彼女はマスクを外さない
新型コロナの影響で仕事が減り、僕の会社でも出勤日数が大幅に減ってしまった。
僕のような生産工場勤めは、リモートできるような仕事はないに等しい。
現状、少しばかり仕事は増えてきたが、元通りには全くなっておらず、出勤日も少ないままだ。
金もないので、待機日は家の中に籠ってインターネットをするか、気が向けばスマホを持ってブラブラとその辺りを歩いていた。
七月某日の18時。
この時間は、やっと夕方の匂いが近付いてきたか、と思う程度で、まだ外は明るく暑い。
昔は、もっと夜は涼しかった印象なのだが、どうやら暑い日が確実に多くなっているとか。
『冷夏』なんて言葉を、聞かなくなって久しい。
今日も外はマスクをつけて出歩くのをためらう暑さだったが、とにかく歩くと決めた。
僕の家から最寄の駅までは、徒歩15分程度。
それを、あっちこっちへふらふらしながら、30分くらいかけて駅へと向かう。駅で休憩して、また30分くらいかけて別のルートで家に戻る、というのがお決まりのパターンだ。
駅に向かう途中で喉が渇いて、コンビニへ。
便利な世の中になったものだ。
僕が小さい頃、この街にコンビニなんて一軒もあればよかったのに、今じゃすぐに見つかる。街は、少しずつ家も増え、しかし空き家も増えた。
子どもは減った。子供を作れていない僕には、それを批判もできないが。
「便利なのはいいことなのか、それとも……。なんてなぁ……」
特に気の利いた意見が出て来るわけでもない。僕はボソボソと呟いた。
駅に到着して、ベンチに座る。
ロータリーではバスが暇そうに待ち、タクシーは迎えに来ている乗用車の運転手を横目で見る。
さっきコンビニで買ったお茶を飲みながら、僕はそんないつもより暇な風景を見ていた。五分ほどすると、バスは定時になったのか出発し、タクシーも客を乗せいなくなった。
(は~、駅前なのに、静かなもんだ……)
ゆっくりと、夜の帳が降りてきた頃、駅から一人の女の子が出てきた。
電車は随分前に出発したのにおかしいな、と見ていると、彼女は2メートルほど離れた場所で、僕を見てにこりと目元だけ笑った。
「お兄さん、暇な人ですか?」
この辺りでは見かけない制服を着た少女。
長い髪が艶やかで、睫毛も長く濃い。美しい光彩を放つ薄茶色の大きな瞳、口元はマスクをしていて見えない。可愛い花柄の手作りマスクだ。
セーラー服の紺色の襟には二本の白いラインが入っており、前には少し大きめのボタンがついている。リボンは赤。スカートは紺。
彼女は、一つも物おじせず、僕に話しかけてきた。
「……僕に話しかけてるの?」
「お兄さん以外、誰もいませんよ」
「確かに」
僕は誰もいなくなったロータリーを見回し、笑いながらそう返事をした。
少女は僕の隣に一人分ほど距離を開けて、当然のように座る。
いろいろと条例が厳しくなったり、他人の眼が厳しくなっている昨今、勘違いされるような行為は慎みたいものだが。
一体彼女は何が目的なのだろう。
美人局的なやつか、それともパパ活?
なくなってもなくなっても、また新しい名前で生まれるのだから、面白い。
「暇な人だけど、ソーシャルディスタンスは守るタイプだよ」
一応、防衛線を張ってみる。
「私もです。食事の時以外は」
その返事に、ほっとしたような少しがっかりしたような。
いや、もし『買ってほしい』なんて言われても、僕には今そんな余裕はないのだけれど。
「あの……いきなりですけど、一つ質問してもいいですか?」
「え、なに?」
もごもごと歯切れ悪く、彼女はそう僕に言う。
やっぱりなにかあるのか……?
そうだよな、僕みたいな男に近付いてくる美少女なんて。
壺か、絵画か? もしかして、ヤバいクスリとか……。
「……わたし、綺麗?」
「へ……?」
彼女は、顔をりんごのように真っ赤にしながら、オドオドとそう僕に訊いた。
それは、僕らが小さい時に流行していた、あのマスクをした妖怪の定型フレーズだ。
綺麗と答えるべきなのだろうが……。
これはマスク少女なりの冗談なのだろうと判断した。
冗談には、冗談で返さなければ。
(どう返すんだったか。ええと、べっこう飴を投げつける……? べっこう飴なんて持ってねえよ!! 投げつけるのもなんだか可哀そうだし。なんか、頭に塗るやつ、ええと……ワックス!? 違うな、パ、ピ、プ、ぺ、ポ……? なんだっけ!?)
「あっ、ポマード、ポマード、ポマード……?」
(三回で良かったっけ?)
