ドッペルゲンガーを飼い慣らす夜
そもそものきっかけは、一冊の本だった。アルバイト帰りに金山総合駅の近くの本屋さんで、たまたま見かけたニ〇ニ四年の占いの本だ。おみくじを引くような気分で、手に取ったことを覚えている。ニ〇ニ四年のわたしには、どのような運命が待っているのだろう——。
ニ〇ニ四年の占いの本には「あなたのもとから離れていく人もいるけれど、ひとりの時間を楽しむようにしてね」という物哀しい言葉が書かれていた。
まだまだ人肌恋しい季節だった。顔を上げると、本屋さんの窓ガラスの外では雪が散らついている。今季最強の寒波が到来しているらしい。そっと本を閉じて、わたしは暖かい家に帰りたくなった。
しかし、占いの本には同時に「波長の合わなくなった人が離れていくのは、あなたのせいではないよ」「いろいろな事情が他の人にもあるのだから、気にしないで」という慰めの言葉も書かれていたのだ。
失恋したとき、本に優しい言葉をかけられると泣きたくなる。そっと閉じた本を両手で大切に抱えて、わたしは足早にレジへ向かった。
本屋さんを出ると、地面がしっとりと濡れている。落ちたら溶けてしまう雪は、まるで透明な涙みたいだ。見慣れた街の明かりを滲ませていく。近いような遠いような距離で、幻想的なイルミネーションの光が妙に美しく輝いて見えた。今のわたしには少し、眩しい。ぎゅっと目を閉じたら、涙がこぼれた。
そうして、わたしは厳しい寒さの冬を占いの本と一緒に過ごした。二〇二四年の冬は暖冬傾向と言われていたけれど、日本の冬は寒い。寒すぎる。今季最強の寒波が、何度も到来しては猛威を振るった。真の最強が何なのかは、知りたくもない。
占いの本には「今年の冬は出会いを求めないで、自分磨きに励んでおいて」というアドバイスの言葉が書かれていた。
頼まれたって、家から一歩も出る気になれない。でも、どうやって自分を磨いたらいいのだろう。こたつに潜りながら何度も考えてみたけれど、よくわからない。よくわからないので、わたしは磨けるところを磨いておくことにした。とりわけ歯と爪を念入りに磨いたことが、大学一年生の寒い冬の思い出として鮮明に残っている。
わたしは間違っていたかもしれない。いや、間違っていたと思う。よく間違える。でも、わたしなりに書かれている言葉を理解しようとした結果。わたしは占いの本と、ゆっくり仲良くなれたような気がする。そのような冬を過ごした。ちなみに、なかなか春は来なかった。桜の花でさえ、今年は昨年よりも十日ほど遅れて咲いたらしい。
◯◯◯
転機が訪れたのは、わたしが二十歳になったばかりの初夏。斜め向かいのお家の青もみじが綺麗な季節だ。占いの本には「初めて行く場所やお店で、不思議な出会いがありそう。臆病にならないで、前から気になっていた場所に出かけてみて」という具体的なアドバイスの言葉が書かれていた。
だから、わたしは行ってみることにしたのだ。二十歳になったら行ってみたいと思っていた「青い鳥」という名前のバーに。
初めての場所に行くのは、勇気がいる。二〇二四年のわたしのラッキーカラーは空色らしい。磨いてあった爪に空色のマニキュアを塗って、お守り代わりにした。雲ひとつない澄み切った空のような色が目に入るたび、ふわりと心が軽くなるような気がする。たまには、指先に色を塗るのもいいかもしれない。そう思った。
五月の夜に、わたしはひとりで街へ繰り出した。不思議な出会いを求めて——。
しかし、わたしは肝心の「青い鳥」という名前のバーに辿り着けないでいた。上前津駅の近くの大津通り沿いにあるビル。お店があるはずのビルの七階は、立体駐車場になっていたのだ。いろいろな車が整然と並んでいるのを見て、わたしは言葉を失った。
二十歳になったら行ってみたいと思っていたお店は、インターネット上の架空のお店だったのかもしれない。わたしのことだから、十分にあり得る。いやもう、十二分にあり得る。残念なような、ほっとしたような複雑な気持ちになった。
もう帰りかけていたときだ。エレベーターホールの左横の非常口の扉に、「日曜日は定休日です」と書かれているのを何気なく見た。思わず、二度見してしまう。「日曜日は定休日です」。
非常口の扉には、そぐわない言葉だ。無機質な鉄製の扉は、非常口の扉を装ったお店の入り口なのかもしれない。そう思った途端に、緊張してきた。鼓動が速い。手と足が同時に出そうになりながら、扉に近づく。小刻みに震える手で、扉に触れた。ひんやりと冷たい。重そうな扉を前に、立ち尽くしてしまいそうになったとき。お守り代わりの空色の指先が、目に入った。
