Good bye 9
私は言えなかった。
自分の出自の一番重要な要素を隠したまま、私はそれからも彼らと生活をした。毎日、苦しむ彼らを見た。三日に一回、私はトニーの泣き声を聞く。大きな体をボロボロのベッドに押し込んで、奥さんと子供の名前を呼びながら彼は咽び泣いている。アレックスが不満げにそれを揶揄う、そうしたら食堂、バロンのいる場所から金属音が聞こえ始める。黒板いっぱいに計算式を書いた彼は、より情熱的に銃器開発に注力した。季節は巡って冬になった。言えないままの私は、彼らに対する罪悪感を抱えたまま彼らと共に生活をする。いくじなしの私を暖める暖炉は静かに薪を燃やして、ドリームキャッチャーの吊るされた食堂はその色をオレンジに変える。私は多分寂しかったんだと思う。だから彼に逃げたんだ。バロンの澄んだブルー、海を思わせる瞳の色に、金属音と火薬とオレンジが映り込む。彼の整った顔、白磁を思わせる透明な肌にはいつもどこかに黒い油がこびりついていて、その様が遊びに夢中になっている子供を連想させた。本は読めるようになったから、授業はもういい、と申し出たのだけど、金属片を触りながら彼は言う。
「なんでだ?俺にも付き合ってくれよ。思考が煮詰まると進めなくなる。お前がそばにいてくだらねえ事を話しているだけでもいい。いいリラックスタイムなんだ」
だから夕食後、トニーとアレックスが自室に入ってからの時間は、私とバロンの時間になった。私は本を読むふりをしてバロンをずっと眺めてるの。私の頭ぐらいある大きな手のひら、そこから伸びる長い指が、光の中で繊細に機械を組み合わせてる。体毛が白いから、髭が少し伸びてるのもよく見なきゃ気付けない。逆によくわかるのがまつ毛、女の子みたいな長い眉毛に、暖炉の炎で燃え盛る羽毛の様に輝くの。彼は白くて青いから、全部の色を集めることができるのよ、だから彼のお気に入りは黒色、全部の色を集めた物。シャツの袖を捲り上げた腕が、案外大きいの。トニーと日中トレーニングをしているから、彼のウェイトも段々とトニーに近づいている。それからバロンが欠かさないのが射撃練習。トニーの協力の元、玄関ドアを開け放って、数十メートル先の的に銃を撃つ練習をしている。積もった雪が的から落ちたら成功、どさりと雪が地面に倒れたら、二人は腕を上げて歓喜する。銃を構えた彼の立ち姿も素敵。大きな背中がギュッと引き締まって的を狙うの。それから笑う時の大きな口。私を揶揄う意地悪な言葉や、気が付かないぐらいのさりげない優しさ。
彼と話す時間が増えて、彼の事を考える時間が増えた。そして彼を見つめる時間が大幅に増えた。許して欲しかったし、言うべきだと思ってた。でも彼を見つめるたびにその勇気がなくなっていく。彼の笑顔、彼の努力、彼の苦悩、それを間近で見ているから、私はどんどん意気地なしになって、彼の優しさに甘えてしまう。食堂の席でぼんやり彼を見つめてたら、私の視線に気づいた彼がふと、その青い瞳を煌めかせて私を見つけた。
「なんだ?わからないところでもあったか?不思議の国のアリスは少し抽象的だからな」
見透かされたみたいでなんだか恥ずかしくなった。彼から視線を外して本に目を落とした。でも笑いながら言う。
「違うわよ、読めてる。貴方を見てた」
言った瞬間、胸の奥が痛くなった。暖炉の炎のせいかしら。顔が熱くなった。焦ったみたいに震えた指がページを捲る。紙の擦れる音の中で彼の軽い笑い声が聞こえたわ。私の言葉を受けた彼が瞳を細めて口の端を引く。嫌だ、人を揶揄う時の表情だわ。
「俺に見惚れたか?」
私の頬にも笑みが乗る。これはゲームだもの。ゲームの開始を告げたのは彼が先、だから私は後攻ね。
「見惚れてたら何か問題があるかしら?」
手を止めて眉を上げて、一瞬天井に目を向けた彼はまた微笑んで私に言う。
「……まぁ、ないな。どちらかと言えば」
声が深くなった。彼の言葉が、甘い温度になって私の喉の奥に入っていく。
「悪い気はしない」
そうしながら上目遣いで彼は私を見る。笑っちゃう。本当に嫌な人。
「その装置は何?今は銃の何処を作ってるの?」
だから話題を逸らすわ。ね、バロン。今の勝負は貴方の負け。
自分の手の中の部品を眺めて彼は言う。
「見えないものを見える様にする機械さ。半永久的にな。俺が今作っているのは、一定の数値を持つ物質を書き換えて可視化する装置だ。あー……、意味はわかるか?まぁ、アリスを読めてるなら大丈夫だ」
彼が長い指を曲げて、私を手招いた。ウキウキしながら私のバカな足は浮いて彼のそばに腰掛ける。長い腕が私の背中を回る。彼の白磁の肌が私の頬に近づいて、私はそれを悟られない様に身を縮めた。彼が言う。
