07.いつもと違う景色
それは目を疑う光景だった。
スタートの合図と同時に、4人が一斉に走り出す。折藍は左から2番目。スタートダッシュはなかなかだ。
…とか思っている間に折藍だけが異様な加速を見せる。地面を蹴る度にグングンとスピードに乗り、容赦なく他を引き離していく。
結果、折藍はぶっちぎりで断トツの1位。俺を含め、それを目撃した周りは開いた口が塞がらない。
「…マジ…かよ」
これはあくまで個人の運動能力を測るものだから、順位などは関係ないのだが、あれだけの走力であればタイムもかなりいいものだろう。ゴール地点では記録係が多少どよめきながらも表にタイムを書き込んでいた。その近くにはたった今走り終えた4人が待機している。確かなことはわからないが、見た感じの印象では、折藍以外の女子も決して遅くはない。その体つきも引き締まっていて、運動部に所属していそうな顔ばかりだ。
そんな中で堂々の第1位とは。たかが50mでは、普通ここまでの差は出ない。それは足が速い者でもその自慢のスピードに乗り切る前に完走してしまうからだ。しかし、折藍は違う。一歩ごとの加速が他の比ではなかった。
「すげぇ…何なんだアイツは」
表を受け取った折藍は周囲の注目など意にも介さず、その場を離れる。
が、途端にクラスの女子から声が掛かった。
「折藍さん凄い!足速かったんだね!」
「えー、知らなかったの?折藍さん有名じゃん」
有名なんだ…
「そこらへんの男子より運動出来るし、男らしいし、いつもやる気ないけどやれば出来る的なとこがギャップでさ〜萌えるわ〜」
萌えるんだ…
「そうそう、マジたまんないよね」
たまんないんだ…
群がる女子が口々に称賛の言葉を浴びせる中、当の本人は特別表情や態度を変えることもなく、ただ立ち尽くしていた。
「…あのさ」
その言葉で静かになった女子達を興味なさそうに見遣りながら、折藍は「通してもらえる」と続けた。
女子達は素直に従い道を開ける。まるで何かの学園ドラマのワンシーンでも見ている気分だ。本当にあるんだな…こういうこと。
てか、慕ってくれてる相手にそんな態度をとってもいいのか。今に手の平返されるぞ。
「超かっこいい…」
「あのクールで一匹狼な感じがまたいいのよね」
「折藍さんもう抱いて」
「…………」
嘘…だろ…?女子ってわかんねぇよもう…!揃いも揃ってあんな愛想のない奴がいいのか。
「楓も、なかなかの人気者なんですよ」
「見てりゃわかるわ。あと"も"って何だ。誰と並べてんだ。自分か」
「ええ、僕もそれなりに人気者です」
「悪びれずに言うのな。お前そういう奴な」
そこへ人気者の折藍様が颯爽とこちらへ向かって来る。そして俺の目の前に表をビシッと突き付け、無言の圧力をかけてきた。その記録、驚きの5.97秒。それは男子の満点にも余裕で届く記録だ。末恐ろし過ぎる。
「これでいい?」
「速っ!マジですげーんだな、お前。正直予想の斜め上行き過ぎてて超びっくりなんデスケド」
「じゃあ触れ合いの件、約束守れよ」
「はい?まさか、頑張るってそれだけじゃないだろ?あと2つくらいはやれって。ただし長座体前屈以外な」
「…聞いてない。アンタはただ"頑張って結果を出せたら"と言ったろ。いくつかなんて聞いてない」
確かに折藍の言うことは尤もだが、待て。まず待て。たった1種目だけで提示出来るような条件じゃないんだこっちは。
「じゃあ、あとは反復横とびと軽めの握力でいいや。その2つ頑張って記録狙おうか」
「嫌だ」
「何でだよ」
「面倒臭い」
「頑張れ」
「周りも騒ぐし」
「そうだな、でも頑張れ」
「目立つのヤダ」
「もう十分目立ってんだろ。心配すんな」
「…………」
納得のいかない顔で睨みつけてくる折藍。ぼちぼち女子の方も次の種目への移動を始めている。それに伴って、男子の50m走が今にも開始されそうだ。
「…そもそも、動物と触れ合えるって話、本当だろうな?」
「ん?ああ、それは本当」
「証拠は」
「証拠って…どうすりゃいいんだ。そいつらの写真でも見せりゃいいのか?」
それに対し、折藍は少し考え、黙って頷いた。
