ゆっくりと、日が昇る
朝日が差し込む小屋の窓から、鳥の声が聞こえてくる。
森の静けさに包まれたその空間で、透はゆっくりと目を覚ました。
体が重い。昨日の水汲みと洗濯の疲れが、肩や腕に鈍く残っている。
(……今日が休みで、よかった)
「明日は無理せず、小屋の掃除でもしながら、ゆっくりしな」――その一言が、どれだけありがたかったか。
起き上がって伸びをする。朝食の準備をしようと湯を沸かそうとするが、キッチンの使い方がわからない。
そのとき、ドアをノックする音がした。
「……トール。入っていいか?」
「ジーク! ちょうどよかった」
扉を開けると、ジークが立っていた。狩猟服姿で、肩には木の枝の束を担いでいる。
「様子、見に来た。昨日、無理してないかと思って」
「あ……少し筋肉痛だけど、大丈夫」
透が照れくさそうに笑うと、ジークも口の端をわずかに上げた。
「……よかった。で、どうした?」
「このキッチンなんだけど――」
「ああ、これには魔石を使うんだよ。ほら、ここに」
ジークは穴の空いた部分に、綺麗な石を差し込む。すると、コンロからふっと火が立ち上った。
「何か困ったことがあれば、村の誰かに言えばいい。……俺でも、いいし」
「……うん。ありがとう、助かる」
「……じゃ、今日は様子見に来ただけだから」
それだけ言って、ジークは森の方へと歩いていった。
ジークの足音が遠ざかっていく。扉が静かに閉まり、また小屋に静寂が戻った。
残された小屋の中で、透はぽつんと立ったまま、さっきの会話を思い返す。
(……本当に、異世界に来たんだ)
自分はもう元の世界には戻れないような気がする。
けれど。
昨日は名前を呼ばれた。「トール」と。
それにジークは様子を見に来てくれた。ただの親切かもしれない。でも、確かに誰かと心を通わせた気がした。
窓から差し込む光が、部屋の埃をやわらかく照らす。
透は布を手に取り、棚を丁寧に拭きはじめた。
一つひとつ、整えていくこの部屋が、いつか自分の居場所になるように――そう願いながら。
透はそのまま、椅子に腰を下ろした。手のひらに残る、木の机のざらついた感触をゆっくりとなぞる。
(……ここが、私の暮らす場所になるんだ)
――あっちの世界では、こんなふうにゆっくり朝を迎えることなんてなかった。
毎日が仕事と、残業と、通勤電車の繰り返し。休みの日も疲れ果てて寝てばかりで、気づけば週が明けていた。
こんな静けさの中で、ただ椅子に座っているだけで心がほぐれていくなんて──思ってもみなかった。
思えば、昨日までいた世界とは何もかもが違っていた。服も、言葉も、人々の暮らしも。すべてが“異世界”だった。
初めて聞いた名前──「トール」。
初めてのあだ名──「魔女のおねえちゃん」。
初めての作業──水汲みと洗濯。
初めての他人との会話──ジークと、村の女性たち。
そのひとつひとつが、自分の中にまだ新しいまま、鮮やかに刻まれている。
(本当に、元の世界には……戻れないんだろうか)
考えても答えは出ない。でも、それでも。昨日より、ほんの少しだけ前を向けている気がする。
ジークが言っていた。「困ったことがあれば、村の誰かに言えばいい。……俺でも、いいし」と。
その言葉が、胸の奥でじんわりと温かく広がっていく。
知らない土地で、知らない人たちと、知らない暮らしを始める。
それは不安で、怖くて、でも──
少しだけ、希望でもあった。