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第二回 屈辱

 11月28日 火曜日 午後6時03分



 今日は放課後に美術室へ行くことにした。本当は昼放課に筆箱を取りに行きたかったのだけれど、流石に昼放課に美術室に居る訳が無いだろう、と思ったのだ。


 昨日の反省を踏まえて、今日は先に部活に行くことにした。早いこと部長に昨日書いた脚本ホンを渡して信頼を回復させなくてはいけないからだ。それに、また何事か起こったら後が大変だしね。


 さて、放課後ぼくは演劇部の部室へ行き、部長に昨夜書いた原稿用紙二十枚分の台本を渡した。当然というか、なんというか部の色んな人にめちゃくちゃ叱られた。それは例の女子のせいなのだけど、さっさと逃げ帰らなかったぼくのせいでもあるので、しょうがない。ここは大人しく叱られておいた。


 部長たちの堪忍袋も縮まったところで十数分続いたお説教が終わり、その後ぼくは二時間部室に缶詰めになって台本を書くことになった。部長が脚本の読み合わせをしながらぼくを睨んで逃げられないように監視していたので、逃げようにも逃げられなかった。ぼくとしては一度部室から出て美術室へ行きたかったのだけれど。


 二時間後、原稿用紙十二枚分のホンを書いたぼくはそれを部長に渡して、無事、部室から解放されたのだった。まったく、酷い目に遭った。


 さて、現在時刻六時ちょい過ぎ。外は真っ暗である。もう、美術室は閉まっているんじゃいだろうか。これは困ったぞ。


 とりあえず、行くだけ行ってみよう。部室を出たぼくは足を美術室へ向けた。窓からの月の光が廊下を照らす……なんてロマンチックな光景を期待していたけれど、蛍光灯で充分明るい校舎にはそんな物無かった。世の中はそんなに素敵なものではないらしい。ちょっぴり残念だ。


 そんなこんな考えている内に美術室の前へ来た。部屋の扉を調べると、鍵は開いていた。まだこの部屋に居るのだろうか。


 部屋に入ると、中は天井の蛍光灯が消えていて真っ暗だった。美術室の窓は月が上っている東側とは逆の西側にあるので、外からの明かりが殆ど部屋に入らない。だから部屋の中がより暗く見えた。


 鍵を閉め忘れたのだろうか、と思って例の筆箱を探そうと部屋の周りを見回すと、一筋の光がぼんやりと部屋の中を照らしているのを見た。準備室の方だ。


 まさか、と思って準備室の中に入る。また棚と美術作品に埋もれているのか、と不安になった。


 部屋の中の彼女の姿を見て、少しぼくは安心した。さすがに今度は生き埋めにされていなかった。ただ、若干異常な光景だった。


 例の女子は静かにメソメソしながら体操座りをして俯きながら棚の前で泣いていた。いい年して、ナニやっているんだよ。


 声を掛けるべきだろうか、非常に悩ましい事態だ。


「あの……帰らないんですか?」


 勇気を出して女子に声を掛けた。ぼくの呼びかけに反応してゆっくりと彼女は顔を上げて僕に顔を向けた。


「……遅いってぇ」


 ……は?


「あの筆箱、きみのでしょ?」


 ああ、あの筆箱の事、知っていたのか。


「……そうですけど」


「だから放課後ここに取りに来たら、昨日の仕返しに脅かしてやろうと思ってずっと待ち伏せていたのに……」


 何? 仕返しだって?


「なのに、何でゼンゼン来なかったの! 折角昨日ダイソーでクラッカーとか買ってきて二時間待って準備していたのに、この仕打ちはあんまりじゃない!」


 ンなモン、知るか! 何だ? こっちは罪悪感持ってわざわざ謝りに来たというのに、向こうは脅かそうとしていたなんて、ぼくの方があんまりだ! もういい、絶対謝ったりしないからな!


「そうですか、大変でしたね。では、鍵返しといてください。では」


 こんな人、顔も合わせたくない。そう思って部屋を出ていこうとすると、ズボンの袖をガッ、と掴まれた。そのせいでぼくはズテーン! と前向きにスッ転んだ。床に当たったデコが物凄く痛い。なッ……何てことを! 許せん! 


「あッ、あんたなあ……」


 ぼくが女子に向かってそう言うと、彼女の口があんぐりと開いた。何だ? ぼくの顔に何か付いているのか?


