ユークレース(三十と一夜の短篇第9回)
一
学校の帰り道。遠くの教会で鐘が鳴っている。
ブラウスの袖のボタンが取れて、どこかへ行ってしまった。お気に入りの服がだいなしだ。
ボタンを探していると、並木通りの花壇で石を見つけた。アルプス山麓の雪融け水のような石だ。かざしてよくよく観てみると、青い色の水煙りのようなものを閉じこめている。
これはユークレースかもしれない。
石を拾うなど些細なことだ。辺りを見まわしてみても、こちらを気に留める人などだれもいない。すぐそばを自動車が過ぎてゆく。巻き上げられた砂煙りと排気ガスに紛らわせ、ポケットの中にしまいこんだ。
特に変わり映えのない日であった。
二
翌日から花壇のへりにお爺さんが腰かけるようになった。
ハンティング帽をかぶり、シャツの上から羊色のチョッキを着ている。白い口ひげをたくわえた、鹿狩りを嗜んでいそうなお爺さんだ。
お爺さんは腰をひねり、伸ばした手をしきりに動かしている。花壇に生えた白詰草をかき分けるようにしている。穴を掘るような仕草はない。まさぐるという表現がぴたりとあて嵌まる動きだ。
手が汚れるのも厭わないようだ。立てかけられたステッキがこてりと倒れたが、それさえ気がつかない様子である。
「なにか探しものですか?」
声をかけると。
「ああ、ちょっと」
それだけ言って、お爺さんは手を止めようとはしない。
「お手伝いしますよ。なにをお探しですか?」
「石を探しているんだ」
「どんな石ですか?」
「透明の、これくらいの」
お爺さんはそこで初めて手を止めて、親指と人差し指とで輪っかをつくってみせた。
三
お爺さんと一緒に石を探した。花壇の上も下もつぶさに探した。探してはみたものの、お爺さんの石は見つからなかった。
「明日にしましょうか。私も一緒に探しますから」
転げたステッキを拾い上げ、砂を払って渡してあげた。お爺さんは残念そうに頷いた。
お礼をしたいと言うので、お爺さんの家までついて行った。手を貸してあげたことへのお礼だという。
お爺さんは背が高い。六フィート半くらいある。背筋がぴんと伸びていて、ステッキの似合うジェントルお爺さんだ。
普段、お爺さんはめっきり外に出ないらしい。少し脚が悪いようで、玄関前の段差を上がるのに難儀していた。
「部屋まで行きますね」
「いやあ。すまんね。お嬢さん」
どきりとした。お嬢さんだなんて言われたのは初めてだ。
四
部屋に着くなり椅子に座るよう促して、お茶を淹れようと言ってお爺さんは出て行った。
お爺さんの部屋は甘い匂いがする。逆さまに吊り下げられている、たくさんの薔薇の花のせいだ。薔薇だけではない。向日葵や小麦、そのほか名前を知らない花や実の数かず。
背伸びして、色の褪せた薔薇のひとつに鼻を近づけた。やっぱり甘い匂いがする。
お爺さんの部屋は狭い。狭いけれど、いろんなものがある。
部屋の隅っこの机の上、煤けたランプの隣り。ちいさな椅子に、女の子の人形が座っていた。
スカートをめくってみると、つやつやしたまるい膝が見えた。人形はドロワーズを着けていた。
人形が私を視ている。空色の瞳が私を視ている。顔を近づけて人形の顔を観た。人形は私を視ている。横からでも上からでも下からでも、人形を観ると。人形が私を視てくる。どこから観ようとも、長く伸びたまつげ越しに追いかけてくる。
「追視だよ。光の屈折の加減でそう見えるんだ」
お爺さんが教えてくれた。
「生きているみたい」
「気味が悪いと言う人もいる」
お爺さんは紅茶の道具を置いて、机の脇にある棚の引き出しを開けてみせた。引き出しには色とりどりの目玉が並んでいた。白い綿の上の目玉たちが、みんな私を視ている。
引き出しの奥の鉱石が目に留まった。青く灰色の透明な群晶だ。
「これ、天青石ですよね」
「詳しいね」
お爺さんは嬉しそうだ。嬉しそうに紅茶をカップに注ぎ、ロッキングチェアに背中を預けた。
「さあ。熱いうちに飲んでおくれ」
ロッキングチェアに揺られながら、お爺さんは微笑んだ。
ビスケットを頬張りながら、会話が弾む。
「ほかにもありますか?」
「ああ。そこの標本棚の中身はぜんぶ鉱石さ」
「観せてもらっても?」
「好きに開けてくれて構わないよ」
