2-1 社長と秘書室長の攻防
先ほどまでの喧騒が嘘のような静けさだった。
厚い扉の向こうからは、未だに電話の呼び出し音が聞こえるが、こちらには回ってこなかった。
社長室には、冷めたコーヒーがそのままになっているカップが四つと、ココアのカップが一つ、そして、俺一人が残っていた。
会社が創立したお祝いに、と贈られたと聞く、振り子時計の音がやけに耳に煩い。
いや、時計の音のせいではないのは、自分でも承知している。
気持ちを落ち着ける為に、テーブルの上のコーヒーに手を出した。
誰のものだったかなんてものは、考えなくても良かった。
きっと、誰も手を出してないなはずだ。
永井は秘書としては有能だが、コーヒーを淹れる才能だけは微妙だった。
決してまずい訳ではない。
自販機で買ったコーヒーだったら、仕方がないと納得出来なくもない味なのだが、最高級のコーヒー豆を使い、水にも、淹れ方にもこだわっているのに、どうしてか風味も香りもぼんやりとしたただの黒い液体と化してしまうのだ。
むしろ今時の自販機のコーヒーの方が、もっと美味しいと思う。
俺個人としては、秘書にコーヒーを淹れてもらいたいと思っている訳ではないのだが、どうも、彼女本人が好きでやっているようなので、断ることも出来ない。
自分で淹れたそこそこの味のコーヒーを飲みながら「残してもいい思いますよ」と言う牧田や、会社の予算で高級なコーヒーマシーンを部内に導入した東野・青井部長に「その優しさは誤解されますよ」と言われるのだが、ただ単に、根っからの貧乏性な性格から、淹れてもらった以上、飲まずに捨てることが出来ない。
お客も一口飲んで残すコーヒーを、ただ一人、『喜んで』飲んでくれる俺に対しての、永井秘書の信頼が厚いのだけは、幸いかもしれないが、そのせいで、美園の件については申し訳ないことをした。
言い訳めいて聞こえるかもしれないが、傍観していた訳ではない。
自分も牧田も、美園から永井や、他の女性社員たちを引き離そうと努力したし、彼が来ると分かったら、表に出さないように注意をしていた。
秘書室を仕切る牧田こそ、いい迷惑だったに違いない。
なぜ、若くて美人揃いの秘書ばかりいるのか、彼は本気で人事部を呪い、いっそ、プロジェクトが終わるまで、秘書室の女性全員を研修を名目に保養所か何かに行ってもらって、自分一人で仕事をした方が、マシだとすら思いつめたほどだった。
それでも、我慢してくれたのは、俺達兄弟の立場を慮ってくれたからだ。
今日だって、突然やって来た美園に対し、急いで永井をはじめ、女性社員を下がらせていた。
同階の部署の社員たちも、難癖を付けられるのを恐れて、一様に、部屋に引きこもっていた。
今考えればそれが、逆効果だったのかもしれない。
最初から折り合いが悪かった美園は馬鹿にされたのだと思ったのだろう。
でなければ、いくらなんでも、人の社内であんなことを……。
思い出しただけで、腸が煮えくりかえる。
いつになくはっきりと、コーヒーの苦みが口に広がった。
トイレに行くという美園を追った俺が目にしたのは清掃会社の制服を着た後ろ姿だった。
いつもの十五階担当のメンバーと高い背丈から、てっきり岡島と言う男性社員かと思った。
だが、振り向いた顔は、そこで見るはずのないものだった。
「なんであの子が……」
二杯目のコーヒーを一気に飲み干し、カップを皿に戻す。
隣には手が付けられないままのココア。
社内のカフェに並んで、ココアを注文しただけでなく、こんな可愛らしいトッピングまで追加した自分の姿を思い出すと滑稽だった。
少しでも、あの子の気持ちを安らげたいと願ったのだが、役に立ったのだろうか。
帰り際にチョコチップクッキーをなんとか押し付けたけど、食べてくれただろうか。
三杯目のコーヒーカップを持ち上げようとした時、牧田が部屋に入ってきた。
「よろしいですか?」
「ああ」
「いい報告と悪い報告と、コーヒーを淹れなおすのと、どれを先にしましょうか?」
実は高校の時からの友人でもある牧田秘書室長は、少しだけおどけてみせた。
それは、事態が余計に深刻であることの裏返しのようでもある。
「いい報告があるとは思わなかったよ」
「ありますよ。
まず、社員の社長への信頼度が上がりました」
「逆じゃないのか?
