Good bye 8
雨が降り続く季節が過ぎて夏が来た。
五月の花の色を溶かし込んだ透明な雨を、海の向こうの入道雲が全部吸い上げた季節を夏という。バロンと一緒に読んだ詩集の、その一節がとても綺麗で気に入っていて、私はよく空を見上げるようになった。
あれから三ヶ月、私は簡単な童話ぐらいなら自分で読めるようになっていた。バロンの教育の賜物だ、と言いたいところだけど、彼の方針は基本放任主義。必要なら行うし、必要じゃない気分じゃないなら学ぶ必要もない。私もそう思うから、本を読んでいる。文字を覚えて、まだ難しい言葉は辞書を引かなければならないけど、私の生活は更に色づいた。グレイシャーの深い森を、真夏の太陽は切り拓きながら照らしてくる。木々の間から見える青空は透明で、太陽は白さを増しながら鋭い直射日光で大地を温める。夏の草花が切り株のそばで背を伸ばして、家の裏の畑は瑞々しい青さに茂り始めた。家の前の滝は、雨の季節に一度氾濫した。家の裏手で育てていたトマトが流されそうになって、トニーと二人で大慌てで土嚢を積んだ。幸いトマトの苗は流されず、無事に沢山の実をつけて激しい日光の下でその真っ赤な実をたわわに揺らしている。
汗をかく季節になったから、洗濯の時間が長くなった。洗うのは一苦労、四人分のシーツをきっちりと洗い上げて、それから彼らの肌着とシャツを輝くまで磨くのだから。でも心地いいの、アッシュボーンの街より少し標高が高いこの場所は、山からの風がよく通る。だから洗濯物が乾くのは一瞬。激しい真夏の光の中で白くはためくシャツ達を見てると、なんだかね、自分の仕事を誇れるようになるわ。私って実はできる女性なんじゃないって。だからまた、その証拠を探して本を読むの。ねえ、灰被り姫。あなたのママはどうだったの?貴方のママも、もしかしてみんなには見えない透明な人、だったのかしら。
バロンに文字を教わる様になって、バロンと会話をする時間がとても増えた。昼も夜もなく私達はコミュニケーションしている。時には本の事、文字の事、そして彼が作っている何かの事。
「銃だ」
と夕食後のテーブルでやっぱり金属をいじっている彼がそう答えた。
「俺はこいつの作り方しか知らないからな」
月明かりが綺麗な夜だったけど、家の中は随分暗い。ドリームキャッチャーの光だけじゃ十分じゃない。彼の作業台の端には、揺れるランプが置かれている。そのランプの光が、金属を反射する。ゆらゆらと揺れる。彼の手の中には、また虹色の透明な欠片もある。指先でそれを摘んだ彼が言った。
「ドリームキャッチャーの光の下には、呪いが発生しない。この下なら俺は安全だが、一生このままなんて冗談じゃない。見えない奴らを完全に撃退する方法は何か、それをずっと考えてる」
手の中の赤ずきんから目を離して彼を見た。そして聞いた。
「銃で?」
ヤ、と答えた彼が、プリズムに発光するガラス片を摘んで盛り上がった遊底部分に押し込んでいる。
「この光の下で、俺は呪いの影響を受けない。つまり、この光が呪いに対しての脅威である事がわかる。ならこの光を弾丸にして打ち出せば、消滅させることは無理でも何かしらの行動の制限を行えるんじゃないか、と思ってな」
脅威、って言葉がわからなかったから辞書で引いた。強い力で他者を、お、おびやかす……ぶん殴るって事っぽいわ。見えない呪いをぶん殴る、って解釈した私は赤ずきんを読みながら彼に言うの。
「だって見えないんでしょ?どうやって銃が相手に当たってるかどうか確認するの?」
口を歪めてドリームキャッチャーの光を見上げた彼が、大きくため息をついて私に愚痴る。
「わかりゃ苦労しないさ。2年研究して、俺が出来たのはこのドリームキャッチャーの反射角度を計算し尽くした事だけ。複製はほぼ完璧に仕上げられる、だが家の中だけだ。ベントンに会いたいが、向こうから出向いて貰うしかない」
皮肉に口元を歪ませて彼は笑う。そしてそのまま私に何回目かの問いかけをした。
「なあ、ベントンはどうだった?どんな奴だった?彼とどんな話をしたんだ?」
