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妖精とクマ  作者: さぁこ/結城敦子
第九章 椛島真白の忍耐。
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9-5 こまちむすめのたしなみ

 若社長! 信じて下さい、私は絶対に自ら首を突っ込んだりなんかしていません!!

 本当です! ちゃんといい子にしていたのに!!


 ――なのに、どうやら、巻き込まれてしまったようだ。


 私は『いい子へのご褒美』のドレスのスカート部分を見下ろしていた。

 鼻をつく臭いの中に、髪の毛が焦げるような臭い。違う、髪の毛じゃない。絹だ。

 それは、私が『いい子』ではなかった罰のように焼け爛れ、艶も、なめらかな手触りも失われている。


 いいえ、そうじゃない。『いい子へのご褒美』だから、『いい子』だった私を守ってくれた――。


***


 あの後、エリィの部屋に招かれて、事情を説明された。

 今度のコレクションを中止するように、関係各位に脅迫文が送り付けられたというのだ。

 もし、言うことを聞かなかったら、どうなるか――を示すために、硫酸も一緒に送られていた。

 もっとも、数が用意出来なかったらしく、美園に送られたもののように水が入っている場合もあった。

 エリィには硫酸が来たらしい。


 彼女の美しい顔や身体を脅かすものだ。

 星野さんが憤っていた。


「コレクションは中止にすべきです。

こんなことになって――」


「何言ってるのよ! 私はやれるわ! 脅迫に屈しろっていうの?」


「君は自分の意地で、他のモデル達を危険にさらすの?

観客は? 大勢の人達が来るのだろう? そこでこんなものを撒かれたら、どうなるか想像が出来るはずだ。

いずれ、明日の朝まで犯人が捕まらなければ、コレクションの中止は発表される。

絵里が黙っていても、もう決定事項なんだ。

それだったら、犯人逮捕に協力した方がいい。

悔しいのは分かるけど、ねぇ、また別の機会もあるよ」


 慰めるように星野さんは、エリィの前に跪いた。

 エリィが泣いているのは、勿論、足が痛いからではなかった。


 その内、秋生さん達が来て、例のストーカー事件の時にお世話になった松井刑事もやって来た。

 この事件の捜査を担当することになったらしい。


 遠方から来る来場者の人達へも考慮して、コレクションの中止の発表は明朝と決まっていた。

 ジャンのウェルカムパーティーも途中で終わらせようとの話にもなったが、エリィを突き落そうとした男が燕尾服を着ていたこと、美園がとっていた部屋の前に脅迫文が置かれていたことから、犯人がパーティーに紛れ込んでいる可能性が高いと考えられた。

 エリィが例のホテルの会場にある回廊の上から、こっそり顔を確認することになって、パーティーは続行されることになった。


 危険だったけど、もし、今夜中に捕まれば、コレクションは開催出来るかもしれない。

 それは、パーティーに出席している人間の大半の願いだった。

 保険として、コレクションが中止されるかもしれないという噂を流しておいた。

 そうすれば、犯人は自分の脅しの効果に機嫌を良くして、悪戯に凶行に走らないだろうと目論んだのだ。


 しかし、その話を聞いた父は、私を連れて帰ろうとした。

 私は『いい子』でいると約束した手前、逆らえずに、大人しく従うことにした。

 間違いなく、それは『いい子』の選択だった。


 なのに、帰ろうとした時、入り口から周りと同じ燕尾服を着た男が、私にまっすぐ向かって来て、手持ちの硫酸をかけたのだ。


 もっとも、男の行動は武熊さんによって察知され、私はかろうじてスカートの裾にそれを被るだけで済んだ。

 おまけに、そのドレスのスカート部分というのが、うんざりするほど多くの布地が重なり合って膨らまされていたおかげで、液体が浸食するまでまだ間があるようだ。

 臭いはキツイが、肌には触れていない。


 若社長、ありがとう!

