2-3 ちらつく面影
「お待たせしました」
「本当だわ」
ホテルの中にある星が付くレストランの個室に、その女性は待っていた。
「もっと早く私のこと、思い出してくれるとおもったのに。
おかげで、一緒に食事も出来なかったわ。
私、夜八時以降は、食べない様にしているの」
その節制は、彼女に十分、報いているようだ。
片手で掴めそうなほど細い腰に、すらりとした手足。
彼女の名はエリィ。
パリコレにも出たことがある、日本屈指のモデルだ。
「申し訳ありません」
「貴方は何か食べる?」
「いいえ、コーヒーを」
そう言えば、まだ夕飯をとっていなかったな。
お腹は空いていたが、食欲はなかったので、先ほど散々飲んだが、コーヒーを頼んだ。
とにかく熱くて、出来れば美味しいコーヒーが飲みたい。
「美園を……怒らせたそうね。
ああ、謝らなくてもいいわ。
どうぜ、貴方達に無理難題を吹っかけたのでしょう?」
「まぁ、そんな所です」
少女に無体をしかけたことは、言ってないらしい。
美園にも、まだ、そのことを隠して置くだけの理性が残っていたようで、ほっと安心した。
この部屋も暑いな。
出来ればもう少し、冷房を効かせて欲しいが、会談相手は、まとう肉も服も薄そうなので、こちらが我慢するしかないだろう。
濁した俺の言葉に、困った人だわ、とエリィは美しく整えられた眉をひそめた。
「ええ、そうでしょうね。
あなたの仕事もなくなった訳ですし。
今回のプロジェクトは、ジャン・ルイ・ソレイユの日本初上陸に合わせてのものです。
日本向けの新しいブランドも立ち上げる予定ですし、小野寺グループ全体のイメージ広告として巷にあなたの写真や映像が流れるはずでした。
専属契約をしてからの初仕事としては、十分大きなものです」
事実を淡々と述べる。
こちらも損失だが、エリィとて、大きな仕事をダメにさせられたのだ、不本意だろう。
彼女は、美園の事務所に所属しているが、志が高く、下手な仕事はしない。
だからこそ、ジャン・ルイ・ソレイユと言う、ファッション界の巨人に、日本人で初めて専属モデルとして抜擢されたのだ。
「そう、日本人で彼の服を着て広告媒体に登場出来るのは私だけなのよ。
ジャン・ルイ・ソレイユが私を使えない貴方達と契約を続けたいと思うかしら?
それとも、モデル無しでプロジェクトを進める?
それはおススメしないわ。
だって、メインは服なんですもの」
「日本では貴女だけでも、他の国には居ますよ」
俺の言葉にエリィはふくれっ面をしてみせたが、不快には感じなかった。
むしろ、素直で愛らしく思う。
ただ、その顔に、なぜか、別の人間の顔がチラつくのは、不愉快だ。
似ているか?
あの子と?
「『妖精』さん達ね」
エリィもこちらを見つめ返しながら言った。
「でも、『妖精』さん達は忙しいわよ。
なんたって、世界でもトップクラスの彼女たちですもの。
いきなりイメージモデルになってくれ、それも、今すぐ、なんて無理でしょう?
それに、今回のプロジェクトは日本女性向けでしょ?
共感を得るためにも、私に、と言う考えだったのではなくて」
ジャン・ルイ・ソレイユは自分の気に入ったモデルを『妖精』と呼んでいるのだ。
彼にインスピレーションを与える、尊い存在らしい。
スタイルも美貌も、歩きもポージングも何もかもが別格のモデル達だそうだ。
エリィは、専属モデルと認めらたものの、『妖精』ではなかった。
それでも、彼女だって一般の日本人女性の平均値の遥か上である。
共感出来るのだろうか?
しかも、一般に販売されれば、買った人間が着るのだ。
ファッション界の巨人、『太陽王』と称される人間の考えることなど、俺のような無粋な男には計り知れないよ。
心の中でため息を付くと、それが合図だったかのように、扉が開き、給仕がコーヒーを持って入ってきた。
細くて持ちにくい取っ手を持ち、量はともかく、質は望み通りのコーヒーにありつく。
この部屋にあるものは、みんなそうだ。
小さくて華奢で、俺には扱えそうにないものばかりだ。
その最たるものが、目の前に座っている女性だろう。
不躾にならないように、エリィを観察すると、さきほどの感情が蘇ってきた。
なるほど……似ているかも。
顔だけだったら、雨宮姫の方が似ているが、どこか夢見がちでありながら意志の強うそうな……雰囲気だけなら、あの子に似ていると言えなくもない。
「ねぇ、若社長?
