01.夢の景象
温かな陽光。
僅かに開いた窓から風が舞い込み、ふわりと薄いカーテンを揺らす。春の香りを乗せたそれは俺の前髪まで撫でていき、いよいよ本腰を入れて襲ってくる眠気にどうにか堪える。
春の日の昼下がり。膨れた腹と退屈な授業。そして窓側一番後ろの特等席。これ以上ない最強の布陣だ。一体何処まで睡魔を刺激するつもりか。最早それらの力は強大になり過ぎていて、耐性を削がれた俺に打つ手などなかった。
「あー…やばい…ねむ…」
教科書に羅列する文章を追っていたはずの目は、何処に焦点をおいているのか自分でもわからない程に乱れ、まるで教科書の下の机のそのまた向こうを見ているようだ。次第に教師の解説も遠く遠く耳から離れていく。最後の抵抗として清涼感弾ける目薬を点したが、結果、それが無駄な足掻きだということに気付かされただけだった。
こうして俺は、学生としての貴重な就学の時間を、凶悪な睡魔に捧げたのである。
―………あれ、
自分がいつからそこに立ち、その景色を目にしていたのかわからない。
「…何処だ…ここ」
賑やかな町。あちこちに茂る木々の緑と白い壁の建造物、そして目が覚めるような青空。
初めて見るはずなのに、どこか懐かしい。そんな不思議な感覚に囚われる。立ち尽くしていても仕方がないので、取り敢えず適当に歩いて回ることにする。あてもなく歩き出すその足はまるで自分のものでないかのように軽かった。
その時、不意にふわりと何かが視界を掠める。反射的に掴んだそれは小さな花。見上げればふわりひらりと大小様々、色とりどりの花やその花弁が青い空から降り注いでいた。
「すっげ…」
これは普段花になど興味を持たない俺ですら、感嘆せずにはいられない美しさだ。降り積もる花の香りを吸い込んで、また何処へでもなく歩き出す。どの道を行っても、まるで迷路のように入り組むおかしな町。だが冒険心が掻き立てられてなんだかウキウキした。
「いいな、こういうのって。…ん?」
ふと、足を止める。今、何者かの影が視界を横切った気がした。先程から賑やかな空気を感じ取ってはいるものの、不思議と人っ子一人見かけない。それはここが表通りから逸れた路地裏だからだろうが、それにしたって考え出せば不安になる程何の気配もしなかった。そんな中で漸く見付けた自分以外の存在。その後を追わずにはいられない。俺はつい今しがた影の消えて行ったその建物の間へと足を踏み入れた。
そして……―
ゴツッ
脳が揺れる程の衝撃により、俺は現実世界へ引き戻されるのだった。
* * * *
「何も殴らなくったっていいのになぁ」
昼休み、屋上。
俺はすっかり痛みの引いた後頭部を摩りながら溜息混じりに呟く。
「そりゃ居眠りしてたお前が悪いでしょー。文句言わないの」
そんな俺を笑い混じりに諭す声は俺の数少ない友人のものだ。こいつは八咫翔真。同じ中学出身で気もそれなりに合い、何かとつるむ仲だ。だが、この高校を選んだ理由が「特に行きたいとことかないし、お前がいるなら暇しなそう」だったことについては未だ理解するに至っていない。時々失礼極まりない奴だ。親しき仲にも何とやらというだろう。
「満月さー、まだバイト続ける気?」
突然の投げられた話題に思考が止まる。
「あ?何だよいきなり」
「だって、この前また棚ちゃんに呼び出されてたでしょ」
「…」
「それって、これ以上点数落とすならバイトやめろって話だったんじゃないの?」
「……」
まず、棚ちゃんというのは俺のクラスの担任、棚田先生のこと。そして俺はこいつのご推察通りの理由で、先日職員室に呼び出しを食らっていた。
「…何でわかるんだよ、気持ちワル」
「ヒッドイなー、そりゃ僕じゃなくてもわかるよ」
「あ、そ」
「それで?まだ続ける気?」
「まあな」
「またテストと模試が迫ってますけど?」
「まあーそりゃあ…」
『テストは一夜漬けでどうにかなる。模試は強制じゃないし受けなきゃいい。って思ってるでしょ』
「え」
『特にテスト。今回主要5教科は各日多くて2つカブる程度だし。あとは割と出題難易度低めの選択教科と副教科だからね。要点さらって、俺に山張ってもらえば取り敢えず赤点はない。欲言って半分も点数取れれば文句無しって思ってるのかな?』
