05.折藍楓
「…………」
今、俺は、とんでもない状況下に、いる!
至近距離に明寺さんの顔。腰と首裏に手を添えられたこの状況。非常に危ない。いくら相手が明寺さんだからとはいえ、これはさすがに流せそうにない。
「あの、明寺さん?」
「何…?」
「この状況は一体何なんでしょうか」
「状況…?」
明寺さんは考えを整理するように間を置いて答えた。
「…キス」
「はい!!?」
キス!!えッ!キス⁉︎なんで!?何がどうしてしまったというんだ明寺さん!?いや、落ち着け俺。まずは何故こんな状況に陥っているか、そこから整理しようじゃないか。
あれはついさっきのことだ。あまりの衝撃体験に俺の足は生まれたての小鹿の如き力の無さで震え、本棚に預けていた体重を戻した途端バランスを崩した。それを明寺さんが支えてくれた結果、現在に至る。うん、整理したところでわかんねぇ。何この急展開。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
「…うん」
この状況でも明寺さんは調子を崩さない。一体どんな強靭な神経をして……いや、そんなことより、まさか明寺さん、そっち系なのか!?嘘だろ、意外過ぎる…
「どうしたの…?」
「どうしたもこうしたもないっスよ!な、何でキス!?しかも何故俺と!?」
「え…?」
沈黙。水音がいつもより大きく聞こえる。しかしそれをも掻き消さんばかりに俺の鼓動はバクバクと鳴っていた。ここで告白でもされようものならどうしよう。明寺さんには色々助けてもらったけど、あといい人には間違いないし、イケメンだし…俺には勿体ねえ……ッて、何を考えてんだ俺は!断るに決まってんだろ!俺は野郎よりレディーが好きだったはずだ!!気をしっかり持て馬鹿!
咄嗟にそんなことを考えながら明寺さんの次の言葉を待っていると、予想もしていなかった言葉が飛び出す。
「…友達に、なりたいと思って…」
「………へ?」
トモダチ…?…ん?え?今トモダチって言った?俺の聞き間違いかな?理由と行動が噛み合ってないぞ。
「あの、それってどういう…」
言いかけた時、今日、こんなタイミングに限って、無抵抗な扉は開け放たれた。
「「……。」」
ノブを握ったまま動きを停止する客人とばっちり目が合う。瞬間、俺は「あっ」と声を漏らした。
「お前、同じクラスの!」
初めて見た自分以外の客は、驚いたことによく知る顔をしていた。相手は冷静な表情を崩さぬまま、男二人が身を寄せ向かい合うこの状況を分析するように、上から下までじっくりと眺めている。
やばい、これはまず間違いなく確実に妙な誤解をされてしまう。先手を打ち、さっさと説明しなければ。
焦る俺とは裏腹に、明寺さんは相変わらずゆったりと相手を確認し、しかし俺より早く口を開いた。
「…いらっしゃい、折藍」
「え!?」
明寺さん、今"折藍"って言ったか?
