第2話
次の日も、また次の日も、王子は階段に座り海を見つめた。
「王子様! いけません。せっかく、お加減が良くなったというのに、また悪くなりかねません!」
執事が医者を連れてやって来て、ふたりで両側から王子を抱えた。
「離してくれ。体調なら大丈夫だ。それより、私は、私は」
「気の病ですな」
執事から王子の様子を聞いていた医者は、王子の憂い顔を見て言った。
「気の病ですと?」
「九死に一生を得た者がよく、このような状態になるのです。生と死の間の葛藤から、抜け出せていないのですな」
医者は体で海を隠しながら、王子を海から遠ざけるために歩き出した。
「王子様、前を向いてお歩きになることです。しばらくは、海を思い出さない方がいいですな」
そんなことはできない、と王子は言おうとしたが、これ以上医者を困らせると部屋に閉じ込められるかもしれないと思い、おとなしく部屋に帰った。
次の日、王子は夜にこっそりと、階段に座り込んだ。
王子はいつものように、黒い海を見つめた。
暗い海を見ていると、船から落ちた時のことを思い出し、顔を膝にうずめたが、落ち着くとまた海に顔を向けた。
三日月が遠くで光り、揺れる波をちらちら金色に照らしている。それは心細い明かりだったが、王子はランプの火を消した。そして、膝を抱えて物思いに耽った。
王子様の姿を一日でも見れないと、いても立ってもいられなくなっていた人魚姫は、夜の岩場にやって来て王子様を見つけた。
「王子様、やっぱり、まだ悩んでいらっしゃるわ」
人魚姫がどうしてあげたらいいかと途方に暮れていると、一番上の姉姫が波間から現れて人魚姫のそばに来た。
「夜に出掛けてはいけませんよ。お父様に知られたら、お叱りを受けますからね」
「お姉様、私は王子様が心配で、気になっていられないんです。今日もまた、ああして暗闇の中でおひとり、悩んでいらっしゃるのです」
姉姫も王子の姿に同情したし、妹がずっと心配しているのもなんとかしてあげたかった。
「それなら、なにを悩んでいるのか聞いてごらんなさい。この暗さなら、誰が聞いているかなんてわかりませんよ」
人魚姫は思い切って聞いてみることにして、岩場から王子様の方へ少し近づくと、恐る恐る声を出した。
「王子様、なにをそんなに悩んでいらっしゃるのです?」
しかし、その声は小さ過ぎて、王子にはかすかにしか届かなかった。
「なにか、聞こえたような」
王子はキョロキョロしていたが、すぐにまた膝を抱えてしまった。
「私が代わりに聞きましょう。王子様! なにをそんなに悩んでいらっしゃるのです?」
「だ、誰だ!?」
今度は姉姫の美しい声がよく通り、王子は立ち上って岩場の方に目を凝らしたので、ふたりは岩に身を寄せた。
「王子様が悩んでいるのを、ずっと見ていました! 教えてください。できるなら、悩みを解決してあげたいのです!」
「私が悩んでいるのを、ずっと見ていたのですか? 気づきませんでした。あなたが誰かもわかりませんが、まずは聞いてください! 私の悩みは一つです。私は一週間ほど前に沖で船の事故に遭い、海に投げ出されて溺れました。しかし、気がつくと、浜に倒れていたのです。そのことが、とても不思議なのです。暗い海の底に沈んだはずの私が、なぜ、助かったのかが!」
そのことを知っている人魚姫と姉姫は顔を見合わせた。
「あなたの口から、王子様に教えてあげなさい」
姉姫は人魚姫の背中を押して、自分は岩に隠れた。
ひとりにされた人魚姫は戸惑ったが、せっかく作ってくれた機会を無にしないために、階段近くまでいった。王子様に自分の姿が、はっきり見えないように気をつけながら。
王子には海からなにかが来るのが見えたが、黒い影になっていて正体はわからなかった。人魚姫の尾びれがパシャパシャと水音を立てたので、王子は目を見開いて耳をそばだてた。
「王子様」
「誰です? さっきと声が違うようだが」
「さっき、あなたに問いかけたのは、私の姉でございます」