 この過保護すぎるデザインのおかげで、最悪の自体は避けられている。


 あとは、この目の前で、もう一本残っている小瓶の蓋を開け、動けば即座にまき散らすぞ!とわめきながら、中央に進み出た男を取り押さえれば済む。

 簡単に言えばそうだが、そうはいかない。

 周り中、私の様に厚着ではない、着飾ったモデル達が居る。仮に、一滴でも飛沫が掛かったら、場所によっては彼女達のモデル人生に関わるかもしれないのだ。


 私も動けないでいた。

 クマと同じだ。目を逸らすと、襲われる。


「ホント、君って、変な男にばっかり目をつけられるよね」


 咄嗟に駆け寄ってきた夏樹さんが、隣で両手をあげながら囁いた。


 ええ、どうせ私は男運が悪い女ですよ。

 愛人、ストーカーの次は硫酸男だなんて!!


 ふと、妙な期待を持ってしまった。

 若社長が助けに来てくれるんじゃないかという期待。


 けれども、そんな夢みたいなことは起きなかった。

 遠くフランスに居る人ではなく、今、まさにここに居る人間がなんとかすべき事態なのだ。


 星野さんが犯人を説得しようとしているような口調で話しかけた。

 変な表現だが、そうとしか言い様がなかった。

 またあのお国訛りだったので、理解出来なかったのだ。

 犯人もそうだ。

 でも、自分を必死に説得しようとして、つい訛りが出てしまった田舎者という認識になったらしい。


 私は後から知ったのだけど、武熊さんはエリィと星野さんと同郷の出だった。

 そうは言っても、内陸と沿岸部では訛りが違うが、職業柄、日本各地の言葉に精通していた小野寺の警備担当にとっては「薩摩弁より触れる機会が多くて、分かり易かった」。


 そして、もう一人、その言葉を操る人間が頭上にいた。

 しかも、どこから持ち出してきたのか、なぜかエアガンを構えて。


 武熊さんが、おそらく警備担当者に予め伝えておいた手振りで合図し、父と夏樹さんは私を下がらせた。


 その動きに激昂した犯人が動いた瞬間、空気を切る音がした。

 続いてガラスが割れる音と怒号。


 スローモーションを見ているよう、というのは本当にあるのだ。

 それがあっという間の出来事だったということも。


 最後の小瓶ははったりだった。

 男は液体の上で取り押さえられていたけど、まったくその影響は受けていなかった。

 ただ、右手を痛そうに押さえている。


 松井刑事が飛ぶように駆けつけ、現行犯逮捕をしてくれた。

 仲間の警官に男を渡すと、呆れ果てたような顔で、上から降りてきたエリィに言った。


「どこからそんなものを?」


「あら? 刑事さん、この世の中にはいろんなファッションがあるのよ。

中にはミリタリーファッションというのもあってね。

これはそのミリタリー好きのデザイナーの子から借りたの。

ちょうどこのパーティーが始まる前に、新作を買って来たの、って散々、自慢されたからね。

徴発させてもらったのよ」


 ドレス姿にエアガンって、ミスマッチなのに、不思議と似合っていた。

 持っているのがエリィだからかしら?

 「もぉ〜、やめてー、早く返してさいよぉー! 私まで怒られるんだから〜!!」と人垣の中から訴えている、日焼けした肌に、真紅のドレスが似合うゴージャスな巻き髪の女性が本来の持ち主らしいから、世の中には、本当にいろんな人や好みがあるものだ。

 遠くで護衛に取り囲まれていた姫ちゃんがも、ますますうっとりしていたが、さすがに雨宮の大事なお嬢様に影響されては困るかと思ったのか、周りが懸命に止めに入っていた。

 もはや好き嫌いの薄い、感情の乏しい彼女はいなかった。

 思えば、雨宮家で守られていた姫ちゃんには、ただ単に、心を動かすものに出会えなかっただけだったのかもしれない。


「エアガンといえども、他人に銃口を向けるのは危険だ!

外したらどうするつもりだったんだ!」


 松井刑事がエリィを怒鳴った。

 

「――おっしゃる通りですわ。

銃の扱いに関しては祖父や父に厳しく躾けられました。

でも、じゃあ、刑事さん、私達に危害が加わっても良かったんですか?」


「そこは警察に任せて欲しいと言っているんだ!」


「任せてたら、こんな早く、犯人は逮捕されなかった!

私達はねぇ、身体が資本なのよ。

ちょっとの傷もつかないように、どれだけ気を付けていると思ってるの!

それを自分のミスでならともかく、他人の悪意で台無しにされるなんて……責任取れると思ったら、大間違いなんですからね!