「きみ、出てる……鼻血」


「……へ?」


 一旦冷静になって確かめてみると判った。確かに鼻血、出ている。ボタボタと。


「ひッ……ひえええーッ!」


 あまりに突然な事態に、思わず甲高い叫び声を出してしまった。パニックだ。


「てッ、ティッシュ持ってませんか、ティッシュ!」


「て、ティッシュね! 確かポケットに……ほれッ」


 彼女は制服のポケットから勢いよく物体を出した、すると、


 パァーン! 僕の前で爆発音が響いた。続いて漂う火薬の匂い。まさか、これは。


「く……クラッカー鳴らしてどうするんだぁーッ!」


 危なすぎる! 失明したらどうするんだ!


「ご、ごめんっ! あ、でも……」


 すると彼女はクラッカーの後ろの尖った部分を鼻血が出ているぼくの鼻の左穴に紐を着けたまま、ガッ、とぶっ刺した。


「こ……これで応急処置は大丈夫かな」


 そう言って彼女はホッ、と胸を撫で下ろした。


 ……ぼく的には全然大丈夫じゃないのだが、助けようとしてくれたことに免じて、許してあげることにした。しかし、クラッカー残った紐が鼻の中でムズムズして物凄く気持ち悪いぞ。




「ごめんなさい」


「こっちもすいませんでした」


 お互い気持ちが落ち着いた所で、謝って話をすることにした。


「クラッカーで脅かそうとして本当にすいませんでした」


 相変わらず女子は体操座りをして立ち上がろうとせずにぼくに話してくるので、正直、誠意は全然伝わらない。まあ、今更そんなこと気にしていたって、しょうがないんだけど。


「もういいですけど……わざわざクラッカー買ってくるなんて、何て力の入れ様……そんなにあれが悔しかったなんて……」


「あったり前でしょう! あんなの人生最大の屈辱だよお」


「だからって、そんなに辛抱強くぼくを待ち続けることもないでしょうに」


「ま、まぁ……そうなんだケド、きみが泣き出したりする顔を見てみたかったんだよお」


「それで逆に何故か自分自身が号泣し始めたと」


「号泣じゃないわよ。静かに清楚に泣いていたのよ」


 どっちでもよろしい。


「何かね……待っていたらあたし、生意気なヤツ相手に何やっているんだろう、と思い始めたの」


「……二時間も待って?」


「うん」


「ようやく?」


「うん」


 もうちょい早く気付こうよ、それ……


「しかし……気付くのにそんなに時間がかかったとは、何たる執念」


「だって虚しかったんだもん!」


「そんな自分を自覚してあんたは虚しくないのか!」


「虚しいです」


 当たり前だ。


「全く……こんな馬鹿な事して落ち込んでいるヒマがあったら、とっとと絵を描けばいいのに……」


 あ、いけね。思わず思っている事を口に出してしまった。流石にこれは彼女に失礼だったか。


「あ……ああーッ!」


「な、何?」


 急に女子が叫びだした。驚かせないで欲しい。


「忘れてた……」


「へ?」


「絵を描くの、すっかり忘れてた」


「だから、それが何か」


「コンクールに出さなきゃいけない絵を描かなきゃいけなかったんだよ」


 ああ、確か昨日の棚の一件もそれが発端だったんだっけ。


「あーあ、どうしよう」


「どうしよう、って……失った時間はもう戻らないんだから、今日は大人しく帰って明日から書けばいいんじゃ……」


「あ、それもそうか」


「締め切りまで一か月ぐらいあるだろうから、大丈夫でしょう」


「そうだね。なーんだ。焦って損したなあ」


「で、締め切りはいつ?」


「えーとね、提出が確か……」


 女子は漸く立ち上がり、美術室の方へ移動して教壇の中から一枚の紙を出した。


「その紙は?」


「コンクールの募集用紙。ええと、締め切りが……十二月三日、土曜日」


 へー、十二月三日、土曜日ね。ふうん……え?


「ちょっと待て、十二月三日、って本当に書いてあるの?」


「う、うん。十二月三日、土曜日」


「……今日、何月何日?」


「ん、えーとね……」


 女子が首をかしげて思い出そうとする。


「確か、九月七日……」


「違ぁーうッ!」


 何で急に二か月半前にタイムトラベルしたんだ!


「今日は十一月二十八日火曜日! これ、何の意味か分かります?!」


「は、はッ……もしかしてあたし、二か月半先の未来へタイムトラベルしたんじゃ……」


「だぁから、違ぁーうッ!」


 この人の日付感覚は一体どうなっているんだ!


「とにかく、今日は十一月の二十八日、コンクールの締め切りまで今日入れてあと五日だ!」


 その言葉を聞いて女子の顔が急速に青ざめた。漫画だったら縦線が何本も顔に出ている所だ。


「そ、それ、マジ?」


「マジです」


「あちゃあ」


 あちゃあ、じゃない!


