第五回 午前一時半の奇蹟
12月1日 金曜日 午後6時56分
「先輩、もうそろそろ休憩をさせてくれたって良いんじゃないですか?」
昨日のあの原稿用紙に脚本を書いている姿勢で、ぼくは先輩にその姿をキャンバスに描かれていた。今日の作業が始まってから二時間半が経過したので、もうじき最後の仕上げ作業に入るところだろうか。
ぐったりと机にうつ伏せになって、顔を上げて先輩に話しかける。
「始めてからもう二時間半経ちましたけど、もうそろそろ終わりですか」
「……え、う、うん、もう一息って感じかな」
「……ふうん、そうですか」
ぼくの問いに答える先輩の声には、何か雑味を感じた。怪しい。ここは一つ、鎌をかけてみようか。
「ああ、そういえば今日は家の用事で七時半までに家に帰らなきゃいけないだったんだっけなあ」
「えッ」
「なのであと三十分位でぼくは帰りますから」
「そ、それは」
「あんまり時間ないけど、あと一息なら大丈夫ですよね」
「そ、そりゃあ、あと一息だったら、まあ」
「なら安心ですね、良かった良かった、あははは」
「あ、あははは……」
笑う先輩の額に、一筋の汗が流れているのが見えた。
これを見てぼくは確信した。先輩は嘘をついている。絵は完成まであと一息どころか、まだまだ完成までほど遠い所にあるのかもしれない。
別にここで先輩に問いただすのもいいけど、ここは一つ、先輩で遊んでみようか。ここまで散々振り回されてきたんだ、ちょっとくらいからかっても良いじゃないか。
「じゃ、あと五分くらい休憩してから始めましょうか」
「い、いや、今すぐ、今すぐ始めようよ。善は急げ、って言うし、さあ」
善は急げ、って今絶対、邪な気持ちで言っただろ。
だけど慌てる姿が見てて楽しいので、このまま続けてみようか。頬が緩むのを抑えながら、ぼくは再びさっきの姿勢に戻った。
同日 午後7時27分
再開してから約三十分が経った。一瞬目線を机から上げて先輩を見ると、先輩はもう筆を動かさずに、諦めの体でがっくりと椅子に座っていた。たぶん心がだいぶやられてしまったかもしれないけど、もう少し続けてみようか。
「あ、もう筆を動かしていないってことは、もう描き終わった、ってことですか」
「……うん、終わったよ、うん」
たぶん、先輩が言っている「終わった」のニュアンスは普通とは違うものだと思う。
「じゃ、ぼくは帰ります。それじゃ、お疲れさまでした」
そしてぼくはすたすたと美術室から出ていき、階段の前で足を止めた。
さて、先輩に家に用事があると言って美術室から出ていったけど、別に用事なんかありゃしない。そりゃそうだ、全部でまかせだもん。
別にこのまま帰ることはできるのだが、このまま家に帰ってしまうのは余りにも酷すぎるので、ぼくは引き返して美術室に戻ることにした。さて、先輩はどうなっているかな。
美術室に戻って部屋の中を見ると、先輩はキャンバスの前でしくしくと泣いていた。何だか、前にも見たことがある光景だ。(デジャヴ、って奴だろうか。違うか)
ぼくはこっそり先輩に気付かれないように部屋に入って、泣いている先輩に近づいた。
「うう……どうしよう」
先輩が泣きながら大きな独り言を呟いている。こんな事をいうのもなんだけど、ちょっぴり可愛らしい姿だ。
「……嘘ついたことは謝るからさあ……帰ってきてよお」
その一言でぼくは思わず吹き出してしまった。ぼくの笑い声で先輩が驚いてこっちに振り返った。
「こうはいくん、なんで」
先輩が口をぱくぱくさせてぼくに話しかけた。流していた涙は止まっていた。
「もう帰っていたはずじゃ」
「いや、あれ、全部嘘ですよ」
笑ってしまいそうにもなるのを堪えながら、先輩の問いに答える。
「そんな、そんな、嘘なんて……何でそんな、意味の無い嘘なんかついたの!」
再び泣き始めて怒り始めた先輩は、「ばかばかばかばか」と言ってぼくをポカポカ叩いた。力が弱いので、全然痛くない。
「正直にまだ全然進んでいないって言わなかったのが悪いんですよ」
「だからってあたしの心を弄ぶなんてあんまりよ! もう二度としないで!」
そして先輩はぼくを叩くのを止めて、ぼくを抱きしめて泣きついた。ぼくは泣き続ける先輩の頭を撫でて、
