Good bye 10
ユノフロラが切り株の周囲を取り囲むように咲いて、それから雨が降った。雨は春を連れてくるから、積み上げられた雪山が汚れながら堅くなり、だんだんと小さくなってくる。それでもまだ、言えなかった。バロンの銃は完成をした、らしい。けれども実験をしていないから、それが本当に作用するかはわからないそうだ。トニーが外に出てみろよ、と笑っていったけれども、もしその銃が紛い物で見えない呪いを可視化することができなければ、彼はそのまま死んでしまう。だからこそ、私の告白が必要なんだ。
ユノフロラが散って、ハースバースがこの山の中腹から見える農地を薄いピンクのレースの色に染め上げている。ハースバースの収穫が終わったらまた雨が降って、季節は夏になる。ここにきて一年が過ぎた。
鬱々とした私の何かをみんなが感じ取ってた。アレックスは私に少し街で息抜きをしてきてもいい、と言ってくれたし、トニーは街から帰ってくるたびに私に何か贈り物をくれる。でもバロンとは最近話をしていない。私の態度に気づいた彼が言ったの、「俺、何かしたか?」
何もしてない、と私は言った。そう本当に何もしてないから。ただ、貴方を見るたびに私の胸の奥が苦しくなって、貴方のことばかり考えてしまう。それはなんだか恥ずかしくて言えないの、でも意地悪な事は言ってしまう。彼の前に立って何か発言する時、私はたくさん言葉を考えるのよ、でもバロンは勘違いをしてる。一緒に寝てしまったあの夜の事を、彼は不貞腐れながら謝罪した。
「……その、悪かったよ。ガキとはいえレディだ、一緒に寝るなんて事をするんじゃなかった」
私はバカね、本当にダメな人間。自分で子供を演じたのに、彼にそう扱われるのは許せないの。違うわよ、バロン、私をしっかり見て。子供扱いしないで、私はローズ、ローズ・パーカーなのよ。だから言えたのは精一杯の強がり。「……別にいいわよ、私がねだったんだし」そして彼の謝罪も受け入れない、酷い女が出来上がる。
自分のこの感情の正体がわからなかった。苛立ちなのか、不安なのか、期待なのか、願望なのか。そんな時開いたマーメイドの物語に私の感情全てが書いてあったわ。マーメイドは、王子様が好きだったのね。王子様の為に、死ぬ事を選んだ。王子様を独り占めしたかった。王子様に自分を見て欲しかった。この、酷く独善的で、汚らしくて崇高で、幼稚で達観した感情全てがたった一人に向かう執着。それが、恋だって。
◇◇◇
そしてその日は唐突にやってきた。
朝からアレックスは居なかったし、トニーは趣味の渓流釣りへ。サクラマスが泳ぐ季節になったから、最近の夕食は魚料理が多い。家の裏には菜園があるし、今日は香草焼きにでもしようと思ってたの。私は家中の掃除が終わって一息ついた時だった。バロンは相変わらず食堂の定位置でその時は本を読んでたと思う。
おーい、と外からトニーの声が聞こえた。
「魚を取り過ぎちまった。開けてくれ、バロン」
本を読む手を止めたバロンが、全く、とぼやきながら席を立つ。
「三日間は魚だな」そう言いつつ、玄関に歩きかけた彼を私は止めた。
「待って」
聞こえる。聞こえてる。そして私の何か、あの魔術医が評したイレギュラーな部分が最大の警告を発してたの。あれはトニーじゃない。私には、トニーの声に聞こえない。確かにトニーの声なのだけど、その裏に細い細い笛の様な女の声が被って聞こえるの。悲しみが私を見つめている、って。
おーい、とまたトニーの声が聞こえた。いつもより随分明るい呼びかけだった。最近じゃ聞かれないぐらい。あんな明るいトニーの声を聞いたのは半年ぶり、年始に娘さんと会えた次の日、娘さんから渡されたパパの為の手紙を読んでいる時だけだったわ。だから私は違和感に全身を緊張させる。震えた手はバロンの手首を掴んで離さなかった。そんな私をバロンが不思議そうに玄関の扉と交互に見返した。
「トニー……」
細い震える声で扉の向こうの何かに言った。聞こえてると思った。距離なんて離れてない。私にはわかる、そいつはすぐそこにいる。
「なんで玄関を開けないの」
私は聞いた。一瞬間があった。彼の声は少し遠く。切り株の並ぶなだらかな坂の下、岩の橋の側から大きく室内の私達に呼びかけてくる。
「言っただろ、重くて運べないんだよ。取りに来てくれよ。バロン」
そのセリフに彼の表情が固くなった。
「……俺は家から出られない。知ってるだろ、トニー。冗談にしても面白くないぞ」