標本棚のかわいい鉱石たち。間仕切りされた引き出しの中には、名前のついたおとぎの世界のディオラマが詰まっていた。いくらでも眺めていられる。
「好きなのをひとつあげよう」
「じゃあ、これをください」
すぐに、いちばん奥のハーキマー・ダイヤモンドを手に取った。お爺さんは笑顔で、標本ラベルと一緒にハーキマーをくれた。
「探しものはなんていうの?」
「ユークレースだ」
やっぱり。思った通りだった。
五
ほとんど毎日、お爺さんと一緒にユークレースを探した。しかしどこを探しても、どれだけ時間をかけても見つからなかった。
その後は、決まってお爺さんの部屋で紅茶とお菓子を貰い、鉱石標本を眺めた。
お爺さんの部屋はどこよりも居心地が良い。
お爺さんがお茶の用意で部屋を離れたとき、黄鉄鉱に魅せられてしまった。鏡色で完璧な立方体をなすスペイン産の結晶だ。なので黄鉄鉱をポケットの中にしまいこんだ。
お爺さんが私を視ていた。
だから何度も謝った。
「よこしまな心はそうそう治るもんじゃないさ」
お爺さんはそう言った。声色は優しかったが、カップに紅茶を注いではくれなかった。
「二度と私のところに来ないでおくれ」
死刑を言い渡された被告人か、余命を告げられた癌患者か。いずれにせよその程度の衝撃を受けたのは間違いない。
どうすることもできず、お爺さんの部屋を後にした。居心地の良い部屋から追放されてしまったのだ。
六
お爺さんと仲直りしたい。
だがお爺さんの家の前まで来ると、どうしても扉を叩く勇気を出せなかった。どうすれば良いのかが判らない。学校の行き帰りもまわり道をしなければならなくなった。そうしなければ、お爺さんの言葉が蘇ってきて苦しくなるのだ。
それでもお爺さんの家の前までは来られる。あと一歩が踏みだせないのだ。
家の前までやってきては引き返す。引いては寄せて、寄せては引いて。さざ波のような日が続いた。
そんな折、お爺さんの家の庭に太ったおばさんがいるのを見つけた。なにやら庭の手入れをしているようだ。
見つからないように立ち去ろうとしたが、音を立てまいとして動きが鈍る。
そうこうしているうちに、おばさんに見つかってしまった。
「お爺さんのお知り合い? お名前は?」
とっさに使う、偽の名前を用意していなかった。正直に名乗るしかない。
「まあ。あなたのことは聞いていますよ」
どきりとした。
「一緒に探しものをしてくれたんですってね。お爺さんが喜んでいましたよ。親切な人がいたもんだって」
また、どきりとした。耐えられずに話を逸らした。
おばさんはお爺さんの孫にあたるそうだ。白髪混じりで老けている。顔立ちがお爺さんに似ていて、眼の色も同じだ。
「お爺さんはどうしていますか?」
「先週末に亡くなりました」
良かった。おばさんはお爺さんからなにも聞いていないらしい。おばさんは家の世話をしにやってきたのだそうだ。お爺さんは車に轢かれたのだという。
お爺さんの部屋に行きたい。居心地の良い部屋に行きたい。行かなければならない。
「家に上がっても良いですか?」
おばさんは涙ぐんで。
「どうぞお上がりなさい」
と言った。
「毎日来ても良いですか?」
「いつでもいらっしゃい。あなたが来てくれるなら、お爺さんもきっと喜ぶでしょう」
おばさんはぽろぽろと溢れる涙をハンケチーフで拭った。
七
部屋に着くなり、お茶を淹れようと言っておばさんは出て行った。
お爺さんの部屋は、相も変わらず甘い匂いがする。ロッキングチェアに背中を預け、揺れながら人形を眺めた。
人形が、私を視ている。お爺さんと同じ空色の眼だ。
そうだ、天青石。
人形の眼の色は天青石だ。確かめてみよう。
机の脇にある棚の引き出しを開けた。色とりどりの目玉たちが、私を視た。
解った。色を確かめたいわけではないのだ。眼の色なんてどうでも良い。
人形が、目玉が、私を視ている。
「視ているだけで、なにもできないくせに」
私は天青石を盗り、ポケットの中にしまいこんだ。
お爺さんはもういない。いないからこそ私はこの部屋にいられるのだ。居心地の良いこの部屋に。お爺さんが死んでくれてほんとうに良かった。
そうだ、ボタン。
ブラウスの袖のボタンを探していたのだ。早く探しに行こう。見つけられないと、お気に入りのブラウスがだいなしだ。
遠くの教会で鐘が鳴っていた。
完