射抜くような視線は俺の胸中まで見て取れるらしい。ズバリ言い当てられた敗北感に、胸には嫌なモヤが立ち込める。俺はジトッと重たい視線を八咫へ送り、八咫は呆れたとでも言いたげにわざとらしい溜息を吐き出した。
「まったく、ほんの1年前まで学年首席だった男が今やこの様とは…誰も予想していなかっただろうね。勿論僕だって例外じゃないよ?」
「うるせぇな。順位なんざどうだっていいだろ。こっちにはそれ以上のやむにやまれぬ事情があんだよ」
「はいはい、知ってますって。だから余計心配なんじゃない」
こいつが言わんとしていることは分かる。事情があるとは言え、これ以上成績が落ちれば担任からどんな宣告を受けるか知れたものじゃない。
俺達の通うこの学校は、全国的にも名の通った進学校である。成績重視の校風により、優秀な者には授業料の全額免除や通学費の支給等様々な恩恵が与えられる。逆に成績不良の者にはこれでもかという程の鉄裁が下される。例えば追試地獄、進級否認、果ては追放(退学)まで。どれもこれもほぼ死刑宣告に等しい。一番軽い追試でさえ、恐ろしい。しかも俺バイトしてるし。追試とかマジで勘弁だ。ウチは部活動数がそれほど多くなく、時間に余裕のある先生方は喜々として追試用の問題をわざわざ新規作成してくださる。非情に…いや、非常に有り難いことだ。毎度赤点を取っているらしい同じクラスの女子のうなだれた姿。机に向かうものの生気を感じられないあの背中を思い起こすだけでゾッと鳥肌が立つ。
「…八咫様、何卒山張りお願いします」
俺は膝を揃えて友に深々と頭を下げた。人は時として、プライドを捨ててでも誰かに救いを乞わねばならないことがある。得るものが大きければ土下座で傷付くプライドなど唾付けとけば治る程度の軽傷に過ぎない。だから頼む、八咫様。何卒。
その時、パシッと頭に軽い何かが当たる。地面に落ちたそれを見た瞬間、俺は勢いよく顔を上げた。八咫は得意げな表情を浮かべ、「お前の考えなんてお見通しだよ」と歯を見せて笑った。その折り畳まれた数枚の紙。これこそ俺の土下座よりも価値のある武器だ。
「武器は武器でも、“諸刃の剣”もいいとこだけどね」
「大丈夫だって!お前の山は外れたことがないからな!それに俺もテスト期間中はバイト休むし、明日からの土日2日間もテスト勉強に捧げる所存ですから」
当たり前でしょ、と八咫はまた小さく息を吐いた。
****
「ただいま」
後ろ手に玄関の施錠をしながら、これまで何度口にしたか定かでない帰宅後の第一声。これに返される言葉も、もう何度聞いたかわからない。
「おかえり!」
狭い家には既に夕飯の香りが充満し、腹の虫を容赦なく刺激する。手を洗い、着替えを済ませて奥のリビングへ向かうと、エプロン姿の明里がせっせと夕飯の支度をしていた。
空は中学三年の妹で、親バカならぬ兄バカな俺から言わせると、何事もよく出来たこの上なく可愛い自慢の妹だ。気が利き、真面目で努力家。家庭的で、家事は殆ど一人でこなすし、最近は俺を気遣ってか、自ら進んでそれらを引き受けてくれる。他人に優し過ぎるのが玉に瑕だな。明里には時々無理をする悪い癖がある。
「今日のおかずは唐揚げだよ。お母さん達に挨拶したら運ぶの手伝ってね」
「わかった」
短く返し、俺はリビング横の和室へ向かった。薄暗い四畳半の片隅に、小さな仏壇がある。そこに置かれている写真は、一つがよく知る母親のもの、もう一つがよく知らない父親のものだ。二人並んで時の止まった笑顔をこちらに向けている。俺は線香を二本立てて静かに手を合わせた。
俺達の両親は死んだ。父親は、俺に物心がつく前には既に家を空けており、俺が12歳になった年のある日、突然訃報が入った。母はそれから5年後に。父親亡き後、俺と空の為、身を粉にして働いてくれた母。しかし結果、心と体に負担がかかり過ぎてしまい、気付いた時にはもう手遅れで、どうしようもない程に壊れてしまっていた。
俺は、母の笑った顔も怒った顔もよく知っているが、こうして母が死んだ事実と向き合った時、思い出されるのは、疲労困憊で酷く痩せこけ、髪も肌もガサガサにし、目を腫らして別人の様になってしまった母の、啜り泣く姿だ。見ているのが辛かった。助けたかった。母にもう一度、元気になって欲しかった。心から笑って欲しかった。それらの願望と共にこびりついた母の痛々しい記憶が、心を冷やし、神経を熱くさせる。
「……」