もしも占いの本に背中を押してもらえていなかったら、わたしは大人の隠れ家的なバーの扉を開けることができなかったと思う。群青色のサテンスカートに高めのヒールを合わせて、わたしは物理的にも心理的にも背伸びしていた。その意識が緊張を高めてしまったけれど、わたしは何とかお店に辿り着くことができた。
◯◯◯
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
光沢感のあるシャツにベストを合わせて、蝶ネクタイを締めた店員さんがお出迎えしてくれる。控えめな明かりが灯された空間。店員さんの背後にあるお酒の棚が、ほんのり淡く照らされていた。たくさんのお酒が等しい間隔で並べられていて、すごく綺麗だ。洗練された雰囲気が漂うお店に、あらためて背筋が伸びる思いだった。
奥行きのある細長い造りのお店。ずかずかと進んでいく勇気はない。臆病なわたしは、入り口に近いカウンター席を選んだ。ゆったりとした大きめの椅子に腰かける。まるで身体が宙に浮いているかのような、不思議な座り心地がした。
カウンターの右端には、一枚の絵がかけられている。可愛らしい小鳥が木の枝に留まっている水彩画だ。透明感のあるマジックアワーのなかで、わたしには小鳥が夕焼けの終わりを待っているように見えた。小鳥のつぶらな瞳の先に、青い夜があったから。
「素敵な絵」と、わたしは無意識のうちに呟いていた。
「小鳥がお客様で、止まり木が私なんですよ。ゆっくり羽を休めてください」
愛想のいい店員さんが、温かいおしぼりを手渡してくれる。じわじわと両手から温もりが伝わってきた。少しずつ、わたしの肩の力が抜けていく。ここに来られてよかったと、だんだん思い始めていた。
一杯目は、苺が贅沢に使われているフレッシュカクテルを頼んだ。色鮮やかなカクテルを太めのストローで吸って、そっと口に含む。とろみのあるお酒のなかの、つぶつぶとした甘酸っぱい苺の食感が楽しい。このような美味しい飲み物が世界に存在するなんて、考えてもみなかった。ふんわりとお酒の香りがして、大人の気分も味わえる。わたしが初めて飲んだお酒は、まろやかで優しい味がした。
二杯目は何にしようかなと、メニューを見ながら考えていたときだ。お店の扉が開いて、他のお客様が入って来られた。だから、もうちょっと何を頼むか悩んでいよう。そう思って、わたしは迷える時間を楽しもうとしていた。
しかし次の瞬間、驚きのあまり変な声が出そうになった。たくさん席が空いているにもかかわらず、そのお客様がわたしの右隣の席に座ってきたのだ。
お店のカウンター席は全部で七席ある。わたし以外に座っている人はいなかったのに、どうしてだろう。ふたりが右端に固まって座っている状況だ。かなり戸惑っていたら、そのお客様に話しかけられてしまった。
「若い女の子が、ひとりだなんて珍しいですね。一杯、奢らせてください。若い女の子にお酒を奢るのは、僕の趣味のようなものですから」
「………」
わたしは話を聞き流してしまっていた。右耳から左耳へ、言葉が通り抜けていく。隣の席に座られたとき以上の衝撃があったからだ。もう、声も出なかった。わたしの隣に座っている方は、見たこともないほど眉目秀麗な中年男性だったのだ。
◯◯◯
綺麗に整えられた髪と眉毛。透明感のある肌。優しそうな二重まぶた。筋の通った上向きの鼻。形のいい唇。目もとや口もとには皺があるのに魅力的で、年齢を重ねた美しさが感じられる。左目の下のほくろが印象的で、大人特有の色気が際立っていた。
先ほどから、ムスク系の甘くて上品な香りが漂っている。ぽうっとなって、わたしは見惚れていた。眉目秀麗な中年男性が照れたように笑う。
「昔は、僕もモテました。調子に乗っていたら、修羅場を迎えましてね。当時、お付き合いしていた女性に怒鳴られました。『ずいぶん、おモテになるんですね。おモテに出ろ』って……」
思わず、わたしは吹き出してしまった。よくある自慢話として聞いていたら、きいていたのは洒落だったのだ。感服してしまう。
一瞬で場の空気を変えてしまった眉目秀麗な中年男性は、「申し遅れましたが、僕はコガといいます」と名乗った。
コガさんが奢ってくださるお酒は、透き通るような青い色をしていた。美しい海を連想してしまうような色だ。「チャイナブルー」という名前のカクテルらしい。中国の青。行ったことのない国の青い色が今、わたしの目の前にある。