確かに、そこに立つ一見男子のような風貌の女生徒は"折藍楓"。俺と同じクラスに席を置く所謂クラスメイトってやつだ。何かと有名な奴だから俺も知ってはいるが、記憶を辿っても言葉を交わしたことはない。
「明寺さん、折藍と知り合い…」
言いながら向き直って、互いの顔のあまりの近さに、現状を思い出しのけ反った。
「のぉおぉぉおおッ!!めめ明寺さん取り敢えず離れましょう!」
「え…でも…」
珍しく渋る明寺さんに、俺は先程の言葉を思い出す。
「えぇと…ああ、トモダチ!友達ね!キスなんかしなくたって俺、明寺さんとなら喜んでなりますから!寧ろなってくださいってお願いしたいくらいっスよ!」
「本当?」
「勿論!」
すると明寺さんは嬉しそうな笑みを浮かべて俺を解放した。初めて見る人間らしい表情に俺は一瞬ドキッとしたが、それに意味などない。ないと言ったらないぞ。珍しくてちょっと見取れただけだわ。
あと、友達になりたくてキスするってその行動心理も何だったんだ。
「…………ふーん」
それまで沈黙を守っていた折藍が初めて口を開く。ただの「ふーん」だったが、それが恐い。一体何を悟った「ふーん」なんだ。
「あ、あの…」
「メルさんさぁ、そうホイホイとあの人達の言うこと実践しない方がいいと思うよ」
「?」
こちらを無視してどうやら明寺さんにアドバイスしているらしい。俺にはよくわからないが、折藍は何か俺の知らない事情を知っているようだった。
「…でも、"キスは親しい友人同士で交わす挨拶"だって、本でも読んだよ…?」
「それ、日本では通じないよ。他国の文化だから」
「……そうなんだ…知らなかった」
すると明寺さんはこちらに向き直り、「ごめん」と言った。
「僕…キスができれば、親しい友人になれるって思って…」
「日本でいきなりそれやったら良くて関係崩壊、悪くて御用だね」
背後から飛ばされる容赦のない言葉にギョッとするが、明寺さんは首を傾げる。
「ごよう…?」
「"捕まる"ってこと」
「誰に…?」
「恐い人達」
「じゃあ、ほうかいって…?」
「壊れること」
「壊れる…」
「一度壊れるとそう簡単には戻らないんだよね。形あるものも、ないものも」
「……」
「だから気をつけた方がいいって言ったの」
淡々と明寺さんに言葉を投げながら奥へ進む折藍。俺の傍を通過する際、一度立ち止まり、まるで品定めでもするかのように、こちらの頭から足先までを横目で眺めると、何を言うでもなくまた歩き出した。その表情は「もう興味が失せた」とでも言いたげだ。
明寺さんはというと、先程の笑顔が嘘のように、またいつもの眠たそうな表情に戻っている。
「おい、折藍お前、そんな言い方しなくてもいいだろ」
俺は堪らずその背中に吐き捨てていた。明寺さんに悪気はない。それをわかっているならもっと違う言い方も出来た筈だ。わざわざ壊れるとか、明寺さんが気にしそうな言葉を使わなくたって、いくらでも。
折藍の足が止まる。
「どんな言い方であれ、間違いだと教えることが出来ればいい」
「言い方一つで、反抗したり、傷つく人もいるだろ。相手に合った伝え方をするべきだ」
「そう考えるのはアンタの自由だけど、それを俺にまで押し付けるな」
折藍は頭だけでこちらを振り返ると、明寺さんとは違う表情の乏しい顔で吐き捨てた。
「メルさんが他で恥をかかなければ、俺は嫌われたってそれでいい」
スタスタと行ってしまう背中を見送り、何とも言えない気持ちになる。
考え方は人それぞれだ。この世には自分以外にもいろんな奴がいる。考えや価値観の合う奴、合わない奴、いろんな奴らがいるから、この世は成り立っているのかもしれない。
取り敢えず、折藍との初の会話がこんな形になったことで、俺は明日から奴を嫌でも意識せざるを得ない状況となった。
「ま、これまでだって大して話す機会もなかったし、別にいいか」
と、ここで明寺さんのことを思い出す。
「明寺さん、さっきのあんま気にしな……あれ?」
言いながら振り返ると、そこに彼の姿がない。見回せば、いつの間に戻ったのか、管理者席でうたた寝する明寺さんを確認する。その寝顔に、俺は全身から力が抜けていくような感覚に襲われた。
