表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第二章 小野寺冬馬の事情。
8/60

2-2 夢の行方

 夢があったんだ。

 こんな俺にも、夢があった。



 それほど昔ではない、昔。

 平凡な男が、天女のように美しい女性に恋をした。

 無理と知りつつも、一途に愛を乞い、その懸命な姿に、女は心打たれて結婚した。

 おとぎ話なら、ハッピーエンドだったはずなのに、自分に自信の持てない男は、女の心が離れるのを異常に恐怖した。

 他の男と話すのを許さなかったし、目を合わせたと言っては、相手に因縁をつけ、女を責めるようになった。

 嫉妬心は、息子にも向けられた。

 息子ですら、自分を脅かす『男』とみなしたのだ。

 段々と狂気を帯びてくる、その歪んだ感情は、生まれたばかりで、母親の世話が不可欠な赤ん坊へ、愛情ではなく憎悪と言う形をとった。


 女は、いよいよもって我慢出来なくなり、幼い子供3人を抱えて逃げ出した。


 雪の日だった。

 赤ん坊を懐に抱き、真ん中の弟の手を引いて歩く母親の後ろを、俺は寒さに震えながら黙ってついていった。

 絵本で読んだ、牛若丸の話のようだと思った。


 平家の追ってならぬ、父の追跡は執拗だった。

 最初に身を寄せていた母の実家も、父に押しかけられ、恫喝やいやがらせを受けた。

 挙句、同居をしていた、幼い娘が居る叔父家族にまで危害が及ぶようになったので、母は居場所を伏せて実家を出る羽目になった。

 祖父母や叔父たちにが、母の居場所を知っていれば、父はどんな手段をとっても白状させたことだろう。


 どこへ逃げても見つけ出し、現れる。

 行政や福祉の力で、行方を隠してもらっても、ほんのわずかな隙をついて、居所を知られる。

 その度に、父と母は壮絶な言い争いをし、暴力沙汰に発展した。

 警察が来るほどの大騒ぎになり、その場所に暮らせなくなっては、引っ越しする日々だった。


 接近禁止令が出ようとも、父は執念で探しては、俺たち母子のささやかな平和を壊しに来る。


 怠惰で仕事もせず、他の女に養ってもらっているような男なのに、母を探す手間だけは厭わなかった。

 その父の情報で、祖父母が娘の住所を知り、束の間の再会を果たすことさえあった。


 それほどまでに母に執着していたくせに、父は他の女に寄生することは止めなかった。

 母に対して、効果のない見せしめをしている気分だったのかもしれない。


 父は最後の最後まで、そんな風に身勝手で、最低だった。


 あれは、俺たち兄弟だけが家に居た、日曜日の昼下がりだった。

 警官が、俺たちの借りているアパートの部屋にやって来た。

 それまでのことから、たとえ、警察の制服を着ていても、信用出来なかったが、チェーン越しから見えた顔は、引っ越した時に、父親のことを相談して以来、親身にしてくれていた若い警官だった。


