夢
「起きた?」
耳に声が響いた。聞いたことのある声音だ。高く澄んだ女の声。口調からそれなりに親しい間柄であるらしい。
誰だろう、誰だっただろう。いくら考えても考えようとしても思いつかない頭が回らない。それは物理的にも同じで、面白くもない石の天井から目が離せない。
声は頭上、つまり後方の少し離れた場所から聞こえる。どうもエントランスのような広い場所であるらしい。何か気絶でもしたのだろうか、ひんやりと冷たい感触から察するに俺は公衆の面前で突然倒れでもしたのかもしれない。だがそうすると病院に連れて行かれなかった説明と俺を出迎えるのが女性の声である理由がつかない。
「起きたから、ここがどこか教えてくれ」
「わからない?」
「ああ、わからないよ」
軽度の記憶障害でも起きたのだろうか。彼女は意外そうに俺が知らない事実に驚いた。
俺は相変わらず天井と話している。この天井はどうも人付き合いが苦手らしく、なかなか喋りたがらない。
「助けてくれないか? 身体が動かないんだ」
返事はすぐに返ってこず、代わりに靴が床に着地する音が聞こえた。そのまま足音はこちらに近づいてくる。カツコツカツコツ、床に寝そべっているせいか足音がよく聞こえる。
思ったほど遠くにいたわけではなかったらしい。長い銀髪を携えて彼女はこちらを覗き見た。
「ほら」
どうやら見とれていたらしい。いつの間にか彼女は手を差し伸べていた。掴んで立ち上がらせてもらうと気づいた。俺が寝そべっていたのは教会だった。そんなに大きい教会じゃない、だがその佇まいは一種の美しささえ感じさせられた。
だが、瞬き一つすると教会は教会でなくなった。辺りにあった長椅子や教壇。小さいながらも趣のあった建造物は姿かたちをすべて失って、寝転んでいた時に見続けた灰白色の面白くも何もない天井と同じ色の床が地平線の向こうまで続く無限の単一色の世界になった。地平線でもない、この無限に続く世界は球状ではなく綺麗な平面だ。
視線を戻すと俺の手を握る彼女だけがそこにいた。
「ここは、どこだ?」
「ここは夢だよ」
そうか、夢なのか。なるほどそうか、と納得すると次の瞬間目の前の彼女が笑い出した。銀髪を揺らして身体を折り曲げながらネジが狂った玩具のように笑い続ける。
「起きた?」
今度響いたのは男の声だった。これもよく聞き覚えのある。だが周囲は教会ではなかったし、見慣れない場所でもなかった。なんのことはない、いつもの自分の部屋だ。激しく鼓動を打った動悸が落ち着き視線を上げると、バーテンダーの恰好をした養父が机に朝食を載せたトレイを置くところだった。
「あ、ああ。起きた。完全に起きた」
「どうした、酒でも飲み過ぎたか?」
目をこすりながら言うと養父は陽気に笑う。少し考えて養父の言葉がもっともかもしれないと思った。
記憶がないのだ。途中まで、夕方くらいまではある。だがそれ以上、それ以降の記憶がうっかり道に落としてしまったように抜け落ちている。
「食べたら片付けておいてくれ」
養父はそれだけを言い残して部屋から出ていった。パフレヴィ―は少し逡巡して皿に乗るクルーリと呼ばれるドーナツ状の菓子を口に運んだ。養父の口ぶりから察するに別に酔いつぶれて担ぎ込まれたわけではないらしい。ならば部屋で酒宴を開いたのかと考えたが、別に床に大量のビール瓶が転がっているわけでもない。
「ふむ」
二つ目のクルーリを口に含みながらパフレヴィーは立ち上がり、身支度を始めた。別に昨晩どういう経緯があったとしても特に問題があるわけでもない。問題があるなら誰かが教えてくれる。
季節は冬だ。地中海性気候のおかげでこの町は真冬でも0度を下回ることはない。だがその反動に夏の太陽は冬の間研ぎ澄ませつづけたかのように鋭く地上を熱する。今日の空は曇り模様だった。
「おい、パフレヴィ―」