「はいはい。謝りますから、早い事作業に戻って描き終えちゃいましょうよ、ね?」
「…うん、判ったから、もう、帰るなんて嘘つかないでよ」
「判ってます」
さてと、甘酸っぱい雰囲気になった所で事を進展させよう。
「そういえば、絵はどこまで進んでいたんですか」
「……全然進んでない」
「ふうん、まだ半分くらいしか描けてないとか?」
「知りたかったら絵を見て、たぶんびっくり仰天すると思う」
びっくり仰天、それを聞いてぼくは身構えた。まさか、三時間も書いていたんだからそこそこ進んでいるはずだぞ。
先輩から離れて、ぼくは描きかけのキャンバスを見た。
ぼくはびっくり仰天する、と言われて少し身構えていた、しかし、ぼくはその絵を見て本当にびっくり仰天してしまった。
その絵は背景の上にはまだ、机、そしてぼくの上半身の下三分の一ほどしか描かれていなかったのだ、腕、手、そして顔は影も形も無い。
「え、これだけ!?」
驚きのあまり、思わず声を出してしまった。ちょっと待て、三時間でこれだけなのか。
「だから言ったでしょ、びっくり仰天するって」
うーん、そりゃ言ってたけど、ここまで進んでいなかったとは思わなかったぞ。
「机の木目を書くのに二時間くらいかかって、その上の原稿用紙を描くのに三十分ほど、かかって、残りを三十分でテキトーに描いて、その結果が今の絵であります」
確かに、机の部分をよく見ると、かなり丁寧に木目が描かれている事が判る。しかし、しかしだ、
「丁寧にやることに越したことは無いですけど、こんなにちまちまとやってたら永久に終わりませんよ」
「細かいことを丁寧に、がうちの家訓なの」
そうかね? 言葉と人間性が全く合っていないような気がするけど。
「だから、やるからにはキッチリやりたいの!」
やれやれ、多分この人の決意を止めることは出来ないんじゃないかなあ。
「……やれやれ、そこまで言うんだったら、ラストまでとことん付き合いますよ」
「……ありがと」
さてさて、絵の進行状況を察するに、この絵が完成するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。最後まで付き合う、とはいったものの、最悪でも午後九時までには帰りたい。別にぼくの家に門限があるって訳じゃないけど、あんまりに帰りが遅くなるのはマズい。家族から不良少年になってしまったと思われるのは嫌だぞ。
「あのさ、まさか今早く帰れないかなあ、とか思ったでしょ」
先輩からの意見にビビった、何で心が読めるんだよ。
「ま、まさか」
「あのね、四日間放課後に一緒に過ごしてみて判ったけど、後輩くんって思考が顔に出やすいのよ」
ううん、さっき嘘ついた時は上手く騙されてくれたんだけどなあ。考えている事がばれないように気をつけていたからだろうか、これからは気をつけないと。
「しょーもないこと考えてないで、早く描き始めましょうよ」
やっぱり気をつけた方がいいよな、考えている事が全部知られてしまうってかなり怖いぞ。
「ああ、言っておくけど、終わる時間はかなり遅くなると思うよ」
「……聞くの怖いけど、どれくらいかかるんですか?」
……二時間くらいかな、と予測。
「ううん、そうだね……」
先輩が自分の描いた絵を見る。
「制服の腕以外の所に三十分、腕に三十分、顔はとても複雑だから二時間半弱、そして仕上げに一時間かかるとすると……」
「……およそ五時間半」
足し算の結果を伝えるぼくの声が震えるのを感じた。只今、午後七時四十三分、ここに五時間半を足すと、終わる時間には日付を超えてしまうぞ。
なんてこった、描き終わらせるには一晩ここで過ごさなきゃいけなくなるぞ、流石にそれは勘弁してほしい。
「……計算違い、ってことは無いんですか」
「三十分ぐらい前後してるかもしれないけど、これまでのペースを考えると、それくらいかかっちゃうんじゃないかなあ」
確かに、机と体の少しだけの部分を描いただけで二時間半かかっている、それくらいかかっても不思議じゃない。
「それだったらどうして一昨日あんなに早く背景を描けたんだろう……?」
「ううん、多分あの時は全部勢いに任せてやってたからなあ」