一時の感情で、プロジェクトを駄目にした、愚かな社長にはついていけないだろう」
自分の判断ミスを責めていた俺は、つい自虐的な言葉を口にしてしまう。
三杯目のコーヒーを口にすると、牧田は黙って、四杯目を自分の手元に引き寄せた。
「そうかもしれませんが、社長らしい行動だったと思いますよ。
特に永井秘書は感動のあまり、社内に一斉メールを出しかけました。
あ、うちの部下に手を出すのは止めて下さいよね」
「問題はそこじゃないだろう。
今日十五階であった事は対策を決めてから公にしないと。
噂だけでも、グループ全企業の株価が急落するぞ」
「ええ。
永井秘書だって、心得ていますよ。
彼女はコーヒーを淹れるのは恐ろしく下手ですが、仕事に関しては完璧です。
……にしても、久々に飲んでも、かなりまずいですね、これ」
ついに、平時ならあり得ないことに、テーブルの上の四つのコーヒーカップが空になった。
「冷めているからな。
熱いと……そこそこ飲める。
で?いい話はそれだけか?」
「もう一つ」
自分の机に戻り、座った俺に、牧田はなぜか楽しそうに言った。
「真白ちゃんのことですが」
「はぁあああ」
変な声が出た。
「……顔が怖いですよ、社長」
悪かったな。
どうせ俺は、顔が怖いよ。
地が強面な分、無表情でも威圧感があるし、怒れば倍になって見える。
「お前が……変なこというからだろうが!」
「まだ何も言ってませんよ。
名前しか」
その名前が問題なんだよ!
いきなり名前呼びか?ちゃん付けか?
馴れ馴れしくないか?
そう言えば、こいつは、彼女の帰り際、自転車で帰るだの、誰が送って行くだの、そうしたらバス代が無いだの、いっそタクシーを使えばいいのに、とまたもや揉めかけた時、どこからかバスカードとタクシーチケットを持ってきて、それと一緒に、ちゃっかり自分の名刺を渡すような男なのだ。
こういう人間の方が、俺よりもずっと警戒すべきなんじゃないのか? と、なぜかあの場に居た一人ひとりが、別々こちらに寄ってきては、まったく同じ内容の警告をして、去って行ったことを思い出す。
普段の行いが悪いからって、俺はそこまで見境がない男じゃないぞ。
内心、愚痴愚痴していると、いかにも若い子が好きそうな、優しげな美形の部下であり友人である男は、涼しい顔で言い直した。
「椛島真白嬢のことですが、珠洲子さまが無事に家まで送り届けたそうです。
何度か社長に連絡を入れたそうですが、出なかったそうなので、私から伝言するように仰せつかりました」
気に障ることに、面白そうに言う牧田をにらみながらも、着信を確認すると、『母』から、何度か着信があった。
「これは……怒られるかな」
「いえ、褒めていらっしゃいましたよ。
よくやった……と。
珠洲子様は、あのお嬢さんのことがいたくお気に入りのようですね」
そう……頭の痛いことに、俺の『母』こと、小野寺珠洲子は、篠田鈴子と言う名前で、『社長』であることを隠して、未だに現場に出ているのである。
それは百歩譲っていいとして、せめて、息子の会社以外で働いて欲しい。
やりにくくて仕方がない上、事情を知る人間には、過保護だと思われている節まである。
もっとも、母の言い分では、先にここで働いていたのは自分で、俺が後から社長としてやって来たのだから、文句を言われる筋合いはないらしい。
配置替えを求めたら、秘密を共有している井上常務に止められた。
俺たち親子に対して憎しみに近い感情を抱いているが、同時に、小野寺出版の事は、実の娘よりも大切にしている常務は、憤りながらも、母が見限った会社は斜陽になるという伝説を教えてくれた。
よって、篠田鈴子が見捨てた会社と言う噂が流れるのは、非常に芳しくないと言うのだ。
なんだそれ。
ただ単に、母が、あの会社はなっていない、と『父』に言いつけるからじゃないか。
