気象学
「諸君、アルビオン帝国海軍フリゲート艦ブレイクに良く来た!」
強制徴募が終わった翌日、サクリング艦長は全乗員を甲板に上げて演説を始めた。
「我々に与えられた任務はマグリブの海賊討伐である」
マグリブとはエウロパ大陸の南にあるカルタゴ大陸の滄海に面した地方を指す。
ちなみにカルタゴ大陸とは航平のいた世界のアフリカ大陸、滄海は地中海を意味する。
「知っての通りここには凶悪な海賊バルバロッサの手下どもが闊歩しエウロパ大陸各国の商船を襲撃している。これは海上航行の自由を尊ぶ我らに対する挑戦であり、決して許す訳にはいかない。海賊船を捕まえて叩きつぶし、自由なる海を取り戻せ! 奴らが奪った財貨を取り戻し、海賊行為の代償が高い物だと教えてやれ!」
『おおおおおおっ』
甲板から割れんばかりの怒号が響いた。
艦長の演説で士気が高まった。何より財貨という言葉に心が響いた。海賊船を捕まえれば捕獲賞金と言って国から報奨金が出る。それは、乗組員の階級などによって変わるが、誰にも支給される。
辛い海軍生活の中の夢と希望の具現であり、生きがいとなるのだ。
それだけに乗組員の喜びも大きかった。
「おおおおおっ」
そしてカイルの声もまた大きかった。
「あんた、本当に嬉しそうね」
演説が終わった後、レナが尋ねてきた。
「海賊討伐が任務と聞いたときも喜んでいたし。そんなに捕獲賞金が欲しいの」
「あー、まあね」
カイルは、レナの追求をごまかしたが、海賊退治を喜んでいるのは本当だ。
転生前、航海士をしていた時の記憶が蘇って海賊退治に熱が入っているからだ。
忘れもしないコンテナ船に配属されたときに航行したアジア~ヨーロッパ航路。最短航路はスエズ運河経由なのだが、そのためには海賊がいるソマリア沖を航行しなければならなかった。
非武装で警備員もいない大型コンテナ船は彼らにとって大きな美味しい獲物だ。
当直の時、レーダーが怪しい船影を見つけ追跡を受けたとき、こみ上げてくる恐怖を抑えるのに必死だった。こちらにあるのは精々放水銃とパニックルーム、秘密のシェルターだけだ。
救援を要請し多国籍軍の軍艦が来るまで生きた心地がしなかった。
何より怖かったのは、襲撃された船から来る救援の通信だ。海賊に襲われ、必死に救援を呼ぶ声。その声に応えることは出来ずただただ多国籍軍司令部へ転送するのみだ。
各国海軍の護衛を受けられるようになってホッとしたが、インド洋に広がった彼らの活動に怯える日々は続いた。
西欧の産廃業者が不法投棄して海を汚されて頭にきた漁師が、武装して反撃したのが始まりなのは聞いている。それには同情するし憤るが、既に犯罪ビジネスと化している彼らに同情する気は無い。
こちらは、ただ航行するだけで襲われるのだから。
日本では海自の派遣を巡ってデモとか反対運動が起きたようだが、日本人の船員や日本籍の船が航行していることを知らないのか。知っていても、自分たちには関係ないと思っているのか。
自分たちの生活が出来るのは日本の貿易活動が大きいからであり、それを支える商船に助けられているのを知らないのか。貿易が途絶したら、三.一一以上の混乱が起きるのに見てくれない。
そんな憤りも感じていた。
こちらに転生して、朝食にトーストが三枚出てきたとき、この世界の母親がこの中の一枚は商船隊のお陰で、もう一枚は海軍のお陰で食べられるのよ、とカイルに言い聞かせた。その言葉にカイルは、航平は感動した。それを、商船や海軍の働きと成果をキチンと教えてくれる事に。
アルビオン帝国は小さい島国だが、海外から食料を輸入することで豊かに暮らしている。
海外からの輸出入が途切れれば、国民は飢えて死ぬだろう。
それを守るために海軍に入隊したのだ。
海賊退治なら、望む所だった。
「さあ、準備を進めるか」
船の出港には準備が必要だ。
食料、水の積み込み、消耗品の搭載などやる事は山ほどある。
更に予備艦として保管されていたブレイクは、桁が外されていたり、帆が外されている。
これらの艤装を再装備しないといけない。
その作業を計画し監督するのも士官の仕事だった。
「よし、今日は桁をマストに取り付けるぞ」
「はい」
カイルの命令で水兵たちは動き出した。
「何が桁を上げるだ」
ジョージが毒づいた。
ここ数日、作業で服が濡れている。海から樽を引き上げて船倉に詰め込む作業をしていたため、濡れて気持ち悪い。
更に冷たい風が吹いているので寒い。洗濯がしたかった。
その時、上官である下士官のマイルズがカイルに話しかけてきた。
「ミスタ・クロフォード、一寸良いですか?」
「どうしたマイルズ?」
「ここ数日の作業で服が汚れています。幸い晴れているので洗濯をさせてやりたいのですが」
そう言われたカイルは上空を見た。
流れるような長いスジの雲が上空高くを流れている。それらは西に向かって延びているように見えた。
「却下だ。今日は桁の取り付けを行う」
「しかし」
「今日は寒い。明日には温かくなるからその時に行うように」