「綺麗な色ですね」
「そうですね。鮮やかな青い色は世界各国で、最も好かれている色だそうですよ」
「中国にも、このような綺麗な色の海があるのでしょうか」
「あるかもしれませんね。いや、きっとあるでしょう」
コガさんが穏やかに笑う。すごく顔が整っているのに、コガさんは笑うと気さくで優しい印象になる。物腰が柔らかくて、素敵な方だなと思った。かっこいい大人の男性とは、コガさんのような方のことをいうのかもしれない。ちらっと、わたしの手もとをコガさんが見た。
「綺麗な爪ですね。実はあなたの爪を見て、チャイナブルーを思い浮かべました。少し、色が似ていると思いませんか」
言われてみれば確かに、爪の空色とカクテルの青い色は少し色が似ている。今日は青い色にご縁があると感じていたのだけれど、空色の指先が青い色を引き寄せているのかもしれない。
「ありがとうございます。何だか青い色っていいですね」
「そうですね。地球も青いですしね」
地球も青い。コガさんの言葉を心のなかで繰り返してみたら、当たり前の幸せに気づかされるような感じがあった。平和な空気が緩やかに流れていて、しみじみとした思いに浸ってしまう。
ふと気がつくと、コガさんは「グラスホッパー」という名前のカクテルを手にしていた。ちょうど斜め向かいのお家の青もみじのような色のお酒だ。
見よう見まねで、わたしもカクテルグラスの脚の部分を持つ。想像していたよりも軽くて、繊細な触り心地がした。コガさんが目尻に皺を寄せて、柔らかく微笑む。
「それでは、何でもない日に乾杯」
ふたりでカクテルグラスを目の高さまで掲げた。軽く会釈して、そっと口に運ぶ。「チャイナブルー」は見た目通りの爽やかな味がした。ほんのりライチの香りがするトロピカルな味だ。すっきりとした甘さで、美味しい。
◯◯◯
「こうしていると、二十歳になった娘とお酒を酌み交わした日のことを思い出します」と、コガさんは懐かしそうに顔を綻ばせた。わたしよりも歳上のお嬢さまがいらっしゃるのだという。お酒が入ってからのコガさんは、少し饒舌になっていた。
「娘もいい歳ですけどね。嫁のもらい手がなくて、困ります。孫の顔が見たいなんて贅沢なことを言うつもりはありませんが、娘に寄り添ってくれる人がいてくれたら……と願ってやみません」
「………」
身につまされる話だ。数年後には、わたしも両親に心配されているのかもしれない。ひとりで結婚できたらいいのに。相手のあることは難しい。何と言うべきか悩んでいたら、コガさんが穏やかに笑った。
「あなたは大丈夫ですよ。それでも心配なら、まだ時間はありますから女を磨いてください」
心の機微に聡い方で、本当に驚いてしまう。言葉を口にしなくても、わたしの気持ちが伝わってしまっているかのようだ。それとも、わたしの反応がわかりやすいのだろうか。全部、顔に書いてあるのかもしれない。自分の顔に自分の気持ちが油性ペンで書かれているところを、わたしは想像してしまった。出会ったときから、コガさんは油性ペンで書かれたわたしの気持ちを読んでいる。そのような空想にふけっていたら、どうにもこうにも自分の顔を確認してみなければ落ち着かないような気分になってきた。
お化粧室へ行くために席を外そうとした瞬間。はっと息を呑んだ。身体が固まる。お酒を飲み過ぎてしまったコガさんが、わたしのお尻を撫で回しているのだ。思考が停止してしまう。どうすればいいのか、わからなかった。
しかし幸運にも、ありのままの状況を目撃してくださった方がいたのだ。お店の扉がある辺りから、鋭い声が飛んできた。
「おい、そこのクソ親父」
斜め後ろを見ると、コガさんのお嬢さまが立っていた。紹介していただかなくても、お嬢さまであることは一目瞭然だった。この親にして、この子あり。驚くべきことに、コガさんのお嬢さまの顔はパーツが整いすぎている。丸みのあるおでこ、黒目の大きい二重まぶた、綺麗にカールした長いまつ毛、まっすぐに筋の通った上向きの鼻、形のいい柔らかそうな唇、細く尖ったあご先。挙げ始めたらきりがない。スタイルは長身で細身。それでいて、グラマラス。出るべきところが、きちんと出ている。外見上の欠点という欠点が何ひとつ見当たらない。微かに青みを帯びた艶やかなストレートの髪の一本一本さえも完璧で、まさに絶世の美女だ。思わず、わたしは見惚れてしまった。
◯◯◯
