十人の住人
彼女が車で来るまで待っているのは面倒だった。
朝、小さな虫が舞っている道を歩いていると不意に電話が鳴って、僕は麻のシャツのポケットからスマホを取り出した。無視しようとしたけど、気になってしまったからだ。
「もしもし」
「もしもし、徹? あ、サイズはトールで!」
未知の相手を期待したが、やはり彼女だった。
「僕はコーヒーじゃない。もう電話に出んわ」
「ごめんごめん、今スタバなんだけど、そっちに車で迎えに行くよ」
僕はため息をついた。杖を突いた老人が目の前を通り過ぎ、僕は同時に目の奥に痛みを感じた。
「どれぐらいかかるの?」
「今まだ居間にいるから、時間かかると思うよ」
「まず一に、僕は今――」
「とにかくその位置にいて。すぐ行くから、車で来るまで待ってて」
彼女はどうしてもこちらに来たいようだった。
「……そうか。分かった」
僕は彼女に押されて、いつものように結局折れた。
二十歳の時分、僕は自分でアパートを借りて草加に住んでいた。あれから日本も色々変わったけど、僕の部屋の歯ブラシは二本のままだ。
三ヶ月前のよく晴れた日、「甲斐性がない」と言われて突然彼女に婚約を解消されてしまった。その日は一日泣くのを止めることができなかった。病める心とカエルのように腫れたまぶた――彼女の心を変えることができないと分かっていても、彼女への思いの火がなくなることはなかったし、一人で家に帰るのはつらかった。
きっかけは久しぶりに彼女の手料理を食べたことだった。残業させられた上に夜に寄るつもりだったレストランが休みだったので、僕たちは飢えに負けて家に帰った。
赤い垢のこびりついたバスタブでシャワーを浴びて、部屋に戻った僕は唖然とした。
彼女はこんもりと皿に盛られた餃子に、更に餃子を積み重ねていた。異常な量だった。
「それ以上のせない方がいいよ」
僕は床に置いてある辞典の山をどけて座ると、さっそく箸で餃子をつまんで醤油皿に入った黒い液体に浸し、口にほおばった。この時点で気づけばよかったのだが、時すでに遅し。
「うわ、マズッ」
酢が嫌いだったこともあって、つい素が出てしまった。彼女は酢だけをかけて餃子を食べることも多く、この日彼女は僕の醤油皿に酢を入れていた。
「なによ、せっかく作ってあげたのに!」
テーブルの端で僕を見ていた彼女は、少しいらだった表情でそう言った。慌ててとりつくろうとして、僕は下手な言い訳をした。
「皿が……、皿がダメだな」
いつも自分が使っている醤油皿について言ったつもりだったが、この時の言葉を僕はとても後悔した。
それを聞いて彼女はとても悲壮な顔をした。
「アタシのどこがダメなのよ?」
近くの橋で行われていた工事の音が止んで、僕たちの間をしばし沈黙が埋めた。
「いやいや、君のことじゃないよ。君がこの皿を使おうと思ってたんだろ?」
「もういい! 徹なんて大嫌い!」
我慢の限界を超えたのか、彼女は声を荒げて叫んだ。
「明日から別居するわ。アタシたちはもう終わりよ、この甲斐性なし」
急に地殻変動が起きて、エレベーターみたく床が下降していくように感じた。彼女は赤のスカートを翻し、乱暴にバタン、と戸を閉めてアパートから出て行った。
「待ってよ、餃子には絶対塩麹だって。酢なんてかけて良いわけないだろ?」
愛用の塩麹を片手に僕は一人とり残された。頭の中で「麹」を漢字で書こうと思ったが、漢字辞典なんて見たくもなかった。
デジタル時計の数字が九になり、静かな部屋にアラームだけが鳴り響いた。
進撃の刃の次巻が発売される頃、友達の由香が浩次と尾張に旅行しに行くというので僕たちもいっしょに行った。昨日の敵は今日の友とでも言うのか、時間と共に傷も癒えていった。一応機能はしているが、つかず離れずの微妙な関係――僕は意地になって現状を維持しようとしていた。
「……国会議員がのべ百万円分のお食事券を賄賂として受け取ったことが問題になった汚職事件で、調べに対し被告は『クルーズ船で紅海を航海中、景気づけにケーキを食べようと思ったが金が足りなかった。今は後悔している』などと述べ顰蹙を買いました。彼は近日中に公開の場で処刑される予定です。では、次のニュースです。鰊の裁判は二審に持ち越され……」
いつものように、カーラジオが政治に関するニュースをたれ流していた。車の助手席で、僕は熱いコーヒーを片手に、厚い辞書を読んでいた。当時、もうすぐ冬至だったこともあって、エアコンをかけても寒かった。
「ちゃんと食べてる?」
「もちろん。まあ、買ってるけど」
「誠治が庭で二羽鶏飼ってるらしいんだけど……。さすがにそれは無理か」
「動物なんかより植物の方が楽さ。セージの葉を刈ってると、なんだか勝ってる気分になるんだ」
「それって進撃の刃の秋田くんみたいじゃない?」
「その話はもう飽きた。そろそろ違うアニメが見たい」
彼女が今期のアニメについて根気よく話を続けていると、山道に入った。落差の激しい地形のせいで、車が大きく揺れた。僕はコーヒーを一気に飲みほすと、座席にしがみついた。
「機長、この飛行機はもうダメです!」
自身の死を前に詩を読む自信はなく、ユーモアのセンスが足りなくてこんなことしか言えなかった。
彼女が前を見ずに走っていたせいで、水たまりの水につっこんだ。僕は歯を食いしばって衝撃に耐えた。
「墜落して死ぬのも、貴重な体験かもよ?」
彼女の強がりでしかない笑顔を見届けて、地震のような揺れに僕は目を閉じた。
変な書体で『神の啓示』と書かれた紙の貼ってある市の掲示板の前で、刑事は顔をしかめて煙草を吸っていた。
「困りますよ、こんなことで呼び出されたんじゃ」
「はい、すみません」
「まあ、こんな田舎じゃデカい事件もないし、ウチら刑事もヒマっちゃヒマだけど」
彼女はしきりに髪の毛をいじりながら、刑事に頭を下げていた。事故を起こして慌てた彼女が警察に電話をしてしまったのだった。
十五分ほど経ってパトカーで駆けつけた刑事はケイジと名乗った。辺りを木の根が覆いつくしているような木の多い山の中で、僕たち三人はレッカー車が来るのを待っていた。
「どうよ、君らつきあってんの?」
ケイジさんはだしぬけにプライベートなことをたずねた。僕は苦笑した。
「所帯を持とうと思ったんですけど、ちょっとしたことでケンカになって、甲斐性がないって言われてフラれちゃって。それで婚約解消って……」
僕はパチンコで何十万もすってしまったのと同じぐらい陰鬱な気持ちで、さっき木に衝突したときにグローブボックスから跳び出した扇子を手でいじりながら答えた。
「恨みの根が深いな。大事は小事より起こるって言うだろ? 許すことも大事だぞ。県下一のモテ男のケイジ様が言うんだから間違いない」
僕のことを気にかけてくれたのか、ケイジさんはニヒルな笑みを浮かべてアドバイスした。
「にしても、彼女さん日本語上手いね」
「もう日本長いんで。伊豆諸島で初等教育を受けたんです」
「なるほどな」
故障した車の前でずっと立ち話していて体が冷えてきたからだと思うが、胡椒をかけられたみたくサラが派手なくしゃみをした。