「お母さんはいるかい?」


 母は仕事に出て不在だと答えると、連絡を取りたいと言われた。

 理由を尋ねると、君のお父さんのことだと言う。

 それならば、連絡する必要などない。

 父親なんてものは存在していないのだから。

 頑強に拒絶する俺に、事情を知る若い警官は困ったように説明した。


 「警察署の方から連絡があって、今、君のお父さんと思われる人間が病院に居るので、身元を確認して欲しいから、連れてきて欲しいと要請されたのだ」と。

 それから、部屋の奥で、こちらを見つめる二人の弟たちに聞こえないように、そっと言った。


「おそらく、もう二度と、君たちにひどい真似は出来ないはずだよ」


 背筋がぞわっとした。

 あの男から解放される日が、こんな形でやってくるなんて。

 もう、道の角を曲がるたびに人影におびえなくてもいい。

 学校の読書感想文や絵のコンクールで受賞することを恐れなくてもいい。

 駅伝や短距離走の大会にも出れる。

 母も、俺も……殴られない。


 俺自身の目で確認したかったのと、母を辛い目に合わせたくない気持ちで、警官に病院行きを申し出たが、出来れば母親が、と断られた。

 それで、仕方がなく、警官を母の働く場所に連れて行った。


 やけに身なりの良い男性と話していた母は、俺を見て驚き、警官から事情を聞いて、また驚いた。

 病院の名前を聞いて、一人で行こうとしたので、慌ててついていった。

 帰って弟たちと留守番をしていて欲しいとお願いされたが聞かなかった。


 もしも、これが罠で、あの男が、元気な姿で仁王立ちしていたらと思うと、とても母一人では行かせられなかった。

 同じ町の病院に運び込まれたということ自体、またもや追跡の手が伸びてきていた証拠だ。


 なぜか、先ほどの身なりの良い男が、これまた立派な車で追って来たが、二人で無視して走った。

 途中で、我に返った母と俺は、バスに乗って病院に向かった。


 父は警官の言った通り、もう二度と、俺たちを殴ることが出来ない姿になっていた。

 その近くで、半狂乱になった女が、刑事らしき人間に、なにかわめいていた。

 女の部屋で父は倒れ、救急車で運ばれたらしい。

 でも、それは自分のせいではない。

 自分は何も悪くない。

 そんなことを壊れたおもちゃのように繰り返し、繰り返し話していた。

 美人だった。父は美しい女が好きなのだ。

 なぜか美人も父についていく。


 その様子を見ていると、女が突然、俺にすがりついてきた。

 そして、また同じことを言って、泣き始めた。


 母は慌てて俺を引き離すと、追いかけてきたらしい身なりの良い男性に押し付けていった。


 何が起きたのか、中学生なりに理解した俺は、恥ずかしさと悔しさで、目を上げられなかった。

 身なりの良い男性は、俺を静かにソファーに座らせ、ジュースのペットボトルを持たせた。

 そのまま、黙って、母が戻ってくるまで、一言も話さなかった。


 父の遺骨がどうなったか、俺は知らない。

 母の手助けをしたいと、いつも思っていたが、この件に関しては、引き取るのも反対だったくらいなので、まったく関知しなかったのだ。

 おそらく、例の身なりの良い男性が助言をしたはずだ。


 父という枷が外れ、ついに自由になった母は、本来の自分を取り戻した。

 もともと明るいタイプだったが、さらによく笑うようになった。

 人生にも積極的になり、ついには自分で小さな清掃会社を設立した。


 俺も、中学を卒業すると、すぐに母を手伝おうと、社員になった。

 だが、一年経った後、働きながら勉強するために、高校の夜間部に入学した。


 なので、牧田と俺は同じ年で、同じ高校に通っていたが、同級生ではない。

 通学を急ぐ夜間部一年の俺と、部活帰りの普通科二年の牧田が、ひょんなことで通学路で知り合ったのだ。


 出会ってからしばらくして、牧田に夢を語ったことがあった。

 もっと勉強して、働いて、お金を貯めて大学にも進学して……母と一緒に、会社を大きく立派にし、弟達に不自由のない暮らしをさせるのだ、と。


 大変だったが苦労ではなかった。

 自分で稼いだお金が自分のものになる喜び、ましてや、その行為で、人に感謝される幸せ。

 人生で、一番、自分らしくあった時だったかもしれない。


 そんなある日、夢は突然、叶った。


 母が再婚したのだ。

 相手は、あの、病院にまでついてきた身なりの良い男性だった。

 身なりが良くて当然。

 小野寺グループの総帥だったのだ。


 義父ちちからの資金が入り、母の会社は業績を大きく伸ばした。


 そのことで、今でも母は財産目当てと揶揄されるが、そんなことは決してない。

 息子だから庇っているのではなく、義父はそういう人間ではないからだ。

 それに、もし、そうなら、すでに出会っていた義父は、母が会社を設立する時から援助していたはずだが、そんな事実はどこにもないのだ。


 母の会社を適正に評価して援助し、それに母が応えただけだ。

 義父は父と違って、母を一人の人間として尊敬し愛していた。

 母も同じだ。


 ほんのわずかに寂しい気持ちを抱きながらも、幸せそうな母を祝福した。


 それで、母と一緒に会社を大きくすると言う夢がなくなったとしても、恨むべきことではない。


 弟達の学費の心配もなくなった。


 夢がまた消え、代わりに、別の夢が与えられた。


 小野寺の御曹司と言う夢だ。

 夢の行先は同じく『立派な社長』だが、規模が違う。


 小野寺は出版業だけでなく、物産、製紙、アパレルなどの多数の企業と何万人もの社員を抱える一大企業群なのだ。


 いきなりその跡を継げと言われた高校生が、怖気づかなかったはずがない。

 それゆえ、まだ幼い分、順応性が高く、英才教育を始めるのにも遅くない末の弟・夏樹なつきこそ、跡取りにすべきだ、と言う声が上がっても当然だった。


 でも、それでは夏樹の夢はどうなる。

 弟に、自分で夢を見ることを許されない人生を歩ませたくなかった。

 もう一人の弟・秋生あきおも同じだ。



 ……それが……犠牲だと言うのか?



 目的地に向かうタクシーの中で、すれ違う車のヘッドライトの光をぼんやり見つめながら、俺は遠い昔に思いを馳せていたようだ。


 出るときに香った、あの懐かしい匂いのせいだ。

 内ポケットの入れた薄紫色の名刺の方が、残り香は強いはずなのに、それよりもはっきり、その香りを感じる。

 今ではもう、すっかり薄くなっているはずだから、幻覚だ。

 幻聴の次に、幻覚とは……妖怪か何かに惑わされている気分だ。

 いや、妖怪ではなく、あの子は……―――。



「お客さん、暑いですか?

冷房強くしましょうか?」


 幻の香りに耐えきれずに、上着を脱ぐと、タクシーの運転手が声をかけてきた。


「え?ああ、大丈夫です」


 座席の反対側の端に上着を追いやると、再び窓に目をやった。


「椛島真白。

真白ちゃん……か」


 いい名前だな。

 口にして、心地よい。


「なんですか?」


「すみませんが、やはり、冷房強めにしてもらっていいですか?」


 運転手は頷くと、冷房を強の方へ操作した。


 冷風が頬をなでる。

 思ったよりも心地よく感じる。


「今日はそんなに暑いかな?」


「……うーん、ひところろ比べると、大分、涼しくなりましたけどね。

気温差で体調を崩しやすいですからね、気を付けて下さいね、お客さん」


 確かに、頬を触ると、熱を持っている。


 こんな時に、風邪なんて引いている場合じゃないのに。

 やはり今日は早めに帰った方がよさそうだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