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蛍火

 甲斐谷の道場は看板を降ろす運びとなった。

 理由は、公にはされなかった。

 世人は忠見の死の唐突さや続く高弟たちの斬り死にを様々に取り沙汰したが、結局は一代の傑物が一代で築き、しかしその傑出ぶりに継ぐ者なく一代で没落したのだと、そういう事になった。

 おそらくは忠見の名を惜しんだ、藩上層部の計らいであろうと思われた。

 かつては人が溢れ、撃剣の音の絶えなかった道場は、今では閑寂として音もない。

 夜の忍び寄り始めたその縁側に、平助はぼんやりと腰を下ろしていた。


 ──先生はよく、ここに寝そべっていらしたなぁ。


 だがもう縁側に師の影はない。そこにあの御方が転がる事は、もう決してないのだ。

 その欠落だけで景色はひどく冷たく、寒くなった。

 薄ぼんやりとした顔のまま、平助はひとつ顎を撫で、もういない人の影を思い出す。



 甲斐谷忠見は、型にはまらない人物だった。

 平助のような小身にも気さくに伝法(でんぽう)に声をかけ、興が乗ると剣を教えた。

 藩主を手ずから教授する身分の者の指導である。平助は(かしこ)まって固辞したが押し切られ、やがて剣の楽しみに耽溺(たんでき)した。


「平助」

「はい」

「剣は好きか」

「はい」


 間髪いれぬ言葉に嘘はなかった。

 忠見の指示の通りに体を動かせば、動かしたその分だけ錆が落ちていくようだった。手の先足の先、指や髪の毛一本一本の隅々にまで意識が行き渡り、澄み透っていく気すらした。

 薄皮が一枚ずつ剥けていくような、その感覚が好きだった。いつまでもこの人に見守られながら、剣を振り続けていたいと思う。

 だがその師は、ふふんと意地の悪い顔をして、


「しかしよォ、平助。そいつは殺しの道具だぞ。どうだ。それでも好きか」


 平助はしばし困った。困ってから、答えた。


「手前には学がありませんで、わかりかねます。ただ」

「ただ?」

「それでもやっぱり、先生に稽古をつけてもらうのは楽しうございます」


 すると忠見は莞爾(かんじ)と笑った。

 蛍火の伝授が始まったのは、そのすぐ後の事である。


「最近の侍どもは知恵ばかり、損得ばかりで小賢しい。何にでも小理屈をつけやがる。剣ってのはよ、ただ剣であればいい。俺はそう思う。栄達の為でも見栄の為でも、ましてや殺しの為にあるでもない。ただ剣であればいいんだよ。お前のはそれだ。実にいい。だから、お前にやる。使うなり腐らせるなり、好きにしろ」


 それは生来の剛力を更に練り上げ、それにより絶え間なく途切れなく刃を振るい続ける工夫であった。

 指で抑えるだけで青竹を割る、忠見の尋常ならざる膂力を基盤とした戦法であった。


「こいつはよ、強い人間を更に強くする為の技だ。元々強くない連中には扱えねェ。まあ要するに、こいつじゃ飯は食えねェのさ。けどよ、折角編んだんだ。俺っきりそれっきりじゃあ、寂しいだろう?」


 どこか悲しげな忠見の真意は、平助には窺い知れない。

 だが、わからないなりに理解をした。

 敬愛する師が、己を見込んでくれたのだ、と。



 だから、あの四人を斬った事に後悔はない。

 彼らの後始末は実に粗雑で、平助の目には何が起きたのかが明らかだった。あれほど立派な御方の最後が、そんなものであったのが信じられず、また許せなかった。

 故に、憤激のまま動いた。

 師範代たちの去就は、道場の諸事万端を取り仕切る平助に筒抜けである。折を見、機を窺って、一人ずつ対峙するのはさして(かた)い事ではなかった。

 その復讐が、師が愛したものを、そして自分の好いたものを(けが)してしまう行為であると気づいたのは、全てが済んだその後でである。

 以来悔いは忸怩(じくじ)と胸に(わだかま)り、晴れる事がなかった。師が二度目の最後を遂げたような気さえしていた。無論、殺したのは自分である。

 とんだ忘恩の徒だと、平助は自身を責めた。

 剣を手にする事はもう二度とあるまい。自分は資格を失ったのだと、平助はそう考えている。



 忠見に拾われ、これまでの半生をその下で働き詰めてきた平助である。道場がなくなれば行く宛などどこにもない。そのはずだった。

 けれどそんな平助の境遇を哀れみ、またその働きぶりを見込んだとして、中元に召抱えたいと名乗り出てくれた者がある。忠見の口利きであろうと薄く見当がついたから、平助は深く(こうべ)を垂れてそれを受けた。


 であるから、平助は今日、この道場を去らねばならない。

 この(のち)誰かがこの場を管理するのか。或いは打ち壊されてしまうのか。

 それは平助の預かり知らぬところである。

 尻を払って立ち上がり、道場の屋根を振り仰いだ。そこからゆっくりと視線を彷徨わせ、隅々までの景色を眺める。やがて建物も死ぬのだという感慨に至り、平助は深く息を()いた。

 荷物というほどの荷物はない。四人の血を吸った数打ちも覆面も、既に川に投げ捨ててしまっている。

 空手のまま足を引き()り退去しようとした、その時だった。


 ──平助。


 懐かしい声に呼ばわられた気がした。

 弾かれたように振り向くその目が見たのは、しかし一匹の蛍ばかりである。

 独り寂しく夜を舞う光は、やがて闇に飲まれて見えなくなった。

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