若社長は、私のことがお嫌い?」
頭が痛くなってきた俺に、エリィが問いかけてきた。
また、面倒な話になりそうで、正直、もう帰りたい。
しかし、小野寺の命運がかかっているとなると、そうもいかない。
「いいえ、そんなことは。
なぜ……そんなことを?」
「だって、怖い顔をしているから」
「……元からです」
「初めて会った時も、とても不機嫌だったでしょう?」
初めて?
エリィと初めて会ったのはいつだったろう。
雨宮の姫との縁談が持ち上がった頃か。
つまり俺は、理由は分からないが、あの頃会った二人の女性に、『とても不機嫌で怖い』と言う印象を与えていたことになる。
「そうですか?
そんな気はなかったのですが、ご不快にさせて失礼しました」
「ええ、噂では、貴方は誰にでも、とても優しい人だって、聞いていたから」
その細い指にはぴったりのグラスを掲げ、こちらを見返すエリィは、間違いなく魅惑的だった。
薄いガラスで作られたグラスが照明を受けて、キラキラと輝く。
その効果で、彼女の顔もより美しく見えた。
自分の見せ方を知っている。
「ただ優しいだけのつまらない男だと聞いていませんでしたか?」
自虐的に言ったが、実際、多くの女性たちが、ほぼ同じような事をいって、俺の元を去って行った。
「そうね……、誰にでも優しくて、自分のことを本気で愛してくれているのか分からない、とか、優しいけれど、そこからの発展性が見えない、とかは聞いたわ」
同じことだ。
みんな小野寺の名につられて俺と付き合うものの、結婚をするそぶりもなく、仕事を斡旋する訳でもなく、なんのメリットもない関係に、早々に見切りをつけるのだ。
「優しいだけでいいじゃない。
私にはそれで十分だわ。
仕事で疲れた時、包み込んでくれる人が居るって幸せなことだと思うけど。
他の子たちは、それが分からなかったのよ。
でも、私には分かるわ」
それにね……とエリィは続けた。
「若社長とは……いいえ、冬馬さん、とお呼びしてもいいかしら?
冬馬さんとはいい関係を築けると思うの。
貴方のお義父様とお母様みたいなね。
だって、私は冬馬さんから与えられるだけじゃない、与えることが出来るのよ。
そうでしょう?
私が冬馬さんの力になるわ。
他の女の子たちとは違う。
雨宮のお姫さまほどの力はないけど……でも、あんな大きな後ろ盾のあるお嫁さんなんて、お仕事では力になっても、私生活では大変そう」
虎や豹は見る分だけなら、大きな猫みたいで愛くるしい顔をしている。
だが、本来は獰猛な肉食獣だ。
エリィも同じだ。
目に、自信と野望が見える。
でも、嫌悪は感じられない。
俺にはないものを持っている彼女に、憧れすら感じる。
「もったいないな」
「えっ?」
「君とは違う形で出会いたかった。
こういう取引なしで、話しをしてみたかったよ。
でも、そうなったら、君は私なんか、歯牙にもかけなかっただろうけどね」
実に素直に言葉が出たので、清々しい気分だ。
笑みすらこぼれる。
「そ……それは……私と付き合うつもりはないってこと?」
エリィは怒っているのだろう。
顔が紅潮している。
「そうだね。
商談の話なら付き合ってもいい。
君だって、悔しいだろう?」
「……ええ……ええ、悔しいわよ!
私はここまで来るのに、努力を惜しまなかった。
好きなものも食べなかったし、いつかパリで活躍するためにフランス語も習った。
血の滲むような努力の上に、ついに、ジャン・ルイ・ソレイユのモデルの座を射止めたのに」
でも、分かって欲しい、とエリィは言った。
美園には恩がある、と。
田舎から出てきた自分を見出し、ここまで育て上げてくれた。
私生活では悪癖は酷かったが、仕事では問題なく有能だった。
「今日まではね」
俺の言葉に、エリィは寂しそうに頷いた。
「あそこまで、愚かとは思わなかったわ。
冬馬さんが、あんまりいい男だから嫉妬したのね」
「その愚かさは、貴方の未来に、ことあるごとに影を落とすでしょう」
敢えて、彼女の後半の言葉を無視して話を続けた。
エリィも目に真剣な光をやどして、先を促した。
「独立したらいかがでしょうか?
