02.迷い道で会いましょう
最悪だ。
朝から悪夢によって史上最悪の目覚めを経験し、そのせいで汗まみれになるわ食欲もないわ妹に心配をされるわで、早速出鼻をくじかれている。その上、試験勉強をしに赴いた隣町の図書館は図書の入れ替え作業の為臨時休館していた。しかも帰りには相棒の自転車くんが突然のパンクを起こし、さらに近道しようとした結果今は見知らぬ道をただひたすらにさ迷っている。
春の穏やかな陽射しを受けながら呑気にお散歩中の俺は、週明けから試験を控えた身。こんなことなら近道なんて考えず、確実に来た道を戻ればよかった。何故イケると思ったんだ、俺は。
先を見てもただ戸建ての住宅が犇めいているだけの通り。一体何処なんだここ。
途中に見付けた小さな神社に立ち寄り、しっかりと手を合わせてから鳥居前の石段に腰掛けた。何をした…いや、出来たわけでもないのに疲れ切っている。
「はぁぁ…早いとこ帰りてぇ」
神様の通り道に腰掛け、ここまで深い溜息をつく人間も珍しいだろう。
と、その時、唐突に目の前を何かが横切った。かなりのスピードにも関わらず音もない。「何だ!?」と驚いて、"それ"がすっ飛んで行った方向に目を走らせる。
「…うさぎ?」
いや、違った。うさぎのような尻尾の猫だな。確か"ボブテール"とかいう種類の。
「…しかし、野良猫なんて久しぶりに見たな」
先程はあんなにも俊敏に人の前を駆け抜けて見せたくせに、今は道のど真ん中で優雅に毛繕いをしている。
嗚呼、猫になりてーなぁ…
何も考えず、日がな一日ごろごろしたり気ままに散歩したり。
あとは一鳴きすりゃ餌を出すチョロイ人間を二、三見付けりゃ最高じゃねぇか。やばいな猫生活。超羨ましい。
一人実のない空想をしていると、「しゃりーん」と不思議な音が耳を掠めた。
どうやら鈴の音らしいが、やけに澄んでおり、耳に心地好い。それは猫の首元で鳴っているようだ。
「あの猫…」
飼われてやがったか。自分の気のゆくまで外で遊び回り、帰れば飯と水と温かい寝床がある生活。ついでに飼い主が可愛い女の子であった日にはもう許さん。俺と代われ。
こちらの殺気を感じ取ってか、猫は腰を上げる。どうやら移動するらしい猫は、一度「ついて来い」と言わんばかりにこちらを一瞥し、さっさとその場を後にする。
「…汚い猫には見えないしな…、どれ、せっかくの縁だ。お宅拝見と参りますか」
一応言い訳しておくが、別に可愛い飼い主に思いを馳せたとかそんなではない。断じて。まあ結果可愛い子であればラッキーだが。
耳にあの鈴音が残っている。こちらを見たあの翡翠色の瞳も。色々総じて何故かその猫が気になった。ただそれだけ。
そういえば、空が好きなアニメ映画も、こうして出会った猫に導かれる形で物語が始まるのだっけな。それを考えると何だか鼓動が少し速まった気がする。
俺は再び自転車を引いて歩き出した。
* * * *
見知らぬ土地。
数メートル先を猫が行く。
猫は丸い尻尾を時折くりんっと降りながら、狭い坂道を登り、更に狭い脇道へ入り、ついには山中の林道をひた進んで行く。目に優しい木々のトンネルを歩いていると、前方から例の澄んだ鈴音が耳を撫でる。一体この先に何があるのか。既に"何かある"と決め付けている俺はどんどん期待を膨らませる。これは山の上に怪しげな洋館が…とかそんなパターンか。それともトンネルが出てきて更にそこを抜けると…的なパターンか。ちょっとした冒険気分が心を擽る。
さあ猫よ、俺を導き給へ。
と、思えば、気まぐれにくるりと方向転換。来た道を戻ろうとする猫。前方を見れば、成る程。見事に行き止まりである。ただ、そこにはいつ建てられたかも定かでない古びた鳥居と、その奥に長らく放置されていると思しき祠があった。
よく考えれば山中の祠など、珍しいものではないかもしれないが、ワクワクが止まらない俺はゴクリと唾を呑む。これはこれで洋館よりも雰囲気があった。この鳥居をくぐると何かが起こるのではないか、あの祠に近付くと何かが…などと最後の期待を込めて、足を踏み出した。
まず鳥居をくぐる。何も起こらない。
そして祠の前に立つ。やはり何も起こらない。
…………、
俺は静かに手を合わせて戻った。
鳥居の前にはあの猫が腰を下ろしている。
「おい、何もないじゃんかよ」
無駄とは思いつつ、先程までの自分が恥ずかし過ぎて、それを紛らわす為猫に文句を垂れるが、奴は素知らぬ顔でどこか遠くを見詰め、こちらを見ようともしない。
「おーい」
ガン無視だ。
くっそー、早いとこ帰って勉強しなきゃなんねーのに、俺は猫相手に一体何をしてんだ。過ぎた時間は戻らないんだぞ。まさか追い詰められて、自分でも無自覚のまま現実逃避を…いや、まさかな。ハハハハ有り得ないよなーハハハ。
「はぁ…」
帰るか。と立ち上がった時、あたかもそれを待っていたかのように再び猫が動き出す。鈴の音を響かせながらとっとと林道を駆け降りて行った。
「あ?おい!」
猫は大分下った所で一度振り返り、小さな尻尾を振るとゆったりと歩き始める。
「……」
俺には試験勉強が…
「……」
相棒のパンクも直しに行かねば…
「……………、」
遠くでまたあの鈴が鳴る。自分でもどうしてここまであの猫が気になるのかわからない。でも何故だろう。今は先程にも増して、どうしてもあの背中を追いたい。