って言うか、そこの男! 連れて行く前に、一発殴らせろ!」


「だからなんでそんなに過激なんだ、君は!

こんな大勢の中で、エアガンぶちかますなんて、そっちの方が危ないだろうがっ!」


「危なくない! 私、的を外したことないもの! 動いてないのだったけど!!」


「ちょっと待て! 動いてる的撃ったの、初めてとか言うなよ!」


「……初めてだったけど、的が大きかったから動いてないも同然だったわよ」


 刑事とモデルの言い争いに割って入ったのは、星野さんだった。


「そうですよ、刑事さん。絵里はね、村では女ゴルゴ13って――」


「みーつーあーきー!! 本気で怒るわよ

せめて女那須与一くらい言えないの!!!」


「デューク東郷と那須与一とどれくらい違うの?

絵里だって、小さい頃、大きくなったらゴルゴ13になる! って、言ってたじゃないか」


「やめぇい!!」


「……と、冗談はさておいて」


 どうやら星野さんは、エリィに押されるだけの男の人ではないようだ。それどころか振り回している。

 途端に真面目な顔になった喰えない研究者は、松井刑事に向き直った。


「彼女は決して道楽や好奇心でエアガンを持ち出したのではありません。

止むに止まぬ状況に追い込まれ、つい、気持ちが昂るあまり、常識では考えられない突飛な行動に走ってしまったのです。

ですから、この件は、犯人逮捕の協力ということで……」


 懇願するようにエリィを擁護し出した星野さんに、松井刑事は警察官という立場上、渋い顔を崩さなかったが、内心はエリィの凄腕に一目置いているようだった。

 なにしろ、あんな上から、それも片足は捻挫しているというのに、狙いは実に正確だった。

 祖父はまたぎで、父親も猟友会と聞いたことがあったけど、彼女にも素養があったのだ。


 後から聞いたが、エリィに関してはかなり厳しく注意はされたが、お咎めなしにはなったようだ。

 裏で、なんとあの美園が手を回してくれたらしいという噂もあった。

 それはあまり良くないことだと思ったが、『独立のはなむけ』だそうだ。

 「よっぽど、私と真白ちゃんに信じてもらったのが嬉しかったのね。あの人も、面倒臭い男だわ」とエリィは判断した。

 

 しかし、その時は、勿論、そんなことになるとは知らず、松井刑事への弁明を星野さんに任せ、エリィは会場近くの小野寺の控室に私を連れて行ってくれた。

 父と武熊さんが付いてくるのを制して、バスルームに入ると、あの宝石のように美しいドレスのスカート部分を何の躊躇もなく、はさみで切り落とした。

 それから、バスタブに腰掛けさせられ、シャワーで大量の水をかけられる。


「このドレスだけで済んで良かったわね。

他に液体がかかったことはない?」


 私はバスタブに腰掛けながら、エリィの問に「大丈夫です。多分。どこも刺激はありませんから」と答えた。

 それを聞いてもなお、水はかけ続けられた。


「一応。念の為。

冬馬さんが大好きなその美脚に傷でもついたら大変!

本当は会場で、スカート切り刻みたかったんだけど、そこまで緊急じゃなさそうだったから、止めたのよ。

だって、そのスカート、どう考えてもジャンの趣味じゃない。

きっと冬馬さんに頼まれたのね。

でも、彼、出来上がりは見てないようね。

ジャンに面白がられてるのよ。

背中のカットがセクシーだもの」


「――っ! だからっ! 首筋はっ……」


 面白がっているのはエリィだって同じじゃない。

 そう抗議したかったけど、声があげられなかった。


「ねぇねぇ、冬馬さんとはどこまで仲良くなったの? キスはした?」


 高級ホテルのバスルームだし、シャワーの音はザーザーしているし、外にいる父や武熊さんに話が聞こえないと思って、大胆なことを話題にした。


「ふーん、その真っ赤な顔を見ると、キスは済んだんだ。

やっぱりあの男、手が早い」


「違います! 私から……頼んだんです。無理を言って。

だから若社長は悪くありません!」


 防音はしっかりしていると頭では理解しても、つい小声になってしまう。

 こんなこと、父に聞かれたら大変。


「――あらまぁ、真白ちゃん、肉食系女子だったんだ。

でも、手を出しておきながら、ほぼ音信不通ってどうなのよ?

