洗濯場で、名前
村の中心を抜け、子どもたちに連れられて坂道を下ると、川沿いに洗濯場が見えてきた。丸石を積んだ水場のまわりには、すでに何人かの女性たちが集まっている。
「ここが洗濯場! おかーさん、トールおねえちゃんだよ!」
アメリに背中を押されるようにして進み出ると、一斉に視線が集まった。女性たちの中には、あのとき畑を覗いたときに目を合わせた人もいる。年配の人も、若い人も。見知らぬ“よそ者”を測るような空気が、ひやりと肌を撫でた。
「こんにちは……。透です。洗濯、手伝わせてください」
少し間を置いて、ひとりの中年の女性がぽつりと言った。
「……あの子が、都会から来たっていう?」
そうなのだ。稀人の存在は知られていないから、村長の提案で“都会から来た”ということになっている。
「見たことのない黒い髪に、魔女のおばあちゃんの家に住んでる」
「魔女って、あんた、あの薬師の婆さんのことかい?」
年配の女性が笑いながら問い返す。別の女性も「ああ、懐かしいねぇ」と洗濯物を絞りながら頷いた。
「あの人もちょっと変わってたけど……腕は確かだったよ。咳がひどいとき、あそこの薬で助かったことがあるもん」
「そうそう、うちの子が熱出したときも……森の木の皮を煎じてくれてねえ」
「なるほどねえ。それなら“魔女のおねえちゃん”でも、いいかもしれないよ?」
その言葉に、他の女性たちからもくすくすと笑い声がもれた。鋭さが和らぎ、空気が少しだけ緩んだような気がする。
(……よかった)
そっと息を吐き、石の上にしゃがみ込んだ。足元を流れる水は冷たく、それでも清らかだった。持ってきた洗濯物を、見よう見まねで水に浸し、石でこすってみる。
──ごし、ごし。
慣れない動きにすぐ腕が疲れてくる。泡も立たなければ、汚れが落ちているのかもよく分からない。それでも無心に手を動かしていると、隣の女性が、洗剤のような草の束を差し出してくれた。
「これ、使うといいよ。『ぬるばの葉』っていってね、泡立つの」
「あ、ありがとうございます……!」
慌てて頭を下げ、その草を手に取る。指で揉むと、ぬるりとした液が出て、たしかに泡が立った。
(すごい……自然の洗剤だ)
「都会の人って、こんなことしないんでしょう?」
「うーん、家に洗濯機があって、全部自動で洗ってくれるから……」
「ほう、自動で? 魔道具ってすごいねえ」
「……そうかも、ですね」
言葉を交わすたびに、表情が少しずつやわらいでいく。最初はぎこちなかった手つきも、誰かがやってみせてくれるのを真似するうちに、いくらか様になってきた。
「トールだってね、あんた手がきれいねえ」
「そんな細い腕で、今日は頑張ったねえ」
誰かが話しかけてくれる。それが、こんなに嬉しいことだとは思わなかった。
昨日は見知らぬ森の中で、誰とも話せずにいた。今日は、誰かと――言葉を交わせている。
ひとつ、何かが変わった気がした。
洗濯物を干し終える頃には、陽もだいぶ傾いていた。
「今日は水汲みに洗濯に疲れたろ? 明日は小屋の掃除でもしながら、ゆっくりしな」
年配の女性が、透の背をぽんと軽く叩いてくれる。ぬぐった額に、日差しの温もりが残っていた。
「……ありがとうございます」
そう言うと、彼女は満足げに頷き、桶を担いで川辺を離れていく。他の女性たちも、それに続いて帰っていった。
「またね、トール!」
アメリが手を振って駆けていき、やがて透はひとり、静かな川辺に取り残された。
風が吹いて、洗い残しの泡の香りがふわりと立ち上る。
見上げた空は、少しだけ赤く染まり始めていた。
――魔女のおねえちゃん。
誰かがくれた、仮の名前。けれど、そう呼ばれることに、今はほんの少しだけ、救われたような気がした。