その勢いで全部やってほしいもんだけど、流石にそんなに体力は持たないか。
「……やっぱ、早い事描き始めておいた方が良かったかなあ。そうしとけばこんなに大慌てする事、無かったかも」
「何をいまさら、過ぎたことを後悔したって仕方ないでしょう」
「それはそうだけど……ごめんね、こんなに散々振り回しちゃって」
先輩はそう言うと、少し悲しげな顔をぼくに向けた。
「嫌だったら、帰ってもいいんだよ」
先輩の訴えかけるような目を見て、ぼくは溜息をついた。
「……帰りませんよ、最後まで付き合うって約束しちゃったんだから」
このまま立ち往生して困っている先輩を見捨てて帰ってしまうほど、ぼくは冷たい人間じゃない、ここは家族から不良少年のレッテルを貼られる覚悟で先輩に付き合ってやろうじゃないか。
「……あたしを騙して楽しむような性格である時点で、十分冷たい人間だと思うよ」
だから、心を読むなって。
同日 午後8時33分
あの後、お腹が減ったのでコンビニへ晩御飯の買い出しをすることになった。どっちかがコンビニへ行き、もう一人が美術室で留守番をすることになったので、ジャンケンで負けた方が買い出しへ行く事になった。
ジャンケンの結果、先輩が買い出しへ行く事になった。
「寒い中外に出るのは嫌だ!」
と先輩は抗議したものの、ぼくがお金を出して、残ったお釣りを先輩が貰っていい、という条件でようやく行ってくれた。
そして先輩がコンビニへ晩ご飯の買い出しに出て行ってから三十分が経った、もうそろそろ帰ってきてもいい頃合いだけど、まだコンビニで品定めをしているのだろうか。
そう思っていると、ぼくの鞄の携帯が鳴った。またうちの部の部長じゃないだろうな?
恐る恐る携帯を出すと、電話相手の電話番号が出てきた。全然知らない番号だ、誰だろう? とりあえず電話に出る。
「はいもしもし」
『あ、もしもし、あたしだけど』
その声を聞いてびっくりした、電話は先輩からだったのだ。
「せ、先輩!? 何でぼくの携帯の電話番号知っているんですか!?」
「ああ、きみの部の部長が教えてくれたの」
あ、あの人。個人のプライバシーが尊重されているこの時代にそんな事してたのか。
『そんな事より、問題が発生したのよ』
「……何ですか」
『今コンビニで晩ご飯買って来たんだけどね、困った事に校舎に入られないのよ』
「入られないって、昇降口が開いていないんですか」
『いやー、夜遅くなったのがマズかったのかなあ』
「だけど、職員用玄関だったらまだ開いているんじゃないんですか」
『いや、先生に見つかったら大変じゃん』
「見つからないように頑張ってくださいよ」
『やだ、先生に怒られると思うと怖い』
「そんなこと言ったって、他に入る方法なんて無いでしょう」
『いや、一つだけ策があるの。外を見て』
「外? 外に何があるんですか」
『いいから早く』
ぼくは先輩に言われるがままに窓を開けて外を見た。外から入る風が物凄く寒い。
「おーい!」
窓の下から先輩の声が聞こえた。下を向くと、先輩がずっしりとしたコンビニのレジ袋と、何やら大きな輪っかのような物を持って、ぼくに手を振ってきた。そして再び携帯に出る。
『今、長い縄を持っているの。縄を投げて後輩くんに渡すから、それをキャッチしてよ!』
「な、投げるって、ここ三階ですよ! 届くんですか!?」
『大丈夫だって! じゃあ行くよ!』
先輩は携帯を切って、レジ袋を地面に置き、片手で縄を丸めて輪になっている所を持ち、もう片手で伸ばした縄を持った。そして伸ばした縄をぐるぐると何回か回した後、
「それッ」
と叫んでぼくの方に縄を投げた。
飛んできた縄は見事僕の方へ飛んできて、ぼくはそれをキャッチした。
それを見てガッツポーズをした先輩はレジ袋を持って、縄で美術室のある部屋へ上り始めた。
「ちょ、ちょっと! 大体予想してましたけど、本当にこれで大丈夫なんですか!」
ぼくは縄を上っている先輩に向かって叫んだ。
「大丈夫! 昔からこういうアスレチックみたいなの好きだったから!」
「落っこちたらどうするんですか!」
「ここから落ちたって、死んだりしないって!」
そら、死にはしないだろうけど、骨折でもしたら大事だぞ!