「ぐ……い、ぃよーし、こうなりゃアレだ。このよくわからん衝動が収まるまで付き合ってやんよ。多分このまま帰っても気になって勉強に集中出来なそうだしな」
自分に言い聞かせるように独り言を吐き、俺は道の端に寄せて置いた自転車と共に再び小さな背中を追うのだった。
****
猫の尻を追い続けること早20分。来た道とは違うルートを選択し、迷いなく突き進む猫の足取りは軽快である。
「一体どこまで行くんだよ?」
俺の声など気にも止めず、涼しい顔で住宅街の一角を左に折れる。それに倣って角を曲がった俺に、重たい衝撃が待っていた。
「こ、ここって…さっきいた神社の通りじゃねぇか…」
見覚えのある景色。事実、先程腰掛けていた石段がまだ遠くだが、左前方に確認出来る。つまり、わざわざ山まで登りながら、ぐるっと神社周辺を一周して来たということらしい。それを理解した今の俺は全身の力が抜ける思いで、それでもどうにか立っている。
「結局縄張りの巡回に付き合っただけかよ…」
こうなるだろうことはわかっていた。そんな気はしていたがしかし、いざ目の当たりにするとそのショックは凄まじいものだ。漫画のような展開に胸を踊らせ、偶然出会った猫一匹にどれ程の期待を寄せていたのだろう…俺が馬鹿だった。
もう日も高い。恐らく昼近いだろう。本来なら2教科くらいの勉強が終わっていた筈だ。しょんぼりしてふと顔を上げれば、調度神社横の細い道に奴の尻が消えるのを見た。
「…?」
感じたのは僅かな違和感。あんなとこに道なんてあったか?ただ気付かなかっただけだろうか。
まあ、通り慣れていない道だ。見落としくらいあるか。
浮かんだ疑問を自己完結し、近付いてみる。
細い道の入口脇に小さな看板が置いてある。こんなとこに看板なんてあったか?影になるようなものもなく、こんな道端に置いてあれば目立って気付きそうなものだが。
ああ、俺が移動している間に置かれたのかもしれない。飲食店なら昼時に合わせて開店するのは普通のことだ。
またの疑問に、再び自ら答えを出し、改めて足元のそれを見た。
『 BibliotheK 』
初めて目にする単語だ。無論意味もわからない。
一度、店があるであろう脇道に目を向ける。しかし長く真っすぐな一度道の奥側は左にカーブしており、その店構えを確認することは叶わない。
「……」
小さいが、品とセンスのある看板。奥まっており、店構えが見えないところも穴場的だ。
徐に取り出した携帯端末でインターネットを開く。口コミを見ようとした。本当に便利な時代になったものだ。行ったことも見たこともない場所について、見知らぬ他人の意見が聞けるのだから。
「…ないな」
しかし、今回は違った。口コミどころか店の情報すら出てこない。まだ開店間もないのか、それとも穴場過ぎて情報の提供者がいないのか。いずれにせよ、この店について新たな情報を得ることもなく、断念せざるを得ない。
「お、」
しかし最後に口コミではないが、有力かつ素晴らしい情報を得る。"Bibliothek"はドイツ語で"図書館"という意味らしい。読みは"ビブリオテーク"だそうだ。
「図書館…か」
何という運命。俺が今日行くに行けなかったその場所と同じ名前の店に出会うとは。最近よく聞く、「本を読みながらゆったりできるカフェ」みたいなものだろうか。
「これは、行くしかないだろ」
携帯端末を仕舞った俺は、懲りずにまたワクワクしながら、その細い道へ入った。
足元に使われているのは濃淡が不揃いの茶色い煉瓦。左側には白い塀があり、道と同様の煉瓦がさながら模様を描くように配置されている。右側に目をやれば青々とした植物が生い茂っており、たったこれだけのことでも、どこか異国的な空気が漂っていた。
体感で50m程進むと、道は左に緩くカーブして、その先には階段がある。それを昇りきれば、いよいよ目の前に扉が現れた。扉は重厚感のある黒色で、調度目の高さに表の看板と同じ"BibliotheK"の文字が金色で書かれている。ドアノブも金色。しかし他には目立った装飾もなく、非常にシンプルな店構えだ。
突入する前に周囲を見回す。この店の外観は言葉にし難い。まず、それとわかる窓がなかった。外壁は独特な風合いの塗り壁で、窓以前に目立った凹凸がなく、一言で言えば"箱"のようだ。それでいて結構広さはありそうだから、内装の想像がつかない。
「……店…なんだよな」
段々不安になってくる。ノブに手をかけるが、そこから先に進む勇気がなかなか出ない。「あれ、俺財布持ってるよな。いくら入ってたっけ」などの心配も頭を過ぎる。
その時、扉の向こうから例の音が聞こえてきた。
「猫…!」
すっかり忘れていたが、散々俺を弄んだ猫の付けていた鈴の音。それが、たった今確かに中から聞こえたのだ。
「……よし、」
俺は腹を決めた。あの猫はきっとここで飼われているに違いない。所謂看板猫というやつだ。
と、いうことは店員が猫好きの女の子という可能性が高い。きっと高い。中に可愛い女の子がいるかもしれないとなれば、こんな扉一枚にビビることはないのだ。男なら、行け。
いざ……、参る!!
俺はここ一番の勇気を振り絞り、ついにその扉を開けた。