普通、怒らない? それなのに、あんな薄情な男をかばうなんて、お人よしにもほどがあるわよね。

信じられない。どういう心情なの?」


 雨音のようなシャワーの水音がしばらく響いた。

 なぜだか、私は自分のことではなく、別の誰かのことを聞かれた気がした。

 とても大事なことを聞かれているようで、これは慎重に答えないといけないと思った。


「愛想を尽かしたことがありました」


「やっぱり!?」


「今じゃなくって、もっと前に」


 『妖精』のプロジェクトの時だ。


「あの時も、音信不通みたいなもので、私、なんて薄情で酷い人だと恨んでいました。

でも、違った。

私の知らない所で、私の為に、自分の出来る、あらゆることをしてくれた。

それに気づいた時、この人のことを、決して疑ったりはするまい、と誓ったんです。

今度のことも、そうだと思います。

きっと、私の為に、フランスに行く羽目になったんだと思います」


 それは真崎社長や夏樹さん、それから姫ちゃんからやんわりと示唆されたことを繋ぎ合わせた結果だった。

 私が結婚に怯えたせいで、若社長は無理強いされないように、フランスに逃げたのだ。


「そういう時、音信不通になるみたいです、若社長って。

気まずいのかしら? それとも、フランスで何か夢中になれる仕事に出会ったのかも」


 微笑みかけたのに、エリィは憮然とした顔だった。


「よくまぁ、そんな風に信用出来るわね。

あの男のことだから、綺麗なフランス娘にとっ掴まって、遊ばれているんじゃないの?」


「エリィはいいですよ、若社長の事、信じられなくたって。

――だって、偽物の恋人じゃないですか?

私は……違うもの。本物の恋人になる予定の人間ですから」


「あら、言うようになったじゃないの。この間までは、ほんの小娘だったくせに」


 密室で、恋人(予定)の彼女のフリをしていた女の人と対峙しているなんて、なかなかの修羅場だと思う。

 そんな経験をしていれば、子供のままではいられないだろう。


「じゃあ、言わせてもらいますけど、エリィは星野さんのこと好きなくせに、どうして、誤解させるようなことをしたんですか? あれってワザとですよね?

わざと若社長と付き合うふりをして、星野さんを諦めさせようとしましたね?」


「それは冬馬さんも同じよ。

こっちが無理強いした訳じゃなくって、合意の上なんだから。

それに途中からは応援してあげたじゃない。

なぜだか分かる?」


「若社長が私のこと、好きだからです!

それから、私も、若社長のことが好きだったから」


 きっぱり言い切ったら、あのエリィが絶句した。

 真崎さんが居たら、「ほら図々しい子だ」と言われそうだ。

 けれども、勘違いや思い込みではないはずだ。

 そうじゃなかったら、キスをしてきたり、あんな手紙を書いたりはしてこない。

 そんな演技が出来る人ではないもの。


「だったら、私も星野さんを応援します。

星野さんはエリィのこと、好きだもの。

エリィだって、星野さんのこと、好きですよね?」


「真白ちゃん、いい加減にしてよ。

詮索するのは止めて、お節介もお断りよ。

あなたにそんな権利ある訳?」


 大人の女性として、小娘の私に優しくしてくれていたエリィが、初めて苛立ちを表に出してきた。

 怖かったけど、それはある意味、図星をついた私を、対等に扱ってくれていることと思いたい。


「権利? あります!