コガさんのお嬢さまが探るような目で、わたしを見ている。黒目が大きいからか、凄まじい目力だ。コガさんによく似ているけれど、表情の浮かべ方が全く違う。
「君は誰? もしかして、愛人だったか?」
ついさっきまで緩やかに流れていた平和な空気が一転。すごい空気になっている。ほんの少しでも場を和ませたくて「セクハラされたイシハラです」と、わたしは名乗った。
しかし、コガさんのお嬢さまに露骨に嫌な顔をされてしまった。場の空気を変えることは難しい。まだまだユーモアセンスの修行が足りていなかったみたいだ。しばらくの間、わたしは蚊帳の外に置かれていた。
「色ボケ親父が」「そろそろ落ち着いてくれ」などと、コガさんが一方的に怒られている。お嬢さまに頭が上がらない様子のコガさんは、しょぼんと肩を落としていた。亀のように縮こまっている背中は、大人の男性としては情けないものなのだろう。でも、コガさんの背中には愛おしさのようなものが感じられるから不思議だ。守ってあげたくなるような何かがあって、わたしがわたしの気持ちに驚いてしまう。
「あの、もう大丈夫ですよ」と言いかけて、コガさんのお嬢さまに「天性の人たらしだから、このクソ親父には気をつけて」と素っ気なくされてしまった。
「罰金を申し受けます」と、絶世の美女が微笑みながらコガさんに右手を差し出す。その笑顔は見たことがないほど、美しく清らかだ。綺麗な歯並びには、ピアノの鍵盤の整列のような正しさがあった。一万円札が何枚か、手に渡る。絶世の美女が思い出したように、わたしに目を向けた。
「河岸を変えて飲み直すから、君もおいでよ」
コガさんのお嬢さまは、もう怒っていなかった。表情が和らいでいて、ありのままの美しさが急激に増したような印象を受ける。もはや、神々しい。絶世の美女に大きい瞳で見つめられると、何だか緊張してしまう。こくりと頷いて、わたしは連れられるがままにお店の外へ出た。
「コガさんのお嬢さまって呼び方は、勘弁してくれ」
エレベーターを待ちながら、絶世の美女が苦々しく笑う。「私は、K子という」
夜の街では、用心深い方は名前の一部をイニシャルにして名乗るようだ。わたしは感動してしまった。しかし後から考えてみると、やはりK子さんではなくてケイコさんだったのだと思う。
何はともあれ、わたしは占いの本に書かれていた不思議な出会いというものを経験した。このときは知る由もなかったけれど、わたしの人生はケイコさんとの出会いによって大きく変わっていく。わたしにとってのケイコさんが、最も重要な人物になり始めるのは数時間後のことだった。
◯◯◯
ビルの裏側に出ると、穏やかな風が吹いていた。昼間の暑さが嘘みたいに、ひんやりと涼しくて気持ちがいい。薄曇りの空には、ぼんやりとした月が浮かんでいる。どことなく静かで、素敵な夜だ。
人通りがまばらな大須商店街をケイコさんと歩く。多くのお店は閉まっているけれど、ぽつりぽつりと夜遅くまで営業しているお店があった。それぞれのお店からは、賑やかな明かりが漏れている。わたしよりも大人の方々が、思い思いにお酒を楽しむ夜は魅惑的だ。昼間には味わえない独特な雰囲気が漂う。
一軒の居酒屋の前を何気なく通りかかったときだ。ふとケイコさんと後ろ姿が全く同じ方を見かけたような気がして、わたしは立ち止まってしまった。
「どうした?」
「何でもないです」
ケイコさんが目の前にいるのに、ケイコさんが他のお店に入っていくのを見るわけがない。たぶん、気のせいだ。それなのに、ケイコさんはいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「もしかして、私のドッペルゲンガーでも見たか?」
「………」
コガさんよりも正確に、心を読まれてしまったことに動揺してしまう。慌てて、わたしは同じ言葉を繰り返した。
「何でもないです」
「そうか?」
さらりと前髪を掻き上げながら、ケイコさんが言う。しかし颯爽と歩き始めた後ろ姿は、なかなかどうして身長も骨格も髪型も服装も似ていたのだ。先ほど一軒の居酒屋へ入っていった方に。
ケイコさんの服装は、珍しくもないけれど被りやすくもない。紺色のジレのセットアップを綺麗に着こなしていた。すらりとした長身に、落ち感たっぷりのワイドパンツがよく似合う。足元はスニーカーで、軽やかな印象だ。鞄は持っていなかった。身軽な格好が好きなのかもしれない。
目の前で起こった奇妙な現象に、わたしは首を傾げた。そもそもファッション雑誌から抜け出してきたような後ろ姿の方が、ふたりも同じ場所に存在するとは思えないのだ。