「いや、まさか」
「これは命令だ。直ちに桁を取り付けるんだ。もうすぐ雨が降るしな。それとも雨の中でやりたいか?」
「いいえ」
「では、かかれ」
雨が降るから、早く桁を取り付けろ、だと。馬鹿な、とジョージは思った。
天候なんて気まぐれなものだ。直ぐに変わったりとかしてしまう。
エルフだから天候がわかると言うのか。
「ボッとしていないで、手を働かせろ」
ジョージが驚いて手を止めていると、後ろからウィルマが脅し上げた。
「す、済みません」
エルフの言うことを聞く不気味な少女に監視されては動くしか無い。兎に角ジョージ達は桁を引き上げた。
「本当に降りやがった」
砲扉から外を見たジョージは放心して呟いた。
翌日、雨がブレイクに降り注いだ。全ての桁を取り付けた後、黒い雲が西から接近してきていた。夕方には艦内に入り夜半に雨が降り始め、朝にはどしゃぶりだった。
この中で作業をしていると思うとぞっとする。
「今日は雨が降っているので、艦内で出来る作業を行うように。砲弾磨きやローブの点検、積み込んだ物資の固定確認。やる事はいくらでもあるぞ。それと洗濯物の用意をしておくんだ。午後には晴れるから、洗濯して吊して干しておけ。温かいから夕方までには乾くはずだ」
「本当かよ」
「黙って従え」
ジョージはまだ半信半疑だったが、ウィルマは信じており、直ぐに行動を開始した。
洗濯物を用意した後、砲弾磨きに入る。砲弾は鉄製で錆びやすいのでサビを取った後、グリスを塗りつけておく。砲弾は一二ポンド、六キロ近く有るので重く辛い作業だが、黙ってやる。
そのうち雨の勢いが徐々に収まり、昼過ぎには晴れてしまった。
「総員、洗濯を始めろ!」
カイルが号令を掛けなければ全員、そのままぼけっとしていただろう。
予め用意していた盥を使って、各々洗い始め、準備していた紐に吊して乾かし始めた。
「よし、夕方には取り込んでおけよ。夜は雨になる可能性が有る」
それだけ言うとカイルは去ってしまった。
夕方になったときは十分に乾いていた。だが、ジョージのは一部濡れたままの部分があり、何とか乾かして起きたかったが、カイルの忠実な部下、ウィルマが強固に取り込むように命令してきたため、やむなく取り込んだ。
そして、翌日の朝、ジョージが起きるとカイルの予言通り、雨が降っていた。あのまま夜中に干しておいたらまた濡れてしまっただろう。
「エルフは天候を操ることが出来るのか」
「何とか上手く行ったな」
雨を見ながらカイルは呟いた。
エルフの力を使って天候を操った訳では無い。確かに妖精に聞いて上空の状態を調べたが、操ることまでは出来ない。カイルが正確に予測できたのは、転生前に習った気象学を覚えていたからだ。
上空の筋雲、巻雲が浮いているのを見て、その先に暖気がある事を見て温帯低気圧が発達している事が解った。
温帯低気圧は寒気側に低気圧が出来て、暖気を引き込むことで起きる。その際、引き込まれた暖気の両脇に冷気の上に乗り上げるように前線が出来る。これが、温暖前線、寒冷前線と呼ばれる物だ。
そして、この温帯低気圧は、この状態で北半球なら東へ動いて行く。
まず、東側の温暖前線の更に東に暖気と寒気の前線面が出来て、上空から巻雲が生まれ始める。これを見てカイルは、前線が近づいていることを知った。
そして、雨が降る前に出来る作業を行った。
温暖前線は通過時に雨が降るので、雨になる予測は簡単にできる。そして、前線が通過すると温暖前線の名前の通り、温暖な陽気、晴れになる事が多い。そのため、晴れになる事を予想しており、洗濯など晴れの時に出来る作業を命じた。
そして晴れたが、次の寒冷前線がやって来る事を知っていたため、直ぐに洗濯物を取り込むように命じたのだ。
寒気の上に暖気が乗っている状態、閉塞前線の可能性も有ったが、精霊の話しでは温かい空気が、地上まで伸びている事が解っており、それは無いと判断しての事だった。
エルフという能力があってのことだが、気象学の知識が無ければ雨がいつ降るか止むか判断できなかっただろう。役立つ知識は人を助ける物だ。受験で習う事に何の利点があるというのだ。
「しかし、発達期の温帯低気圧とは」
アルビオンは英国とほぼ同じ位置に位置しているため、気象は英国と似ているはずだ。
英国の気象は猫の目が変わるように晴れたと思ったら雨、雨と思ったら晴れと、めまぐるしく変わる。
何故なら温帯低気圧は、発達期は前線がハッキリしているため、雨と晴れが明確だ。一方衰退期は、寒気と暖気が激しく混ざり合うため、雨と晴れが入り乱れてやって来る。
英国の気象が変わりやすいのは、衰退期の温帯低気圧が入ってくるからだ。
なのに発達期の低気圧が入って来たと言うことは、それだけ低気圧の力が強いと言うことだ。
転生前の日本も近海で熱帯低気圧――暖気のみで発生する低気圧で風が加わると台風になる――ができるような異常気象だったが、この世界も異常気象なのだろうか。
カイルは暫し考えつつ、出撃準備を続けた。