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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
終 章 小野寺冬馬の決着。
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10-1 穴熊

 俺がエリィの結婚を知ったのは、フランスの片田舎の、ある店に滞在していた時だった。


 その店は、リンゴ畑に取り囲まれる形で建っていて、花の季節ともなると、それはそれは見事な景色となった。

 白くて可憐な花が咲き誇る様は、彼女を思い出した。


 望郷の念と言うか、真白ちゃんへの気持ちが募って、帰りたくて仕方がないのを我慢し続けて、四か月近く経った。

 その間、一度だけ手紙を書いた。

 我ながらひどい。

 真白ちゃんからは、何通も手紙が来たと言うのに。

 彼女はちゃんと『ほうれんそう』を守ってくれている。

 どんな些細なことも残さず知らせてきて、『雨宮』の話も、『海東』の話もご丁寧に教えてくれるのが、安心のような、恨めしいような。

 新しく『赤沢』や『成田』という名前も増えたけど、それは、彼女の世界が広がったことでもある。


 ――やっぱり俺がいない方が、真白ちゃんは自由に出来るのだ。


 そんな自虐的な満足感に浸ることでしか自分を保てない。


 床を掃除し終えて、モップの柄に体重を預けて、物思いにふける。


 リンゴの木は新緑から、緑濃く葉を茂らせ、実の成る季節を待ちわびていた。

 あの木のリンゴでタルトタタンを作る羽目になる前に、日本に帰る算段をしなければならない。

 仕事はほぼ終わったも同然だった。

 フランスに到着してから一か月は、パリ中のカフェと言うカフェを巡って、甘党の自分でも根を上げそうになるほどのお菓子食べ、コーヒーを飲んだ。

 まもとな食事をする余裕もなかった。

 帰国して別人になっていないように、毎日のジョギングを欠かさず、腹筋も朝夕したおかげで、腹はまだ出ていなかった。


 片手で触れると固い筋肉を感じ、安心する。

 メタボな彼氏は真白ちゃんは嫌だろう。


 そんなに頑張った割にはパリでの成果は芳しくなかった。

 俺が焦っていたせいかもしれないが、どうにもこうにもピンとくるものがなかったのだ。


 そこで少し、パリから足を延ばすことに決めた。

 ついでにジャンに会って行こうと、この彼のシャトーがある村に来て、そのまま居付いてしまった。


 ここは真白ちゃんが居ないのを覗けば、人生でもっとものどかで落ち着ける場所だった。

 俺には縁はなかった上に、文化も大きく違うはずなのに、なぜか『田舎のおばあちゃんの家』に遊びに来ている気がする。

 大きな木の梁が天井を走り、石造りの壁には、暖かな手作りのタペストリー。

 至る所に置かれた、これまた手作りのキルト。何十年も前から動くことなく鎮座しているとしか思えない、どこのものか分からない置物が並ぶ棚。

 雑多にも見えるのに、そのどれもが温もりに満ちていた。


 おまけに――ここが一番大事なのだが――コーヒーが美味しい。ケーキもだ。


 自分の名前でカフェをプロデュースするなんてまったく気乗りのしていなかったジャンも、この店を参考にしたいと申し出たら、わずかに心を動かされたようだ。

 カフェと言うのとは、少し違う気もするが、要はコーヒーが飲めるくつろげる場所で、集客出来れば、雨宮は満足するんだろう。

 資本主義とこの店の雰囲気は相反する気もするが、俺が経営するなら、こんな場所がいい。

 以前、真白ちゃんと行った、あのタルトタタンを食べた店にも似ている。


 リンゴ畑を間近に備えるだけあって、この店の女主人・マリー夫人の一等得意なお菓子でもあると聞いた。

 このまま居続けたら、その秘伝のレシピを教えてくれるかもしれない。


 しかし、俺は美味しいタルトタタンが作れるようになる代わりに、真白ちゃんを失うだろう。


 もう、ここでの仕事もほぼ終わっているのだ。

 後はいつ帰るか、決めればいい。


 俺はモップを片付けると、店の隅で、ポケットの中から手紙を出した。

 開店前で、客の一人もいないのに、警戒してしまう。

 居たとしても、日本語を解する客は一人しか居ないし、その客は当の日本に居るというのに。


 何度も読んだ手紙は、俺の気持ちを反映しているように草臥れていた。

 真白ちゃんからの手紙は、何度読んだって、いつもパリッとしている。