初めて、わたしは他人のドッペルゲンガーを本当に見たのかもしれない。はっきりと顔を見たわけではないからか、不思議と怖い感じはしなかった。ケイコさんが見たのではなくて、よかったと思う。自分で自分のドッペルゲンガーを見ると、死んでしまうという説があるのは怖すぎる。
不意に、誰かに見られているような気がした。背後から視線を感じる。「わたし」は「わたし」が後ろにいるところを、つい妄想してしまった。振り返ると、自分と全く同じ顔の人間がいる。そう思ったら、振り返ることができない。
「おーい、こっちだぞー」
ケイコさんが手を振りながら、わたしを呼んでいる。わたしは小走りで駆け寄ろうとして、履き慣れないヒールで転びそうになった。
◯◯◯
昭和の香りが漂う文珠小路の路地裏に、ひっそりとお店が存在している。ケイコさんの行きつけのお店らしい。木造二階建ての居酒屋で、藍色の暖簾に「大衆酒場ひろみ」という文字が白抜きされていた。
たくさんの提灯が並べられた軒先は、煌々と明るい。蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされた狭い路地裏で、そのお店だけが鮮やかな光を放っている。ふと異世界に迷い込んでしまったかのような感覚を覚えた。どこか懐かしいような切ないような、不思議な気持ちになる。
生ぬるい風が頬を撫でていく。室外機の回転音が微かに聞こえていた。室外機を置くスペースがないのだろう。お店の入り口の横に三段置きしてあるのに、さらに一階の屋根の上にも室外機が乗っている。
「さっさと入るぞ」
ぼーっと立っていたら、わたしはケイコさんに呼びかけられてしまった。暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ〜」という朗らかな声に迎えられる。ほっこりとした温かい雰囲気に包まれている店内。他のお客様が和やかに談笑を交わす声が聞こえてきた。
ケイコさんはお店の奥へ迷うことなく、ずんずん進む。勢いのままに階段を上がって、ニ階の窓際の個室席を陣取った。腰高窓の下の壁に面しているソファに座ったケイコさんが、嬉しそうに顔を綻ばせる。
「ここの青いレモンサワーが、とにかく美味しい」
わたしは向かいの席に座って、勧められた通りに青いレモンサワーを頼んだ。青いレモンサワーへの期待が膨らむ。ちょっと強引にリードしてくださるところは、ケイコさんの魅力のひとつだと思う。堂々としていて、かっこいい。
青いレモンサワーは、「チャイナブルー」に負けず劣らず鮮やかな青い色をしていた。グラスの底から立ち上がる炭酸の気泡が、わたしに青の洞窟を想起させる。高校生のときに沖縄の修学旅行で一度だけ見た神秘的な情景が、ありありと目に浮かんできた。差し込む光に反射してキラキラ輝く、きめ細やかな泡が美しい。
「それでは、乾杯」
ふたりでグラスを軽く合わせた。青いレモンサワーを、ごくりと飲む。余韻のある果実感のなかにレモン特有の酸味と苦味と、若干の甘味が感じられて美味しい。爽やかな香りのなかで弾けるソーダには、清涼感があった。
◯◯◯
ケイコさんは、青いレモンサワーを浴びるように飲んだ。絶世の美女と、美味しいお酒。見る人が見たら、最高の組み合わせなのだろう。どこかふわふわしたような心地で、わたしはケイコさんを眺めていた。先ほどから、何とも言えない多幸感に包まれている。お酒に酔うって、こういう感覚なのかもしれない。
ケイコさんは、顔色ひとつ変えずに飲み続けている。ごくごく飲む。あっという間にグラスが空く。空いたグラスが、どんどん机の上に並べられていく。爽快だ。眺めているだけで楽しい。しかしながら、お酒が入ってからのケイコさんは少し饒舌になっていた。
「相変わらず、親父はうるせえな。結婚しろしろって、そればっかりだ」
「そうですね……。ケイコさんは結婚できないのではなくて、結婚しないのですから」
絶世の美女に、嫁のもらい手がないわけがない。身につまされる話だと一度は思ったけれど、わたしとは全く違う。ちょっぴり寂しい感じがして、わたしはお酒を口に含んだ。将来への漠然とした不安が和らいでいく。
しかし、意外なことにケイコさんは否定したのだ。
「いや、違うぞ」と、わたしを真剣な眼差しで見る。「私が独り身でいるのは、男性に興味がないからだ」
……何が違うのだろうか。よくわからなくて、わたしは首を傾げた。ケイコさんが苦笑いしながら、言い直してくれる。
