03.Bibliothek
扉の向こうで待ち構えていた光景に言葉を失う。
まず目に飛び込んできたのは、空間のど真ん中でただならぬ存在感を放つ大きな木。そしてその木を中心として、緩やかな螺旋階段が寄り添うように造られている。木と反対側の壁は棚になっており、上から下までびっしりと本が並んでいた。内壁や本棚にはシダの蔓が這っていて、空間のあちこちに点在する緑がその場に流れる空気を清らかなものへと変えている。
「すっげ…」
まさかこのように現実離れした光景を目の当たりにしようとは。予想の遥か斜め上をいく事態に、正直呆気にとられるしかない。"開いた口が塞がらない"とはまさにこのことだ。
『いらっしゃい…』
突如頭上から降ってきた声にビクリと肩が上がる。咄嗟に声のした方を見上げれば、自分の頭より少し高い位置に設けられた管理者用と思しき席から白髪の青年がこちらを見詰めていた。
大きな瞳を眠たそうに半開きにし、どうにも力の入らない顔をしている。
「あ…ど、どうも」
唐突に声をかけられたことも勿論そうだが、何より青年の白い髪と赤紫色の瞳に驚き、挙動不審になる。俺の目は自分でもわかる程に泳ぎ切っていた。
「えっと…、表にビブ……ビブ…リ…?あーえぇと…"図書館"って書いてあって…その、来てみたんスけど…ここって、図書館なんスか?」
悲しくなる程にしどろもどろで阿呆っぽい質問。早速帰りたくなる。
しかしそんな俺の態度を気にする様子もなく、その人は眠たそうな表情のままコクリと頷いた。
「"Bibliothek"…ここは図書館。いろんな本を置いてる。少し…普通と違うかもしれないけど…」
少しどころではない。こんな摩訶不思議な図書館が他にあるだろうか。少なくとも俺はこれまで見たことも聞いたこともない。建物も、あなたも、俺が今見ている全てのものはどれもあまりにインパクトが強くて、まるで夢を見ているようだ。
「どうしたの…?」
今にも眠りそうなゆったりした声がまた上から降ってくる。
「いやッ?どうもしないっスよ?」
不覚にも声が裏返った。引き攣った笑みを浮かべる俺を多少なりとも怪訝に思ったのか、その人はぼんやりした表情のまま、コテッと首を傾げる。
マズイ。早いとこ入るか帰るか決めなくては。ここに来て俺の心は揺れに揺れている。この図書館、猛烈に気にはなるが怪し過ぎる。ここは好奇心を殺して帰るが吉か。…吉だな!
「あの、すみません!俺、今日のところは」
「帰ります」と意を決して口にしようとした時、図ったかのように足元で何かが鳴いた。"何か"とは無論、忘れていたあの"猫"である。証拠にその首に下がる独特の鈴の音も耳に届いた。
「椎名…おかえり」
椎名と呼ばれた猫は周りの棚などを利用し、危なげない慣れた足取りで青年の膝上へと飛び乗った。
その背を優しく撫でながら、青年は納得したように頷く。
「そっか…椎名が連れて来たんだね」
「えっ」
満足そうに喉を鳴らす猫を前に、ざっとこれまでを振り返ってみる。確かに、俺はその椎名を追いかけ回した結果、道中色々ありつつも最終的にここへ来た。それは間違いない。しかし何となく癪である。つい先程までの猫への期待感はどこかへ喪失し、「俺は猫の思う壷か!」という情けなさにも似た気持ちが湧いていた。身勝手な話だが、それもこの猫の勝ち誇ったような満足したような余裕顔がそうさせているのだ。
「どうせこの単純な人間は最後までついて来るから、どおれ、少し弄んでやるかにゃ」とか思いながらわざわざ山登りまでさせたのかもしれない。うん、あるな、これ。この顔だもんな。
「…その猫、ここで飼ってるんスか?」
「え…?」
こちらから話題を振ったのがそんなに予想外だったのか、その人は少しの間の後、十分考えてから口を開く。
「うん…飼ってるというか…僕の家族の一人だから」
「へえ」
家族、ね。そういう考えは珍しくない。"飼う"のではなく、"共に暮らす"。与えるのは"餌"ではなく"ご飯"。というように、こういった考えを持つ人の中には、飼育的用語を嫌う人が多いと聞く。当然といえば当然かもしれない。その人にとって、犬や猫といった所謂ペットは、単なる愛玩動物ではなく、人と同じく家族なのだから。
…と、思ってはいるものの、俺はこれまで動物を飼ったことがない。故に、そういった感覚も持ったことがない。こういう場面には度々出くわしているが、その度についうっかり下手なことを言わないようにせねばと、気を遣うため疲れてしまう。
よって、猫の話は即刻打ち切り、他に意識を向けた方がよいだろう。
「家族かー、いいっスね。俺もいつか犬とか猫とか飼って世話したいなぁ」