私、すごく嫉妬深いんです。

もう二度と、エリィが若社長に近づかない様にしたいんです。

それに、ここ最近、分かったことがあります。

若社長と自分の仲をあれこれ言われたり、詮索されたり、お節介されたりするの、すごく嫌だと思ったけど、でも、それって人間誰しも仕方が無いことなんだって。

人の恋愛話って気になりますよね。

特にお互い好きなくせに、切っ掛けもつかめず、意地を張っている人をみると、干渉したくなる気持ち分かります。

時には客観的な視点も必要です」


 応急措置だとは思うけど、冷たい水をずっと足に浴びているせいで、いい加減、寒くなってきた。

 震えが全身を走る。


 それなのにエリィは水を止めなかった。

 ドアの外から、「もう十分だろう? それとも、そんなに酷いのか?」と問いただす父の声を聞いても、蛇口は開きっぱなしだ。


 エリィは流れる水を見ながら、じっと考え込んでいた。


「――自分が知らないところで、自分の為に……か」


 ようやく口を開いたが、まだ考えがまとまっていないみたい。


「その絹はとても大切なものなんですか?」


 試しに糸口を探ってみると、遠からず当たったらしい。


「ええ、これはね、私達二人の、なんというか、夢みたいなものよ」


「夢ですか?」


「そう」


 エリィと星野さんの故郷は、養蚕が盛んだった時期があったらしい。

 星野さんの家では、大々的に営んでいたが、二人が生まれる頃には、随分、下火になってしまっていた。

 そんな村一番の小町娘の隣……といっても、都会の電車の一駅分は離れているらしい……の家の長男は、村一番の神童と呼ばれていた。


 野山を駆け巡って遊んだ筒井筒の仲の二人は、長じて恋人同士になった。


「中学の頃から付き合っていたのよ。

思えばあの頃が一番楽しかったわね。

なんの悩みもなくって、ただ純粋に互いのことだけ見ていれば良かった……」


 高校になると進路の問題が出てきたのだが、星野さんは大学に、エリィは美容師の専門学校に、それぞれ進むことになり、一緒に上京することになる。


「だから最初は離れ離れにならなくって良かったね、と気楽にしてたのよ。

満顕はねー、もう一度養蚕を地元産業として復興させたい、と、蚕の研究をしに農学部に行ったの。

頭いいのよ。昔っから!

うちの地元は教育水準が高いので有名なんだけど、いかんせん、仕事がないのよ。

おかげで優秀な人材ほど外に出て行くばっかり。

それで、少しでも若い人の働き場を作ろうと、絹に目を付けた訳。

今、あいつがいる研究所は蚕から織物まで、一貫して研究している場所らしいわよ。

よく知らないけど」


 それでエリィがモデルの夢を叶えたら、彼女が着るドレスの生地を贈ろう、と星野さんは約束した。

 それに対し、エリィも有名なモデルになって、星野さんの絹を着て、大いに宣伝してあげる、と約束を交わした。


 約束は、二人の夢は明後日のコレクションで果たされるはずだった。


 ついでに自分の捻挫した足を冷やし始めたエリィは頭を横に振った。


「もうそんな夢も約束も忘れたはずだったのに。

満顕はまだ余裕がある大学生だったけど、私はモデルの仕事とバイトで忙しかった。

実は修学旅行の自由行動の時に、美園にスカウトされていたの。

それで私も上京する決心をしたし、すぐにモデルの仕事があったのよ。

でも、そのせいで、満顕には悪いことをした。

デートの約束もすっぽかしたし、仕事がうまくいかない時は、気楽な大学生には分からないわ!みたいな八つ当たりもした。

痩せる為に、ほとんど食事を摂らなかったら、身体に悪いからって、毎日、ご飯を作りにきてくれたの。

その頃には満顕の方も専門教育が始まって、実習や実験で忙しかったのに……」


「優しい人ですね」


「優しい男は嫌いよ」


 シャワーの音に微かに、嗚咽が混じった。


「その優しさに、私は返すものを持たないのよ」


「星野さんはエリィが居れば、それで良かったのだと思います」


「私が別れようって言った時、満顕もそう言ったわ。

けど、納得出来なかった。

強引に別れたの。随分前の話よ。

生まれた時から一緒に育って、年頃の子が少ない中で、互いだけを頼りにしていた頃とはもう違うわ。

たくさんの人を知れば、私より満顕に相応しい女の子に会えると思って。

なのにあいつは、約束通り、見事な絹を作り上げた。

それだけじゃない――」


 ジャンの所に売り込みに行ったのだ。

 星野さんの絹を気に入ったジャンに、彼は要求した。


『エリィというモデルを使って欲しい。

この絹と同じ場所で生まれた彼女こそ、この絹にもっとも相応しい女性です』


「ジャンの『妖精』を目指しても、目にも留めてもらえなかった女が、『妖精』ではないにしろ、彼の服を着ることの出来るモデルになれたのは、そのおかげよ。

私の夢を、満顕は叶えてくれた。

自分が振られる原因になった夢のために、助力するなんて、なんて馬鹿な男。

おまけにこんな自分勝手な女に、なんにもしなくても良いから、結婚して欲しいなんて、どこまでも馬鹿よ、馬鹿」


 口ではそう言ってるけど、星野さんの事を話す時の口調の愛おしさは隠せなかった。


「――私、若社長が帰ってきたら、結婚してもらおうと思います」


 考えに考えた結果を告げた。


「そう、それがいいわね。冬馬さんも喜ぶわ」


「エリィもどうですか?」


「さっきまでの話、聞いてた?」


「はい! つまりエリィはずっと遠く離れていても、変らず星野さんが好きってことですよね?