 扱いが違うのだ。

 この手紙は、真白ちゃんからのではなかった。


 文面はすっかり覚えているのに、それでも字を追うのは、もしかしたら内容が変わっているかもしれないという、願望だった。

 無駄な抵抗だ。手紙の内容が書き換わることなどない。


 もはや無感動で手紙を封筒に戻すと、ポケットに押し込んだ。

 片方からもう一通の手紙を、今度は大事に取り出す。


 真白ちゃんから届いた、一番新しい手紙だった。

 読み始めようとした時、ドアに付けられたベルが軽やかに鳴った。


『いらっしゃい』


 開店前だが、そんなことはお構いなくやってくる客も多い。近所の人や常連客がお裾分けを持って顔を覗かせることもよくあることだった。


 しかし、店内に入って来たのは、影さえも陽気そうな男、この村の領主ともいうべき男、ジャン・ルイ・ソレイユだった。


『ジャンか……今回は珍しく遅かったな』


 気まぐれなジャンは、予定が早まることはままあっても、遅くなることは稀なはずだった。

 それなのに、今度の日本行は一週間も伸びていた。

 確かに、奴が面白がるような事態が出来しているらしかったが、おかげで、またもや予定調整に翻弄される執事やスタッフ達のことを思うと、同情を禁じ得なかった。


『ああ! エリィとミツアキの実家に行って来たからな!

結婚の挨拶をしてきたぞ』


『お前は関係ないだろうが』


 娘の突然の結婚話に動揺する両親を、さらに混乱させるような目に合わせてきたんだろうな。

 思わず遠い目になっていると、店の奥からマリー夫人が、そして、ジャンの後ろから、なんと噂の新妻・エリィが現れた。


『まぁまぁ、私の坊ちゃま。お帰りなさいませ。

お疲れでしょう?

今日は美味しいタルトがありますよ。

トーマが摘んできてくれたベリーで作ったのよ。

お好きでしたわよね?』


 春に骨折した足が、ようやく治って来たマリー夫人は、まだ少し覚束ない足取りながら、かつて養育係を務めた若者の元へと歩み寄った。


『貴女が作るケーキで嫌いなものなどありません』


『嬉しいことをおっしゃるわね。

トーマが居てくれて良かったわ。

おかげで、今年もベリーのタルトを坊ちゃまに食べて頂けるんですもの』


『トーマをあなたの手伝いに置いたのは私ですよ。

つまり、私があなたの美味しいケーキを食べられるのは、私のおかげと言えましょう』


『坊ちゃまったら……!』


 我の強いジャンも元・養育係の前では、わりと大人しく素直だった。

 そんな微笑ましいやり取りとは対照的に、戸口に立ったままのエリィの顔は険悪だった。


「何やっているのよ、あなた」


 呆れたような口調の中に、ほのかに同情が含まれているのは、彼女自身が、つい最近まで同じことをしていたからだ。


「何って、ウェイター?」


 エプロンを手で示して言った。


「そういうことを言ってる訳じゃないって、分かってるわよね。

ああ、もう!

話があるから、こっちに来なさい!」


「ちょうどいい、コーヒーを淹れるから、どこでも好きな所に座って待っててくれる?」


 俺がここに居ることを誰にも言わないという約束を破ったジャンを横目で見ながら、エリィを案内した。

 エリィは、気勢を削がれた気分だったようだが、店内を見渡すと、小さく感嘆の声を上げた。

 初めはカウンターの近くにある、手編みのソファカバーが掛かった、ゆったりとした大きな席に座りかけたが、不意に視線を外に向けると、回れ右してテラスに出た。

 マリー夫人ご自慢の庭と、向こう側に広がるリンゴ畑が借景となった景色に惹かれたのだろうと思った。

 しかし、エリィの視線の先にはリンゴの木に張りつくように蠢く男が一人居た。

 この村の人間ではない。

 明らかに怪しかったが、その姿を見るエリィの口元には微笑が浮かんでいた。


 どうやら知り合いらしい。

 それも、紙切れ一枚で繋がった知り合いだ。


 敢えてそのことには触れず、ジャンの分を含めてコーヒーを淹れる。

 ケーキも添えて、それぞれの席に持っていく。


「どうぞ。

日本風に言えば、朝摘みベリーのタルト……かな?」


「あら、ありがとう」


 どうしても左手の指輪を見せびらかしたいのか、そちらで頬杖をついたエリィは礼を言いつつも、俺を凝視した。


「何?」


「いえ、まさか小野寺の御曹司に給仕される日がくるとは思っていなくって。

しかも、手慣れているから驚いた」


「そう?