「…」
「ところで…『椎名は』
話題を変えようとした俺の言葉を抑えるように、その人は口を開いた。
「…猫だけど、少し変わってる…。自分から何か行動をとる時は…意味のあることしかしない」
「…?」
言っている意味がよくわからず、首を傾げる。するとその人は椎名からこちらへ視線を移し、相変わらずの表情で言った。
「キミがここへ来たことには…きっと意味があるんだね」
「ゆっくりしていって」という言葉に俺の退路は断たれる。
しかし、その人が見せた柔らかな笑みに釣られ、つい頷いてしまったのは他でもない自分だった。
****
天窓から注ぐ陽光。それを一身に浴び、輝く大樹。
ていうか、マジで光ってる。もうそのもの自体が光り輝いている。
「どうなってんだこりゃ」
俺は時折そんなことを呟きながら、かれこれ20分は眼前の大樹を眺めていた。太い幹、四方に伸びた枝、その先に息づく幾万の葉。それら全てが、淡い緑色の光を帯びている。それどころか、その大樹の幹に這い添うシダの蔓も、根本に生い茂る草花も、みな一様に光っていた。
静まり返る室内。耳に心地好い水音が絶え間なく響いている。それは小さな川が階段内側、大樹をぐるりと周回するように流れているからで、余談だが、それによるリラックス効果は絶大だと言わざるを得ない。事実、先程までこの胸を占めていた妙な緊張やら警戒心やらが、この水音を聞いた直後から徐々に薄れ、今やすっかり和らいだ。改めて水の偉大さを胸に刻むとしよう。
話を元に戻す。その小さな川は階段の段差を滞りなく流れ落ち、最終的には大樹の根本へ行き着く。そこにはそうして溜まった大量の水が小さな池を形成していた。故に大樹の根っこは、それを支える地面ごと水中に沈んでいる状態で、根腐れを起こさないか心配だ。
池の水は、底まで視認できる程に透き通っている。それにより、水中にあっても、地に生える草花が光っているのを確認できたというわけだ。
そして水面には蓮の花が浮かび、全体の印象を崩すことなく一層美しいものへと押し上げている。
「……なんだここ」
本当に図書館か?という疑問はおよそ3分置きに浮かんでは消え、また浮かんでは消えを繰り返していた。
と、その時。
コトリと机(白髪の人が階段に設えられたボタン的な何かを押すと床から出てきた。すげぇ)の端にマグカップが置かれた。
「どうぞ…」
見れば隣にぼんやり眠たそうな顔で白髪の人が立っている。置かれたマグカップ(どう見ても私物)からは柔らかな湯気が立ち上っていた。
「…コーヒーには集中力を高める成分が入ってるよ。それと…チョコにも」
そういってマグカップ横に板チョコ(どう見ても食いかけ)を置いた。
「あ、ありがとうございます…」
形はどうであれ、こちらを気遣ってくれての行為は有り難い。だからちゃんと礼は言う。……が、そこからの静寂と視線が痛い。まさか俺がこれらを口にするのを見届けるつもりだろうか。今尚微動だにしないところを見るとその可能性が高いように思われた。
「あ、あのー」
申し訳ないが冗談じゃないぞ。コーヒーはともかく、名前も知らない誰かがかじったチョコなど食えるか。気持ちだけ頂くわ。
「俺、今腹減ってないんで、チョコは大丈夫っス。気持ちだけ有り難く…」
と言った途端、お約束のように腹が鳴る。くそ、誰の悪戯だよ。タイミング図り過ぎだバカヤロー。
静寂の再来。恥ずかしさよりも今は気まずさが先行していた。白髪の人も例の表情を維持したまま固まっている。
「…?」
小首を傾げた。
「今…お腹が…」
「いやいやいやいや!鳴ってないス!いや、鳴ったけどこれはさっき食ったものを消化してる音で決して腹が減ってるわけでは」
鳴る。
おい、いい加減にしろよ俺の腹の虫。握り潰してやろうか。
苦い作り笑いのまま固まる俺を前に、白髪の人は「あ」と何かを思い出したように声を零すと、回れ右をして引っ込んで行った。
さすがに気付かれたよな…今の。うぅ、気まずぅ…
あの人何しに行ったんだろ。出来れば暫く戻ってこないことを祈りたい。が、そんな祈りはいとも容易く跳ね返された。
「!?」
迷いのない歩みで接近するその人の手には盆。その上には器。さらにその中には多分カレーライスが盛られていて、真っ直ぐこちらへ運ばれてくる。そして今、無事俺の元へ到着した。
「こ、これは?」
「カレーライス…」
知ってます。俺が聞きたいのはそういうことじゃないです。
「昨日、ヒツネが来て、作ってくれた…美味しいよ」
「はあ…」
「お腹、空いてるでしょ…?キミからはそういう気持ちが伝わってくる…」
「え?」
今、何て言った?俺の気持ちが何?伝わるって?