「つまりあんた、残り五日しかない状況のうちの貴重な一日を下らない事でパーにしちゃったんですよ!」


「ヒョエーッ、この先どうすれば良いでござんしょう」


 急に変な口調になった。


「とにかく、少しでも物事を進めるべきです。何を描きたいという事くらいは決めているでしょ?」


 その質問で彼女の顔が急に引きつった。まずい、嫌な予感しかしない。


「まさか、まだなーんにも考えてなかったとか……」


 すると彼女は顔を縦に振った。「その通りです」の意味だろう。


「呆れた人だな、よくもまあ今の今までそれで過ごしてこれたなあ」


「ま、まッ、あたしの性格、マイペースなのが取り柄だから」


「それが今、通用するとでも?」


「しないと思います」


 よろしい。


「だ、だけどさ、過ぎちゃった時間はもうどうしようにもないから、今はどう先に進むか考えようよ、ね?」


 あんたが言うか。


「はあ……じゃあ、今日は何を描くのかを考えてみたらいいんじゃないです?」


「う、うむ……だけど、描きたいものって、無いしなあ」


「いやいや、美術部員なら何か描きたいものがあってここに入部したんでしょ」


「別にあたし、絵が描きたくてここに入ったわけじゃないんだけど」


「は?」


「いやー、だって美術部って何にもすること無さそうでしょ、だから美術部に入ったのよ」


「……え、そんな理由で?」


「この学校、決まりで生徒は何かの部活に入らなきゃいけないでしょ、だったら一番ラクそうな部に入るのが良いに決まっているでしょう」


 何て人だ、今すぐ青春の汗と涙を流して部活に励んでいる少年少女が聞いたら怒り狂うぞ。


「だけどねー、年に一回コンクールに絵を出さなきゃいけなくてさあ。去年は部の先輩絵を描いて出してくれたんだけど、引退して今はこの部にはあたし一人しか居ないから絶対にあたしが絵を描いてコンクールに提出しなきゃいけないのよ」


「聞いておきますけど、もしコンクールに絵を出さなかったら……?」


「コンクールに出さなかったら、この部は同好会に格下げだって。やることがいくら何でもオーバーだと思わない? 別にコンクールに参加しなくたって部は続けられるのにさあ」


 確かに、降格とは少し極端かもしれない、しかし……


「別に問題は無いでしょう。ここから追い出されるわけじゃないんだから」


「……はっはーん、きみ、この学校の部活のシステム分かってないなあ。同好会は正式な部活じゃないから、どっか別にちゃんとした部活に入らなきゃいけないって決まりなのよ」


 それは知らなかった。ぼくがこの学校に入学してから早七か月、だいぶこの学校の事を知るようになってきたつもりでいたけれど、そんなルールがあったとは。


「だけど、別にいいじゃないですか。美術部は諦めて、ここでちゃんとした部活に入ってしっかりと青春を謳歌すれば……」


「嫌だ! 折角放課後のプライベートルームとして使っているこの部屋から出たくないもん!」


 駄々をこね始めた、諦めの悪いヤツである。


「だからって……部活である以上は生徒会を通じて学校から部費を出さなきゃいけないんです。何にもしない部員が一人居るだけの部に部費を出すほど、学校は甘くないですよ」


 何せ、この学校の文化部でも結構規模が大きい我らが演劇部だって、不景気の煽りを受けて、部費は結構カツカツなのだ。同好会に格下げという学校の判断は当然だと思う。


「うーん、カタいこと言わないで、部を続けさせてくれたって良いと思うんだけどなあ」


「ちなみに、部費はいくらもらっているんです?」


「えー? 何円だったっけ? 確か部費の入った金庫が……」


 そう言って彼女はまた準備室へ逆戻りした。ぼくも彼女についていく。


 準備室に入ると、彼女は部屋の中を探し回り、そして「あ、コレコレ」と言って赤い工具箱を見つけ、箱の蓋を開けた。中には封筒が入っている。


「これは?」


「今月分の部費、ええと、中身は……」


 封筒を開けると、中からお札が出てきた。福沢諭吉の絵が見えたので、一万円札だろう。


「これが今月分の部費?」


「そうそう思い出した、うちの部、毎月一万円の部費がもらえるんだったっけ」


 ちょっと待て、それはおかしい。


「何でこの部に一万円も出してくれるんですか! 全く、予算を決める生徒会は何考えているんだ!」


「いやはや、それが生徒会の皆さん、うちの部がキャンバス代や絵の具代で出費が多いと思っているらしくて、予算をかなり出してくれるのよ。いやー、美術部を信頼してくれてる生徒会は優しいなあ」