ベントンの話をする時だけ、彼はなんだか子供みたいな表情に戻る。その表情がチャーミングで、私はいつも笑っちゃうの。いつもはベントンが私に話してくれた宇宙の成り立ちの話だとか(彼の話が本当の事だって知ったのは随分後)、ベントン定理の物凄く簡単な解説とか。でもなんとなく今日は違ったの、だってアレックスやトニー、バロンがよく言ってる言葉を思い出したから。思考をトレースする、どういう考えなのかを想像して考える。
「もうあらかた話しちゃったわ。でもどうかしら、ベントンならこの問題、どう考えると思う?」
私は自分でバロンに言っておきながら、自分の頭の中でパズルを展開した。見えない何かに殴られたら私だったらどうするだろう。ベントンだったらどうするだろう。ベントンなら、多分一番簡単な、方法を取る。そして私とバロンは全く同時に、同じ事を考えて発言した。
「見えるようにする」
私の方が少し遅かったけど、最後の発音はほぼ一緒だった。発言したバロンの目が思考に沈んでいくのが見える。不思議だわ、その表情はベントンと一緒。頭の中がくるくると回っている表情。そういえば、私はベントンのそんな表情も好きだった。彼の表情を好ましく見て、それからまた赤ずきんに目を落とした。赤ずきんは女の子が狼をぶん殴るラストにするべきだった、と私は思っている。でもそうはなってない。世の中にはそうならないことの方が多い。そういう教訓。だから私は無理だと思って、思考パズルをやめにしたの。でも、バロンははっきりと意思を持った声でこう答えた。
「正しい。それが正解だ」
立ち上がった彼は黒板に出向いて、チョークで計算式を書き始めた。書きながら言う。
「数字は、この世界で見えないものを表現する唯一の文字だ。それは正確性に特化した文字、振動も、波形も、音ですらだ、数字で表される。視覚化できる。ドリームキャッチャーの発光に負の指向性を持つ何かを特定すれば、それは奴らの実体だ」
G(x,t)=∫sψ(x,t,s)・E(s)ds
思考に手が追いついてないみたい。書き損じた何かもそのまま、彼は呟きながら計算式を展開する。
「Gを時間tと空間xにおける存在確立、感覚強度として、Sをマナ次元、ψを波動関数、Eをエネルギー分布として、統合……」
私には何を表しているのかわからない。でもバロンはすごい速さで黒板いっぱいに何かを書いていく。なんだか絵みたいだわ。ベントンも地面にこんな絵を描いてた。懐かしいって思いながらそれを見る。
「マナだ……。マナと近似値を持つが、違う。マナじゃない。つまり、マナを必要としてない何か……、プリズム反射角度の統計を代入して……、」
黒板を快く叩くチョークの音が響いてくる。時々チョークの先が彼の勢いに負けて折れてしまう。それを無視して黒板いっぱいに白い計算式を書き終えた彼がその全体を見て、手を広げた。脱力した彼はテーブルの上に腰掛けて、高揚に息を弾ませながら私に言う。今思えばそれは数学的証明だった。グリムリーパーの幼体、ウィッチ&グリムはそうやって発見されたの。私はその瞬間に立ち会った。私には魔法の文字にしか見えないそれが私には少し怖かった。ねえ、バロン。もしあなたの言う通りそれが真実だとするのなら、私の見えないママも、見えるようにできるの?だんだんと言葉を失って狂っていったママを元に戻す事も出来るかしら。私は怖い。すごく怖いの。見えない私のママが、人を殺してたらどうしよう。見えない私のママが、貴方の親友を殺してしまっていたとしたら、貴方は私に優しくしてくれる?私は本当は生まれていなかった、生まれちゃいけなかった女の子。
振り返ったバロンが輝く笑顔で私を見たの。ああ、なんて素敵。胸の奥が痛くてたまらなくなる。誰に殴られても誰に馬鹿にされても傷まなかった私の心が、貴方の笑顔で壊れてしまうのよ。ねえ私がお化けの娘でも、貴方は本当に私と仲良くしてくれる?
「正だ。ドリームキャッチャーのプリズムの照射線量と完璧に反比例してる。掴んだぞ……!」




