第3話
王子は階段に座り、海にヒレを泳がせて自分を見上げる人魚姫を見つめた。
「海に人魚がいることは、子供の頃から話に聞いていました。しかし、人魚が人間を助けてくれるとは。人魚は人間を海に引きずり込む魔物だと、そう聞いていました」
「そんなこと、いたしませんわ」
「ええ、あなたが、そんなことをするとは思えない。海を恐れる者達の、迷信でしょう」
王子が優しく手を握って笑ったので、人魚姫はほっとした。
「迷信なら、私達の国にも伝わっています。人間に決して見つかってはいけない。その、野蛮だからと」
「海の男達は荒くれ者が多いですからね。確かに、野蛮な人間もいますが、全員ではありませんよ」
今度は人魚姫が、王子に優しく微笑んでうなずいた。
その綺麗な顔に、王子はうっとりと微笑み返した。
その瞬間、王子は魚の下半身を忘れたが、またあることに気づいた。
「あの荒れ狂う海を泳いで、私を助けてくれたんですか」
この可憐なお姫様が、暗い海を泳いで自分を助けてくれたと思うと、王子の胸には人魚姫への愛おしさが生まれた。
「怖かったでしょう?」
「いいえ、夢中でしたから、少しも怖くはありませんでした」
人魚姫は本当の気持ちを込めて、笑顔をみせた。
「勇敢なお姫様だ。怪我をしませんでしたか?」
王子は急いでランプに火を灯して、人魚姫の体を見回した。人魚姫は王子の持つ、揺れるランプの明かりに目を奪われた。
その間にも、王子は人魚姫の顔や肩や腕を調べた。それから、なだらかな曲線を描く上半身、そして、いけないと思いつつも、魚の下半身になる腰の変わり目をジッと見つめた。
腰から下は、赤い魚の鱗が煌めいていて、足先の部分ではヒラヒラと尾ヒレが揺れていた。
そっと、撫でてみると、何度か触ったことがある魚の感触がした。
王子はいけないと思いつつも、人魚という生き物にグロテスクさを感じずにはいられなかった。
上半身は可愛らしい人なだけに、魚の下半身が悪夢のようだった。できれば信じたくはなかったが、目に映るのはまぎれもない現実なんだと、王子は何度も自分に言い聞かせた。
彼女が私を助けてくれたのだと、今一度強く思った。人魚だからこそ、助けることができたのだと思えば、心は落ち着き、感謝の気持ちが湧いて戸惑いを消してくれた。
「怪我がなくて、よかった」
人魚姫はランプから、王子様の笑顔に目を移した。
「王子様こそ、お怪我はなかったでしょうか?」
今度は人魚姫が、王子様の体を見回した。
王子は黒いズボンを穿いた自分の足を、人魚姫がジッと見つめているのを見て思った。
彼女も、私の人間の下半身を、グロテスクで悪夢だと思っているかもしれないと。
「どうですか? これは、足というものです」
王子は靴を片方脱いで、指を動かしてみせた。
「まぁ!」
人魚姫は興味津々で、王子の足先を眺めた。
「気味が悪いと思いませんか?」
「いいえ、不思議ですけど、気味悪くはありませんわ」
嬉しそうに笑う人魚姫に、王子はほっとしてブーツを履いた。
「私に人間のことを教えてくれたおばあさんは、人間は二本の棒切れのような物で歩いていると言っていましたわ。歩いているところを、見せてくださいませんか?」
「ええ、喜んで」
王子はすぐに立ち上がって、ゆっくりと階段を登り降りしてみせた。
人魚姫はこれ以上ないほど目を大きく見開いて、歩く王子を目で追った。
「とても、スイスイ歩けるのですね」
「もっと速く歩けますよ。そうだ、明日、昼間にお会いしましょう。走るところを見せますよ」
「走る?」
興味津々な人魚姫に、王子は笑いかけた。
人魚姫は王子様の誘いを受けたかったが、不安が胸をうずまいた。
「ですが、明るいところで会うのは……人魚は人間に近づかないようにしているのです。人間に見られては、いけないと言いつけられていますの」
王子は人魚姫を繋ぎ止めておきたくて、彼女の手をとった。
「誰にも知られてはいけないなら、このことは、誰にも話しません。私とあなただけの秘密にしましょう」
しかし、王子はもう人魚姫の存在が大きくなっていて、誰にも言わずにいられるか、自信がなかった。
「姫、もう帰らなければいけませんよ」
姉姫の声が暗闇から聞こえた。
「王子様、私はもう帰らないと」
「明日、会いに来てくれますね? 夜は危険だから、日が高く登った頃、ここで待っています」
人魚姫がうなずいて、王子はやっと手を離した。
ふたりは、お互いが帰っていく姿を何度も見返した。