航海指揮
深く青い海のキャンバスの上を一条の白い航跡を残して進んで行く白い帆船。
アルビオン帝国海軍六等艦ブレイク。
三本マストにそれぞれ三つのヤードを持つバーク形のフリゲート艦で小型の船体のため足が速い二八門艦。
水面に浮かぶ西日を帆に浴びて輝いて進む姿は白鳥のようだ。
その巨大な白鳥は今、アルビオン海を通り抜けて大蒼洋に出ようとしている。
「左二点回頭用意!」
その甲板にカイルの声が響いた。
掌帆長が笛を吹いて水兵達を動索に配置させる。
「用意できました」
「取舵! 左二点回頭!」
カイルの号令と共に背後にいる操舵手が左に舵輪を回して船首を左に向けて行く。
同時に風向きが変わり風に合わせてヤードの向きを変えて行く。
ここ暫く風上に向かっての上手回しを行っていたから、新米水兵達も覚えたようだ。
熟練水兵や下士官が多いが、新米がどれくらいの技量を持っているかで船の練度は測れる。最下位の水兵のレベルが高いほど良い船なのだ。
今のところ、自分の受け持ちのジョージが一番低いが、ウィルマが横で付きっきりで見ているのでキビキビと動いている。ジョージの動きを監視しろと言っただけなのだがウィルマは忠実に実行してくれている。
本当に受け入れて良かった。
「回頭完了しました」
「宜しい。進路南、左に回すな」
「アイ・アイ・サー」
左に回すなとは、船の進路が左側にズレないようにしろと言う意味だ。
波や風で船は常に揺れており、進路はぶれやすい。そのため、進路が多少左右にぶれても大体向かっている方向が指示通りなら良しとする。
だが、例えば進路の左側に岩礁があったり、船と擦れ違う時、左にずれたらぶつかってしまう。それを避けるために、右にずれても良いが左に船が向かわないように、という意味で左に回すなという。
この後は、西風を受けるので右から左に流れやすい。その分、右に舵を多めに切っておけば誤差を最小限に抑えることが出来るので、命じていた。
「航海は順調かね。ミスタ・クロフォード」
その時、艦長が甲板に上がってきた。
「イエス・サー。今、進路を南に取りました。最終位置はトレスコ島とランズエンド灯台から割り出した方位と六分儀による灯台の高さ計測で距離を出して、確認しました。このまま真南に向かい、ウェサン島を確認次第、回り込むように航行します。万が一、見落としても、北緯四八度一五分のラインを東に向かいブルトンへ入港します。以上が航海計画です」
GPSの無い時代に自分の位置を確定するには、海岸の位置を見るか天体観測する以外無い。
そのため目標とする島や星を確認するが、雨や霧などの海象、海の気象状態によっては見落とすことがある。
それを避けるように、万一見落としても目的地に着けるように、航海計画を作成する必要がある。カイルの計画は、その条件を満たしていた。
転生前、現役航海士として幾度も航海計画を立てては、やり直しを命じられ、書き直して鍛え上げた腕は古びていない。万が一、GPSが使えなかったり、乗っている船が帆船だったらと夢想して航海計画を立てたこともある。完璧とは言えないかも知れないが、十分合格点を貰える計画だと、カイルは自負していた。
「宜しい。ブルトンへ入港するまで、指揮を続けたまえ」
「アイ・アイ・サー」
それだけ言うとサクリング艦長は戻っていた。
「マイルズ! ログラインを入れて速力を計れ!」
「アイ・アイ・サー」
艦長が戻ると、カイルはマイルズに命令する。
マイルズはステファンとウィルマを連れて戻ってきた。ステファンが板に繋がれた結び目の多いロープが巻かれた円筒を持ち、ウィルマは砂時計を持っていた。
「よし、ターン!」
そう言うとマイルズは持っていた板を海に放り込む。同時にウィルマは砂時計をひっくり返して時間を計る。ロープはドンドン流されて行き、結び目も出て行く。マイルズはその結び目の数を数えて行く。
「ストップ」
砂時計の砂が全て落ちるとウィルマが叫ぶ。
マイルズはロープを強く引っ張りこれ以上流れて行かないようにすると結び目の位置を確認した。
「八ノットと四分の一です」
結び目の位置を確認したマイルズが報告する。
ログラインは一定時間にロープがどれだけ出て行ったかで速力を計ることの出来る道具だ。出て行った長さが解るように結び目が作られており、結び目を数えれば直ぐに速力が解る。ちなみにノットは結び目の意味で、船の速力ノットの語源だ。
「八ノット、アチャイナマンか」
「? 何か?」
「いや、何でも無い」
カイルの呟きにマイルズはいぶかしがったが、カイルがログラインをかたづけるように命じたために従うしか無かった。
「危ない危ない」
ア、チャイナマンとはノットの端数がある時に使う言葉だ。だが転生前に帆船でかつて使われていただけで、航平が独り言のように使っていただけだ。
由来は中国人をクルーとして載せていた一九世紀の時代、ある船の中国人クルーが汚物の入ったバケツを捨てようとした。だが、風上に投げるというバカをおかし、中身が当直士官に当たってしまった。
怒った士官は中国人をログラインで縛って艦尾から落とした。救助されたとき中国人は溺死寸前だった。とりあえず士官の怒りは晴れたが、丁度船長が上がってきた。ログラインが出ているのを見て船長が「現在の速力は?」と聞いてくると士官は咄嗟に答えた
「一〇ノット、アンド、ア、チャイナマン」