俺、昔、アメリカでウェイターの仕事していたことがあるから、まったく素人じゃないんだ。

語学を勉強するには、多くの人間と触れ合った方がいいだろう?

しかも不特定多数が集まる場だからね、そりゃあ、鍛えられたよ」


 おかげで、英語はまあまあ出来るようになったが、フランス語でも同じような目に合うとは思ってもなかった。

 そうは言っても、向き不向きがあるので、英語ほどフランス語は上達しなかった。

 アメリカのダイナーのように大勢の人が機関銃のような勢いで注文をしてくるような店ではなく、古くからの常連達が、我らが領主のお坊ちゃまの知り合いの、フランス語が不得手な東洋の『客人』に気を使って、ゆったりと毎日、ほぼ同じ注文を繰り返す店だからかもしれない。


「今更、フランス語の勉強しに、こんな真似している訳じゃないわよね、勿論?」


「勿論だ。どちらかと言うと、カフェ経営の修行かな。

ここいいと思わない?」


 「田舎のおばあちゃん家みたいに落ちつくだろう?」と付け加えると、エリィに否定された。


「あなた、田舎のおばあちゃん家に夢見すぎよ。

こんなお洒落な雰囲気じゃない。

もっと日本各地のお土産もので雑然としているし、なぜか、何個もカレンダーが掛けられていたり、掘りごたつには、どこで売っているのか分からないようなお菓子が菓子鉢に山のように盛りつけられていて、ストーブで干し芋とか焼いているの。

間違っても、森で朝摘んできたベリーのタルトなんか出ないわよ。

……ああ、いいえ。

今の若い子のおばあちゃん家ならそうかもね」

 

 俺は、一度だけ訪ねたことのある、母の実家を思い出してみた。


「そうだね、母の祖父母の家では、手作りのチーズケーキが出てきた。

もっとも、新興住宅地のツーバイフォーの二世帯住住宅で、こんな風な古民家ではなかったよ」


 それでも、親子二代でローンを組んで建てた、大事な『城』だった。

 そのローンを母は、迷惑をかけたお詫びに支払った。

 旦那に危害を加えられなくなり、会社も成功し、再婚相手にも恵まれた。

 母は自由に実家に帰って親孝行出来るはずだったのに、それがいけなかった。

 伯父が、母が小野寺の社長と再婚したと聞いて、娘の学費を借りに来た。

 初めは些細な額だったが、その返済が始まる前に、今度は別な理由での借金を申し込んできた。

 実の兄だったし、随分、迷惑もかけたこともあって、あげるつもりで、母は援助を続けたが、祖父が止めた。

 このままでは、伯父がダメになる……と。

 母はまたもや家族を捨てなければならなくなった。


 お金のせいだった。

 大金の前に、人は変わることがある。


 ふと、怖気が走った。

 ポケットに入っている『草臥れた方の手紙』を確認する。

 もしかして、この手紙の主もそうなのかもしれない。


 俺の表情がこわばったのを、エリィは勘違いしたようで、『田舎のおばあちゃん家』を擁護し始めた。


「ま、まぁ、でもそうね、誰しも心の中に持っている安らげる場所、という意味ではそうよね。

同じ匂いがするわ。

都会で揉まれている人間には、こういうお店があったら、疑似でも行ってみたいかも。

と言うか、疑似だからこそ行ってみたいかも。

だって、本当のおばあちゃん家に行ってみなさいよ、やれ恋人はいないのか? とか、結婚はまだかとか……あ、このコーヒー! ……わお! すっごく美味しい!」


 何気なく口をつけたコーヒーの味に、エリィは目を見張った。


「ケーキも美味しいよ」


 コーヒーを褒めらたのに気をよくして、マリー夫人直伝のケーキも勧めてみる。

 いつものエリィなら、なんの躊躇もなくフォークを取って食べ始めるのに、今日はケーキの上で視線が逡巡していた。


「言ったでしょ。

田舎のおばあちゃん家には謎の、でも、食べ始めると止めらなくなるような豆菓子があって、あらゆる場所からいろんな食べ物が出てきて、ご飯は大好物ばかりで……」


 エリィはブツブツ言い始めたが、要約すると「結婚の報告に実家に帰ったら、美味しいものをたくさん食べさせられて、太った。それも、さすがに冗談じゃすまされないほど」だそうだ。


