夕飯と、眠り
夕闇がそっと村を包みはじめてきた頃、ジークに案内されて、透は村外れの小道を歩いていた。
「ここ、薬師のおばあさんが住んでたって聞いたけど……今は誰も?」
「んー、誰もいねえ。婆さんが亡くなってからもう三年かそこら。遠いからあんまり人も来ねえしなあ。俺も最後に来たの、去年くらいだと思う」
その言葉通り、道は次第に細くなり、草が足元に触れる。やがて、ぽつんと佇む小屋が見えてきた。
石を積んだ土台の上に建つ、木造の素朴な建物。屋根には苔が生え、軒先の板が少し傾いている。それでも、全体としてしっかりした造りに見える。
「中がどうなってるかは……まあ、あんまり期待すんなよ。掃除はしてねえし、物もそのままかもしれねえ。でも、あるもんは勝手に使っていい。誰も文句は言わねえよ」
「ありがとうございます。本当に……助かります」
「ま、困ったことがあったら……明日の朝また来るわ。そうそう、夕飯は村長んとこのおばさんが、何か置いといてくれるって言ってたから。それ食っとけ」
そう言って軽く手をあげると、ジークは来た道をゆるゆると戻っていった。
残されたのは、静かな夜の訪れと、古びた小屋だけ。
「……ここが、私の新しい“家”かあ」
つぶやいた言葉は、少し寂しげに、でもどこか安心したように聞こえた。
ぎい、と軋む音を立てて扉を開けると、むわっとした埃の匂いが鼻をつく。
「……うわ、これは……」
古びた棚と、小さなテーブル。布団が敷かれた簡素な寝床。
奥の部屋を覗くと、薬壺や干からびた草束が棚の奥に並び、干し草のようなものが天井から吊されている。
「生活感は、あるっちゃあるな……」
部屋の隅に置かれた木箱には、乾いた布が折りたたまれて入っていた。恐る恐る布団の上に腰を下ろすと、埃がふわりと舞い上がる。
「……まあ、今から掃除ってわけにもいかないし、明日でいっか。今日は疲れた」
カバンを隅に置いて、ランタンの火をともす。カバンの底にライターが入っていて助かった。
橙色の灯りが部屋の輪郭を柔らかく照らした。
ぐぅ、とお腹が鳴った。
「くぅ……こんな時でもお腹は空くんだなあ」
しばらくして、戸の外に置かれていた小さな籠に気づく。中には布に包まれたパンのようなものと、硬そうなチーズ、それに野菜の煮込みスープらしきものが入っていた。
「……これが、ジークの言ってた夕飯か。ありがたいな」
スープをすくって口に運ぶと、思わず顔をしかめた。
「……味がない?」
いや、よく味わえばほんのり塩気がある……ような、ないような。具材は豆と根菜が中心で、香りも控えめ。調味料の存在は、限りなく希薄だった。
それでも、口に運ぶ手は止まらない。
「でも、ありがたくいただこう」
パンは少し硬いが、麦の甘みがかすかに舌に残る。チーズは塩気が強くて、そのぶんスープと一緒に食べるとちょうどよかった。
ランタンの灯を囲むように、もそもそとパンをかじりながら、深く息をついた。
(本当に、知らない世界に来ちゃったんだなあ……)
見上げた天井には、ほこりをかぶった梁が静かに横たわっていた。窓の外からは、虫の声がちらちらと聞こえてくる。
寒さはまだそれほどでもないけれど、夜になれば冷えそうだ。布団の上にそっと寝転び、カバンから薄手の上着を取り出して体にかける。
木々に囲まれているせいか、風の音も近く感じる。まるで森が息をしているみたいだ。
心細さは、ないと言えば嘘になる。
でも、それでも――
「……こうして、今日眠る場所があるって、ありがたいなあ」
小さく呟いたその声を、誰も聞く者はいなかった。
ランタンの火がゆらゆらと揺れる中、透は静かに目を閉じた。
知らない場所、知らない夜。
それでも――眠れるって、幸せなことだ。
ぼんやりとそんなことを思いながら、疲れた身体が眠気に引きずられていく。