めての笑顔で答えた。
「——君を探していたんだと思う」
◇
それから毎年、葉桜と少女は言葉を交わすようになった。
「あったかいですね」
「そうだね。風も気持ちいいね」
「そうですね。空気がおいしいです」
そんな取り留めもない、どこへも行かない、刹那的な会話が、二人にとっては心地よかった。
少女の装いが変わっても、髪や背丈が伸びても、時期が来れば、二人は変わらず、その時感じたことを声に出していた。
「綺麗ですね」
「君もね」
お互いの頬を撫でるような言葉が穏やかな空気に溶けていく。
そうして葉桜はいつも満足そうに眠りにつくのだった。
◇
ある日を境に、少女は現れなくなった。
葉桜は過去を思い出すことができない。だから、漠然と何かが足りないという感覚だけがあった。
世界は美しい。だけど、満たされない。
誰も自分を見てくれないから。
自分の存在価値を認められないから。
次第に葉桜の瞳に映る世界は色を失っていった。
世界を美しいと感じることもなくなっていた。
「もうすぐ夏が来るよ」
誰かの何気ない一言に、酷く心が痛んだ気がした。
◇
それから何年か経ったある日、葉桜の元に一人の女性が現れた。
彼女は覚束ない足取りで、辺りを見回しながら、不安そうに何かを探していた。
立派な装いをしているのに、迷子の女の子のようにも見えた。
葉桜は女性が右往左往している様をただ眺めていた。
そうしている間に雨が降り始めた。
周囲が薄暗くなって、空気が冷えていく。
雨が降るたびに、葉桜の瞼は重くなる。
水滴が枝に降りて、伝った先の花びらを落とす。
その度に、葉桜は自分の意識がぼんやりと消えていくのを感じていた。
そして、最後のひとひらが枝を離れると、少しの間空を揺蕩った後、そっと声をかけるように女性の頭に舞い降りた。
女性は何かを見つけたように目を丸くすると、それから花びらをつまんで頭上を見遣った。
葉桜は、過去を思い出せない。
未来のことを想像できない。
けれども、確信があった。
女性は多分こう言おうとしていたのだ。
「——あなたのことを探していました」
眠りにつく直前、葉桜は少女の微笑みを見たような気がした。
◇
翌年、葉桜が目を覚ますと、そこには誰もいなかった。
けれども、なんの変哲もないその景色が、葉桜には美しく見えた。
何かが足りないのに、それと同時に十全であるような気がした。
相変わらず、誰も葉桜のことを見てはいない。
「桜散っちゃったなあ」
「もう夏が来たみたい」
過去と未来、その狭間を見る人は誰もいない。
——それでもよかったのだ。
不思議と誰かが見ている気がしたから。
誰かが自分のことを想っている気がしたから。
今じゃなくてもいい。
その場にいなくたっていい。
いつだって、どこだって、人は過去と未来を想うことができるから。
美しいのは、そこにあるものだけじゃない。
探していたのは、見えているものだけじゃない。
今あるものだけが、自分じゃない。
葉桜には確信があった。
自分はただここに居続ける。
時折眠って、目を覚ます。
それは一生変わらない。
たとえ何かが変わっても、自分が葉桜であったことは変わらない。
だからきっと大丈夫。
誰にでも、どこにでも、いつでも、存在価値はあるから。
ここで、今までも、これからも、葉桜は葉桜であり続けるのだ。