「…よし、じゃあ今はないけど、昼休みに写真と店の地図も見せてやるよ。確か携帯にあった筈だから」
「………わかった」
いずれにせよ、指定の2種目の測定は午後だ。やるかやらぬかの判断は昼にそれを確かめてからでも間に合うとの結論で、一旦その場は収まった。
「せっかくお昼に顔を合わせるのなら、昼食もご一緒しませんか?」
「あ?飯?」
仁華からの思わぬ誘いに俺は少しだけ間を空けて返す。
「別に俺はいいけど…コイツが嫌がるんじゃね?」
何が気に食わなかったのか、折藍は不機嫌そうに俺をジト…っと見る。
「ふふ、そんなことありませんよ。彼女は嫌いな人や興味のない人に、自分から声をかけたりしませんから」
もしかして、仁華は追試の時のことを言っているのだろうか。確かにあの時は向こうから声をかけてきたが、そのやり取り自体は決して仲のよいものではなかった。下手すれば口汚い喧嘩に発展していた可能性すらある。
そんな俺の考えを読んでか、仁華は離れて行くその背中を見詰めながら続けた。
「今朝の謝罪も、彼女の心の表れだと思います」
「え」
「いえ、僕がとやかく言うことではないですね。忘れてください」
そう言われても聞いちまったんだ。気になるだろ。謝罪?そういえば今朝そんなことがあったような…
いきなり過ぎて何のことやら分からなかったが、話の流れ的に追試の時の発言だか態度だかについて謝っていたらしい。しかしあの言い方。素直なんだかそうでないんだか。色々わかりにくいわ。
「まあ、それはともかく……」
視界一面の青を見上げながら言った。
「今日は天気もいいことだし、屋上で食うかー」
心做しか先程よりも軽い足に、自分は単純な奴だなと、苦笑が零れた。
****
今日はいつもと景色が違う。
隣には馴染みある八咫の姿。しかし視線をそちらとは反対側に向ければ、今日初めて話したばかりの仁華。そして目の前には無表情で握り飯を食む折藍が座っている。しかも正座だ。胡坐とか余裕でかきそうなのに、床の上では意外と礼儀正しい。椅子の上だとあんななのにな…。
「………何ですか」
俺の視線に気付いたらしい折藍が飯を胃に送りながら言った。それに対してただ「別に」と返せば、奴もそれ以上は何も言わない。
「なーんか、いつもと面子が違うだけで新鮮だね」
そんな空気を知ってか知らずか、八咫は呑気に口を開いた。そもそも、コイツは他の二人と面識あるんだろうか。
「折藍ちゃんは同じクラスだし、ちょいちょい話すけど、仁華君とは初めましてだよねー」
「ええ、そうですね。よろしくお願いします」
……心読まれたのかしら。つーか、仁華は相変わらず固いな。
「そういえば今日の体力測定、二人ペアなんだっけ」
「おー。じゃなきゃ突然こんな流れになんねぇだろ」
「あ、じゃあやっぱり体力測定で仲良くなって誘ったのか」
仲良くなったと断言していいものか微妙だが、確かに仁華とはすぐに打ち解けられたな。学年トップとかいうから、どんなすかした奴かと思えば、この紳士っぷりだ。しかも体力測定では人並み外れた運動神経であることが明らかになり、それでいながら、その能力の高さを決してひけらかしたりしない慎ましさがある。そりゃ男女双方からモテるだろ。寧ろそんな奴がモテない方がおかしいんだよバカヤロー。
「僕からお誘いしました。満月君が面白い方で、もっとゆっくりお話がしたかったものですから」
「へぇ~、学校一のモテ男に気に入られるなんてやるねぇ、満月」
「どうも」
俺の一体どの辺が面白かったって?こちとら別に笑かしたつもりないし、初めから今この瞬間までずっとマジメにやってますよ。ええ、そうだとも。その辺詳しく聞きたいところだが、まあ…今回は流すことにする。
すると八咫が今度は折藍に視線を移し、思わぬことを口にした。
「もしかして、折藍ちゃんも満月のこと気に入って来てくれたの?」
「はあ?何言い出すんだお前」
んなワケねーだろ。そんな雰囲気あったか?見よ、あの仏頂面を。あの冷え切った目を。あれのドコをどう見てそんな言葉が出てきた?ちょっと頭おかしくなってんぞ?