よくわからないが、隣に立つその人の目は真剣だ。…多分。いや、正確には眠たそうな中にもテキトーな感じやふざけている感じはしなかった、と言うべきだな。
ああ、もしかして、さっき俺の腹が鳴ったのを聞いて、こういう言い回しをしたのかもしれない。成る程、きっとそうだ。
さて、それはともかく今の問題は、"出されたこのカレーをどうするか"。俺の行動を窺っているのか、相変わらず動こうとしない姿が視界の端にある。しかし、よく考えれば確かに腹は減っていた。今朝は嫌な夢を見たせいで早起きし、朝飯も気分が悪く殆ど食っていない。その後あちこち歩いて漸く此処に辿り着き、今度は慣れない事態にあれこれ考えている。絶え間無くエネルギーが消費されている感じだ。しかも今は昼時だし、腹の虫が鳴き喚くのも無理ないか。
それに、カレーから立ち上る湯気が旨そうな香りを乗せて、ガンガン鼻腔を刺激してくる。ぐぅ…
「…その、さっき、誰が作ったって言いましたっけ」
「…?」
「このカレー、誰が作ったって言いました?」
「ヒツネ」
「ヒツネさん?その人って女性ですか?」
「うん」
「どんな?」
「どんな…?」
「そのヒツネさんってどういう人ですか?例えば、可愛いとか優しいとか」
「…えっと…ヒツネは、優しいよ」
「はい」
「それから、いつも笑ってる。あんまり怒らないし…お母さんみたいだって、パイが言ってた」
「へえ」
「あと…」
「あと?」
「カシマが、ヒツネは美人だって言ってた」
『戴きます』
知らない固有名詞がいくつか出てきたが、もう構わない。ヒツネさんはどうやら①優しく②お母さんのような人で、③しかも美人らしい。もう一度言う。③美人らしい。そんな人が愛情込めて作った飯がマズイわけがない。これは戴かなければ後々後悔しそうだ。
俺は盆に置かれたスプーンを手に取り、ゆっくりと掬い上げたそれを口に運んだ。
…………う、
『うっま!!』
「マズイわけがない」とか、色々言っておいて何だが、まさか本当に旨いとは。しかも予想以上の旨さについ叫んでしまうレベルだった。
二口、三口とスプーンを持つ手が止まらない俺を見て満足したのか、白髪の人は静かに管理者席へと戻って行った。
****
「ふぅー、」
固まった体をほぐすため、俺は大きく伸びをする。腕や腰の関節がパキパキと鳴った。
時計を見れば16時。もう一頑張りできそうだ。
カレーを食ってからというものの、驚く程勉強が捗っている。腹ごしらえができたこともあるが、何よりこの図書館の心地好い静けさが肌に合ったらしい。
冷めたコーヒーの残りを飲み干し、管理者席の方を見遣ると、明寺さん(白髪の人の名前は明寺瑠威というらしい。カレーの器を返す時漸く聞いた。)がうとうとと気持ちよさそうにうたた寝していた。
それにしてもこの図書館、自分以外の客が一向に来ない。表の看板は確かに小さいが、陰になるようなものもなく、道にちょこんと置いてあるのだから、目につかない筈はないと思う。それにこんな摩訶不思議な図書館、数人でも訪れれば世間の話題にならない訳がないのだが。
「…いや、だからこそ、誰も言わないのか」
話題になれば忽ちこの静けさは失われるだろう。これまで此処へ来た客もまた、この静かな空間が気に入ったに違いない。自分だけのお気に入りの場所として、他人には教えないのだ。
実際、俺も此処のことを友人達に教える気にならない。言っても八咫くらいだろうな。そうだ、八咫には毎度山張ってもらってる恩があるし、アイツも賑やかさより静けさを好む奴だ。俺が無事、試験期間を生き抜いたらこっそり教えてやるか。
「よし、」
休憩は終わりだ。続きに取り掛かるとしよう。
俺は気合いを入れて教科書を広げた。
****
天窓からの陽光が弱まると、それに反比例するように、これまで控えめだった大樹の輝きが強くなる。緑色を帯びた優しい光がまるで包み込むように館内を隅々まで照らした。水面の揺らめきが光を反射し、壁や天井に涼やかな模様を描いている。
俺が今日の学習目標を達成した頃、時刻は18時を回っていた。
「そろそろ帰るかな。今日は俺が晩飯つくる番だし」
荷物を片付け、空のマグカップを手に立ち上がる。ぐるりと見渡せば、やはり何度見ても息を呑む程の幻想的な光景が視界を埋め尽くす。
