入港前
開闢歴二五九〇年五月
ブルトンに向かうアルビオン帝国海軍フリゲート艦ブレイク。
艦長の命令でカイルの航海計画に従って航行していた。
幸い、天候にも恵まれ、無事にウェサン島を確認。その後の正午の緯度計測でも、北緯が四八度三〇分であることを確認し、ブルトンに向かって東へ進路を変更した。
「ミスタ・クロフォード」
その途上でカイルはサクリング艦長に呼び止められた。
「航海計画の作成と実行、ご苦労だった。只今をもって任を解く。司令長官からの命令、先触れの使者の準備を進めよ」
「アイ・アイ・サー」
艦長からの許可を貰ってカイルは、候補生区画へ降りていった。
「お疲れ様、カイル」
待っていたのはレナだった。
「どうしたんだい?」
「何って、これから先触れの使者でしょ。準備が有ると思って手伝おうと」
「心配ないよ」
「あんた小さいでしょう。手伝って上げる」
「ま、まってよ」
カイルが止める間もなくレナはカイルの衣装箱から次々と服を出して行く。
「多いわね。なによこれ」
「キチンと整理したのにぐちゃぐちゃにしないで」
カイルが抗議するが、時既に遅かった。
普段着も儀礼用の服もしわくちゃになってしまった。
「ああ、どうしよう」
「その、ごめん」
やってしまったレナが謝るが、どうにも出来ない。元に戻すのは二人には無理だった。
「どうしたんだい?」
その時、恰幅の良い妙齢の女性が話しかけてきた。
「ミス・サトクリフ」
「誰?」
初めて出会う人にレナが尋ねた。
「サトクリフ主計長の奥さんだよ」
「……娼婦?」
「主計長の前で絶対に言わないでね。この後の航海をずっと飯抜きで過ごすことになるからね」
士官の食事は自弁と言っても、購入した物資の管理は主計長の担当だ。そして彼は物資管理のプロ。食料が腐らないようにする事も、腐るように促すことも自由自在だ。
自分達の食料が鼠に食われないよう、主計長の機嫌を損ねるようなことは絶対にしてはならない。
「正真正銘、正式に結婚した本物の主計長の奥さんだよ」
「乗せて良いの?」
乗員名簿に載っている乗員しか乗せてはいけない規則になってある。家族も入港中しか乗艦できない決まりになっている。
「その規定はあるけど、主計長だけは例外なんだ」
「何で?」
「忙しいからだよ」
主計長ほど忙しい役職は無い。航行中は物資の管理、検査を行う。だが、これは決まり切った仕事なので比較的楽だ。出て行く物資は乗員数に応じて出して行けば良いからだ。
だが入港中は、逆に忙しくなる。
次の航海に備えて消費した食料、水の補給、その手配、受け取り、収納、記録を行う。消耗品もあるからその補充を行わないと行けない。乗員の休暇に出す一時金の支度もだ。
それらの仕事で入港中にも関わらず降りる暇はない。
精々陸の事務所へ打ち合わせをするくらいだ。
母港に帰港しても家に帰る暇も無い。
「そこで家に帰れなくて妻に会えないのなら、妻が船に会いに来れば良い。と言う訳で、主計長の奥さんは乗艦を許可されているんだ。で、入港中も忙しいからその後の出撃も付いてきているんだ」
「それ、良いの?」
「ダメなんだけど。艦長は見て見ぬ振りをするのが仕来り、慣習なんだよ」
「本当に慣習ばかりね」
「独自のルールが多いんだよ」
カイルが嘆息するように伝える。
「そんな事より」
しょげる二人にミス・サトクリフが話しかける。
「カイル坊や、服がしわしわじゃ無いか。これから大役を果たすときに。あたしがアイロンを掛けてやるよ。ほらミス・タウンゼント、手伝って」
「は、はい」
そうして二人はミス・サトクリフの指示に従って、動く。霧吹きで濡らした後、温めておいたアイロンを上着とシャツに掛ける。