「私が独り身でいるのは、女性が好きだからだ」
わたしは目を見開いてしまった。あまりにもセンシティブな内容で、返す言葉が見つからない。想定外と感じてしまったことでさえ微妙な問題かもしれない、とか。今どき珍しいことではないのだから、とか。頭のなかで、ごちゃごちゃ考えてしまう。わたしは愕然としていたのだけれど、ケイコさんは平然としているのが対照的だった。
「そんなに大したことではない。周りからどう思われようが、私は構わない。別に隠してもいないし、コレもいるよ」
絶世の美女が左手の小指を立てる。すらっとした細い指に、似つかわしくないハンドサインだ。そう思ってしまったことに、わたしは再び考えてしまう。自分のなかに、無意識の偏見があることに気づかされる。でも、今度は興味が湧いてきてしまった。しばらく悩んでから、わたしは尋ねた。
「どのような方なのですか」
「小柄で小動物みたいな人。でも、芯がある人。私は上背があるからかもしれないな」
絶世の美女が、幸せそうに笑う。だから、きっとパートナーの方も幸せなのだろう。正直、だいぶ羨ましい。
◯◯◯
「コガ先生!!!」
突然、後ろから声がした。透明感のある凛とした声だ。振り返ってみると、ショートボブの小柄な女性が立っている。清潔感が漂っていて、きちんとした印象を受ける女性だ。耳の形が綺麗な方で、左耳にパールのピアスをしている。
「さすがだな、モリカワ」と、ケイコさんが不敵に笑う。そして、ケイコさんは思いがけない行動に出た。何の躊躇いもなくソファの背もたれによじ登り、腰高窓を開けて飛び降りたのだ。何が起こったのか、よくわからない。俄かに信じがたい光景。一瞬のうちの出来事だった。
ショートボブの女性が、わたしの脇を素早く通り過ぎる。慌てて、わたしも後に続いた。靴を脱ぎ捨てて、腰高窓の下に面しているソファに立つ。開け放してある窓から、ショートボブの女性と一緒に外を見た。
丸い街灯の下。文珠小路を軽やかに駆け抜けていくケイコさんの後ろ姿があった。その姿にはスピード感があって、心が緩む。地面に倒れているのではなくて、よかったと思う。しかし、びっくりするほど型破りだ。未だかつて、わたしは二階から飛び降りた方を見たことがない。
「もうっ!」とショートボブの女性は怒っていた。怒っているのに、どこか嬉しそうだ。口角が上がっている。
「急いでいるので、すみません」と、ショートボブの女性が涼やかな声で言う。ぺこりと頭を下げて、すぐにケイコさんを追いかけていく。何が何だかわからないけれど、壮絶な鬼ごっこだ。わたしは目をぱちぱちさせてしまった。
二階の窓際の個室席にひとりぽっち。気がつけば、わたしだけが取り残されている。ひとりで街へ繰り出したはずだけれど、ひとりが寂しい。お祭りが終わった後のような静けさに包まれながら、ひとりで街へ繰り出した日を今日ではない遠い過去のことのように思い返していた。
突然、ケイコさんはいなくなってしまった。居酒屋の二階の窓から、ふっと消えてしまったのだ。あまりにも急なことで、現実感がない。全て夢だったのかもしれないという思いが、わたしの脳裏を掠める。でも、机の上に並べられているグラスが夢ではないことを物語っていた。
もうケイコさんには会えないのだろうか。まだ話していたかったような気持ちになる。名残り惜しく思っていたら、腰高窓からケイコさんが戻ってきた。そして、ソファの上に降り立つ。わたしは目を見張った。
「まさか、飛び降りることになるとは思わなかった」
ケイコさんは元の位置に収まると、お腹をよじって笑い出した。
◯◯◯
ケイコさんは一階の屋根に設置されている室外機の上に飛び降りたのだという。窓の真下に設置されている室外機は、窓から外を眺めるだけでは見えない。ケイコさんは室外機の上にしゃがんで、身を隠していたらしい。
「室外機の上に飛び降りたら、思ったより幅が狭くて危うく本当に落ちるところだった」と、ケイコさんはひとりで大笑いしている。笑いごとではない。それに、まだ謎があった。
「でも、ケイコさんが走っていく後ろ姿を見ました」
ケイコさんが室外機の上にいたというなら、文珠小路を駆け抜けていったケイコさんは誰だったのか。まさか、ドッペルゲンガーを飼い慣らしているわけではないだろう。
「あぁ、あれは私に後ろ姿をよく似せた従姉妹だ」
ケイコさんが、いたずらっぽい笑みを浮かべる。「ここに来る前、君は見かけただろう」
