消えゆく人々
【俺】の死
光が水中で屈折しているという、とても重要で大切なことに俺が氣付いたのは皮肉にも、あの脳内麻薬の症状からだった。あまりにも綺麗な水であったから、俺はその存在に暫く氣付けないでいたが、しかし、誰かがそんなことを言っていたような氣もした。新しい世界には、忘れている記憶の欠片がいくつかあった。〈自分〉は幼い頃の思い出と、現在の〈自分〉を俯瞰から客観視していた。〈自分〉はそこに悪魔を見た。そこにいるのは自分自身であったが、その容姿の醜さ、性格の歪み、憎たらしさは異常であった。〈自分〉はとてもショックを受けた。羞恥と嫌悪で膨れ上がった俺の感情は、やがて殺意に変化していった。吸い込まれそうな身体を、理性で強引に現実へと引き戻すのが唯一、殺意から逃げる手段であった。そうして洗面所で顔を洗って、気分転換をする俺は、鏡の中にいる水で濡れた醜い悪魔を睨んでいた。俺が右手を動かすと、鏡の中の悪魔も右手を同じように動かした。俺の真似をしやがって。今度は悪魔の方から右手を動かしてきたので、俺も右手を真似て動かした。悪魔は、その醜い顔に薄っすらと笑みをうかべた。
【何が可笑しい?】
悪魔が笑い、「鏡だったら、お前が右手を動かせば、左手が動くだろう? これは鏡じゃない。俺は、お前だ」と言って俺の首を、片手でつかんで鏡の中に引きずり込んだ。悪魔は、鏡の中で俺の首を千切れるまで締め上げた。〈自分〉はその光景を何も言わず見ていた。俺の頭が千切れて、床に落ちても悪魔は、まだ不満そうであった。
(私)の死
鏡に映る私に、いつも違和感を感じた。これは私じゃない。何故、〈自分〉は美を、私に与えないのだろうか? 〈自分〉は知っている。完璧を手に入れた時の絶望と孤独、その瞬間から始まる崩壊を。私は常に完璧な美しさを求めた。それは性別を超越した欲、生死の無いもの。完璧な美しさ、この言葉に沢山の矛盾と、可能性を抱かずにはいられなかった。花屋に飾ってある花の美しさは、数日で朽ち果てる。土にかえることもなく、ハサミで切り刻まれてゴミとなる。数日前まで綺麗に飾られていた花たちは、ごちゃ混ぜに大きな棺桶に入れられて、翌日には火葬される。花屋に並ぶ切花は、根から切り離された瞬間に、ゆっくりと死へ歩み出す。人間が産まれるのも、切花に近いものがあると私は思った。私は生という薔薇のトゲで血を流すよりも、死という一片の花びらのように、右に左に揺らめいて音も無く、花瓶の水の上に舞い落ちて、そして今度は水中をゆっくりと落ちてゆく、あの忌々しい深紅の薔薇のように、美しく散ってしまいたかった。水中では、底へ近づくほどに目は見えなくなり、耳は聞こえなくなる。ようやく私だけの世界が広がるの。
(あなたの描く絵は、美しいわ)
『あれは、僕が描いたわけじゃない』
(じゃあ一体、誰が描いたっていうの? その人、名前あるの?)