「ここは夜来てもいいな。明里を連れて来てやれば間違いなく喜びそ……」
……あれ。そういえばここって、何時までやってんだ?確認せず気が済むまでやってしまったが、大丈夫だよな。明寺さんも特に何も言ってこないし。
「明寺さん」
入口横に設置された管理者席。そこでぼんやりと本を眺める明寺さんへ声をかける。しかし返事がない。
「明寺さん?」
「……」
管理者席の下まで歩み寄り、めげずに何度か呼ぶと、明寺さんはハッとしたように顔を上げる。こちらを見た顔に特筆する程の変化はないが。
「何…?」
「大分集中してましたね…俺5回は呼びましたよ」
「ごめん…僕のことを明寺って呼ぶ人、あんまりいないから…気付かなかった」
気付かなかったって。自分の名前だよな?慣れてないとそんなものなのか。まさか。しかも、この空間にはそもそも俺とこの人(と猫の椎名)しかいないし、例え呼ばれ慣れていないとしても、気付きそうなものだろうに。
この人はどこか抜けている。今日ここに来て何度そう感じたことか。だが、いずれにおいても一切悪気がないので、憎めない人でもある。
「俺、もう帰りますけど、ここって開館時間いつまでなんスか?」
「かいかん…?」
「えっと、何時まで開いてるんです?」
「…キミが帰るまで」
…………………うん?
俺が帰るまで?何だこの怪しい返事…嫌な予感しかしない。
俺は言葉を選んでまた訊いてみる。
「じゃあ、いつもは何時に閉めてるんですか?明寺さんが帰る時間でもいいんスけど…」
「………」
間。明寺さんはゆったりとした動作で掛け時計を確認し、俺に向き直ると言った。
「…5時」
「ええッ」
や、やっぱり過ぎてるッ!!!余裕で1時間以上延長してるよ!!!!言ってくれればよかったのに!
「すみません!すぐ帰りますから!あっ、お金!」
「?」
「カレーライスとコーヒーのお金!いくらですか?」
焦る俺とは裏腹に、明寺さんは落ち着き過ぎる調子で首を傾げる。
「…いらないよ?」
「え?」
予期せぬ返事に危うく財布を取り落とすところだった。
「いらないわけないっスよね!だって俺食いましたよ?」
「うん…でも、お金はいらない」
「じ、じゃあ入館料…ここ入るのにお金がいるとか?席代みたいな」
明寺さんはふるふると首を横に振った。でなければここは一体何で収益を得ているのか。見たところ、国営・市営の公共図書館でもなさそうだし。
とにかく、あんな旨いカレーを食わせてもらい、しかもこんな時間まで追い出さずに付き合ってくれたのだから、このまま何もせず帰るわけにはいかない。
「明寺さん、これじゃ足りないかもしれないけど、受け取ってください。でないと俺の気が済まねぇから」
そう言ってほぼ無理矢理明寺さんの手に千円札を握らせる。
明寺さんは少し驚いたように目を大きくしたが、特に抵抗もせず、大人しく受けてくれた。
「ご馳走様でした。カレーもコーヒーも旨かったです」
「……」
「そうだ。ここ、明日もやってますか?」
去り際にそう訊くと明寺さんは少し間を置いて、コクリと頷く。
「じゃあ明日もまた来ます!ちゃんと昼飯食ってから」
そう言って勢いよく外へ飛び出すが、階段下に止めてある自転車を見た瞬間、パンクのことを思い出した。
うわぁ…しまった。自転車引きずってあの距離を徒歩となると…これは明里の方が帰り早くなりそうだ。連絡して謝った方がいいな。
そう思い携帯を取り出した時、後ろから明寺さんの声がゆっくり飛んできた。
「その自転車…」
「はい?」
「パンクしてたから…直しておいた」
「え!?」
信じられない言葉を受け、慌てて自転車に駆け寄ると、ここへ来た時にはベコベコだった前輪がしっかりと空気を蓄えている。触っても空気が洩れている感じはしない。確かに直っているようだ。
「ありがとうございます!何から何まで世話になって、マジで助かりました!」
中の光が後光のように射す明寺さんに頭を下げ、自転車を押しながらその場を後にする。道路に出て、自転車へ跨がった時、ふと思った。
「…自転車のパンクって、そう簡単に直せんのか」
図書館のある方向を振り返る。そこにはもう建物の陰すら見えないが、俺にはあの箱のような外観が目に浮かぶようだった。
「…明寺さん、すげぇな」
絶対足りないけど、千円だけでも渡せてよかったと、俺は夕闇迫る空を見上げて走り出した。