ある意味、小野寺グループ総帥直属のスパイみたいなものだ。
「それにしても、えらく綺麗な子でしたね」
「はぁあああ」
また変な声が出る。
そして、また『怖い顔』になったらしい。
さっきよりも。
俺の怖い顔など見慣れているはずの牧田が一瞬、ひるんだほどだ。
しかし、無駄に付き合いが長い友人は、俺にそんな顔をさせた理由の方に興味津々になったようだ。
「そんなに変なこと言いました?」
「ああ、変だろ。
だって、相手は……」
高校生だぞ? と俺は言った。
子供じゃないか。
「綺麗と言う評価に、高校生とか、子供とかって、別に関係ない気がしますが?」
………言われてみると、その通りだが、なぜか妙に苛立って仕方がない。
面倒なことに、口元をニヤケさせながら、秘書室長がさらに上司に絡んでくる。
「社長は女子高生が嫌いなんですか?」
「なんだよ、それ」
話がどんどん変な方向に向かっているぞ。
「女子高生を好きとか嫌いとか、そういう対象にすること自体、おかしいだろう。
俺たち、もう三十だぞ。
美園じゃあるまいし」
忌々しい名前まで出して、抗弁する自分に、牧田は、少し困った顔をして付け加えた。
「雨宮のお姫さまの話があった時も、同じことを言っていたので」
「雨宮のお姫さま?」
そう言えば、この会話、前にもしたことがあった。
小野寺グループよりも格上である企業グループの創始者一族・雨宮家との縁談の内示を受けた時だ。
出版、製紙、印刷、アパレル、貿易などの会社を経営している小野寺と、金融、不動産、リゾート開発、ホテル、デパート業を行っている雨宮は、業務の上で、たびたび提携を行っていた。
仕事上だけでなく、血縁も過去に結んだことがあったが、今の代では、縁も切れかけていることから、今一度、どうか?と言う打診があったのだ。
その相手が『雨宮 姫』。
名前も姫だが、雨宮グループ会長直系の内孫は、まさにお姫さまそのものだった。
思い出した。
「そう言えば……高校生だったな」
「本当に、まったく興味ないんですね」
「ないよ。高校生になんか」
きっぱり言い切ると、牧田はまだ物言い足りなさそうだったが、引き下がってくれたので、助かった。
どうもこの話題は、居心地が悪くなる。
しかし、雨宮の名前で、牧田はさらに別のことを思い出したらしい。
慎重に俺の意見を求めてきた。
緊張すると、メガネを触る癖が出ているのが分かった。
「ジャン・ルイ・ソレイユは雨宮家と昵懇らしいですが、協力を求めるお考えはありますか?」
昔のどこかの王族のように、数多の子供たちを縁組させていた雨宮家の広いネットワークの中の一人が、どうもジャン・ルイ・ソレイユを掠ったらしい。
それも義務的な親族関係ではなく、極めて親密で協力的な間柄だと聞く。
雨宮に頼みこめば、ジャン・ルイ・ソレイユを動かして、美園を出し抜ける。
奴がなんと言おうと、プロジェクトの成否は、全て、彼が握っているからだ。
「いいや、残念ながら、すでに雨宮家からは、われ関せずの通知が来たから無理だな。
どこから漏れたのか、早速、電話が来たよ。
雨宮の会長直々にね。
『君のお手並みを拝見させていただく』だそうだ」
『秘書室長』としては残念そうな、『親友』としてはほっとしたような、複雑な顔をされた。
俺は、再び、自分の判断ミスを痛感していた。
「いっそ、結納か、婚約発表までしていれば、こんな事態にはならなかっただろうな」
『小野寺の養子』ではなく、『雨宮の婿』であったならば、美園であっても、自分に非礼な真似はしなかっただろう。
華族の流れをくむ、旧財閥系の雨宮には、それだけの力がある。
俺がこれまで身を固めず、フラフラしていたのも、雨宮の姫の成長を待っていたからですか?と、周りから随分、嫌味を言われたほどだ。
自分も、わが身に過ぎた良い話だと思ったほどだ。