だったら、結婚しちゃってもいいんじゃないですか?」


 そう提案したら、エリィはシャワーを壁に向けた。

 きっと私の顔に掛けたかったに違いないが、そうすると、この繊細なドレスが今度こそ台無しになってしまう。

 怒っていても、ドレスに酷いことをしないのは、星野さんの絹だからなのもあるが、服そのものが好きなせいもあるだろう。


「いつまでもそうやってウジウジ引っ張るくらいなら、いっそ、結婚してみればいいじゃないですか。

やっぱり駄目だったら、今度こそきっぱり諦められるはずです。

私もそうするつもりです!

このままじゃ心残りになるだけです。

気持ちが残っている以上、どちらも新しい道には進めません。

離れ離れでも好きだったんですもの、婚姻届を出して別々に住んでも、同じことです」


「――そうとは言えないわよ。可愛い仔猫ちゃん。

結婚したらね、夫婦として期待しちゃうじゃないの。

妻ならこうあるべき、夫ならこうしてくれるべきって。

私は満顕を普通に幸せにしてあげたいの」


「――エリィは星野さんに嫌われたくないんですね。

でも、傷つけています。

もしも、それで星野さんが他の女の人と結婚しちゃったら、耐えられますか?

私は無理です。

他の人間に取られるくらいなら、自分のものにします。

その権利があるんですもの。

エリィだってそう思っているくせに。

未練を残しているから、星野さんはエリィに期待を持ってしまうんですよ」


 唖然、という顔をされた。

 そんな不思議なことを言ったかしら?


 またしばし、水音がバスルームに響いた。

 そろそろ出ないと、父が武熊さんを使って、ドアを蹴破りそうだ。


「あ〜あ! 残念! もう少し早く冬馬さんに会っていれば良かった。

わりと好みで、この人なら満顕のことも忘れられそう! って初めて思った男だったのに、出会った時はすっかり『妖精』さんに骨抜きだったもんね」


 ようやく聞こえてきたエリィの声は普段通りの調子だった。

 私に向かって片眉を上げる。


「知ってた? 真白ちゃんからの着信だけ、音が違うのよ。

その音を聞くと、何があっても飛びつくようにメールをチェックするの。

それから、私が側にいようと、ずーーーーっと画面と睨めっこして、書いては消し、書いては消し。

挙句に、どんな絵文字を文末につけるか、相談されるの。

うざっ!! この男、最悪っ!

と、百年の恋も冷めちゃったわよ。

どうしてくれるの?」


 冷えたはずの身体が、熱を持った。

 若社長はそれで、あんなにメールの返事が遅かったのか。

 私と同じだ。

 とすれば、フランスからの手紙は何度書き直したのだろう。

 それも音信不通の理由だとしたら、嬉しいような悲しいような。


「あの変な絵文字、エリィの入れ知恵だったんですね?」


「違うわよ。ってか、真白ちゃん、あの絵文字、変だと思っていたのね。

可哀想。あんなに一所懸命選んだ絵文字なのに、そう思われていたなんて。

女子高校生と付き合うなんて無謀なこと、だから止めとけばいいのに。

でも、最終的には心はがっちり掴みとったようね。

羨ましいこと」


 復調したエリィは、小娘など簡単にあしらう。

 これでこそ、エリィだ。

 私をからかって、溜飲を下げると、ニッコリ微笑んだ。


「ねぇ、仔猫ちゃんどころか、ライオンか豹みたいな肉食系の真白ちゃん?

ここまで首を突っ込んだ以上、勿論、協力してくれるんでしょう?」



『また厄介事に首を突っ込んだね』



 若社長の声が聞こえた気がした。

 瞬間、心の仲で謝りかけたけど、言い返すことにした。


 『だったら側に居て、首根っこを掴まえておいて下さいよ!』と。

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