少女はそれを聞いて走り去るわけでもなく、溜息を吐いて顔を上げる。
「……やっぱり、あなたくらいの年齢の人だと、知ってますよね」
「そりゃ、まあうん……」
逆に女子高生がそれを知っている事の方が、僕には驚きだった。
あれか、都市伝説リバイバル的な?
“ポマード”なんて言葉を、もう今ではほとんど誰も使っていないだろう。
「あのわたし、それで分かっていただけたと思いますけど、口裂け女です」
「いやいやいや、全然分かっていただけてないよ。もしそうだとしたら、なんでマスク外さないの?」
マスクを外さない口裂け女など、ただの美少女だ。
「いや、だって綺麗だよって言ってくれないから。マスクを外すのは、『これでもかぁぁぁああ!』って言う時なので」
凄みながらそう教えてくれるが、可愛いだけだった。
「でも、言ったら僕の事、殺すんだよね?」
「それは、その、はい。食べます。礼儀として」
「それは困る」
人を喰うのは礼儀なのか。
「わたし、綺麗?」
「言わないよ」
恥じらいながらもう一度そう言う彼女を、可愛いと思ってしまう。
そもそも、口元がどうなっているか知らないが、マスクで隠れていない場所は、橋本環奈かな? と見紛う程の完全に美少女のそれなのだ。
好きにならないわけがない。
「恥ずかしいの、それ言うの?」
だったらやめたらいいのに。
「……あなた、初対面の人に『俺、かっこいい?』って真顔で訊けます?」
「そもそも、僕は自分のことをかっこいいとは思ってないから、訊かないし」
「そうでしょう? 私もです」
「そんなに可愛いのに……あっ」
「えっ!?」
僕はポロリと口を衝いて出た言葉に、死を覚悟して、ギュッと目を瞑る。
だが、彼女のマスクは開かれず、喰われもしない。
そろりと目を開けると、頬を赤く染めた自称口裂け美少女が恥ずかしそうにプルプルと震えているだけだった。
「……? 喰わないの?」
「……あの、綺麗だよって返してもらわないと、か、かか、可愛いでは答えになってないので……」
「でも、その……綺麗よりは可愛いって思うし」
「!! じゃあ、嘘でもいいので綺麗だよって言って下さい」
「いやいやいや、それ言ったら食べるんでしょ?」
「はい」
彼女はきっぱりと答える。
「はいじゃないよ」
「うう~、なんでうまくいかないの~???」
彼女はボソボソと呟くが、丸聴こえだ。
「聞こえてる」
「っ!」
「……そんなに僕の事、食べたいの?」
自称口裂け女は、もぞもぞと身体を揺らしながら、こくりと頷いた。
なんだろうか、この可愛い生き物は。妖怪の筈なのに。
「あの……私の事見える人、そんなにいないので……。子どもは見える子、多いんですけど。何も知らない子どもに『わたし綺麗?』って訊くのもなんだか違う気がして。大人で私が見える人に会うの、久しぶりだったんです」
なんだか、この子になら今食べられてもいいかなと思った。
我ながらチョロい。
だが、まだ生きている親は悲しむだろう。
「ん~……じゃあ僕の親が死んだらまた来てよ」
「いいんですか?」
「うちの親、この前70になったんだけどさ。まだ元気だから、それがいつになるか分かんないけど。そしたらさ、食べていいよ。親は悲しませたくない」
「分かりました。私が食べに来るまで、死なないで下さいね?」
「それはまあ……善処するよ」
とんでもない美少女に食べられて死ぬ、そんな夢のような約束もいいだろう。
なにせ、結婚もできない僕は、親がいなくなれば一人で生きていくことになるだろうだから。
閉塞したこの時代に、『美少女の糧になる』などという他の人間とは違う死に方ができるというのなら、なんだか少し生きる希望も湧いてくる。
新型コロナなどに負けてはいられない。
僕は立ち上がり、駅から離れる。
少し歩いて振り返ると、口裂け美少女は嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねながら、僕に手を振り続けていた。
3年後――、親が交通事故で死んだ後彼女が僕の家にやってきて、何日か一緒に同棲した後『約束通り口裂け美少女に喰われたら妖怪たちの世界に転生した』のは、また別の話。
――おわり――
逢魔が時に出会うのは、もちろん妖怪です。
最近は少しマスクをしている人も減ってきたような気がしますね。
マスクを外さない口裂け女って、ただの美少女じゃないですか?
『約束通り口裂け美少女に喰われたら妖怪たちの世界に転生した』というお話は、すみません、書いてません。
ある程度は練ってるので、読んでみたいなと思ったら教えていただけると嬉しいです。
☆とか感想、レビューなどいただけますと、漲ります。