今の貴方なら、申し分ありません。
資金はこちらが受けたわまります」
「高いわよ。
美園を裏切って、日本でやっていけるか……正直、不安だもの。
途中で切られたら困る。
最初からふっかけるわよ」
彼女の開けっぴろげな姿勢は、やはり心地よく感じる。
「信用出来ませんか?」
「恋人だったら……信じてあげてもいいけど」
頬に手を当て、小首を傾げるエリィは、獲物との距離を測っているようにも見える。
「私を恋人にするメリットはあまりないと思いますが。
美園と同じくらい女癖に関する評判は悪いですよ」
「優しいじゃないの?
それに……」
「それに……」
テーブルに手を付き、身を乗り出して、エリィは言った。
「背が高いわ!」
「はぁ?」
「ヒールを履いた私が隣に立っても、私より背が高い男の人って貴重なのよ!
それもただ背が高いだけじゃなくって、顔も良くて、仕事も出来て、性格もいい男の人よ!
そんな人と一緒に歩きたいの!」
その勢いと熱は、彼女にとってはとても大事なことだと言うことを伝えていた。
が、思わず声を出して笑ってしまう。
「……失礼」
それまでのすまし顔からの豹変が、恥ずかしかったののか、エリィはまたも顔を赤くしていた。
「背が高い男性なら、男性モデルに何人も居たと思いますが」
ああ、ダメダメ、と言うように、彼女の手が振られた。
「同業者はね……いろいろ面倒。
理解はしてくれるけど、異性とは言え、同じモデルとして嫉妬が起きてくるし。
かと言って、あんまり一般の人間だと、申し訳ないわ。
だって、私、きっといいお嫁さんにはなれないもの。
その点、冬馬さんは理解してくれそう。
家事もやらなくて済みそうだし、……あ、誤解のないように言っておくけど、出来るのよ、家事くらい。
でも爪が割れるからイヤ。
それに、仕事でほとんど家に居ないで、普通の会社員の何十倍も稼ぐわ。
それでもいい、応援するよって言ってくれる人が居た…………仮に居たとしても、そんな相手側の一方的な我慢の上に成り立つ結婚生活なんて……。
だからって、モデルの仕事は辞めたくないし、セーブもしたくない。
ああ、無理無理。
どう考えても無理よ」
何か想いを振り切るように頭を振る姿も、可愛らしいが……。
「どうやら訳ありのようですね」
そう言うと、エリィは顔を上げて、俺を一瞥した。
それだけで、彼女は自分の説に確信を持ったらしい。
「貴方もではなくて?」
こちらを見透かすような真っ直ぐな視線は、またもやあの子を思い出させる。
「何がですか」
「冬馬さんも訳ありって感じがするだけよ」
「意味が分かりませんね」
俺が答えると、エリィは『怖い顔』と言って笑った。
「どちらにしろ、私は貴方に愛情を求めないわよ。
ただ一緒に居て欲しいの。
貴方のその冷たい優しさが、私にはちょうどいいし、冬馬さんにも都合がいいのではなくて?」
こんな美人で世間的に成功している人間が、こうも自棄になっていいのだろうか。
だが、提案は魅力的に聞こえ、もう、この子の言う通りになってもいい気がしてくる。
好みのタイプ……だと思うし。
何よりも大人の女性だ。
二十七歳だったかな?
