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雨宿り

作者: 通りすがり

「あー、降ってきやがった」

フリーライターの貴志は、取材先からの帰途、激しい夕立に見舞われた。

傘を持ってこなかった自分を呪いながらも、しばらくどこかの軒下で雨宿りをしようと辺りを見回す。

ふと、道の向こう側にある公園に目が止まった。

鬱蒼とした木々の中に、古びて朽ちかけた東屋のような休憩所がある。

雨を凌ぐには丁度良い、そう思うと同時に貴志は公園に向けて歩き出していた。



信号のない横断歩道を足早に渡ると、公園を囲う柵を乗り越え休憩所へと入る。

中には苔むしたベンチが一つあるだけだった。

フゥとため息をついてから、貴志はそのベンチへと腰を下ろす。鞄からタオルを取り出すと、濡れた髪を無造作に拭った。

酷い目にあったが、とりあえず今日予定していた取材が終わっていたのは不幸中の幸いだと思った。

そのときだった。

自分の正面に誰かが立っていることに気づいた。

――いつからいたのか。近づいて来る音もなく、気配すら感じなかった。

それは小学校低学年くらいの女の子だった。

白いTシャツに青いスカートを着けている。

少女は表情はまるで仮面のように無機質で、ただ貴志をじっと見つめている。

そして、その少女の背後には、こちらに背を向けて立つ老婆の姿があった。

老婆は黒いシャツに黒いカーディガン、黒いスカート――まるで喪服のようだった。

二人とも傘は持っていないようだが、それでいて一滴の水滴すら体にはついていない。

「ごめんね、ちょっと雨宿りさせてもらえるかな」

貴志は少女にそのように声をかけたが、返事はない。

ただ、まばたき一つせずに貴志のことを見つめてくる。

貴志は気まずさを覚え、タオルで再び頭をくしゃくしゃとこすった。

「後ろにいるのは、きみのおばあちゃんかい」

その問いに、少女は小さく頷いた。

「そうか。じゃあ、お父さんとお母さんは仕事かな」

すると、少女が表情を変えることなく言った。

「お父さんは、どこか遠いところに行ったって。お母さんは、殺された」

「へっ……」(殺された?)

あまりに唐突な話に、貴志は間の抜けた声を漏らしてしまった。

「ああ……そうなんだ。ごめんね。嫌なこと訊いちゃったかな……」

すると、それまで関心なさそうにこちらに背を向けていた老婆が、ゆっくりと身体をこちらへと向けた。

老婆の顔には、見覚えがあった。いや、忘れられるはずがない顔だった。

「この子、咲良は私の娘弘美の娘、つまり私の孫です」

老婆の声は落ち着いてはいたが、粘度を感じさせる声だった。その口から発せられる言葉の一つ一つが生々しく、深い怨嗟が混じった声のように思えた。

「この子の母親弘美は、夜、自宅へ帰る途中に殺されました。犯人はすぐに捕まりました。それは夫、つまりこの子の父親数馬でした」

知っている。そう、この子の母親は父親に殺されたのだ。

「世間は、最初こそ夫に殺された妻として弘美に同情してくれました。ですが、あなたが書いたあの記事……」

そこで老婆の声がわずかに震える。

「あの週刊誌の記事によって、すべては変わりました。弘美が不倫をしていて、不倫相手と会った帰りに、尾行してきていた夫に殺された――そう書かれていました。

それを読んだ世間の人々は、弘美の死に対して、同情よりも非難を向けるようになりました」

貴志は立ち上がりかけた。脳裏に、過去の記憶が甦る。

「たしかに弘美は不倫をしていました。しかしそれには理由があったのです。数馬は定職にもつかず日中はパチンコ屋に行くか家で寝ているかという、本当に駄目な夫でした。そんな数馬に代わり家計を支えるために弘美は働きに出ていました。しかし、パートで貰える給料だけではとても生活はできません。そこでやむを得ずに夜の仕事、水商売につきました。弘美はほとんどお酒が飲めませんでしたが、それでも無理をして仕事を続けていました。しかし、やがてその無理が祟ったのか、体調を崩してしまいあまり仕事に行けなくなってしまいました。そんな弘美を見て、弘美を贔屓にしてくれていた客の一人が、自分の愛人にならないかと弘美に持ちかけました。今まで店でひと月に貰っていた給料分を毎月払うと条件をつけて。弱みに付け込まれているのは弘美もわかっていましたが、咲良のためと思い、その話を受けたのです。つまり不倫をしていたのは生活を...咲良を守るためだったのです。しかし、その週刊誌のせいで不倫をしていたということだけが世間に事実として広まってしまい、弘美は悪い母親として、死んだ後もひどい扱いを受けています」

貴志は何も言えず、ただ黙って聞いているしかなかった。

「私は何度もお願いしました。事実をすべて公表して訂正してください。弘美は決して悪い母親ではなかった、と。けれどあなたは言った。"俺は嘘は書いていない。だから訂正する必要はない”と」