「……先輩が縄を上るのが上手でも、ぼくの腕が耐えられませんよ!」
「なにそれ! あたしの体重が重いっていうの!」
「女子だろうが何だろうが、人間を持ち上げるのは大変なんですよ!」
「もう! つべこべ文句言ってないで、大人しく縄を支えててよ! 上りながら返事をするの、結構大変なのよ!」
怒られた、これ以上先輩に文句を言うのはやめにしよう。
その後、縄をぐいぐい上っていった先輩は、あっという間に美術室のある三階に到達した。
「よおし、あたしの手を引っ張って」
先輩が窓の外から部屋の中に手を伸ばす。ぼくはその手を握って力強く引っ張る。
「そーれッ!」
ぼくに引っ張られた先輩は勢いよく部屋の中へ飛び込び、
「ぐえッ」
先輩の正面に居たぼくに激突し、ぼくは後ろに倒れた。倒れたぼくの上には、覆いかぶさるように先輩が倒れている。
「あー、疲れた、腕が痛いなあ」
「……先輩」
「何?」
「ぼくは現在進行形で痛いです、先輩の重みのせいで」
バシッ!
そう言うと、ぼくは先輩にビンタされた。
「女子に向かって失礼な奴ね!」
先輩は立ち上がって、部屋に飛び込んだ時のはずみで周りに散乱したレジ袋の中身のおにぎりや菓子パンを拾い集めた。
「次そんなこと言ったら、晩御飯食べさせてあげないからね」
ごめんちゃい。
先輩に続いてぼくも立ち上がる。
「はいはい……で、何買って来たんですか?」
「んー、ええとね、まずはフレンチトースト」
先輩が袋入りのフレンチトーストを出す、普通は朝御飯に食べるもんだと思うけど、夜に食べるのも、いいんじゃないだろうか。
「次はね、“もっち歩きチョコ”」
袋に入った三角形型のチョコチップパン”もっち歩きチョコ”が出た。食感が良いんだよね、これ。
「あ、それ、ぼく食べたいです」
「だーめ、あたしが欲しくて買ったんだから」
ちぇ、ちょっとがっかりした。
その調子でハンバーガーやおにぎり、プリンなどのデザートが出た。
「ハイ次、ファミマチキンとファミマプレミアムチキン」
「え、何で二つともプレミアムチキンじゃないんですか」
「予算が足りなかったのよ」
そうか、お金が足りなかったのか。それは仕方ない。
では、プレミアムチキンを得れるのはどっちなのだ。そうなったら、決める方法はただ一つ。
「……先輩、行きますよ」
「……ええ」
「では……」
ここですうっと深呼吸。
「……最初はグー! ジャンケンポン!」
さあ、勝者は!
手元を見る。 ぼくが出した手はパー、そして先輩はグー、つまり……
「よっし、二連勝!」
「あー! また負けた!」
ぼくは机の上にある、包みに入ったファミマプレミアムチキンを手にして、包みを開けると、まだまだジューシーなチキンにがぶりついた。うん、ウマい!