「これが受容体。で、これが反射装置。で、こいつが打ち出し機だな。同じ性質の物をぶつけると、特殊な磁場が完成する。それを打ち出すんだ。だが上手く合わなくてな」
目の前の機器にワクワクする演技をしながら、私は彼の温度に身を委ねた。あったかくて心地がいい。寒い日にかじかんだ指をお湯に浸けたみたいな痺れが胸の奥を痛めてる。ずっとこうしてたいわ。彼の温度を感じたくて、回された腕に頭を預けたの。そこから、お互いに少し沈黙をした。
咳払いが随分高い位置から聞こえて、思わず身を引いた。しまった、何か勘付かれたかしら。
「お前と、話してると」
照れたように彼は辿々しく、言葉を繋げた。回された腕は私の肩から外れてしまった。ああ、今度は私の負け。
「なんだか頭が冴える気がするよ、前にもあっただろ?お前の一言で、方向性が決まった。あと一歩まできてる」
ゲームに負けた人間はね、あともうひと勝負を乞うのよ。さっきの貴方もそう。だから私もこういうの。
「じゃ、お話ししましょう?アリスの本、なんだか難しくて読めないところがあるの。貴方が読んで。解説もつけて」
もう少し難易度を上げてやるの。ねえ、私の要求に応えられる?でも信じてるわ、バロン貴方なら、きっと私の要望には全部応えてくれるって。
「ベッドに入って、本を読んで?わからないところを読んでくれたら私は自分の部屋に戻るわ。貴方はそのまま寝てちょうだい。寒くて少し温まらなきゃ寝れないの」
パチンと暖炉の薪が驚いて私達に抗議した。面食らったバロンは、情けない顔をした後、やれやれ、とぼやきながら腰を上げる。
「いったいどこだ、全く呪いだな。書いた奴と同じ事をしちまいそうだ」
その意味はわからなかったから、暖炉の前の彼のソファベッドの端に腰掛けた。自分がやってることがクレイジーだってわかってる。ただ、何かしなくちゃいけないの、これは逃避?私は逃げてる、自分の責任や、自分の仕事から。本当はそうあってはいけない、あのマダム達のように、自分の在り方に誇りを持たなきゃ。でもね、アリス、私は怖いの。こんな暖かい人が、こんな暖かい日々が、私の言葉で永遠に凍りつく様を想像できて?手の中のアリス、付箋を貼ったシーンはハートの女王からの尋問のシーン。彼の重さがソファベッドに乗って、長い足が投げ出される。彼の胸を枕にして、彼の手の中のアリスを見る。彼の温度の中で本を読む。冷え切った足が暖かくなる。さっきよりずっと近く彼の温度と匂いを感じる。誰が言う事を聞いて?あんたなんかただのトランプじゃない!彼の低い声に意識がたわんでくる。クスッと笑った頬を彼の胸の中に擦り付けて、私は目を閉じる。成功よ、バロン。この勝負は私の勝ち。
暖炉の火はいつの間にか消えてた。それでも暖かかったのは隣に彼が居たからだわ。
冬の鋭い朝日が瞼を刺して、私の意識をノックする。でももう少し、もう少し暖炉の温かさが残ったこの空気を抱きしめていたい。そうやって肩を抱いたら、頭の高いところから彼の不機嫌な声が聞こえてきた。
「まて、アレックス。誤解だ」
五月蝿いな、そう思いながら目の端で足元を見た。きっと朝からの雪かきで疲弊し切った雪まみれのアレックスが憮然とした顔で、バロンの腕の中で眠る私と弁解を始めたバロンを眺めている。
「誤解も何もない。ただ、うん。寝ている。13歳の少女と25歳の成人男性が同じ毛布で。それだけだ」
ヘイ!と叫んだバロンが毛布を跳ね除けた。一気に冷気が背中を攫って、私は体を抱え込んだ。雪かき用のスコップを担いだトニーが、長靴の底の固まった雪を削ぎ落としながらバロンに言う。
「お前じゃなけりゃ今すぐ通報してる。いや、お前だからこそか。罪は雪ぐべきだ、友情には大切な儀礼だと思わんか」
「俺に教師を押し付けたのは誰だ!言っただろ、俺はガキにゃ興味はねえ!」
騒ぎ出したバロンの声で起きたふりをして、目を擦りながら私はソファベッドから足を下ろす。あったまった足の指先なら凍りついたログハウスの床でもへっちゃらよ。でもすぐに冷えてしまうからなるべく早く朝食を作らなきゃ。ミルクを火にかけてパンを焼く。食堂でバロンとアレックスが、私への性教育についての議論をしているけど、大きなお世話だわ。だって私にはわかってる。朝ごはんのホットミルクとパンを口いっぱいに頬張れば、あの3人は綺麗さっぱり機嫌が治るんですもの。大きなあくびをしたら、口の中の湯気と温まり始めたミルクの湯気が一緒になった。
明日言おう。明日こそ言おう。この雪が溶け切る前に。冬の最中に放り出されたって、仕方がない事を私はしてる。バロン、貴方の友達を殺した見えないお化けは、多分私のお母さんだって。