「おまけに、相手の家でも宴席、噂を聞きつけた近所の人が寄り集まって宴席、ジャンが来たで宴席。

だから実家に帰りたくないのよ!!」


 実家に帰りたくない理由は、人それぞれあるのだろうが、エリィの場合は、本人的には深刻だろうが微笑ましいものだった。


 それにしても、どれだけ食べたのだろう、このモデルは。

 言われてみれば、若干、ふっくらしかけているが、元々が細いので、それほど気にならないし、幸せそうに見えて、前より柔らかい雰囲気になっている。

 多分、ジャンは気にしない。


「次のコレクションまで、絶対に体重を元に戻さないといけないの。

折角、ジャンの『妖精』になったのに」


「みたいだね」


 俺が相槌を打つと、こちらに興味が向いたらしい、「なんだ知ってるんだ」と投げかけられた。


「音信不通のくせに、こちらの事情に詳しいとはね」


 ついにケーキが『妖精』の口に入った。ただし、半分だけ。

 残った半分が載った皿を持って、エリィは、先ほどからずっとリンゴの木の下に這いつくばっている男の元に持っていた。

 エリィがケーキを見せて、こちらを指し示すと、男は会釈してきたので、こちらも返す。

 それから、手が汚れているだろう男の為に、エリィが手ずから半分を食べさせてあげた。

 微笑ましい風景だった。


 羨ましくはない。俺だって、真白ちゃんにケーキを食べさせてあげたこと、あるからな!

 あの真白ちゃんは……いや、あの真白ちゃんも可愛かった。


 このベリーのタルトも、きっと喜んで食べてくれるだろう。

 その為には、日本に帰らなければならない。


 空になった皿を持って、優雅な歩みで戻ってくるエリィを見やりながら、そっと『草臥れた方の手紙』の存在を確認する。


「彼、ケーキ、とっても美味しいって。

もう少ししたら、挨拶にくるとも。

どうせ知っていると思うけど、あの人が私の旦那様よ。

新婚旅行中なの、私達」」


「……聞いてもいい?

その新婚旅行中に新妻を放って、さっきから何やってるの?」


「なんでも面白い虫を見つけたそうよ。

満顕は虫が好きなの」


 からん、と乾いた音を立てて、テーブルに皿が戻された。


「虫……ねぇ。

こんなに綺麗な蝶々を捕まえたのに、他に捕まえたい虫なんかいるの?」


「――さむっ!

さすが女ったらし、息を吐くように臭い台詞を言うわね。

駄目よ。私、もう人のものだから。

そんな言葉には惑わされないからね!」


 腕を組んで、エリィはどっしりと席に座った。

 左手に『誰かのものである証』が光っていた。


 人は『誰かのもの』と言うことを誇れるのだろうか。


「そういう言葉は、真白ちゃんに言ってあげなさいよ。

まったく! 虫にちょっとだけ目移りするくらいなら可愛いものだけど、あなたはどうなの?

すっかりフランスに居付いちゃって、帰ってくるつもりあるの?

あなたの不在を狙って、ハイエナのように男どもが彼女に寄ってたかっているとか考えないわけ?

特に雨宮の御曹司なんか、すっかりご執心みたいで、毎週水曜日には口説きに来ているらしいじゃない」


 エリィの姿を見てから、ほぼ予測されていた質問をされた。


「知ってる。真白ちゃんに聞いたから。

で、俺はその雨宮一と賭けをしている」


「賭けですって!?」


 非難めいた声があがる。


「俺だって、嫌だったよ。

最初は、断ったけど……」


 未だ真白ちゃんにフランス行きを告げられなかった頃にかかってきた電話を思い出す。


『そうやって真白ちゃんを囲い込んで、彼女に自分以外の男を見せないのは卑怯です。

フランスに行くなら賭けをしませんか?