更にボタンや袖章を磨き、ぴかぴかにして、準備を整えた。
「服の方はやって上げるから。武器の方は自分でやりな」
「は、はい」
自分の武器である刀だけは自分でしか出来ない。刀身を砥石で磨き、鞘や柄も手入れをする。目釘を調整して外れないように準備し終えたとき、ミス・サトクリフの方も終わった。
「ほら出来たよ。着替えてみて」
「はい」
アイロンが掛かったシャツと上着を着る。
「よし、準備は整った」
「ぷっ」
「何だよ」
ミス・サトクリフはともかく、レナが吹き出したのが気に入らない。
「だって、面白い格好なんだもの」
ネイビーブルーの上着に白いシャツとズボン。海軍士官の正装であり、候補生を示す袖のボタンのみの装飾。何処も間違っていない。
だが、それを着ているのはサイズ的に小さい子供。
どう見ても子供のお遊戯、あるいは慶事の衣装のような愛らしさが出てきてしまい、威厳など無い。寧ろ必死になっても胸を反らして威厳を執ろうとするカイルの姿が余計に可愛らしく見えてしまい、レナには滑稽だった。
「ありがとう、凄く似合っている」
「その意味が地上と月くらいに離れているようだけど」
ちんちくりんと言われ続けているだけに、彼女がどう思っているかはよく分かる。
「大丈夫だよ」
疑わしい目でレナを見るカイルにミス・サトクリフが言葉をかける。
「しっかりとアイロン掛けて丁寧に磨いたんだ。何処に出しても恥ずかしくないよ。笑う奴は、見る目の無いバカだ。そんな奴らを気にする必要は無い。堂々と行きな」
「……はい」
ミス・サトクリフの言葉でカイルは元気を取り戻して、甲板に上がっていった。
「俺たちがエルフのボートを動かすのかよ」
つまらなそうに艦載艇を準備していたステファンがぼやいた。
「なあ、あのエルフやっちまおうぜ。今なら事故ってことにできる」
そういってステファンはナイフを取り出してマイルズに見せた。
「止めろ。俺たちの上官だ」
だが、あっさりとマイルズはそれを否定した。
「おや、やけに持ち上げるな。はじめはエルフの士官なんか認めないと言っていたくせに」
「お前、もしこの艦で下に付くとしたら誰が良い?」
「ミス・クリフォードかミス・タウンゼント」
このフリゲートに乗艦する女性二人を上げた。
「その指揮下で働いたらどんなだ」
「どんなだって?」
「どんなことをやっているか解るか?」
「まあな……」
ミス・クリフォードは、海尉として務めているが何処か抜けている。
ミス・タウンゼントは経験不足だし、剣技の訓練が多く航海に関する事に詳しくない。
「その点、ミスタ・クロフォードはどうだ? 今回の航海計画を立てて無事に成功させたぞ」
「まぐれだろう」
「だが、その前。出航前の気象を当てたのはどうだ。出来る奴がいるか?」
「エルフだから天候を操りやがったんだろ」
「それはないな。そんな事が出来るなら一日中晴れに出来たはずだ。その方がはかどる。予見できるだけだが、それだけでも凄いし、それを利用して上手く作業を指揮している」
「やけに持ち上げるな」
「ステファン。海軍に長く居たかったら、艦長を選べ」
「いつも通りサクリング艦長で良いだろう」
「艦長はもうすぐ提督に昇進する。十分な戦果も上げているし、数年内には提督。もし今回の討伐で功績を挙げたら、帰還と同時に昇進する可能性が高い。提督となると艦の指揮は別の人間になる。誰の指揮下に入るか決めるのは重要だぞ」
「それがクロフォードだというのか? まだ候補生だろう。海尉になって艦長になるのはどんだけ先か」
「それほど遠いこととは思っていないがな」
呟くようにマイルズが言った時、カイルが甲板に上がってきた。