以来、ノットの端数を言うときはア、チャイナマンと付けるようになった。だが、差別的なために、段々と廃れてきたようで航平の周りに使う人はいなかった。
ただ、船の歴史書でこの言葉を知った航平は帆船時代の気分に浸ろうと、一人の時に使っていた。
その癖が、本物の帆船に乗って出てきてしまう。注意しなければとカイルは気を引き締めた。
その後カイルは、一通り指示を出し、候補生室に戻った。
航海計画の策定は転生前の知識と、転生後の自主練で直ぐに作ることが出来た。なので艦長から一発で承認を受けたが、艦の指揮を命令されてしまいずっと指揮をしていた。
当直中のビーティー海尉がお目付役として、監視し誤った命令を出さないか見張られて緊張した。
更に、トレスコ島とランズエンド灯台を確認する作業を行い、進路を変更する作業を見たので疲れた。
戻るとレナが候補生の区画で休憩していた。
「あら、戻ってきたの?」
「うん、次の変針まで時間は有るしね」
現在の位置は、北緯五〇度付近。ウェサン島の位置は四八度三〇分付近だから九〇海里。平均時速を八ノットとしても一一時間の余裕がある。
休むには十分だ。
持ち場を離れているようで不謹慎に見えるかもしれないが、休息を取るのも立派な任務であり、疲労困憊の状態で指示を出してもミスが頻発する。心身共に充実させるのも士官に必要な能力だ。
「ねえ、海里とか度とか分とかノットってどういう意味」
レナが聞いてきてカイルはがっかりした。
「どうしたの?」
「あれだけ教えて、どうして覚えていないんだよ」
時間をかけて教えたのに、レナが航海術の基本を忘れていることにカイルは無力感を覚えた。
いっそ寝ている間、一晩中耳元で公式を囁き続けてやろうか。
「まあ、いい。最初から教えよう」
そう言ってカイルはレナに教えた。
「まず、地球は球だというのは解るね?」
「一応、まだ納得しないけど」
まあ万有引力が理解出来なければ球というのは理解しづらい。
「今度理由を教えるよ、兎に角地球は球だ。そして、赤道の円周一周は四万キロと定義されている」
本当は地球の自転により赤道付近が遠心力で膨張しているので、正確な数字では無いがこの世界ではそのように定義されている。
ちなみにキロやメートルなどの度量衡はエウロパ条約で国際基準となっている。時間の方も南中から次の南中までを二四時間と定義している。ただ、ローカルな単位も残されている。だが、海で使うノットや海里は、ある理由からそのまま残っている。
「で、これを三六〇度で割ると一一一キロ。緯度を一度移動すると一一一キロ移動する事になる」
「それで?」
「で一海里というのは一.八五二キロだ」
「そうよ、なんでそんな中途半端な数字なの?」
「いや、しっかりとした基準だよ。それで一度の六十分の一が一分という数字だ。さっきの一一一キロを六〇で割ると、一.八五二キロメートル。一海里は四万キロを三六〇で割った一度、その一度を更に六〇で割った距離なんだ。緯度の上をどれだけ移動したかが解る便利な数字なんだ」
ちなみに航平のいた世界でも同じである。
「ええと? この数字がこれで……」
「ああ、解りやすくメモするよ」
口で説明しても無理そうなので、カイルはメモを作った。
地球の赤道上の円周の長さ四万キロ ÷ 三六〇度 ≒ 一一一.一キロ 緯度上の一度の長さ
緯度上の一度の長さ一一一.一キロ ÷ 六〇分(一度=六〇分)≒ 一.八五二キロ=一海里 緯度上の一分(一/六〇度)の長さ
一.八五二キロ ÷ 六〇(一分=六〇秒) ≒ 〇.〇三〇一キロメートル = 三〇.一 緯度上の一秒(一/六〇分)の長さ
「で、この換算表を元にだから北緯五〇度と四八度三〇分の差は一度と三〇分。一度は六〇分だから三〇分を足して九〇分。九〇分は九〇海里。一ノットは一時間で一海里進むという単位だから、八ノットなら九十海里を進むのに一一時間と一五分かかる。それまでの間、ずっと甲板に居ろと?」
憧れの帆船を指揮できるのだからずっと甲板で指揮を執りたいという誘惑はあるし、興奮している。だが、今後の指揮を考えると身体を休ませる必要がある。のでカイルとしても断腸の思いで休むことを決めていた。
「言わないけど大丈夫なの? 風はいつも一定じゃ無いでしょう」
「まあ、多少の変化はあるけどそれに関しては当直のビーティー海尉に任せるよ」
海の上で小さな変化、風向きが少し変わった、風の強さが強くなったは、日常茶飯事だ。そのような小さな変化に対応するため、当直には結構な裁量が与えられていた。
ただ、船の針路を変えるなどの決定権は船長、艦長にあった。
「嵐でも来ない限り、出て行く必要はないよ。と言う訳でお休み」
そう言ってハンモックに入ろうとするが、背後から脇に手を入れられた。
「え」
そのまま持ち上げられてハンモックに載せられた。
「大変でしょう。授業料代わりに載せて上げる」
「安い授業料だな」
「じゃあ、追加で支払って上げる」
そう言うとレナはカイルの上着やズボンに手を伸ばす。
「ちょ」
抵抗しようとするが不安定なハンモックの上では抵抗できない。あっという間に押さえつけられて脱がされてしまった。
「はい、脱がして畳んでおいて上げる。これで十分でしょう? それとももっと脱がして上げようか?」
カイルは首を振って断ると、レナは候補生区画を出て行った。