****
翌日。
今日も解答用紙との熾烈極まる激闘に勝利し、苦しみながらもどうにか全ての欄を埋めてやった。
この苦難の日々も明日まで。その後には弱った我々の息の根を止めるテスト返しが待っているわけだが、今は忘れよう。明日に待つ一時の解放感がこの荒み淀んだ心をいとも容易く癒すのだ。俺はなんとしてでもその至福の瞬間を勝ち得なければいけない。
「今日も行くの?例の図書館」
ふいに背後から聞き慣れた声がかけられる。振り返れば八咫が帰り支度を整えてそこに立っていた。
「いや、今日はやめとく」
言いながら俺は昨日のことを思い出していた。
明寺さんにキスを迫られた件もあるが、今日行けばまたアイツに出くわす気がして、どうにも行く気になれなかった。
チラリと視線を二つ前の席に飛ばす。そこにある背中は昨日見たそれと違いなく、どこかかったるそうな雰囲気が漂っている。
折藍楓。
昨日あんなことがあるまでは、こんなに近い席に座っていたことさえ意識の外だった。普段の学校で見る折藍は大人しく、口数も多くない。大半のことには興味を示さず、授業もこの俺を差し置いて殆ど眠りこけている…らしい。これは昼に仕入れた八咫情報だ。女子でありながら男子用の制服を当たり前のように着こなしており、口調も性格も昨日目の当たりにしたとおりで、男勝りを通り越して男臭い。要は変わった奴なのだ。
正直、関わりたい関わりたくないの気持ち以前に、一度として自分が関わる人物として意識を向けたことのない奴だった。
「どうかした?」
八咫の言葉に意識が戻る。
「あ?…ああ、いや…別に」
「…?」
身のない返事に八咫は怪訝な顔でこちらを見ていたが、やがて「じゃあ一緒に帰ろう」と話を切った。
その帰り道、八咫は唐突に「今日はやけに折藍ちゃんを気にしてたね」などと言い出した。
「は?」
自転車のペダルがカタリと鳴る。隣で悠々と歩く八咫の言葉に俺は若干動揺した。
「さっき、折藍ちゃんのこと見てたでしょ。昼は昼で突然"折藍ってどんな奴?"とか聞いてくるしさー」
「……」
やはりコイツに聞いたのはまずかったか。いやでも他に聞ける奴もいねえし…。ていうかコイツの勘がどうこうよりも、多分聞き方が唐突過ぎたんだな。てことは自分のせいだ。
「別に深い意味はねぇよ。昨日ちょっと見かけたから気になっただけだって」
「へえ」
八咫はニヤニヤと居心地の悪い目でこちらを見ている。そんなわかりやすいからかい方やめろ。
俺は心を静めて話を続ける。
「それに元々有名な奴じゃん?昼に聞いたのも、今更だけどどーゆー奴なのかなって思ってよ」
「ふうん、そうなんだ。まあ確かに、彼女は少し変わってて面白い子だからね」
折藍は変わっている。
男子用の制服を男子以上に着こなし、真面目にやれば運動神経もいいらしい(八咫情報)。男勝りで飾り気のない性格や振る舞いが女子達からの絶大な人気を得ているわけだ(八咫情報)。…ていうか、
「女子にモテる女子て何だよ…よくわからん」
「折藍ちゃん雄々しいからねぇ。それに、普段は滅多にやる気を見せないけど、その無気力な感じと、いざやる時のギャップが女子にはたまらないらしいよ。参考にしたら?」
「何のだよ」
「モテ術?」
「違うな。そういうのはモテたいがために狙ってやるモンじゃねーの。自然にできる奴がモテんだよ」
「へえ…、満月って意外にまともだね」
「どういう意味だコラ」
さらりと人に失礼を働く奴だ。しかし俺も大人だから気にせず流してやる。
取り敢えず、折藍はあれでもクラスの人気者らしい(主に女子から)。俺の中では決してよい印象ではなかったのだが、好かれるには好かれるだけの理由があるのだろう。しかし、折藍が有名なのって、そういうとこだけじゃなかった気が……何だったっけ。
そうこうしている内、いつも八咫と別れるポイントに差し掛かる。
「明日でテストも終わりか。今回は手応え的に十分イケた気がすんなぁ」
「その結果の半分は誰のおかげだと思ってんの?」
「八咫様さっすがぁ。今回の山張りも超ばっちりだったっスね」