「あーあ、あたしって、ジャンケン運無いのかなあ」
「ジャンケンに勝つコツはですね、相手が力を入れている時はパーを出すことです」
「あっ、そうか、力入れてる方はグー出しやすいもんねえ。なんでもうちょい早く教えてくれないかなあ」
「こっちの手の内を見せるわけにはいかないでしょう」
「ちぇ、ケチ」
ケチで結構。
「いいもん、あたしにはとっておきのがあるんだから」
「とっておき? 何です?」
「ふっふーん、それはね……ジャーン!」
先輩がその声と共に出したのはチキンラーメンだった。
「チッキーンラーメンちょびっとだっけー」
先輩がチキンラーメンを持って、CMソングを口ずさんだ。
「いやー、懐かしいなあ。前に食べたの小学生の時だよ」
「あの、先輩、そのチキンラーメン、ここで食べるつもりなんですか」
「ん? そうに決まっているじゃない、だから買って来たのよ」
「お湯とか、どうするんですか」
「……あ」
今気づいたんかい、何やってんだ。
「あ、じゃないでしょう。それ買わなきゃもう一個プレミアムチキンを買えただろうに」
「えー、だけど今、チキンラーメンって気分だしなあ」
「だからって、職員室の給湯室借りるわけにもいかないでしょう」
先々の事を予測するのが出来ないのか、この人は。
「うーん、どうしようかなあ……あっ、そうだ」
そう言うと、先輩はチキンラーメンの袋を開けて、麺を半分、袋から出した。
「あの、先輩……まさか」
「はむっ」
そして先輩はぼくの予想通り、袋から出た麺にがぶりついた。おいおい、ベビースターラーメンじゃないんだぞ。
「……う」
生のチキンラーメンから口を離した先輩は、微妙な顔をした。
「マズくはないけど、味が濃いよ、これ」
当然だ、チキンラーメンの麺は他のインスタントラーメンと違って、スープの素が麺に練りこんであるんだから。
「一度口にしたんだから、最後まで食べてくださいよ」
「……はーい」
やれやれ。
プレミアムチキンを食べ終えたぼくは、フレンチトーストの袋を開けた。
同日 午後9時18分
食事を終えたぼくと先輩は、早速、絵の続きを描き始めた。ただ、まだ描き始めたばかりなので、特別作業が進んでいる訳じゃないんだと思う、多分。
「今、どこまで進んでいるんですか」
「んー? まだまだ制服の部分の一番下の塗りが終わっただけ」
「塗り重ねって、そんなに時間がかかるもんなんですか」
「最低三回、多いときは六回ぐらいやるもん」
「へえ、大変だなあ」
「大変だよ」
「そうですか」
「うん」
「……」
「……」
生産性の無い会話だなあ。これがまだまだ続くってのは、かなり苦痛だ。
「先輩は退屈しなくていいですよね、絵に集中していればすぐに時間がすぎていくんだから」
「いや、あたし、結構退屈しているんだけど」
……先輩、あんまり集中していないのか。これじゃあ、やる気が一晩持たないんじゃないだろうか?
「だから少しぐらい、何かハプニングが起きてくれてもいいんだけどなあ」
「……実際に起こったら、物凄く大変な思いをしそうですけど」
「いやいや、とても楽しいと思うよ」
そりゃ、ぼくだって退屈なのは勘弁してほしい。だからって面倒なことが起こるのはもっと勘弁してほしいぞ。
同日 午後10時08分
「右腕終わった! 休憩しようよ! 休憩!」
先輩はそう言って筆を机の上に放り投げて(乱暴に扱うな)、腕を上にぐぐーっと伸ばして、硬くなった肩を緩めた。
「ホント、辛すぎるよ、これ」
同じポーズをキープしているぼくも辛い、ぼくも腕を伸ばして硬くなった上半身を緩めた。
「期待していたのに、ハプニングがちっとも起きなかったことに軽くガッカリした」
「そんな態度で絵画に臨んでいる先輩にかなりガッカリしました」
「もう、後輩くんはジョークのセンスが無いなあ」
これはセンスというより、人としての問題だと思う。先輩に聞こえないようにボソッと呟いた。
「ん? 今何か言った?」
「ああ、休憩はいつまで取るのかなあと」
大嘘ついた。
「休憩かあ、うーん、十五分、いや、二十分まで……」
先輩がそこまで言った時、小さい物音が聞こえた。コツ、コツ、コツ、という連続した音だ……何だ?
「あのさ、何だろ、この音」
「先輩の貧乏ゆすりの音なんじゃないんですか?」
「あたし、そんな事してないんだけど」
「じゃあ何です」
「きみの貧乏ゆすりの音」
「失敬な」
「お互い様でしょ」
そうしてぼくと先輩でコントを繰り広げていると、段々その物音が大きくなっていった。
「音、大きくなってない?」
「もしかしたら、音の鳴っている元がこっちに近づいているんじゃないです?」
「……という事は」
「恐らく」
警備会社のオジサンが、夜の校舎の見回りに来たのだろう。
先輩もそれに気付いたのだろうか、お互い顔が青ざめていった。
「どうする」
「逃げましょう」
「どこに」
「準備室しかないでしょう」
「なら早く」
「押さないでくださいよ!」
そうしてドタバタしながらぼくと先輩は準備室へ逃げ込み、準備室の片隅へ逃げていった。
徐々に大きくなっていく警備のオジサンの足音、そして美術室の扉の開く音が聞こえた。
「見つかりませんように」
「見つかりませんように」
ぼくは先輩と同じ言葉を同時に祈った。男女二人が美術室で夜遅くに居ることが見つかったら、生徒指導の先生にどんな目に遭わされるか判ったもんじゃない。
警備のオジサンが美術室に入ってから暫く経った。永遠ともいえる実際はそんなに長くない時間が経つと、再び扉を開ける音が、そして扉を閉じる音。
「……帰った?」
「さあ?」
「ちょっと見てきてよ」
「何でぼくが」
「いいから」
「ちょっと」
先輩に押されてぼくは美術室に放り出された。
「……誰かいませんかー」
ゴクリ、と息を呑んだ。
辺りを見回して、誰かいないかと確認。
そして人がいない事を確認。良かった、誰もいなかったようだ。
「大丈夫です、誰もいません」
「あ、そう? 良かった」
先輩が準備室から出てきた。
「いやあ、トッ捕まったらどうしようかと思ってたよ」
本当に、どうなってしまったんだろう。物凄く気になる。いや、知りたくないな……
「こんなハプニングは嫌だよねえ」
「元からハプニングは嫌です」
お互い、同時に溜息をついて絵画に戻っていった。
同日 午後11時37分
……すやすや……
「こらっ!」
バシッ!