あなたがフランスに居る間に、彼女を私のものにします。

それが出来なかったら、真白ちゃんのことはきっぱりはっきり諦めます。

父のことも説得しましょう。どうせ、フランス行きの裏ぐらい、気づいているんでしょう?』


 雨宮一はそう、俺に持ちかけたのだ。

 相手はこちらのトラウマをある程度理解して、そこを突いてきた。

 腹立たしいことこの上ないが、それでも、まだ往生際が悪く、真白ちゃんを突き放しておきたい自分の意には沿った。


「呆れた!冬馬さんにもだけど、雨宮一にもよ。

本当に真白ちゃんのことが大事なら、彼女を試すような真似、出来るはずがない!!」


 耳が痛い非難だった。

 俺は……俺たちは、真白ちゃんを試している。その通りだ。


「そうだね……。

しかも、俺は親切にも雨宮一にハンデまで付けてやっているのさ」


「――それで音信不通だったの?」


 いよいよもって、エリィの顔が歪んだ。

 『馬鹿じゃないの?』と声に出さずに、しかし、はっきりと口の形はそう言った。


「気を遣わなくてもいいよ。

自分でも馬鹿な振る舞いだと思っているから」


「じゃあ、なんで?」


 エリィは『出来の悪い弟の通信簿を前にした姉』のように頭を抱えた。

 黙っていると、それは、『息子が夏休みの最終日だというのに、宿題の、絵日記の一日目すらも描いていないことを知った母親』に進化した。


「なんでよ!!」


 磁器の皿の上で、フォークが跳ね、がちゃんと派手な音を立てたので、俺はヒヤリとして顔を顰めた。


「なんで真白ちゃんにも言わないことを、君に言わないといけないんだよ」


「今更、そんな他人行儀?

私達、共犯者じゃないの。

お互い、恋する相手を突き放す為に、利用し合ったわよね」


「君は結婚したじゃないか。裏切り者」


「はぁ? 最初に裏切ったのはそっちじゃないの!

真白ちゃんに手を出したわよね!」


「ちょ……!」


 普段のこの店だったら、日本語が通じる人間なんて多くて一人しかいないのに、今日はなぜか、三人も居る。

 逆に、フランス語しか通じない人間が、マリー夫人一人という有様だった。

 かつてこの村で、これほど日本語習得者の密度が高まったことがあるだろうか、いや、ない。


 学校で習って以来の反語まで使うほど、俺は慌てふためき、エリィの口をふさぎかけた。


 しかし、すぐその場に、新郎が居るのに気付いて思いとどまる。


「なんでそんなこと知ってるんだ!」


「真白ちゃんから聞いたから」


「聞いた? どうせカマをかけたんだろう」


 真白ちゃんが自分から進んでそんな話をするとは思えない。

 第一、あの件は、彼女の中では『なかったこと』になっているのだから。


「そうよ。よくご存知で。

そこまでしておいて、これ以上、突き放すなら、それなりの理由があるんでしょ?

本気で突き放すつもりなんかないくせに。どこかで彼女を強烈に繋ぎとめているくせに。それなのに、雨宮一に差し出すような真似をする。

なんでなのよ?」


 「もう意味が分からない!」と、エリィは頭を掻きむしり、そのまま固まった。

 それでも沈黙を突き通すと、こちらを伺うように視線を向けられる。


「賭けに勝つ自信があるから受けたのよね?

真白ちゃんのこと……心変わりした訳じゃないわよね?」


「まさか! あの手紙、読んだだろう?」


「あの真白ちゃん尽くしの?

読んだわよ!

みんなに注目されていて、読まれること分かってて、よくあんな恥ずかしい手紙を書いわたね。

……あら、誤解しないでね。感心したのよ。

あの手紙はよくやったわ!」


 出来が悪いが、それでも四苦八苦して見つけ出した良い点を、ことさら大袈裟に褒められた気分だ。


「そんなに好きなのに、だからなんで音信不通?」


「だから、なんで、君はそんなに俺のことが気になる訳?