「なんか腹立つわー」
「いや、マジで感謝してるって。サンキューな」
言いながら自転車に跨がり軽く八咫の肩を叩いた。
「まったく……明日が最後だからって油断してゲームとかしちゃダメだからね」
「わかってまーす。しかし明日は俺の得意な暗記系科目ばっかだからだいじょーぶ」
「大丈夫なわけないでしょうが!」というツッコミを背に受けて、俺はペダルを踏み込んだ。
****
あの時の疑問、"折藍が有名である理由"。
その答えは2日後、テスト返しの日になって思い出されることとなった。
「折藍、今日の放課後職員室に来なさい」
丸だのバツだのが印されて返却された答案用紙に各々が各々の思いを押し殺す教室内。その中で担任の声が響いた。多少あったざわつきが一斉に引き、皆の注目が一人に集まる。
「嫌です」
当の本人は大して気に止めた様子もなく、担任から採点済の答案用紙受け取りながら、淡々と返した。
「どうせ、テストの結果の話でしょ。ここですればいいじゃないですか。そうすればお互い時間を取られずに済む」
「"どうせ"とは何だ"どうせ"とは。お前全く懲りんな…」
恐ろしい奴だ。まさかこの教室中の注目を浴びた状況下で、面と向かって担任にこんな口を聞くとは。そして顔を青くするのは担任ばかりで、折藍自身は一切調子が乱れない。
「いいですよ。点数でも何でも言ってもらって。そのうち順位だって貼り出されるでしょ」
堂々としたその態度に、担任は溜息をつく。
「では、この後少し残りなさい」
「分かりました」
頷き自席へ戻った折藍は、その後担任の解説を聞いているのかいないのか、ただ頬杖をついて退屈そうに窓の外を眺めていた。
****
授業の終了を知らせる鐘が鳴る。昼休みになり、がやがやと賑わい出す教室内をそいつはゆっくりと移動した。担任の前に立ち、「どうぞ」と言わんばかりに相手を見据える。
「ここじゃダメだ。隣の空き教室に移ろう」
これから話す内容を他の生徒に聞かれるのはマズイという教師としての判断だろうが、正直周りの生徒もそれに慣れており大体の見当はついてしまう。
「きっと、また赤点だったんだね。しかも棚ちゃんが持つ数学と木庭先生の英語だけ」
八咫がふらりとやって来て、教室から出て行く二人の姿を見送りながら言った。
ここで補足すると、棚ちゃんとは今し方折藍を連れ出したうちのクラス担任、棚田先生。そして木庭先生とはうちの副担任だ。
俺が立ち上がる頃には、教室内の人口は半分程に減っていた。廊下に出ると、隣の教室前に女子達が人だかりをつくっている。あわよくば中で交わされる会話を盗み聞こうとしているらしい。物好きな奴らだ。
八咫と共にその横を通過する際、チラリと視線を向けたが、引き戸上部に設えられた硝子部分から見える位置に二人の姿はなかった。
****
天気がいい日の屋上は最高である。暖かい日差しに柔らかなそよ風。もう「眠りなさい」と言われているようなものだ。そんな中で弁当を仕舞った俺達の話題は自然と折藍についてのものに偏った。
「折藍って、毎回赤点とってんだよな」
「うん、数学と英語はね」
「一年の頃からずっとだよな、確か。それで今生き残ってんのが凄ぇわ」
「凄いことに間違いはないんだけどねー。彼女の場合、やる気次第だから」
「あ?そうなのか?やる気?」
「進級がかかった年度末のテストでは毎回すごい点数たたき出すんだよ。知ってるでしょ?順位貼り出されてるし」
「まあ、それは俺も聞いたことあるけど…別に興味もなかったからよくなんて見てねぇよ。実際どれくらいなんだ?」
折藍が有名な点は容赦や性格以外にもいくつかある。
①テストではいつも当然のように赤点を取る。
②しかしそれを一切隠そうとしないし、気にする様子もない。
③そのくせ、年度末のテストでは学年でもトップクラスの点数をとる。
④そして進級するとまた赤点を量産する。
これを一年の頃から三年の今に至るまで繰り返しているらしい。ここまでは俺も聞いたことのある話だが、実際の具体的なところはよく知らなかった。
「この前の年度末では、全教科90点超えだったよ」