 なんてこった。最低だ、この人。将来、とんでもないしっぺ返しに遭うと思うぞ。


「さーて、何の絵を描くとしようかなあ」


 鼻歌歌いながら考え始めた。ホント、幸せな人である。


「風景画なんていいかなあ。部活の光景なんかにすりゃあグラウンドの地面だけで六割位塗りつぶすことが出来るし」


 おいおい、そういう手抜きは卑怯過ぎるぞ。それにあと一つ。


「そういえば明日から暫く雨の予報だったはずじゃあ……」


「うげ、じゃあ室内の絵かなあ。ううん、体育課は床の木目がめんどくさいよなあ」


 たかが線を描く位でめんどくさがるんじゃない!


「もっとねえ、手抜きとかそういうもの考えないで真面目に描こうと思わないの……?」


「だって、時間が無いんだからしょうがないじゃないの」


 そりゃそうだけど、その原因を作ったのは他でもないあんたじゃないか!


「仕方ない、何か身近にあるもので描けるものは無いんですか? 美術室なんだから何かあるでしょう。役に立ちそうなものが一つ位は!」


「えー、無いよそんな物」


「ほら、あれ、どうしたんですか人の顔の彫刻! あれ書きゃいい練習になるんじゃないです!」


 ああ、いけない。段々彼女の言動に対する怒りのフラストレーションが溜まってきている。しかし、気分を落ち着かせる気にもなれない。そんなぼくの心理状態とは逆に、彼女は呑気な顔をしている。


「人の顔かあ……だけどあの彫刻の男、オジサンだから描く気になれないもんなあ……」


 ああ、もう! ごちゃごちゃ御託を並べやがって!


「全く、もう知らん!」


 ぼくは声を荒げて彼女に怒鳴った。


「勝手にすりゃあいいじゃないか! こんな部、降格どころか潰れちまえばいいんだ!」


 美術室から出ていこうとぼくは彼女に背を向けた。


「待って!」


 後ろからぼくを呼ぶ声が聞こえた。今更、何を言うつもりなんだ?


「あの……シリアスな台詞を言っている所、悪いんだけど……」


 彼女がぼくの前へ歩いてきた。


「鼻にクラッカー、付けたまんまだよ」


 そう言って彼女はぼくの鼻に差しっ放しになっていたクラッカーを引っこ抜いた。血まみれになっている先端部分が眼に痛い。


「いやー、ホント危ないよ。このまま帰っていたら、ニュータイプの変質者としてご近所の噂になっていただろうからさ」


 ぼくは呆然としていた。まさか、鼻にクラッカー突っ込んでいる状況に適応していたなんて。そして、そのような顔の状態で、ぼくは目の前にいるこの女子に対して怒鳴っていたなんて。穴があったら入りたい、とは正しくこの状況だ。


「は、はあぁぁぁ~っ……」


 深い溜息をついてぼくはその場でがっくりとうなだれでしまった。


「ま、まあ、そんな落ち込むこと無いんじゃない!? 人生、この先もっと辛いことがあるかもしれないんだからさ、ね?」


 彼女の慰めの言葉が聞こえた。しかし、耳を傾ける気にもなれない。


「ううむ、こりゃあ困ったなあ」


 彼女がぼくの顔を覗き込んできた、見るな。


「……泣いているの?」


 当たり前だ。怒鳴った相手の前でぼくは大恥をかいたんだぞ。


「あの、そんなにショックだったら謝るからさ、ねえ」


「……うるさい」


「そ、そんなに拗ねなくったって……」


 彼女はそこまで言うと、急に言葉を止めてぼくの顔を見つめてきた。急に何だ?


「……いい」


 彼女は唇を小さく動かしてぼくに何か呟いた。


「……なに?」


「……かわいい」


「は?」


「きみ、こうしっかりと見てみると結構かわいい顔してるじゃない」


 なんだなんだ。一体、この人は急に何を言い出すんだろうか。


「あ……そうだ」


 彼女は一旦ぼくから離れて立ち上がり、唇に指をあててぼくの姿を見ると、子供のような笑顔を浮かべた。


「決めた。コンクールに出す絵、きみをモデルにして描く」


「……え!?」


 おいおい、ちょっと待ってくれ。何か色々と勝手に決められているぞ。


 ぼくの涙の流れが急なショックで急に止まったのを感じた。


「いやあ、何だろうね。何だか急にあたしの心に創作意欲が湧いてきたよお」


「いやいや! 何で急にそうなるの? 確かに、ぼくのルックスは酷くはないと自負はしている。だからって、絵のモデルになるほどのルックスを持っている訳じゃないのに、どうして……」


「いや、あたし自身にもよく分かんないんだけど、結構いけると思う!」


「思う、ってそんな」


「ねえ! 明日から放課後にここに来て絵のモデルになってよ!」


 待て、いくら何でもそれは無茶だ! ぼくには演劇部というホームグラウンドがあるんだぞ! しかも一番忙しいこの時期に絵のモデルになんてなれる訳が無い!