旦那の方に構ってやれよ。

今にもリンゴの木に登りそうだぞ。

あそこの爺さんは、自分の木に登ろうとしている悪ガキを見つけたら、怒鳴り込んでくるぞ」


「うちの満顕は、自分のことは自分で出来るわ。

出来ないのは、あなた達よ。

はぁ、私だって、人のこと言えないけど、だからこそ、心配なの。

私、今、幸せよ」


「そのようだね」


「そうなったのも、真白ちゃんのおかげだもの。

言われたの、気持ちが残っている以上、どちらも新しい道には進めない、って」


 その言葉に、俺は違った意味でハッとさせられたが、エリィは気づかずに、自分が結婚を決意するいきさつを話し始めた。

 内容は、些か、剣呑で、つい叫びたくなるのを抑えるのに、苦労した。


 いくら自称・男運がないとはいえ、ああも、厄介ごとに巻き込まれるものだろうか。


 真白ちゃんに硫酸をかけた男は、以前、モデルを目指していた女に振られ、それからやることなすこと上手くいかないことを根に持って、復讐を決意したそうだ。

 しかし、当の女はモデルにはなれず、居場所が知れなかったので、男の目は『モデル』と言う属性に向けられてしまった。

 実に迷惑な話であり、狙われた真白ちゃんとエリィにとっては、災難としか言いようがなかった。


「ほら、並居るモデル達のなかで、一番美しくて、一番目立っていたのが私と真白ちゃんだったから。

美しいものって、良いものだけでなく、悪い物も惹きつけちゃうのよ。

美人の宿命よね」


 したり顔で言われたが、素直に頷けない。

 今度は、真白ちゃんから来た手紙に触れる。


 硫酸の件は書いていなかった。

 俺が愚痴ると、「心配させたくなくなかったのよ。怒らないであげて」とエリィにフォローされてしまった。


「それに! 音信不通の彼氏に言われたくないわよねぇ!!」


 突然、エリィが空になった皿からフォークを外すと、それを片手で掴んだ。


「そろそろ、あなたの本音を話してくれないと、割るわよ。

このすっごく高そうなアンティークの皿!」


 先ほど盛大に顔を顰めたのをエリィは見逃していなかった。


「だっ……! これは駄目だ!」


「そうね、高そうだもんね」


「違う! それもあるけど、これはマリー夫人が結婚した時に旦那さんから送られた思い出の品なんだよ!」


 食器の素性を話すとエリィは、驚き、大人しくそれをゆっくりと下ろした。


「そう言うことは、早く言ってよ!

こんな大事もの、どうして……」


「新婚なんだろう? マリー夫人はご主人と五十年近く、仲睦まじく連れ添ったからね」


「えーっと、あなたらしい心の籠った気遣いね。

その気遣いを、真白ちゃんに向けられないなんて、残念ね」


 あくまで話題を逸らさない姿勢は見事だよ。

 そして、俺は折れた。

 

 勿論、全て話せることは出来なかったので、かいつまんでだが、真白ちゃんが置かれている状況について説明してみた。

 途中からエリィの旦那、星野満顕が加わったので、新しいコーヒーを淹れ直した。


「つまり、真白ちゃんを使って、その父親に復讐しようとしている人間がいる。

奴が狙っているのは、まず、真白ちゃんを俺から引き離して、雨宮一に恋をさせる。

雨宮財閥の御曹司に目がくらんで、小野寺の御曹司を捨てた女の子は、結局、雨宮の御曹司から捨てられることになる……予定だ。

真白ちゃんは嘆き悲しむだろうし、世間体も悪いだろうね」


「誰か知らないけど、こすい男ね。

本人に直接いやがらせするのが怖いから、その弱みである娘を狙うなんて」


 エリィが怒りのあまり、ティーカップを握る手に力を込めたので、こちらもマリー夫人の思い出が木端微塵にならないか不安になった。


「でも、その計画、上手くいかないかもしれないわよ。

雨宮一は真白ちゃんに本気に見えるもの。

ミイラ取りがミイラになっちゃたのよ。

真白ちゃん、可愛いから。ねぇ」


 そっとエリィの手から、大事なティーカップを取り上げたのは、勝手知ったる幼馴染だった。


 昆虫好きのエリィの旦那は、穏やかそうな見た目だったが、俺への挨拶に、ほんのりと嫌味を混ぜるのも忘れなかった。

 俺がエリィと付き合っていると思い込まされていたんだから、友好的な気分になれなくても当たり前だ。


「どっちかと言うと、自分に靡かない女の子に初めて会った好奇心をこじらせている気がするけどね」


 星野満顕は虫だけでなく、人間に対する洞察力もありあまっているらしい。

 淡々とこちらの本心を明かしてくる。


「あなたが連絡を絶ったのは、彼女の為ですか?