だが、いざ、顔合わせのお茶会とやらに臨んだ時、どうも気が進まない自分が居た。
雨宮 姫は、それは大事に育てられたのが分かる、素直そうな子で、顔立ちも悪くなかった。
不思議なことに、どことなく、朝に会うあの子に似ていたので、牧田の言葉を借りれば『綺麗な子』だ。
これから小野寺の家を継ぐ身であるならば、家柄、容姿、性格、と妻にするのに、充分すぎる子だった。
どこに不満があるかと聞かれたら、苦し紛れに歳の差を言うしかないくらいだ。
だが、知らずに仏頂面になっていたらしい。
政略結婚には反対で、雨宮との縁談にも消極的だった母にすら、「断るにしても、もう少し、愛想良くしないと、失礼だ」と注意されたほどだ。
初めから図体のでかい強面の俺に、びびっていたお姫さまは、それでもう、相当恐れをなしたらしい。
ほとんど話もせずに別れたが、感触は最悪だったので、縁談の話はなくなったものとばかり思っていた。
しかし、雨宮の会長から、姫はまだ若いから、じっくり時間をかけて分かり合えば良いのではないか、との打診があったのだ。
雨宮の姫君の相手ならば、引く手数多いるのにも関わらず、気乗りしない相手を待つなど、破格の扱いだ。
義父は、困ったような顔をしてはいたが、内心、義理の息子への評価の高さにまんざらではなさそうだった。
先ほどの電話は、見切りではなく、期待の電話。
助けて欲しいと泣きつけば、雨宮は手を差し伸べてくれるだろう。
その代わり、俺は大きな貸しを作ることになる。
「雨宮にあることないこと吹き込んだのは、おそらく美園でしょう。
自分が雨宮の婿候補にならなかったことも、不満の元だったようですし。
これを機に、社長の評価を下げようとしているはずです」
「おそらくね。
それにしても、美園は動きが早い。
いつも問題を起こしているのが分かるな」
俺が美園を追い出した後、すかさず、奴の顧問弁護士から牧田の方に連絡が入った。
あの子が社長室で着替えている時、その報告を秘書室で受けた俺は、思わず、熱いココアの載ったトレイを落っことしそうになった。
曰く、美園社長への傷害容疑で彼女を告訴する。
なにがどうなって、そんな話になるのか、「美園社長の言い分としては、彼女が勝手に勘違いして大騒ぎした。自分はビックリして落ち着いて欲しいと、手を掛けたら、余計に錯乱して、足を踏んできた。おかげで、足か鼻か、どこかの骨を折った」と言ってきたらしい。
眼鏡を神経質そうに触りながら、牧田がさらに「そもそも誘惑してきたのは、女の方だ……大体、あの程度のことで」とか「大したことでもないのに大騒ぎして見苦しい」との顧問弁護士の言葉、言いにくそうに伝えてきたあたりで、俺は遮った。
まともな人間だったら、それ以上聞きたくないし、言いたくないだろう。
「先ほど、さらに美園会長の方の弁護士からも連絡がありました。
案の定、国会議員のご親戚方や、官僚のお知り合いの話をされました」
美園一族はもともと、政治家一族であって、『モデル事務所』を経営している美園社長は、異端児なのである。
自他共に認める、『美しさに目がない男』は、政治に才はなかったが、親が諦め半分で支援して作った事務所は、今や業界で飛ぶ鳥を落とす勢いの大手をなっていた。
ちなみに、「自分の好みのタイプとモデルとして美しいと思う人間」は違うらしく、所属するモデルとの浮いた噂がないのが、不本意ながら、同じ女好きと思われている俺との違いだった。
それも親の力かもしれないが、他の女性との悪評が隠しきれないほど高いことから、むしろ、真実なのだと思う。
「では、こちらが折れなければ、彼女が告訴されると?」
「彼女は未成年ですからね、多分、告訴まではいかないし、したくもないでしょう。
お互い、ここは大人になって示談にしましょう、という所でしょう。
それでもこちらが強引にいけば、表沙汰にすることになるが、それでは、若くて将来のある子が可哀想なことになるますよ、と」