「……わたしは、ケイコさんのドッペルゲンガーを本当に見たのかと思っていました」
「顔は似ていないが、後ろ姿だけなら誤魔化せる」
さらりと前髪を掻き上げながら、ケイコさんが言う。
つまり、外を走っていった方はケイコさんではなかったのだ。用意周到な逃走計画に、わたしは驚きを隠せなかった。しかし、あくまでも冷静にケイコさんは言う。
「二階からアスファルトの地面に飛び降りたら、普通に足の骨が折れると思うぞ」
「………」
何のために、夜の街で大人が本気の鬼ごっこをやっているのだろう。その理由が気になる。わたしは、無駄に振り回されているような気持ちになってきていた。
「どうして、ケイコさんは追いかけられているのですか」
「話せば長くなるが」と前置きして、ケイコさんは話してくれた。
ケイコさんは小説家らしい。原稿の締め切りが明日に迫っていて、伏見駅の近くの観光ホテルで缶詰め状態にされていたという。そして、着の身着のままで逃げ出してきた。ケイコさんを追っているのは、編集部の皆様とのことだ。
「いや、まさか着の身着のままで逃げてくることになるとは思わなかった。鞄はともかく、スマホは持って逃げるつもりだったのだが。担当編集のモリカワが予想以上に用心深くてな。何もかも没収されたせいで、お金はないうえに従姉妹と連携が取れなくて手こずった。だが、何とかなるとも思っていた。今夜、親父が「青い鳥」に出かけることは知っていたから、お金は借りればいい。せっかく準備してくれた従姉妹には悪いが、そもそも最初から従姉妹が活躍する場はないかもしれなかった。ノーヒントで「大衆酒場ひろみ」に私がいると推測する方が、どうかしている。私が飛び降りることになる可能性は限りなく低いはずだった。だが、モリカワは実際に私を見つけたし、私は室外機の上に飛び降りた。従姉妹はタイミングよく文珠小路を走った。意外と、みんな優秀だな」
一息に喋ってから、ケイコさんは青いレモンサワーを煽った。そして、満面の笑みを浮かべる。
「特に、モリカワはさすがだった。さすが私のパートナーだ」
ケイコさんは、誇らしげだった。
◯◯◯
ケイコさんは再び、青いレモンサワーを浴びるように飲み始めた。いくらでも飲めるみたいだ。底が知れない。わたしはもうお酒が入っているグラスを持て余していた。
「なぜ小説を書こうと思ったのですか」と、わたしはケイコさんに聞いてみた。わたしにとって小説は読むものであり、書くものではない。書こうと思ったことさえない。ケイコさんは考え込んでいる様子だったけれど、しばらくして口を開いた。
「一度、書き始めたら書かずにはいられなくなる。まあ、君も書いてみたらわかるよ」
書いてみたらわかる。そういうものなのだろうか。ケイコさんが飲み続けるのを眺めながら、わたしは疑問に思った。それに、小説って何を書くものなのだろう。
「ケイコさんは、どのような小説を書かれているのですか」
「美しいものが美しいままに失われていく小説」
「何だか難しいですね」
「平たく言えば、美しいものは儚いから美しいってことだな。美人薄命。綺麗な花は儚く散るからいい」
ケイコさんの言葉の意味を考えているうちに、わたしは夢から覚めたような気持ちになった。ハッとして、叫ぶように言う。「ケイコさん、死なないでください!!!」
「私は、こんなに生きるつもりはなかったけど生きているよ。美しいものは、美しくなくなったら価値がなくなると思っていたのだが」と言葉を切って、またケイコさんは青いレモンサワーを飲んだ。
ケイコさんの美しさが衰えているようには感じられないので、わたしは不安になる。ケイコさんからは今にも消えてしまいそうな雰囲気が漂っていた。わたしは必死になって、言葉を口にする。
「わたし、ケイコさんが書いた小説を読んでみたいです」
「残念ながら、私は覆面作家だ。本名も顔も知られていては、筆名を明かすことができない。気持ちだけ受け取っておくよ、ありがとう。いつか、私の本が君に届いたら嬉しい」
絶世の美女が、柔らかく微笑む。
「さて、そろそろホテルに帰って原稿に取りかかるか」
たらふくお酒を飲んで満足したらしいケイコさんが立ち上がりながら言うので、わたしは驚いてしまった。
「えっ、ホテルに戻るのですか。逃げていたのでは」
「もちろん戻る。どうしても明日までに原稿を仕上げなければならない。ちょっと気晴らしに出ていただけだ。お酒も飲みたかったしな」