あの子があなたとただならぬ仲だと、一部の人間は知っている。

その彼女が雨宮に走るのは、なるほど、「ダイヤモンドに目がくらんだ〜」と謗られる可能性が高いし、声高に言いふらす準備もされているでしょう。

でも、もし、その子が小野寺の御曹司に見捨てられていたとしたら話は変わってくる。

雨宮一は、寂しい心の隙をついて、うら若い乙女を誑かして夢中にさせたくせに、ボロ雑巾のように捨てた……となれば、非難されるのがどちらかは押し知るべしです」


「あらまぁ」


 エリィは自らの旦那に感心したように目を輝かせ、返す刀で、俺を侮蔑の目で見た。


「あなたらしい、実に心の籠った気遣いだわね。

呆れ果てたけど――。

泣いて縋って、「俺には真白ちゃん一人だけだから、見捨てないでくれ」って素直に言えばいいのに。

毎日、あの手紙を出せばいいのに」


「毎日? あんな手紙が来たらうざくないか?」


「うざ……くは、ないと思う……かな?」


 そんなことはない! と言いたいけど、そうは言い切れないらしい。

 細くて美しい指が不思議な動きをした。

 それを見て、星野満顕が小さく笑った。


「私も、絵里に泣いて縋ったのに足蹴にされたしね」


「そんなこと! して……なくは……ないか……」


「とても悲しかったよ。

それも、本当に自分のことを憎んでいるのならともかく、私のためにそんな振る舞いをさせているのがね。

だから、真白ちゃんも悲しいだろうね」


 俺とエリィは共犯なのだ。

 その被害者の星野満顕は、同じ被害者の真白ちゃんの気持ちを代弁出来る。

 お互い、無益な抵抗をしていたものだ。

 真白ちゃんがエリィに示唆したように、未練たらたらでは、効果が出ないどころか、逆に相手を束縛し続けることになる。


 二人の共犯者は揃って頭を垂れた。


 しかし、気まずさを無理やり吹き飛ばす勢いで、反論した。


「言っとくけど、俺は真白ちゃんを諦めた訳じゃないぞ。

それに、真白ちゃんは雨宮一なんかに籠絡されたりなんかしない」


「あら、大した自信じゃないの!」

 

 景気づけにエリィが合いの手を入れてくれた。


「音信不通はハンデだからな!

それでも真白ちゃんを自分のものに出来なかったら、雨宮一だって、自分にそれだけの価値がないと気付けるだろうし、きっぱりはっきり諦められるだろう。

俺はあいつの賭けを素直に信じていない。

どうせ、俺が「泣いて縋ったから」とか言いがかりをつけるに決まっている。

でも、どうだ! 俺は真白ちゃんが泣くほどの音信不通なんだからな!」


「そうよ! 自慢するようなことじゃないけど、そんな不実な最低の男でも、真白ちゃんの恋心は揺らがないんだから!」


「不実で最低なのは今だけだ!」


 まるで『父親』につく形容詞が自分につけられるのは、嬉しいものではない。

 あの子は決して、母のような目には合わせない。


「真白ちゃんが、半年も俺を信じて待っていてくれたら、俺を選らんでくれたら、その暁には、俺は絶対に、もう、彼女を泣かせない。

たとえ囲い込んだと揶揄されようと、あの子の望むものだけを見せて、望むものだけを与えてみせる」



「では、そろそろお帰りなさい、トーマ。

私の足はもう大丈夫だから」



 フランスの片田舎で、真白ちゃんへの愛を叫んでいたら、五十年もの長きにわたって、愛を育んできた女性に諭された。


 たどたどしかったけど、間違いなく日本語で。


 考えてみれば、マリー夫人はジャンの養育係で、そして、養育係で居続けた人間だった。

 一筋縄じゃ、あのジャンを教育出来るはずがない。と言うか、その教育の結果があれだよ。


 振り返ると、マリー夫人とジャンの後ろに、常連客が揃っていた。

 さすがに、その面子まで日本語を解するとは思えないが、通訳は居る。


 真白ちゃんだったら、顔を真っ赤にしただろう。

 ――俺も、それに倣った。

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