王子は震えている可愛い声に耳をかたむけた。姉妹がこんな夜更けに、海の方から来たとは? 王子は不思議に思い、どんな人が闇に隠れているのかと惹きつけられた。
「私は、セレーナと申します」
「セレーナ、美しい名前だ」
人魚姫は高鳴った胸をおさえて、落ち着いて続きを言った。
「王子様、あなたが助かったのは……」
「なにか知っているのですか? 教えて下さい!」
必死な王子の顔を見て、人魚姫は意を決して答えた。
「それは、私が助けたからです」
「あなたが?」
王子は驚きのあまり黙り込んだ。
可愛らしい声の持ち主が、どうやって溺れた男を助けたのだろう? と、王子は声の方へ身を乗り出した。
人魚姫は急いで後ろにさがった。
「姿を見せてください。愛らしい声のあなたが、どうやって私を助けてくれたのですか?」
「それは……」
人魚姫は自分を見せていいのか、わからなかった。どうしようかと、姉姫の方に顔を向けたところ、王子様の手が腕を掴んで引っ張った。
王子の瞳に、可愛らしい顔が映った。月明かりのような金髪、透き通るような白い肌、つぶらな青い瞳、生き生きとした赤い可憐な唇。
王子は信じられない思いで、娘を見つめた。顔の他は、長い髪と闇に隠れて見えなかった。
王子は娘が海のなかにいるのも忘れて、驚いて聞いた。
「あなたのように愛らしい人が、どうやって私を助けたと言うのです?」
「それは……船で通りかかって」
人魚姫の咄嗟の嘘に、王子は納得してうなずいた。
「それで、浜まで運んでくれたのですか」
「は、はい。私は実は、誰にも知られてはいけない船旅の途中だったのです。それで、浜に置いていくしかなかったのです」
人魚姫の嘘と真実を交ぜた話を、王子は疑わなかった。
「助けてくれて、ありがとう」
王子は人魚姫を優しく見つめた。
人魚姫は王子様の黒い瞳に光が戻り、生き生きとした笑顔をみせたので嬉しくなった。
「私はレオナルド。あなたのおかげで、こうして城に戻ることができました」
王子は人魚姫の手にキスをした。自分に優しく微笑みかける人魚姫を、王子様は腕に抱いた。
「夜に泳いでいたのですか?」
「は、はい」
「体が冷えてしまいますよ。こっちへ来て、暖炉で火を炊きましょう」
「火を?」
好奇心に目を見開く人魚姫を、王子は階段へあげようと手を引いた。
人魚姫はそこでやっと、自分を引っ張る王子様に抵抗した。王子は人魚姫の背中に、しっかりと腕を回したままだった。冷え切った体を温めてやりたかった。人魚姫は王子様の温かさに驚き、少しもがいた。
「そうでした。お姉さんも一緒に」
「いいえ、私達は帰りますわ。王子様、悩みがなくなりましたでしょう?」
「ええ、おかげで心が晴れました」
王子は晴れ晴れとした笑顔をみせた。
その笑顔に、人魚姫はまた目を奪われた。
王子様が無事でよかったと、心から思った。
「それだけで、いいのです」
海へ戻ろうとする人魚姫を、王子は抱きしめた。
「このまま、帰すことはできません」
「今は、帰らなければいけないのです」
人魚姫と王子の押し問答を、姉姫はハラハラしながら見ていた。
もう少しこのまま、王子が悪人か善人か見極めたかった。それは、王子が妹の思い描く、優しい人間だと信じたかったからだった。
ついに、王子が人魚姫を抱きかかえた。
「変わったスカートを穿いているようですね。それに、あの」
王子は人魚姫が、胸当てしかしていないのに気づいて、階段に降ろすと、自分の上着を人魚姫の肩にかけた。
そして、王子はつい、スカートに目をやった。
闇に慣れた王子の目は、人魚姫のヒレをしっかりと映した。
言葉を失い、自分のヒレを見つめている王子様に、人魚姫はなにも言えず、つい、尾ビレを動かしてみせた。
「さ、魚だ……あなたは」
王子様の見開かれた目を見て、人魚姫はうつむき加減にうなずいた。
「私は、人魚です。海の底の王国で暮らす、人魚の姫なのです」
「に、人魚の姫?」