『知らない』
(私は見たわ、あなたの瞳越しに。けれども流れている血は醜かったわ)
『血なんて醜いものだ』
(でもあなた、その醜いものを舐めていたでしょう? 恍惚とした気分で)
『そんなことはない』
(私は、不快だった。誰の仕業なのかしら…私は、あなたの為になら死んでもいいわ)
僕は戸惑った。〈自分〉はまだ、一人になる勇氣はなかった。孤独に耐えられるかもわからなかった。その時に一体何が起きるのだろう、という好奇心もあった。
〈消えないでくれ〉
(あなたの気持ちはわかる。一心同体だったから。いや、同体ではあったけれど、一心ではなかったわね)
〈まだ消えないでいてくれないか?〉
(今更、何を言っているのよ。あなたが望んだことでしょう)
〈もう少しだけだ〉
(それは私の、美学じゃないわ)
『この人は消えるよ』
〈誰だお前は?〉
『僕は、僕だよ』
〈どうして、消えるってわかるんだ?〉
『僕はずっと、近くで見てたからね。君も本当は、知っているんだろう? あの人のことだから。僕が知っているんだから、君も……氣付いているかい? もうあの人、消えちゃったよ』
『僕』の死
大きな病院の非常階段を、必死で僕は駆け下りていた。誰かが追って来ている。瞬きするほんの一瞬の暗闇も恐れるほど僕は、必死に逃げた。僕を追っている誰かの手に、刃物が握られているのを僕は階段の手摺り越しに見た。誰かが、僕を殺そうとしている。非常階段では足音が大きく響いた。自分はなるべく大きな足音で、アイツを怖がらせようとした。頭の中で声が響く。
〈逃げても無駄だ〉
僕は途中の踊り場にあった扉を、体当たりして開け放った。僕はすぐに扉を閉めると同時に、鍵を掛けた。誰かの気配はもう無かった。重い鉄の扉を背にした僕は、真っ直ぐに伸びた廊下の、あまりにも無感情な色気や匂いに、ぼんやりとした不安を感じ目を閉じて深呼吸をした。暫くして目を開けると窓の向うに、夕陽に染まったトンボが何匹も、飛んでいるのが見えた。醜い僕は、いつか羽化してトンボや蝶のように、美しく空を飛びたいと願った。初めて僕が夢を抱いた時、重く鈍い音に驚いた。窓の外の世界に見とれていた僕は、正面から刃物で心臓を刺され、その衝撃で後ろの扉に全身を強く打った。
茜色の雲が遠くにあるのか、近くにあるのかわからなかったが、僕はこの空にあの夢を重ね合わせて見つめていた。僕の目はずっと開いたままに、心臓はもう二度と動くことはありませんでした。
〈自分〉の死
〈自分〉は漸く、向き合う覚悟が出来た。或る夜、〈自分〉は真っ暗な部屋の隅に座り、目の前に座っている悪魔を睨みつけて言った。
〈諸悪の根源よ、やっと対峙することができたな〉
「臆病者め。俺も待ち望んでいた、この瞬間を、お前と会えるのを」と悪魔が笑って言った。
〈馬鹿を言うな。お前は、今までの光景を笑いながらずっと、見ていたはずだ。そうして沢山の人々を、弄んでいたんだ〉
重たい雨の音が、〈自分〉の耳に響いていた。〈自分〉は語気を強めて言った。
〈最後はお前だ。消えてもらうぞ〉
悪魔の笑いが止まった。そして、触れるほどに顔を近づけて、
「何を言ってやがる。まだお前は、氣付かないのか? ずっと、見ていたのは、お前の方だろ? 俺は、悪魔じゃない。最後の一人それは、お前だ。最後に消えてゆくのは、お前だ」と言った。
部屋の中に雨が降り出した。これは現実じゃないと必死に、〈自分〉に言い聞かせた。心臓の鼓動が段々と、はやくなっているのがわかる。〈自分〉は目の前の暗闇と雨の音に、吸い込まれてゆくのを感じながら、〈自分〉自身が悪魔であると、全て辻褄が合うことに氣が付いた。いや違う! これは罠だ。誰かの罠だ。目を閉じた暗闇にも、雨粒が飛んできた。ほんの一瞬、光った雨粒に、自分の姿が逆さまに映っていた。その容姿は悪魔、そのものであった。自分は今まで善人のふりをして、己を欺こうとしていた滑稽な、悪魔。情けなくて涙が出た。暫くして自分は、何もかも受け入れる氣持ちが出来た。そして心の中で、何処かの“誰か”に別れを告げた。不意に「さようなら」“誰か”が、そう言った。