年下だけど、それほど離れてはいない。
だが、だからこそ、同意出来なかった。
ここで、エリィと取引したら、貸しを作ることになる。
それでは同等の付き合いは出来ないし、出る際の牧田の心配そうな顔を筆頭とする、母や弟たちの俺に対する反応も気になる。
犠牲になっていない、と言うことを証明しないと。
仕事をしている間に仲よくなったとなれば、自然だろう。
「私自身にメリットがあると思ってもらえて嬉しいですよ。
やはり、この話は後程お聞きしたいものです。
その為にも、今回のプロジェクトはどんな手段を使っても、成功させます。
明日、貴方の独立の件を会議にかけます。
プロジェクトにかかる資金は増えるでしょうが、全てがダメになるよりははるかにマシです」
「誘われたら、誰にでも「いいよ」って言うと聞いていたのに。
どうして私だけは「いいよ」って言ってくれないの?」
拗ねたように言った後、エリィはパッと顔を輝かせた。
手を胸の前で合わせ、「特別ってことね」と納得したようだった。
いくら自暴自棄な心境でも、まったく愛情がないのは、さすがにイヤだろう。
俺もお断りだ。
「じゃあ、いいわ。
良い知らせ、待っています。
……お別れするのは名残惜しいけど、明日は早朝から大事な……って、全部、大事だけど、撮影なの。
早く帰らないと」
軽やかに椅子から立ち上がると、俺の傍まで来て、彼女は嬉しそうに見上げた。
今日も高いヒールを履いているのか、それほど身長差は感じないが、それでも、彼女より、俺の方が背が高い。
小野寺の家に来て食糧事情が良くなったせいか、高校時代に一気に伸びて。結局、百九十センチ近くにまでなった。
あの頃は、毎晩、体中がミシミシ音を立てるようだった。
アメリカに留学していたせいもあって、自分がそれほど背が高いと言う意識はなかったのだが、日本に帰ってくると、何もかも小さくて困ることが多い。
御殿のような小野寺邸と、そこから離れるために買った……買ってもらった部屋は別だが。
そこに帰りつくまでには、ここを上手く切り抜けないといけない。
未だこちらを見上げてくるエリィの細い腰を引き寄せ、挨拶代わりに頬にキスをした。
「明日にでもご連絡出来ると思いますよ」
「そう?
では、その時はご自分のプライベートの携帯でかけて下さると嬉しいわ」
薄い生地で出来た服の裾を翻し、彼女は優雅に去って行った。
その後ろ姿を見送った俺は、どっと疲れが出て、椅子に座り直した。
しばらくすると、レストランの給仕がやって来た。
「何かご注文はありますか?」
「コーヒーをもう一杯、頂こう」
せっかく美味しいと評判の店だが、何を食べていいのか分からない気分だった。
胃がムカムカする。
「では、何かお作りしましょう。
すきっ腹にコーヒーばかりでは、身体に悪いですよ」
その必要はない、と言いかけた瞬間、腹が鳴った。
「まかないのようなものなので、お気遣いなく」
給仕は心得たように微笑んだ。
星がつくレストランと言うのは、こういうものなのだろうか。
それとも、彼が特別なのか?
ぐうぐう鳴り止まなくなった腹に辟易した頃、給仕が銀のお盆に湯気のたつ深皿を持って来た。
大根の洋風雑炊……のようなものだった。
勿論、メニューには載っていないし、このレストランとは雰囲気が違う料理だ。
だが、店自慢のコンソメスープが元になっているせいか、出汁が利いて、とにかく美味しかった。
胃が、脳が、食べたかったのはこれだ、と叫んでいるようだった。
周りに人もいないこともあって、無言でがっついていると、携帯が鳴った。
「冬兄!今、どこで何してる!?
エリィは!?」
電話に出ると、末の弟・夏樹が勢い込んで聞いてきた。
「うん?
彼女は帰って、俺は一人で、やたら美味しい大根雑炊を食べている所だ」
「はぁ?
人が心配しているってのに、呑気に大根雑炊って、何それ?
どんな食べ物?」
「ごはんに……コンソメスープに……大根おろしっぽいのに……なんだろう?
消化に良さそうな食べ物だ。
今度、お前にも食べさせてもらえるように、頼んでやるよ」
最後の一匙を食べ終わると、俺は満足のため息をついた。
電話の向こうでは、すぐ下の弟・秋生と夏樹が話している声がかすかに聞こえた。
秋生が夏樹から携帯を奪ったようで、今度はそちらの声がした。
「とにかく、今、エリィと一緒ではないのですね?」
「ああ」
「では、すぐに会社に戻って下さい。
兄さんの会社にですよ。
話があります」
「……コーヒー飲んでからでいいか?」
「コーヒーなら、こちらに用意してありますよ。
美味しいのがね。
なので、なるべく早く戻って来てください」
秋生は例のプロジェクトを主導している立場だし、おそらく明日の会議に向けての話だろう。
俺も、エリィのことを話しておかなければならない。
すぐに戻ると言って、電話を切る。
給仕に礼を言って、コーヒー代以外受け取らない彼に……エリィは自分の分は払っていったらしいし、大根雑炊?はお金を取るようなものではないらしい……次の機会に来ることを約束してレストランを出て、弟たちの待つ社に戻った。
俺の今日は、まだ終わらないらしい。