見知った顔を見つけたので無視して通り過ぎようとしたところに声をかけられた。深めに被ったハンチング帽をかぶりなおして、声をかけてきた男の顔に視線を向ける。
「ハハ、やっぱりそうだ。そんなしけた面してんなよ。どこ行くんだ?」
濃い顎鬚が印象的な髪をオールバックにまとめた好青年。パフレヴィ―はこの男が苦手だった。特に嘘が上手いという一点において。
「ちょっと教会に。訊きたいことがあるんだ」
「何だ? その訊きたいことっていうのは」
パフレヴィ―は彷徨わせていた視線を返す。ほんの少し静かな間が空いた。
「大したことじゃない」
「だから、何だ?」
「どうした、フラれでもしたのか。大したことじゃないんだ、本当に」
「変に警戒しないでくれ、純粋に興味があるだけなんだよパフレヴィ―。俺はよく嘘をつくが、これは本当だ」
嘘だ。
「夢だ」
「夢?」
「ああ、眠っている間に見る」
それからパフレヴィ―は夢の内容を憶えている限り彼に教えた。気づいたら教会に倒れていたこと、女に助けてもらい立ち上がると教会が教会でなくなったこと。
現実を模した、しかし決定的に現実とは違う場所で生きているような、深いまどろみの海に浸かっているような、そんな夢だった。
「夢の中で見た教会は海沿いのあの教会だった」
「行ってどうする」
「…………」
行ってどうする?
「行ってから決めるよ」
「また今度、親父さんの店にお邪魔するよ」
それだけを言い残して彼は去った。パフレヴィーはまばらな人足の中を一人で歩く後ろ姿を見送り、見えなくなると歩き出した。
「言葉には魔力がある」
「……またそれか」
年齢もかさみ、枯れ木のような顔になった神父はいつもの言葉をそらんじた。
「またとはなんだ、またとは」
隣に座る神父が不平を垂れ流す間、パフレヴィ―は教会の祭壇を見つめた。大聖堂と呼ばれるようなものから比べると小さな教会だ。自然、祭壇の装飾も大がかりなものではなく、ほとんど十字架と日の光が差し込む天窓だけのシンプルな作りだった。それでもパフレヴィ―はこの祭壇が好きだった。シンプルであるほうがいいものもある。
「神父」
「なんだ」
「夢に教会が出てきたことがありますか」
「そりゃ神父なんだ。何度もあるさ。神はないがな」
「今日この教会の夢を見ました。倒れていて、女性に助け起こされるんです」
「美人か?」
「ええ」
「そりゃいい。それで?」
「別に何かが訊きたいとかじゃないんです。いや、もしかしたら単にこの夢の話を聞いて欲しかったのかもしれません。あるいは夢を忘れたくない、とか」
「夢の続きは」
「ありません。ありませんが、私が助け起こされると教会が教会でなくなっていました。白色の地面が永遠に続く無限の世界。そして私を助け起こしてくれた女性は私の顔を見て笑っていました。心底おかしそうに」
「灰色の、無限の世界」
「ええ、地平線もないんです。平面なんですよ、ずっと。あんな感じの白色の世界に笑い転げる女性と二人、ただ立っていました」
そう言ってパフレヴィ―は白い天井を指さした。
「美しかったろう」
「ええ、美しかったです」
「言っておくが、女の方じゃないぞ」
しばらく無言の間が過ぎた。二人して天井を眺めているというのは傍から見ると少し奇妙な光景だったろうが、お互いに真面目だった。
「話しはわかった。が、それを聞いても俺にはどうしようもないな」
「ええ、でしょうね。わかってはいたんですが、来ずにはいられなくて」
「……もしかして、お前は――」
そこまで言いかけて、神父は口をつぐんだ。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「ええ、忘れます。また礼拝に来ます」
「ああ、そうするといい。困っているときは、神が助けてくれる」
パフレヴィ―は何かを言おうとして、言葉が見つからず別れの言葉だけを残して去った。
「さようなら」