「たとえ、美園を血祭りに上げたとしても、あの子の経歴に傷が付く……か」
噂と言うものは、どんな権力を持ってしても、完全に消し去ることは出来ないものだ。
あることない噂を流されて、好奇の目で見られることになる。
出来れば美園の方から謝罪をさせたかったが、それを望めない上は、小野寺の方で、報いねばならない。
「かと言って、このまま引き下がるのも納得出来ないでしょう。
珠洲子さまも、あの井上常務も相当お怒りのようで、申し訳ありませんが、大社長に連絡したそうです。
大社長も今回のことは、ひどくお怒りで、あちらから、美園の会長に強い不快感をお伝えするとのことです。
美園会長も相当の人物でしょうが、うちの大社長だってかなりの人物ですし、会長自体も、こうもお孫さんの所業が悪ければ、一族全体に悪影響を与えるのは、分かっているはずですよ。
美園社長も今度ばかりは、厳しく扱われるでしょうね」
「それはいい話なのかな」
「どうでしょう。
喉元過ぎれば、熱さを忘れるタイプのようですし。
出来れば、美園会長の権力でどこか人のいない離島あたりに追いやって欲しいくらいですが。
それから、その事と、プロジェクトの件は別のようです。
明日の朝、幹部を集めた緊急会議を招集されました。
若社長と秋生専務には、その時に今後の指針を明確にするように、とのことです」
「明日の朝?」
神妙な顔で牧田が頷く。
コチコチうるさい柱時計が、夜の八時を告げた。
もう時間はあまりない。
手を組み、しばし考えるフリをする。
するべきことは決まっていたが、決断する時間が欲しかった。
「社長?」
問いかけに目を開け、机の引き出しから薄紫の名刺を取り出した。
渡されてから、一週間は経っているはずなのに、持ち主の甘ったるい香りがまだ残っていた。
印刷された当たり障りのない情報の裏に、走り書きされた携帯の電話番号を見る。
「……冬馬」
高校以来の友人が、忠告めいた声で名前を呼んだ。
それを手で制して、電話をかける。
呼び出し中に鳴るよう設定されている軽快な音楽がしばらく続いたあと、やっと人間の声が聞こえた。
先方は、この電話を予期していたようで、わざと焦らされたのが分かった。
美園が事務所に帰って大騒ぎしたのか、それとも、いずれ起きると織り込み済だったのか。
不快感はあったが、話は早そうだ。
短く言葉を交わす。
思った通り、あっさりと名刺の持ち主との約束を取り付ける事が出来た。
「出かけてくる」
立ち上がって、上着を取る。
「あ、俺、今、終業した。
という訳で、こっからは友人としての会話だけど」
突如、あっけらかんと、そう宣言した牧田が俺の前に立ち塞がった。
「正直、感心しないよ。
雨宮の姫君との縁談に、反対していたのは珠洲子様だけじゃない。
お前には口に出して言ってないけど、秋生も夏樹も、俺も反対だった。
これまでだって、親兄弟や、珠洲子様の再婚の後には小野寺の家の為に犠牲になってきたのに、せめて結婚くらいは好きな相手として欲しいと思うのが、弟と友人の願いなんだよ。
多分、珠洲子様だってそう思っている。
顔合わせの時の様子を聞いて、まだ望みがあると、みんなで安心していた。
なのに、また、自分を安売りするような真似を。
なんでそう、無為な女遊びで、浮名を流したがる?
美園のことは、みんなで考えればいい方法も浮かぶかもしれない。
なんでもかんでも一人で背負い込むな」
「……好きな相手って、純真無垢な乙女ならともかく、こんな三十路の野郎に言うセリフか?」
それに俺は、誰かの犠牲になってなんかいない。
思ってもいなかったことを指摘されて、戸惑いと苛立ちを感じる。
手にした上着を乱暴に羽織ると、目の前の友人をすり抜けて、扉に向かおうとした。
と、声が聞こえた。
『それは貴方のことですか?