「無理だ! ぼくはモデルなんて絶対にしないからな!」


 彼女の頼みを断って逃げようとしたぼくだったが、すぐに肩を掴まれて引き留められた。


「……どーしても駄目なの?」


「駄目! 絶対駄目!」


 我ながら子供っぽいと思ったが、ぼくは彼女に猛反発をした。


「そう……だったら……」


 彼女はぼくから離れて準備室へ行き、すぐにこっちに戻ってきた。彼女の手には封筒が握られている。


「この手だけは使いたくなかったんだけど……」


 封筒を開け、中からさっきみた一万円札を出した。


「モデル料一万円、これでどうか、やってくれない?」


 モデル料一万円! 金欠学生のぼくにとって、それはとても魅力的な報酬だ。だが一つ、大きな問題がある。


「それって確か、学校から出た部費じゃあ……」


「うッ……! ま、そうなんだけど……」


 どうしたものだろうか、学校から出たお金という事はつまり、世間の皆さんが収めた税金だという事だ。そのお金をこんな形で受け取ってしまっていいのだろうか。額に一筋、汗が流れたのを感じた。


 不正な一万円を受け取るか、そうでないか。善良でない高校生の僕の良心が揺れる。


「さあ、さあ……」


 彼女の後押しをする声が聞こえる。


「さあ、やるか、やらないか。男らしく決めて」


「……」


「さあ……」


「……ます」


「何?」


「……ます」


「ほら、もっとシャキッとした声で言って!」


「やります、だから一万円をください!」


 結果、良心が負けてしまった。死んだら地獄へ落ちるんだろうな、ぼく。


「んー、欲望に素直でよろしい」


 彼女の顔がニカッ、と笑う。


「ただ、一応お金を渡すのは書き終わってからだからね。きみを信用していない訳じゃないんだけど」


 まあ、先払いなんて期待していなかったんだから良いんだけど。


「決まり! じゃあ明日から一緒に頑張ろう!」


 そう言って彼女はぼくに手を差し伸べてきた。


 ぼくは彼女の握手に応えた。正直、心の中ではこれで本当に良かったのだろうかと未だにモヤモヤする。


「そうだ……まだきみの学年を聞いてなかった。きみ、何年生?」


「一年生です」


「おッ、だったらあたしは二年生だからきみはあたしの後輩だね! よろしく、後輩くん!」


「こ、後輩くん……」


「じゃ、きみもあたしのこと、先輩って呼んでね!」


 “先輩”ははしゃぎ切った様子でぼくに話した。これまで自分に後輩が居なかったことへの反動なのだろうか。


「じゃ、今日は遅いし、帰ろうか!」


 やれやれ、やっと家に帰れるぞ。


「それじゃ、ぼくは先に失礼しますよ」


「あ、ちょっと待って」


 先輩は黒板の方へ行き、チョーク置きに置いてあるものを持って僕の所へ来た。


「はい、忘れ物。二日連続で忘れたら、情けないよお」


 手渡されたのはぼくがここへ置いてきた筆箱だった。もしかしたらこの人、一見かなり酷いけど、本当は親切な人なんだろうか……? そう思ってぼくは先輩に感謝の言葉を口にした。


「……ありがとうございます。では、また明日」


「ん、じゃ、また明日!」


 そしてぼくはやっと美術室から出て昇降口へと向かった。部屋に入った時、真東にあった月は少し、西の空の方に動いていた。やれやれ、少し寄り道するだけのはずだったのに、こんなに長居するとはちっとも思わなかった。


 しかし、この先どうしたものだろうか。修羅場の演劇部に出ずに美術室に行くというのは、ちょっと、まずいものがある。これからどう対処するかは全然思いつかないけれど、多分、大変な思いをするかもしれない。


 別に美術室に行かずに、しらばっくれるという選択肢もあるにはあったのだけど、何故かその時のぼくはそんな事考えもしなかった。


 恐らく、報酬の一万円と、性格はともかく容姿はいい先輩と密室空間に居られることに魅力を感じていたのだろうと今になって思う。だけど、それが真実だとしたら、我ながら哀しすぎる。


 しかし、もう引き返せない。ぼくはこれから起こる大騒動を覚悟して家路についたのだった。



 つづく

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