「ぜ、全教科90!?嘘だろ?」
一体何をどうしたら赤点から90点に超絶進化を遂げるんだよ。悪い冗談にも程があるわ。
「本当だって。ていうか、元々数学と英語以外はできる人だから」
「マジで!?」
なんてこった…
つまり、総合的に見れば俺はアイツにまるで敵っていない。正直、馬鹿にしていた自分が恥ずかしい。口に出さないでおいてよかった…
「うわー、そういうことかよ。そりゃあ出来るくせに毎回自分の持ってる教科だけ赤取られたら先生も気分悪いわなー」
「棚ちゃんも折藍ちゃんがやれば出来る子だって知ってるからやる気出させるのに必死なんだよね」
それは気の毒に。先生ってのは生徒に癖のある奴がいると大変だなぁ。同情しながらぼんやりと空を仰ぐ。塗り潰したように真っ青な視界を白い雲がゆるゆると移動して行く。
「しかし、アイツ今回も追試じゃん?大丈夫なのか」
「さあ?やる気次第じゃない?」
「やる気次第…か。……なんか、」
嫌な奴だな……
…などと思っていた昼までの俺は今絶望している。
午後に返された最後のテスト。教科は英語。その紙っぺらはえらく低い点数を引っ提げて俺の元に戻ってきた。
「……あ、赤じゃねぇか……」
たった3点、届いていない。いつもならここまで低くは……ていうか今回は手応え的にも悪くなかった筈だが、一体どうしたというのか。
「…………」
どうやら、スペルミスで配点のデカイ問題を尽く落としている。しかしこの程度の間違いなら△で数点削る程度だろうに何故なんだ…。
「受験に△などない。○か、×か……合格か、不合格かのみだ。だから今回から採点は厳しくする!スペルミス一つが命取りと思えよ!」
クラス中から悲鳴が上がった。鬼教師は真顔のまま黒板に向き直り、チョークを鳴らしながら解説を始める。
あまりの惨状に頭は真っ白になり、体中が震えたが、力無き俺、否我々は涙を呑んでそれに従うより他になかった。
そして数日後、俺は追試会場で再びアイツと顔を合わせることとなる。
****
異様なまでに静かな教室。
今は放課後。開いた窓の外からは部活動に励むエネルギッシュな声が聞こえてくる。
「よーし、じゃあ追試を始めるぞ」
そう言う木庭先生の手には答案用紙が二枚。英語で赤点を取ったのは俺と折藍のみだったようだ。何だろうか、この屈辱感は。
問題用紙も配られ、先生の合図で追試が始まる。直後、ちらりと隣の折藍を見るが、奴はまるでやる気がないようで、シャーペンすら持とうとしていなかった。
「……」
俺は僅かに首を振り、目の前の英文に集中力を注いだ。
****
「満月、お前はスペルミスが多過ぎだ。勿体ないことするな」
「すんません」
追試の結果はすぐに出る。その場で採点が行われ、すぐに返却されるのだ。まあこの早さはそもそもの追試人数が少ないからなのだが…
「まあ取り敢えず合格だ。復習は必ずすること。今回間違えた単語はここで直しておけよ」
「はいっス。ありがとうございました」
俺は頭を軽く下げ、席に戻る。それを見届けると木庭先生は改めて「次は追試を受けることのないよう、しっかり勉強してテストに臨むこと。以上!」と檄を飛ばすと教室から出て行った。それに伴い、教室には俺と折藍だけが残される。チラリと視線を向ければ、折藍は頬杖をつき、仄暗い空を眺めていた。これまでも特に会話はない。俺も折藍も追試に合格し、次回は免れた。数学の赤点者は数名いたらしいが、そこに俺は含まれていない。つまり、こうして二人きりの状況になることも、恐らくはもうないだろう。……お互い赤点さえ取らなければだが。
「………」
そうない状況とはいえ、特に話すこともないし、元々親しい訳でもない。この前の、図書館での一件がなければ、俺はコイツに意識も止めず、さっさと帰っていただろう。
「………」
……帰るか。
荷物を纏め、「お疲れ」とだけ声をかけて立ち去ろうとした俺の背中に、意外にも声がかけられた。
「追試、すんなり受かる人なんだ」
「は?」
つい足を止めて振り返るが、相手は先程と変わらぬ体勢のままで、こちらを見てすらいない。
…今、俺に話し掛けたんだよな…?