何かを犠牲にしているのですか?』
牧田の声じゃない。
ここにいない女の子の声だ。
それも、現実に聞いた声ですらない。
懸命に父親の弁明をする子に、「親の犠牲になるのか」と聞いた。
その時、彼女にそう問いかけられた気がしたのだ。
なぜ今、そんなことを思い出して、幻聴まで聞いたのか。
羽織った上着から、自分のとは違う香りがした。
安っぽいシャンプーの香りだが、懐かしくて安心する香り。
そう言えば、あの子に貸したのだったな。
美園から庇った時にも、同じ香りを嗅いだ。
長い付き合いの牧田だけでなく、会話すらまともにしたことのない少女にまで、俺は「何かを犠牲にしている」ように見えるのだろうか。
「心配しなくても、今日は仕事の話で行くだけだから」
黙ってこちらの様子を見ていた牧田に、ようやっとそう言って、返事を待たずに、今度こそ、部屋を出て行こうとしたのだが、またもや、あの子のせいで引きとめられてしまった。
コーヒーカップは全て空になっていたが、ココアはまだ残ったままだった。
それを片づけていかないと。
絶対に、自分の手で片付けていかないと。
「片づけなら、俺がしてから帰るよ」
終業後だと言うのに、仕事熱心な秘書室長の言葉を無視して、突然の強迫観念に促された俺は、ココアのカップだけ持って秘書室に隣接する給湯室に行き、中身を勢いよく流しに捨てた。
「あのまずいコーヒーは飲んだのに、それは飲まないのか?」
わざわざ追いかけてきて、言うのはそんなことかよ。
背中に視線を感じつつも、無視して、スポンジを手に取ると洗剤を大量に付け、盛大に泡だてて念入りにカップを洗う。
「……あのさ……言っておくけど、俺はクラスの女の子のリコーダーを舐めるようなタイプの人間じゃないぞ」
「はぁあああああああああ」
振り向くと、先ほどまでの深刻な顔がどこへやら、今にも吹き出しそうな顔があった。
なぜか知らないが、ものすごく腹が立つ。
「お前、さっきから、おかしいぞ」
「おかしいのは冬馬の方だろ。
真白ちゃん絡みになるとムキになってなる」
「ムキになんかなってない」
「そうかな。
さっきだって、ただでさえ、酷い目にあった子を、あんな風に怒って、見ていて可哀想だったよ。
どんな失敗をしても、『うちの若社長は頭ごなしに叱ったりしない』との評判はどこにいったんだ?
真白ちゃん、真っ赤な顔をして、目をウルウルさせて、今にも泣きそうだったじゃないか」
「怒ってなんかない!
それに、元はと言えば、あの子が言うことを聞かないからだろう!」
思わず大きな声が出て、秘書室から何事かとこちらを伺う気配を感じる。
流しの縁を後ろ手で掴み、そちらを見ると、今日の一件で残業となった哀れな秘書たちが慌てて頭を引っ込めた。
鏡がなくても、自分の顔が怖いのが分かる。
が、そのままの形相で牧田を睨みつけても、相手の口元が緩むのを止められなかった。
おまけに、声を潜めて、からかうように話しかけてくる。
「確かに……真白ちゃん、すっごい素直そうで、可愛い顔してるのに、意外と頑固だったよね。
そういう所は冬馬に似ているかな。
ああ、『似ている』は頑固にかかるのであって、顔じゃないから。
どう見ても、真白ちゃんとお前が並んだら、リアル美女と野獣」
いちいち彼女の名前を呼び、やたら賛辞の形容詞をつけてくるのに、何か含みがありそうだったが、うんざりして、突っ込む気もない。
「そう言えば、そんな可憐な美少女とどこで知り合った?
やけに詳しそうだったけど」
「別に知り合いじゃないし、詳しくもない」
ただ、朝に見かけるだけだ。
それだけの子だ。
名前だって、フルネームでは、今日、初めて知ったくらいだ。
たったそれだけの関係なのだから、敢えて教える必要はないだろう。
「……終業したのなら、とっとと退勤手続きして帰れ。
美園の毒気に当てられて、お前はきっとおかしくなったんだ。
明日までに、いつもの有能な秘書室長に戻ってくれ、頼むから」
「仰せのままに。
では、社長、くれぐれも御身、お大事に」
大仰な……また苛つくことに、それがよく似合う……仕草で、あっさり牧田は俺を送り出した。
さっきまでの、粘着質な質問はなんだったんだよ。
下降のエレベーターの扉が閉まった瞬間、直前まで見送ってくれたその友人がわずかに笑った。
その口元が「安心した」と言ったように見えた。
こんな非常事態に、安心出来る要素がどこにあるのか、全く分からないよ、俺は。