母が死んでからは、明里と二人、どうにか生活している。家事は時に助け合いながら交代でこなし、空いた時間には生活費と学費を稼ぐ為、バイトを入れまくった。苦労をかけている妹に、これ以上負担を背負わせたくない。一時期は結構な無茶をしていたが、その生活も今では漸く落ち着いた。慣れとは恐いものである。
「…よし、」
合わせていた手を離し、リビングへ戻ると、妹から湯気の立つ皿を受け取り、食卓へ運んだ。
「いただきます」
「いただきます」
二人声を合わせて、食事を開始する。明里の料理はいつも美味かった。
「お兄ちゃん、明日はバイト?一日?」
皿の上が殆ど片付いた頃、明里にそう聞かれた。理由はわかっている。弁当が必要か否かを確認するためだ。
「いや、明日は一日試験勉強だな。図書館にでも行ってくるわ」
「お弁当つくろうか?」
「大丈夫。適当に買って食べるよ。お前も、塾で模試だっけ?大変だな」
妹は今年高校受験を控えている。故に、毎週のように小難しい模試を受けていた。
「別に、私は自分の行きたい学校へ行くためにやってることだから」
ごちそうさまと、手を合わせ、空いた皿を片付け始める明里。その横から割り込むように台所へ立ち、その手から皿を取り上げる。
「俺がやるよ。明日はお前の方が早いだろ。風呂入って早く寝な」
「ありがとう、お兄ちゃん」と笑みを浮かべ、明里は自室へ戻った。本当に可愛いことこの上ない。
そんなことを考えながら、後片付けを済ませ、一度ベランダに出ると、一日中日光浴していたであろう観葉植物を自室に運ぶ。窓際に置いたそれは、少し変わった色の葉を生き生きと伸ばし、蛍光灯の光を反射させ艶やかに輝いていた。
「今日はいい天気だったもんなぁ。気持ち良かったか?」
軽く触れるとしなやかな葉の感触が指に伝わる。まるで俺の言葉に応えているように感じられて、植物相手にもついほっこりしてしまう。
一つ伸びをしてベッドに腰掛けると不意に欠伸が出る。何だか眠たくなってきた。
俺もその日はさっさとシャワーを浴びて、いつもより早い時間に眠りについた。
* * * *
夢。
それは授業中の居眠りでみたものと同じ、花降る路地裏から始まった。
目の前を人影が横切る。建物の陰に姿を消した。同じだ。あの時は、その姿を確認しようと建物の陰を覗き込んだ直後に目を覚ましたのだっけ。夢の中なのに、驚く程意識がはっきりしていた。
俺はゆっくりと足を踏み出す。頬や肩を彩り豊かな花弁がふわりと掠めて落ちてゆく。不思議と、地に花弁は溜まっていない。落ちたそばから雪の様に溶けて、そこに香りだけを残していた。
建物の角に立つ。一つ深呼吸をした。あの時のリベンジが叶うとは、それこそ夢にも思っていなかったのだ。意を決し、ついに自らもその陰へと足を踏み入れた。途端、あたりがぱっと日向になり、突然の眩しさに目が眩む。
しかし人影は、確かにそこにあった。
「………」
さらりと長い髪は、一本一本が細く、柔らかに風に揺れている。そのシルエットから女性であることは明確だが、長身で、170以上はありそうだ。後ろ姿しか見ていなくとも、俺程になるとこの時点で「美人だ」と確信する。
その時、ふいに美人がゆっくりと振り返った。流れるように無駄がなく、優雅な動き。降りしきる花弁がその輪郭を淡く撫で、揺れる髪にさえ、目が釘付けになる。俺はまさに息を呑んだ。…が、残念なことに顔はよく見えない。先程まで穏やかだったはずの陽光が急にその強さを増したのだ。お陰であまり目を開くことが出来ず、俺は頭上にあるであろう太陽を恨んだ。
すると美人は何を語るでもなく、そっと手を差し出してくれる。細くて長い形のよい指。繊細が形を成したかのようなその手に誘われ、俺はゆっくりと手を伸ばした。
指と指が触れ合ったかと思われた次の瞬間。
「!?」
突然の暗転。
明るい世界から一気に闇の中へと放り込まれた俺の目は、順応性も乏しく、事態を飲み込むだけの情報を収集出来ずにいる。取り敢えず身動きはしない。息も殺した。正しくは驚きのあまり無意識に呼吸を止めていただけだが。
暫くして、漸く目が闇に慣れてくる。次第に取り戻される視界。俺は、冷たいコンクリートに囲われた、とてつもなく広い空間にぽつんと立っていた。
「…何処だ、ここ」