折藍は交渉に乗るか乗らぬかの判断のため来ただけで、別に俺らとランチするつもりもなかった筈だ。それを仁華が説得したに違いない。それが俺を気に入ったかなんぞ聞かれて、機嫌損ねたらどうす…
「どっちでもいい」
……へ?
「へぇ、肯定も否定もしないね。僕の経験上、その場合の多くは肯定であるわけだけど、そうとってもいい?」
「お好きに」
「ぶほぉッ!!!?」
口に含んでいた緑茶が勢いよく噴出される。それにより仁華が被害を受けたが、笑顔を崩さない。
「ちょっ、汚っ!何してんの!?仁華君大丈夫?」
「大丈夫です」
ハンカチで緑茶を拭き取りながら返す仁華の隣で俺はひたすら咳込んでいた。
「ちょっと、満月も大丈夫?動揺し過ぎだって」
言いながら背中を摩る八咫は呆れた顔をしているに違いない。
だってお前、折藍と俺とのやり取りを見てないだろう。お互い気に入る要素とかどこにもなかったからな!寧ろ真っ向からぶつかってたくらいだからな!
「え?でも今日だって満月から声かけたりしてるじゃん。それって少なくともお前は抵抗ないってことでしょ?」
「……てめぇ…どんなタイミングで能力使ってんだよ」
「能力?」
仁華と折藍が食いつく。八咫は親指と人差し指で作った輪を目の前におき、悪戯っぽい笑みを浮かべて「他人の考えを読む能力~なんてね♪」と答えた。
「読心術ですか」
「そんな大したものじゃないよー。相手にもよるけど、満月は他より長くつるんでるし、特に分かりやすいってだけ」
「誰が分かりやすいだとコラ」
文句を垂れながら、話題が戻って面倒になる前に、携帯を取り出した。画像フォルダの中から目当てのものを見付け、それを折藍に差し出した。
「ほら、お前はそもそもこれ確認するために来たんだろ」
「…」
折藍は黙って受け取った携帯の画面をまじまじと見る。隣から八咫と仁華も覗き込んだ。
「お、かわいい!何これ、狐?」
「狐の仲間だな。フェネックっていうんだよ」
「愛らしいですね」
「だろ?」
我が子を褒められているようで嬉しくなる。
フェネックとは、元々砂漠に生息する狐の仲間で、体は小さい。しかしそれに反して耳が大きく、見る者によってはアンバランスな印象すら与える。毛色は白やクリームが主で、黒くクリッとした目が愛らしく、数多の人間をダメにすr…いや、虜にする生き物だ。
「…か……かわいい…っ」
そしてどうやら折藍もその一人らしい。俺の携帯を握り締めて静かに悶えている。下を向いているため表情までは見てとれないが、取り敢えず興奮していることは分かった。
「楓は動物の中でも特に狐が好きなんです」
「みたいだな」
「愛らしいでしょう?」
「それはどっちのこと言ってんだ。狐か?それとも目の前の狐好きか?」
「両方です」
「…満月、」
驚く程あっさりといつもの調子に戻った折藍が、携帯を閉じてこちらに返してきた。
「乗った」
「ん?」
「完全に乗ったわ。握力と反復横とび頑張る」
その目はいつになく真剣で、奴の本気が感じられた。どんだけ好きなんだよ。
「その代わり、絶対に約束守って。あとその画像も頂戴」
「お、おう…わかった。でも画像はな、お前のアドレスとか知らねぇし。…あ、赤外線とか?」
「俺のにそんな機能ない。教える。貸して」
「あ、じゃあついでに僕とも交換してください」
「えー、満月だけズルいなぁ。僕も交ぜてよー」
こうして俺は思わぬ形で二人のアドレスを手に入れたのだった。
「…………」
手元の携帯を眺める。アドレス帳の友人グループに見慣れない名前が二つ追加されていた。何だか、少しだけ胸がくすぐったい。
「頑張ってね、楓」
「任せろ」
「……こいつは…」
頑張る姿とかやる気出したとことか、今朝までは全く想像出来なかったのに、今は違う。寧ろ逆だ。
折藍は確実に俺の予想を上回る記録を叩き出すに違いない。もうそんな予想しか浮かんでこなかった。
動物との触れ合い……か…
………早めに連絡しておこう。