はははは、とトニーの笑い声が聞こえる。ドリームキャッチャーがゆっくりと回った。まるで何かを知らせる様、光が強くなり始めた。
「開けてくれよ、バロン。開けてくれ、開けろ、開けろ!開けろおおお!」
何か物凄まじい質量を持ったものが家全体に体当たりした様に感じた。全ての家具が軋み、全ての壁が振動した。まるで台風の日の大風を集めた様な衝撃が家を揺らした。アレックスの本の山が飛び跳ねて、台所にあった食器は全部外に飛び出した。衝撃から頭と体を守って私は蹲る。その上をバロンの大きな体が覆ってくれていた。開けろ、開けろ、開けろ。もう声はトニーの物じゃない。数百の人間が一斉に叫んでいる様な醜悪なものに成り果ててる。私たちは互いに抱き合って恐怖から身を隠した。家の四方の壁は何か大きな物でバンバンと叩かれ、そのたびにに衝撃と轟音が中の私達に襲いかかる。衝撃に耐えかねて、私も叫んだの。最後の開けろ、は女の絶叫だった。
「ママ!やめて!」
途端に攻撃は止んだ。静かになった周囲を見回しながら、バロンが顔をあげてる。私は彼のシャツにしがみついて震えてた。静寂の後にあったのは、家の壁を爪の先で引っ掻く、不快な音と女の啜り泣き。右に、突然左に、屋根の上から、はたまた床の下から、場所と強度を変えてそれは私たちを責め苛む。
『……星……星の名前……ニガヨモギ……私の星……』
それを聞いたバロンの表情がさらに物凄まじい物になる。そして既に泣いている私の顔を見て私の肩を持ち上げた。
「……ママってなんだ……!何を知ってる、お前は、」
「ママなの……」
彼のどんなに怒ってても綺麗なブルーアイズ。それが涙で滲んで見える。人魚姫は王子様の為に死んだわ。私もそうならなきゃいけない。私は言わなかったんだから。今の今まで。
「……私が10になるまで、私のそばには見えないママがいたの……」
彼の腕の中で私は私を告白する。私は悪魔の娘、生まれてはいけなかった女の子。
「……ママが教えてくれた……。ディアボロっていう種族の事……。私のパパはトートの木になってしまった、パパの中に住んでたママは私を妊娠してた……」
優しかったママ。養母に殴られた日も、養父に迫られた日も、ずっと私を守ってくれてた。だから私は寂しくなかった。
「……パパから出ないと私もママも木になっちゃうから……、だからママはパパから出て私を産んだ……。ずっとママと一緒だったの、でも」
肩を掴んでいたバロンの手の力が抜けてしまった。座り込んだバロンの腕に縋り付いて私は泣きじゃくりながら告白を続ける。
「8歳を超えた頃から、ママがおかしくなった。意味がわからないことばかり言って、私に手を出そうとした男性全てを殺していった。今はもう話なんか出来ない!」
ママが大好きだった。ママの顔なんか見えない、姿だってわからない。でもママはいたの、確かにそこにいて私を愛してくれた。ママの子守唄が大好きだった。星とニガヨモギ、星とニガヨモギの歌。あの思い出が今は私を苦しめてる。優しいママの声、遠くなってしまった追憶、それを守ろうとしたの、守りたかったの、でも。
「……もう、ママじゃない……」
泣きぬれた私の顔をバロンが眺めてる。
「あんなのはもう……ママじゃない!」
そう声に出してしまったら、声と一緒に喉の奥から慟哭が漏れた。力の抜けた体がバロンの大きな腕の中に包まれたのを感じた。彼の腕が私を抱きしめてくれる。強く私を抱きしめた彼の腕が離れた。立ち上がった彼は食堂のテーブルに数歩歩いて、銃を手に取る。家の周囲で何かが走り回る音がしてる。その不気味な音の中で、彼の広い背中を見上げた。まっすぐで綺麗、大きくて逞しい。均整が取れてて、上品で、その癖粗野な彼の背中が、静かに呟いた。
「……いるんだな?そこに」
彼が何をしようとしているのか一瞬で理解できた。私が抜けた腰を支えて必死で立ち上がる前に彼は力強い歩みで玄関へ進み、扉を開け放って家の外に駆け出した。
切り株が並んでいるなだらかな坂の向こうにそいつは居た。きっと、その時はバロンも私も同じものを見たと思う。
真っ黒な黒髪を漂わせた悪魔の笑みを湛えた巨大な男性の生首が、笑いながら彼に告げる。その声はまるで天から降りてくるバイオリンの音みたいに、周囲をざわめかせながら私たちに降りてきた。
「FIND YOU」
バロンの腕が引き攣って、銃のトリガーが引き絞られる。その後ろから私も駆け出した。喉を開いて、泣き叫びながら私はママだった何かに懇願した。
ママ、やめて!その人を殺さないで!私、その人を愛してるの!