痛えッ!
「もう! 寝ちゃダメでしょ!」
どうやら、先輩から僕の頭へ筆を投げられたようだ。
「これから顔を描くのよ! 寝たら描きようが無いじゃない!」
「ふぁ、ふぁい!」
いかん、眠気で瞼が重くなっている。これ以上先輩を怒らすと、次は筆の持ち手で先輩にぼくの頭をグリグリされかねない。
「大変なのはわかってる! だけど頑張って!」
そうだよな、先輩だって眠いんだろう。ぼくだって頑張らないと。
……だけど、少しぐらいうたた寝しても……
「何を考えているッ!」
そう言って先輩が筆の持ち手でぼくのあたまをグリグリしてきた。
「イタタタタタタタタタ!」
痛い、痛いから止めて。
12月2日 土曜日 午前01時33分
何度も寝そうになった、何度も頭をグリグリされた。辛すぎる一晩だった。まだ終わらないか、まだ終わらないか、と数え切れないほど先輩に念を送っていた。そんな時だった。
「……お終い、完成したよ」
「……本当ですか」
「ねえ、見て。ほら」
先輩がぼくに完成した絵を見せてくれた。夜の夜空を映す窓の前で、原稿用紙に文章を書き殴っている男子高校生、要はぼくの姿がその絵にはあった。
「……どう?」
先輩の問いにどう返すか少し悩んだ。そしてぼくの思ったことを伝えた。
「……ぼくには絵の知識はありませんけど……この絵が、物凄く素敵なものであることが、漠然と感じます」
「……ありがと」
先輩がぼくに疲れを感じさせない笑顔を見せた。
「だけど、もうちょっと、何か欲しいんだよね」
「……? 先輩は、物足りないと思うんですか?」
「うん、もう少し何かインパクトみたいなのが欲しいんだよね」
「とは言っても、何が……」
そう言って外の景色をぼくは見た。あの絵に何をつけ足せるんだろう? そう思っていると……
「……あれ?」
「どうしたの」
「ほら、あれです」
ぼくは先輩の前で外に見える夜空に浮かぶ月を指差した。
「月……? あれ、この窓から月なんて見たことが無いけど……」
「判った、時間が経ってこっち側に月が登ってきたんですよ!」
「ああ、なるほど!」
「先輩! 絵に入れてみましょうよ、あの月を!」
「うん!」
そして先輩は黄色のアクリル絵の具を出し、それを筆につけて夜空の部分に丸く塗り、その上にくぼみの部分を灰色絵の具で作った。
「どうよ、これ」
ぼくは感じた。夜空に月が浮かんだその絵は、さっきに増して、心に残るものになっていたのだった。
「……これで本当に、完成ですね」
「タイトルは、どうする? 『書き殴る少年』とか」
「いや、ぼくは……」
ぼくは先輩に言葉を言いかけながら時計を見た。只今。午前一時半……そうだ。
「この月にちなんで……『午前一時半の奇蹟』なんてどうです?」
「……決まりね」
そう言った時の先輩の微笑みを最後に、ぼくの記憶はプッツリと途切れていた。
気付いた時には、朝、ぼくは美術室で机の上で寝ていた。
そして、そこには先輩の姿は無かったのだった。
つづく