高い天井、無駄にだだっ広く飾り気のない内装、やけに頑丈そうな造りである点から、大型の何かを保管する倉庫のような印象を受けた。先程までいた、文字通り華やかな路地裏とはひどく掛け離れた空間である。無論、先程の美人の姿もない。静寂と、何の香りも含まない冷えた空気が、妙に肌を刺した。
どうするべきか、と腕を組んだ時、耳に異音を感じる。
それは小さな音だった。
しかしはっきりと聞こえる。まるで何か硬くて重い金属のような物を引きずる音。コンクリートとその何かが擦れる音。
音は段々と大きくなる。
それに従い俺の体は、芯を強張らせ、頬に汗を伝わらせている。凍える程の寒さもないのに、体中が異常をきたしたように震えていた。大きくなる音に比例する恐怖。これはつまり、初めに聞いた音が小さかったのではなく、遠くで鳴っていた音が徐々に近付いて来ている、ということを指している。
心境とは逆に、ますます順応していく俺の目が、ついに"それ"を捉えた。
「ひ…ッ」
傷だらけの巨躯
異様に太い腕
頭にはすっぽりと頭巾を被り、
幾本もの太い針がその頭巾を赤黒く汚している。
"それ"は、"悍ましさ"の化身であった。
「…なん、だよ」
声が掠れる。口の中はもうカラカラだ。こんな、心の底から怯えたのは生まれて初めての経験だった。
ゆっくりとだが、真っ直ぐ確実に自分へと近付いてくる異形な化け物が、ついに音の正体を現わす。
斧。それも、これまで見たこともない程に巨大で、刃元の分厚い、錆だらけの斧。刃こぼれが目立ち、錆以外の"何か"によって変色したそれが、これまでどのようなものを斬ってきたのか、想像するのも恐ろしい。
限界だ。これ以上近付かれてはいけない。内なる警鐘が、鼓動と重なり、激しく脳を揺さ振った。
"死"
それが目前に迫っているのだと、本能は悟っていた。
次の瞬間、"それ"がまた一歩、俺に向けて足を踏み出したその時、俺は持てる全力で駆け出していた。僅かでも"それ"から距離を取るように。逸る気持ちとは裏腹に、縺れる足は全く前に進まない。
どうにか辿り着いた壁際に梯子を見付ける。天井は先程よりずっと高くなっており、この梯子が一体どこまで伸びているのかわからない。まるで、より深い闇に吸い込まれてゆくかのような錯覚に陥る。それでも俺は迷わず昇った。必死になって手足を動かし続けた。
恐い 嫌だ
死にたくない
誰か 助けてくれ
手汗で滑りながらもひたすらに昇り続け、漸く辿り着いたその先に、一枚の扉があった。古びた扉。構わず勢いのままノブを掴む。
「ぁ、開かないッ」
押せど引けど、どんなにめいいっぱい力を込めても、まるでびくともしない。
ガツン、
絶望は、確実にやってくる。
「嘘…だろ…」
ガツン、
ガツン、
やめてくれ 来るな 来るなよ 頼む
くそ 、 どうして 、 何がどうなってんだ ッ
ガツン、
「やめろ」
ガツン、
「やめてくれ…ッ」
…………、
音が、止んだ。
それを待っていたかのように、体が勝手に振り返る。抵抗も出来ずに俺は見た。
そこには、"死"があった。
『うわああぁあぁああああッッ』
部屋。
いつも、目覚めて初めに見る景色。
「ハァ…ハァ…」
飛び起きた俺は、自室のベッドで背に朝日を浴びていた。自分でもわかる程に混乱していて、暫くフリーズしてしまう。
「…夢…か………いや、だよな……助かった…」
体中が汗でびっしょりと濡れていた。どれだけかいたのか、布団も枕も見事に被害を受けている。幸い、漏らしてはいないらしい。
「…はは…情けねぇ…この歳でこれかよ……はぁ…それにしても、酷ぇ夢だったな…」
………………いや、待てよ。
ドクン、と自分の鼓動が耳元で鳴った。
「…夢にしては…なんか…」
やけに、リアルだったような…
自分の意思がはっきりとしていて、行動に移す脳からの命令も正常で、光の眩しさや闇に目が眩む感じとか、肌に感じたあの寒さも……まるで、現実のようだった。
「……いや、有り得ないだろ」
何を考えてんだ俺は。夢が現実なんて訳わからねぇ。単にそう感じただけだ。あれはただの夢なんだ。
俺はまだ速い鼓動を静めるように何度も深呼吸を繰り返し、二度寝する気にもなれず、そのままベッドを出た。
今日は天気がいいらしい。布団の消毒はお日様に任せよう。
「…取り敢えずシャワー浴びるか」
眠ったはずの体が、泣きたくなる程とても怠かった。