これだけ飲んだ後で、お仕事ができるなんて信じられない。ケイコさん、すごすぎる。そう思った。でも、小説を書くのに酔っ払っているだとか寝不足だとかのコンディションは一切関係がないのだと、ケイコさんが言う。
「後、小説は誰にでも書ける。気が向いたら、君も書いてみるといい。君には見どころがありそうだ。たまに空想の世界へ行っているような、ここにいないような目をしているから」
「……そうでしょうか」と、わたしは戸惑いながら曖昧な返事をしてしまった。
帰り際。ふたりでお店を出たところで、わたしはケイコさんに声をかけた。
「もう会えないのですか」
「縁があれば、また会えるよ」と、ケイコさんが笑う。そして、わたしに背中を向ける。今日、何度も見たように思う背中だった。颯爽と歩き始める背中を見つめていたら、ケイコさんが後ろ向きのままで手を振ってくれた。「またな」
絶世の美女が遠ざかっていく。上前津駅に向かって、わたしも歩き始めた。十分、間に合いそうな時刻だ。日付けが変わっても、電車は走る。
定期券で改札を通って、地下鉄のホームで電光掲示板を眺める。やがて、最終電車がホームに滑り込んできた。両開きの扉から乗り込む。がらんとした電車に揺られながら、わたしは今日あったことを思い返していた。
◯◯◯
そのようなことがあったとはいえ、わたしはまだ小説を書くことになるとは思っていなかった。
やっぱり占いの本に「今年の夏は、何か新しいことを始めてみて。最初は上手にできなくて当たり前だと思って挑戦してみると、意外に楽しめるよ」というアドバイスの言葉が書かれていなかったら、わたしは小説を書いていなかったと思う。
小説を書くことによって、「ひとりの時間を楽しむ」ことは合理的な感じがする。占いの本は当たっているような気がするのだけれど、よくわからない。占いの世界は神秘的だ。ただ、わたしの背中を押してくれるものであることは確かだと思う。
小鳥のさえずりが、遠くの方で聞こえてくる。ノートパソコンの明かりだけがついた薄暗い部屋のカーテンの向こう側に、わたしは夜明けの気配を感じた。小説を書いていたら、つい夢中になっていたのだと気づく。
わたしが書いた小説を、冒頭から読み返す。
「そもそものきっかけは、一冊の本だった。学校帰りに金山総合駅の近くの本屋さんで、たまたま見かけたニ〇ニ四年の占いの本だ。おみくじを引くような気分で、手に取ったことを覚えている。ニ〇ニ四年のわたしには、どのような運命が待っているのだろう——」
本から始まって、本に終わる話だ。最初に小説を書くなら、まずは小説を書き始めるきっかけになった話が書きたいと思った。
読み返してみると、文章で表現することの難しさを痛切に実感する。わたしはわたしのはずだけれど、文章のなかのわたしはわたしではない気がするのだ。ペンネームを「野田莉帆」にしたことが関係しているのかもしれない。本名のまま、苗字を母方の旧姓に変えただけの名前。わたしのようなわたしでないような不思議な名前だと、書きながら思う。
しかし、わたしだけではない。コガさんもケイコさんも、みんな。実際にあったことをなるべく忠実に書こうとしたけれど、現実とは何かが違っているような気がする。ドッペルゲンガーを生み出してしまったかのような、不思議な感覚だった。もしかしたら小説を書くということは、生み出したドッペルゲンガーを飼い慣らすということなのかもしれない。これから書き続けるうちに、もっと上手に飼い慣らせるようになっていくのかもしれない。
現時点でのベストな文章が書けているかどうかは、よくわからない。自分で自分の文章を客観的に判断することは難しい。どうでもいいことを書きすぎてしまったような感じもする。
しかし、ケイコさんがいなければ今のわたしは存在していなかったと思う。書く「わたし」も、書かれる「わたし」も、きっと存在していなかった。だから、わたしにとってケイコさんは最も重要な人物だ。
あれから、ケイコさんには会えていない。たまに、わたしはひとりで夜の街へ繰り出す。あの日、ケイコさんと歩いたのと同じ道を歩く。ケイコさんに似た人を見かけたような気がする日もあるけれど、今のところは勘違いに終わっている。
本格的な夏が近づいていた。なかなか日が暮れない。夏の夕暮れのなかで思い出すのは決まって、「青い鳥」のカウンターにかけられている水彩画だ。透明感のあるマジックアワーのなかで木に留まっていた小鳥のように、わたしはケイコさんを待っている。ずっと、青い色で繋がっているはずの縁を待っている。