老婆が俺を見る目には、深い怒りと悲しみが浮かんで見える。

「嘘は書かなくても、都合のいい事実だけを選び、他を切り捨てた。そんな記事が、人を簡単に貶めることができるのです」

貴志は必死に言い返す言葉を探したが、老婆の言葉が真実であることを知っているだけに、何も言い返すことはできなかった。

――たしかにあの記事では、彼女にとって都合の悪い話しか載せていなかった。その方が読者受けがいいという判断だった。

「もう……やめてください。二年前の話でしょう……。いい加減にしてくれ」

少女と老婆の視線が、氷のように貴志の胸に刺さる。

貴志は耐え切れず、立ち上がると雨の中へと駆け出していった。



風呂から出た貴志は、濡れた髪をタオルで拭きながら、妻美久にぼやいた。

「ほんと、参ったよ」

美久は苦笑を浮かべて答えた。

「だから傘持って行ってって言ったじゃない。あなたが聞かないからよ」

貴志は首を横に振った。

「いや、そうじゃなくて……今日、あいつに会ったんだよ。あの婆さんに。それに女の子も一緒にだった」

美久の顔色がさっと変わった。

「おばあさんってあの?……本当に、あのおばあさんだったの?」

貴志はソファーに腰かけると、立ってこちらを見ている美久を上目遣いに見上げながら答えた。

「間違いないよ。何度も家に押しかけてきたあの顔、忘れるわけがない」

美久は黙り込んだ。顔色が青ざめている。そして、静かに震える声で言った。

「そんなことあるはずないわ」

貴志は妻の様子に何か異変を感じていた。

「どうしたんだ、何かあったのか」

美久は貴志の隣の開いているスペースに腰かけて、貴志を見つめた。

「実は私、あなたに言ってなかったことがあるの。あのおばあさん、もうこの世にはいないのよ」

「え……?」

「一年前、ネットのニュースサイトで偶然見つけたの。車に轢かれて亡くなったって。今日みたいに雨が降っていた日で。それ、あのおばあさんだった」

貴志はただただ混乱していた。

「嘘だろ......、じゃあ、さっきの婆さんはいったい」

「ねぇ、会ったのはどこ?」

「A町の公園.....,近くに信号のない横断歩道があったよ」

美久の表情が凍りつく。

「たしかニュースで事故があったのはA町って言ってた……」

「じゃあ、あれは幽霊ってことなのか」

貴志は信じられない様子だったが、必死に考えて状況を理解しようとしていた。

「女の子が一緒にいたって言ってたよね。その女の子は誰なの」

「女の子……、ああ、婆さんの孫、あの事件で亡くなった女性のむす......」

貴志はそこまで言って言葉を詰まらせた。

さっきの美久の話だと、交通事故で亡くなったのは老婆だけだったようだ。

ならば、あの無表情のままこちらを見つめていた少女。あの少女は一体――。



貴志は次の日からあの女の子、咲良を探し始めた。

咲良は母親が父親に殺害された後は、母方の祖母に引き取られて暮らしていたが、その祖母が亡くなった後は、他に身寄りがなかったため児童養護施設に引き取られたということだった。

貴志はその児童養護施設を探し出して訪ねた。応対に出てきた女性職員は、貴志の名刺を見てすぐに顔を曇らせた。

「咲良さんはこちらにいましたが、数ヶ月前に養子として引き取られていきました」

「その引き取られた先がどこか教えてもらえませんか」

女性職員は明らかに迷惑という表情を浮かべた。

「申し訳ありませんが、引き取ったご家族の情報はお伝えできません」

「そうですか、わかりました」

貴志はそう言いながらも、内心では(調べようはいくらでもある。すぐに調べよう)と思っていた。

だが、そのとき、女性職員は何か思い出したように手をたたいた。

「あっ、そういえば、咲良さんが引き取られていくとき、『もし自分を訪ねてくる人がいたら、これを見せて』って封筒を残していったんです」

女性職員が自身の机の引き出しから一通の封筒を取り出して持ってきた。

貴志はその封筒を受け取り、中身の紙を取り出した。

中の紙は一度水に濡れたのかゴワゴワとしている。

紙を広げてみると、中にはこう記されていた。

「おかあさんはわるくない。おかあさんのわる口いう人はぜったいにゆるさない。もしまXXXXXXXらXXXXこXX」

紙が濡れたせいか最後の方の文字のインクが滲んで何と書かれているのかわからない部分がある。だがその文面からは、少女の強い怒りと憎しみが感じられた。

紙を握る貴志の手が、体温が奪われたかのように冷たくなっていく。

頭の中で、公園で見たあの少女の無表情な顔が思い出されていた。そしてその顔が貴志のことをただずっと見つめていた。

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