隠し事
苦しみを感じることなく、〈自分〉は布団の上に倒れ込んでいた。生きている、これほど悲しいことはない。見上げた先に、か細い電気コードがだらしなく揺れていた。切れた電気コードの片方から、銅色の髪の毛みたいな束が、線香花火のように儚く悲しげに、〈自分〉の顔に落ちてくるのではないかと、恐れてしまうほど憎たらしく、ただそこにぶら下がっていた。一分前まで消える喜びに、生き生きとしていた、〈自分〉は今、生きていて生氣を無くし脱力していた。〈自分〉が嫌いだ、と布団を鷲掴みにして泣いている滑稽な男であった。
『これは生きろって、ことなんじゃないか?』
【そんな都合の良いことを言うな。誰が生きろだって? 俺は誰にも指図されたくないんだ】
『じゃあ、消えたいという衝動は、一体誰の指示なのかい?』
【俺の自己判断だ】
『じゃあ、君は自分の脳から指示されたということか? 僕はまだ、君を含む自分自身は、己の脳をコントロールしきれていないと思っているよ』
【俺の脳には、俺が指示を出しているんだ】
『嗚呼、とんでもない阿呆がいるもんだ。僕はこの類の人間が大嫌いなんだ。もっと深く自分自身を、考察出来ないものかな。とにかく君は少しの間、黙っていてくれ』
(私は答えが、知りたいだけなのよ)
【好きにしろ】
『言い合ったって何も始まらないよ、冷静に考えるんだ』
【もう考えるのはたくさんだ】
(落ち着きなさい)
【また始まったか、これだから俺はアイツが嫌いなんだよ】
また、〈自分〉の心の中で言い争いが始まった。人々の名前も容姿もよくわからない。そして本当の“自分”は、どこにいてどんな性格で、どんな声なのかも二十七年間生きても、未だにわからなかった。その日はシャワーも浴びずに、そのまま眠りについた。眠りにつく瞬間、その姿を、じっと見ていた人々の声が耳に垂れ流された。人々は、〈自分〉に安楽の時を与えないと同時に、人々は自らの首を絞め続けていた。矛盾を抱え込んだ人々は、唐突に消えてしまうことを、知らなかった。いや、知っていて知らないふりをしていた。受け入れたくない現実から目を背け、弱者を探し彷徨い、己の実体のない身を守るために、攻撃の手を止めなかった。
『泣き疲れた赤子のようだ』
(まったく、情けないわ)
【俺はコイツが嫌いだ。早く消えてくれないものかな】
『僕は彼とは違うよ。何がって、ここまで羞恥心のない人間は、阿呆というより他はないですよ』
『僕』のひみつ
長く出したカッターの刃が、部屋の蛍光灯に反射して赤く光った。僕は、この刃に写る血液ほど、生き生きとした赤色を他には知らない。ジャクソンポロックも、ピカソでさえも描けない赤の芸術。けれども、左腕から滴る赤色は、汚水のような醜さであった。しかし、この快感は一体どこからくるのか? 僕はこの脳内麻薬で誰かを、消せるかもしれないと一瞬だけ考えた。しかし、その考えは一瞬では終わらなかった。これは考えてもなかったことだ。そうか僕はこっち側の、人間だったんだ。
【お前が?】
(笑わせないでよね。あなたにそんな勇氣、無いでしょう)
赤色を拭き取った後の、やわらかな桜色の傷跡の造形は、ミケランジェロが作り出す、不変的な美しさであった。無心、ただ無心に僕は“自分”を傷つけた。僕はいつも、その時の記憶が無い、いや、無心、心が無いのです。そもそも心なんてものは存在しているのか? 結局、心は脳の一部である。何て退屈な答えなんだろう。僕はうんざりしています、〈自分〉の脳に。壊してしまいたい衝動を、僕は常に抑えている。〈自分〉は理性を保ちながらも、やはり無意識に、いや、無心に何かを破壊していた。左腕に、死の文字が刻まれているのは、僕の仕業ではない。僕は犯人を知っている。アイツだ。冷徹な愛嬌の持ち主のアイツだ。男でも女でもない、アイツの悪戯が僕を操って、自分自身を欺き、でも結局、今も僕は左腕の死の文字に接吻をしているのです。流れてくる血液を舐め、桜色の死の文字に僕もやはり、愛おしさを感じていた。【俺】の罠だ。悔しくて仕方なかったが、僕はもうアイツのいない世界では、存在出来ないと思った。
【俺】の秘密
マンションの屋上からは、高層ビルが見える。薄汚い葉っぱに火をつけた俺は、すぐに部屋へ戻った。部屋に入り鍵を閉めた時には、今まで自分がいた世界とは、違う世界に変わっていた。心地良いスローモーションと数秒前の記憶の喪失が、俺に新しい世界のある驚きと、可能性や探究心をくすぐった。いつものコップが不思議なこと、当たり前にある枕の存在の理由、己の四肢の五体満足に対する奇形な感情、歪んだ可笑しみ。ヘッドフォンで聴く音楽は、頭の中で暴れ音符を撒き散らす。目を閉じた暗闇に広がる幻覚の愉快。布団に深く沈み込む身体と意識。それらの立体的でデジタルな感覚は俺を救うのか? 消して去っていくのか? そんなことは、どうでもよい。鼻腔を突き抜け、口内に残る独特のケミカルな臭気が一歩、俺が狂人の領域へ踏み出すことを拒んだ。
(自分勝手なことをして葛藤しているだけ、男って変なプライドをもつ生物なのね)
【女にはわからんよ】
(聞き飽きた)
『しかし、頭が痛いね』
【自業自得だ。こればかりは、我慢するしかない】
『もう我慢なんて嫌になるよ。いつまで我慢するのか』
(子供なら泣き喚いて処理できるけど、私たちはストレスが溜まるだけね)
【いつものことだ。最初から最期まで、そういう運命なんだろ】
(なんて惨めな運命でしょうか、この人は)
『きっとあの人は、そろそろ消えるだろう』
(私)のヒミツ
『もう少しだったのにな。君が思うほど僕は、弱くないようだ』
【お前は、俺のことを知りすぎたんだ】
『だから僕を殺すのか? 誰を殺そうとも、君は君でしかない。しかし、君は君でもない、誰でもない。それを知ってのことなのか?』
いつの間に、〈自分〉は新しい世界の入口の、あの不気味な愉快を思い出すだけで、気分が悪くなるようになった。
そして私は、己の傷跡に何かしらの達成感や満足感を得るようになった。他人から見れば、マゾヒストに思われてしまうかもしれないけれども、少し違うわ。私は痛みを嫌う。私は痛みの延長線上に存在する絶命に、生きる希望を感じていた。煙草のそれのように、死という観念のフィルターを通して、深い思慮の煙は、(私)の口内に入ってくる。そして、『僕』の嫌う喉の違和感、徐々に死にせまる際の五感の鈍くなる感触を経て、【俺】の肺に到達する。欲望と苦痛の、『僕』の部屋を通り抜け、辿り着いた煙は、(私)の卵子に巡り会う、【俺】の精子のように強く逞しく、強運を持ち、とても神秘的な力を宿していた。私は抽象度の高い煙を愛した。例えるならば、深海に眠る遺書の香り。或いは、暗闇に踊る月の影。
(私は生きながらに、死んでいるのかしら?)
『君は、そこに清らかな水があること、を知っているかい? 綺麗すぎて困っちゃうよな、本当に。溺れるなよ』