予想外の事に少し動揺してしまったが、平静を装って返す。
「まあ…一部作り直されたとはいえ、一回受けた内容だしな」
「ふーん」
聞いてきた割には興味の欠片も感じない反応。どうすべきか迷う。今ので会話は終了したのか?相変わらずよく分からん奴だ。
「…お前こそ、意外にも一発合格かよ。なかなかペン持たねーから、てっきり放棄したモンだと思ったぜ」
「……別に」
折藍は漸く視線を外界から机の上に転がるシャーペンへと移し、ボソリと呟く。
「奏也に迷惑かけるし…、さっさと終わらせる気になったからそうしただけ」
「…?」
そうや?ええと…誰だっけ。そうや…そうや…。聞き覚えのある名前のような気はしてるんだが…無理だな、ポンとすぐには思い出せそうにない。
…ていうか。
「"終わらせる気になったから"って、何だそりゃ?」
「……」
「出来るなら初めからやればいいだろ?」
「……アンタには関係ない」
「確かにそうだな、俺には関係ない。でも、本当は出来るくせにわざわざ赤点とるようなマネして、失礼だとは思わないのかよ」
「わざわざ?そんなわけないでしょ。ていうか"本当は出来るくせに"って何。何買い被ってんの。そこまで俺を知ってるわけ?」
ヤバイ。これはまた嫌な雰囲気だ。図書館での一件がフラッシュバックする。折藍は、シャーペンから俺に視線を移し、じっと見据えてきた。これは、怒らせたか。どうすんだ。謝るべき…だよな。コイツのこと、知ったような口聞いたことについては…
「アンタだってさ」
その時、ふいに折藍が口を開く。俺はドキリとして意識を戻すが次の言葉で思考が止まった。
『一年くらい前までは学年トップだった人でしょ?』
「…!」
「その頭をちゃんと使えば追試なんて受けずに済むんじゃないの」
「…」
視界が暗くなった。自分の心臓が嫌な音を立てている。まるで耳元で鳴っているかのように煩い。
深呼吸を一つして、俺は折藍に背を向けた。
「お前のこと、確かによく知らない。気に障ったなら謝るわ。ごめんな」
それだけ言うのが精一杯だった。俺は相手の反応を待つこともなく、教室を出る。
「……はあ…」
態度に出ちまったかな。どうも突然"その話題"になるとまだ上手く返せない。慣れないもんだな…。
考え事をしていたせいで、廊下の角を曲がった階段前で危うく人とぶつかるところだった。
「おっと、悪い」
「いえ、こちらこそすみません」
ひらりと無駄のない動きで身を躱し、笑みを浮かべながら頭を下げたその男に見覚えがあった。優雅な足取りでその場を立ち去るそいつの名前は確か…
「仁華、だったかな」
テストでいつも学年1位を取ってる奴だ。特にデキのいい奴らを揃えた選抜クラスのエースらしい。
「………あ、」
仁華、奏也…
さっき折藍が言ってた"そうや"って、まさか仁華のことじゃないよな。いや、だったらどうしたってわけでもないんだが。
再び歩き出す。西日が照らす階段を降りながら、俺は今日の夕飯の献立を練った。